球形の荒野(上)/松本清張
「世の中には、いろいろむずかしいことがある。人に言えないまま死ななければならないことだってある……ぼくにもそれが無いとは言わない。しかし、今は何も話せないのだ」
「すると、いつかは……」
「いつかは、か」
思いなしか、滝氏の声に太い息が混じった。
「そうだな、ぼくが死ぬ時になったら話せるかも分からない」
「滝さんが亡くなられる時に?」
添田は思わず滝氏の表情を見つめた。それには複雑な微笑が水のように滲んで出た。
奈良を訪れた主人公、野上久美子の親戚、芦村節子はそこの寺の芳名帳をみて愕然とする。
それは亡き叔父・野上顕一郎の独特な筆跡であった。
大戦末期に死んだとされた外交官、野上顕一郎は生きているのではないか?
この謎を軸にストーリーは展開される。
久美子の恋人である新聞記者・添田彰一は、筆跡の話を聞いて、ある疑問を持ち、死んだとされた外交官の関係者を当たっていく。
その中の一人が語ったのが、上記抜き書きの内容である。
「真実を語りたいのだが、今は言えない」
「この秘密は墓場まで持っていく」
といった発言である。
この裏には、当時の複雑な国内事情が隠されている。
この作品自体はフィクションだが、世の中には公にされた表の歴史と、決して公表されることのない裏の歴史というものがあるのだ、ということを考えさせられる。
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