論語の活学/安岡正篤
牢曰く、子云う、吾れ試られず、故に芸ありと。
要するに人間は、あれもこれもと何でもできるなどというのは、決して自慢にはならぬということ。
それよりも何か一つのことに打ち込んだ方がよい。
現代でもこの孔子の言葉は当てはまる。
ある分野の達人と言われる人の話を聞くと、若い頃は不器用だったという人が多い。
不器用であるがゆえに、一つのことに打ち込まざるを得なかったのだと。
世の中には器用な人がいるものだ。
何でもすぐにコツをつかみ、人並みなことはすぐにできるようになる。
しかし、それはあくまで人並みなことができるというレベルである。
そこから更に、「この道のプロ」と言われるようになるためには、気の遠くなるような時間が必要になる。
その場合、器用さは邪魔になる。
何でもできるので、そこで満足してしまうからである。
不器用な人はそうではない。
「自分にはこれしかできない」という自覚があるので、それに打ち込むようになる。
1万時間の法則というのがある。
何ごとでも、一流になるためには1万時間が必要だとする法則である。
1日3時間、そのことに費やしたとしても年間千時間。
それを10年間続けて1万時間となる。
気の遠くなるような長い時間である。
人間の能力の奥深さもこんなところにあるのではないだろうか。
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