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2018年9月の30件の記事

2018年9月30日 (日)

町工場の娘/諏訪貴子

Photo 2代目はカリスマ性やリーダーシップで圧倒的に劣る。勘で動く自信がないから、すべての判断や行動の裏付けとして合理性が必要になる。

著者は中小企業の町、大田区にあるダイヤ精機の2代目社長。

社員30名程度の中小企業である。

創業者と2代目社長の大きな違い、それはカリスマ性である。

創業者の周りには大抵、創業者と苦楽を共にした創業メンバーがいる。

この結束によって企業を経営する。

そこに合理性はあまり存在しない。

社長の言うことはすべて正しく、社長が「白」といえば、「黒」も「白」になる。

不合理なことも社内では通ってしまう。

ところが2代目社長が経営を引き継いだとき、それが矛盾点として噴出する。

中小企業の場合、多くが同族経営である。

つまり、2代目社長は社長の息子か娘。

創業メンバーは彼らを子供の頃から見ている。

場合によっては「このガキが」という感情が沸き上がり、最悪の場合、抵抗勢力になる。

2代目社長がこの壁を乗り越えるのにはパワーだけでは不可能。

合理性が必要になる。

さらに多くの場合、ボトムアップの経営手法を取る。

社員のどんなにささいな提案でも、会社が必ずそれを取り入れる。

自分が提案した改善策が実現すれば、モチベーションが上がり、さらなる改善のタネを探し、気付き、実行するようになる。

社員にとっては、「自分の努力や工夫で会社を変えられる」ことが大きな励みになる。

社員一人ひとりの変化を見つけては「髪切ったんだね」「目の下のアザ、どうしたの?」と声をかける。

社員の変化や頑張りを認めることによってモチベーションを上げる。

これがうまくいくと、2代目社長は創業者以上に会社の業績を回復させるようになる。

著者はまさにそれを地で行っている。

このやり方、女性社長に限らず、2代目社長には大いに参考になるのではないだろうか。

2018年9月29日 (土)

外資系コンサルが教える入社1年目からの仕事のルール/作佐部孝哉

1 まずは、やってみる、それも真面目に一生懸命にやってみる。そこで、やりがいを感じなかったのであれば、次回やるときに仕事のやり方を変えてみる。 この繰り返しの中でやりがいも、にじみ出てくるのです。

仕事のやりがいは大事だ。

しかし、「やりがいが持てない仕事はやりたくない」といってしまうと、それはそれで問題だ。

そもそもの話、最初から面白い仕事、やりがいの持てる仕事などそれほど多くはない。

しかも新人に最初からそんな仕事が回ってくるのは稀だ。

では、そんな場合、どうすればよいのか。

多くの場合、仕事はやり方を変えるだけでやりがいは出てくる。

やらされた仕事はやりがいがもてないが、自分で工夫し自分でやり方を考えた仕事にはやりがいが持てるし、面白さも感じる。

要は、仕事への向き合い方が重要だということ。

入社1年目から、「自分のやりたい仕事はこれではない」といきなり理想を追求しても意味はない。

それより、目の前の仕事に対していかに高いアウトプットを出すか、そのためにはどのような仕事の仕方をするのか、この1点に集中することだ。

そうすれば同じ仕事をしていても目の前の景色が変わってくるのではないだろうか。

2018年9月28日 (金)

日本に今一番必要な男 黒田官兵衛/原口泉

Photo 黒田官兵衛という人間には、冷徹な計算、戦略、知謀に基づいて行動する「知の人」の部分と、おそらく幽囚時代に味わったような知の限界を知り、臣民への配慮や、ときには劣勢の敵方へも思いやりを示す「情の人」の部分があった。

普通に考えれば、「知」と「情」とは相反するものである。

人間はつねにその相克に悩んできた。

有名な夏目漱石の『草枕』の冒頭、

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」

にもあるように、人はみな、「知情意」のせめぎ合いで生きてきたと言える。

まさに黒田官兵衛の一生は、そうした難しい選択の連続だった。

その中で彼がどう身を処したかは、現代に生きる私たちにも、大きな示唆を与えてくれる。

官兵衛の事績をたどってみると、一筋縄ではいかない人間像が浮かび上がる。

官兵衛は、知に不可欠な「情報力」と他を慮る「情の深さ」、二つの「情」を併せ持っていた。

それが互いに相乗作用を引き起こし、二乗にも三乗にも膨れ上がった。

だからこそ、官兵衛は、明治まで大大名として生き残った黒田家の礎になったにちがいない。

おそらくそれは、「知」だけに溺れない、「情」だけに流されない、対立・矛盾する知と情を統合できる新たな「合理」というようなものかもしれない。

そして、いまの日本のリーダーに必要なのも、「知」と「情」の統合なのではないだろうか。

2018年9月27日 (木)

「その日暮らし」の人類学/小川さやか

Photo_2 不確実であることが、「希望」がないことと同義で語られる。先がどうなるかわからないことは、新しい希望にあふれているとも言えるのに。

日本では、終身雇用や年功序列賃金制度が期待できなくなっても、仕事をやめず会社にしがみつく人が多い。

このような価値観は、景気が悪化し、非正規雇用やワーキングプアなどの格差問題が顕在化した現在、ますます強まっているようにも感じる。

しかし世界的にみると、農業や漁業をのぞいて、一つの仕事を老いるまで続ける人のほうが圧倒的なマイノリティである。

世界的に見ればその日暮らしの人たちが大多数を占める。

ふだんは「何とかなるはずだ」という信念にみずからの生存を懸け、過度に自然や社会関係を改変せず、未来に思い悩まず「自然」のリズムでまったり暮らす。

いざというときは、呪術や超自然的な事象との関係も駆使して切り抜ける。

そのように解釈すると、彼らはたゆまぬ時間の流れのなかに緩急を生み出しながら、なかなかスリリングに生きている。

時間をあやつる達人のようにもみえる。

お金に困ったら、誰でもいいから助けてくれないかと、アドレスの順に沿って電話する。

そうすると誰かが貸してくれる。

自分だってお金があるときには困った人を助ける。

そんなことが当たり前のこととして行われている。

まさにケセラセラという生き方である。

こんな生き方もあっていいのかもしれない。

だだ、日本で暮らしている限り、それは難しいだろう。

2018年9月26日 (水)

死体格差 解剖台の上の「声なき声」より/西尾元

Photo たとえ家の中であろうと、条件が揃ってしまえば人間は凍死する。人間の体温は通常 37 ℃前後に保たれているが、それがなんらかの理由で 28 ℃程度にまで下がると(時にはそこまで下がらずとも)、心臓に不整脈が出て死亡するとされる。

一般的に凍死と言えば、雪山などで動けなくなり、氷のように冷たくなっていく様子を思い浮かべる。

食べるものもなくなり、寒さに体温を奪われ、動けなくなって死に至る。

これまで何人もの屈強な登山家たちがそうした状況に陥り、命を落としてきた。

解剖の現場にいると、都会の日常生活下においても、凍死は決して珍しい死ではないことという。

著者の法医学教室では、年間にして300体程度運ばれてくる遺体のうち、10体程度が凍死症例だという。

周囲の温度が体温より低い場合、人は体内でエネルギーを消費して熱を発し、自ら生きるために必要な体温を保つようにしている。

ところが、エネルギーとなる十分な栄養が摂れていなければ、その熱産生が十分に行われなくなってしまい、体からの熱の放散に追いつかず、体温が徐々に低下していく。

貧しさの中で食べるものも買えず、体力や抵抗力が徐々に落ちていく。

こうなると、あるだけの衣類を身につけ、布団にくるまっていたとしても、凍死する。

つまり格差社会が死因にも影響を及ぼしているということである。

死を通して生が見えてくるということであろう。

2018年9月25日 (火)

努力不要論/中野信子

Photo 努力している自分――。
 これはとても中毒性の高いものです。努力しているさなかにあって、努力すること自体が目的になってしまっている人は、やはり「努力している自分」に喜びを感じているのです。

本書は別に努力を否定しているわけではない。

ただ、「努力すればなんでも叶う」といった類の論は間違っているといっているだけ。

世の中、努力することに酔っている人たちが多くいる。

「がんばっている自分って素晴らしい」と自画自賛する。

しかし、目的を達成した時、初めて努力したことに意味がでてくる。

目的を達成したとき、「あの努力は無駄ではなかった」といえる。

「やればできる」と言うがそれは成功者の言い分である。

例えばアスリートとして成功するためにはアスリート向きの体で生まれたかどうかが 99% 重要なことだ。

そうでない人がどんなに猛訓練をしてもオリンピックで金メダルはとれない。

「がんばる」というのは、自分を冷静に見つめる目を失わせるものである。

努力そのものが楽しくなってしまうと、ほかのことが考えられなくなってしまう傾向がある。

努力している状態にあるとき、人は自分がとてもいいことをしているような気持ちになる。

しかし、真の努力とは、本当に目的を達成したいのであれば、適切に目的を設定し、戦略を立て、実行することである。

目標、目的を達成したとき、初めて努力したことに意味がでてくる。

努力神話は危険だということではないだろうか。

2018年9月24日 (月)

「疲れない体」と「折れない心」のつくり方/葛西紀明

Photo 人生は「トーナメント戦」ではなく、やり直しがきく「リーグ戦」です。

本書の中で一番印象に残った言葉である。

トーナメント戦は負けたら終わる。

しかし、リーグ戦であれば、一度負けても次がある。

戦い方次第では勝ち抜くことができる。

同様に、勝ったり負けたりしながら、時には歓喜し、時には悲嘆にくれる、そんな波をくり返すのが人生だ。

勝ちつづけられる人がいないのと同時に、努力するかぎり負けつづける人もいない。

どんなに失敗しても、何度敗れても、諦めずに続けていれば、必ず報われるときが来る。

著者の葛西氏は20代のころはパッとせず、40歳を超えてオリンピックで銀メダルを取った。

挑戦する気持ちを忘れず、失敗することを恐れず、謙虚な気持ちで、柔軟に立ち向かう。

コツコツと努力を積み重ねることによって、最後には成功の果実を勝ち取る。

『人生は「トーナメント戦」ではなく、やり直しがきく「リーグ戦」』

葛西氏の生き方をよく表している言葉ではないだろうか。

2018年9月23日 (日)

GOOGLE流疲れない働き方/ピョートル・フェリークス・グジバチ

Google ポーランド出身の僕には「忖度」という言葉がピンと来ないため、いろんな人に定義を聞いてみましたが、人によって言うことが違うので、ますますわからなくなります。
 そこで、「じゃあ、職場であなたが『忖度しろ』と言われたらどうするんですか?」と聞いてみたところ、「上司が心の中で望んでいることを推測して、言葉に出される前に動くかなあ」などと答えてくれたりします。
 なるほど、「忖度」とはそういうことなのですね。

確かに「忖度」という言葉は外国人には理解不能のことばかもしれない。

日本人のサラリーマンはみんな疲れているとよく言う。

それは「忖度」しすぎて疲れているのかもしれない。

上司が何を考えているのかよくわからない、相談すると怒られてしまうかもしれない。

だから、勝手に妄想を広げて、勝手に疲れてしまう。

忖度にはそんな一面がある。

人間の脳は「今のこの瞬間」しか認識できない。

不確かで余計な推測に振り回されて意識を集中できずにいると、エネルギーをすごい勢いで浪費してしまう。

その結果、ストレスレベルが上昇していき、必要なことに十分なエネルギーを注ぐことができなくなる。

結果、上司が「やれ」と言ったことだけを無難にこなすだけになってしまう。

一方「わからない」ことを「わからない」と聞いたり、相手に何でも質問できる組織は、忖度の必要がない。

日本では、「わからない」と言ったり、相手に質問したりすることを、恥ずかしがる方が多い。

質問すると「バカだ」と思われるのではないかと恐れているように感じる。

日本人の生産性を上げるには、まずこの「忖度文化」を変えることから始めてもよいのかもしれない。

2018年9月22日 (土)

闇ウェブ/セキュリティ集団スプラウト

Photo そして、一般的な検索エンジンでは見つけられないディープウェブのさらに奥底にあるのが「ダークウェブ」である。先ほどの氷山の例えで言えば、暗い深海にもっとも近い日の当たらない部分になるだろう。この知られざる空間こそが、サイバー犯罪の温床として、インターネットのみならず現実社会を大きく揺るがしている震源地であり、本書のテーマである「サイバー犯罪と闇市場」の中心的な舞台である。

ダークウェブではあらゆるものが取引されている。

インターネットの奥底であるサイバー闇市場に渦巻いているのは、人間の欲望そのものがデジタルデータ化されたものに他ならない。

ダークウェブに象徴される「匿名化」と「秘匿化」という衣が、サイバー犯罪に手を染める人間にある種の安心感を与え、その活動を促進させてきた。

インターネットを利用している以上、そこで扱われている情報がその先どういう経緯を辿って行くかを個人がコントロールすることは困難だ。

あちこちのサーバーに保存されている個人情報やデリケートな情報についても同様である。

例えば、平均単価は、クレジットカード会社、クレジットカード番号、有効期限、氏名、セキュリティコードのセットで、1件6~10ドル程度で取引されている。

さらに、これらの情報に加えて、引き落としされる銀行口座の番号、生年月日、請求書送付先住所、暗証番号、社会保障番号、さらに両親の旧姓といった情報が含まれているものは「すべての情報(Fullzinfo)」と呼ばれ、1件35ドル程度で売買されている。

ダークウェブの誕生前と誕生後で、サイバー闇市場の何が変わったのだろうか。

それは一言で言えば、実態把握の困難さだ。

そもそも闇取引自体が裏側で行われているものだが、それがダークウェブに移行したことで外部から活動を捕捉することがいっそう難しくなった。

例えるなら、これまで路地裏で行われていた取引が、完全に地下に潜って行われるようになったイメージだ。

犯罪者側から見れば、これまでよりも「安全」に活動できる領域が広がったわけだ。

もはや個人や一企業が自らの力だけで守れる状況にはないということであろう。

2018年9月21日 (金)

「とにかく優位に立ちたい人」を軽くかわすコツ/石原加受子

Photo 他者中心の人は、他者との優劣や強弱の競争に勝つために、他者への「支配」を目指します。
 一方で、自分中心の人は、お互いを認め合う「自由」を目指します。
 お互いの「自由」が保証されてこそ、私たちに本来備わっている欲求は、建設的、発展的、希望的なものへと発揮されていくのです。

自分中心というと、エゴイズムと結びつくようで、何か悪いことのように考えてしまう。

しかし、著者がここで言う「自分中心」とは、「自分の感情や、気持ち、欲求」を優先するという捉え方のこと。

人生の基盤とするべきものは、自分自身。

私たちは、本質的に「自分を大事にしたい」という欲求をもっている。

また、愛し合いたい、協力し合いたい、相手に尽くしたいという欲求も、根源的な能力として備えている。

また、その満足感や喜びや幸福感も知っている。

自分の心を無視してまで、他者のために尽くそうとしなくても、自分を大事にしていけば、自然と、他者も大事にしたいという欲求につながっていく。

ただ、そんな能力を発揮し満たすには、互いを「認め合う」ことが前提となる。

それは「お互いの〝自由〟を認め合う」ということ。

これが自分中心の基本を成すもの。

他方で、「他者中心」とは、自分ではなく、社会の規範やルールや規則、一般常識といった、外側の基準を自分の判断基準とする生き方。

本来、自分が判断して選択するはずの基準を、自分ではなく、自分以外の外側に置いている。

こうした人は、自分の行動や考えが他者の基準にそぐわなければ、自分の気持ちや感情や欲求は後回しで、必死になって他者に合わせる。

自分を認めるためには「他者と比較する」ことが必要で、常に他者との間で自分の優劣や強弱を競うようになる。

そして、こうした絶え間ない他者との競い合いの中で、他者への支配性がだんだんと強化されていく。

これが優位に立ちたい人に特有の、まさに他者中心の生き方の典型なのだという。

優位に立ちたい人は、もともと「自分は劣っている」という思いを持っているため、そこを他人から指摘されることを極度に恐れている。

その恐れから、指摘される前に攻撃を仕掛けてしまう。

そして、そこで自分の発した言葉によってさらに劣等感を刺激され、傷を深めていく。

自分を劣っていると認めたくない、それでも優位に立ちたい、という人は、相手を自分の下に引きずり落とすしかなくなる。

優位に立ちたい人は、相手の劣っているところを探しては、相手のことを心の中で貶めたり、「絶対に許せない」と憤ったりして、争う気持ちをエスカレートさせていくことが多い。

他者中心の人たちの人生を支配しているのは、「しなければならない」という意識。

そこには、人間が本来有している自分の気持ち、感情、欲求というものが、すっぽりと抜け落ちている。

このような心のメカニズムをしっかりと頭に入れ、自分自身は自分中心の生き方をすること。

これが大事だということではないだろうか。

2018年9月20日 (木)

公務員の異常な世界/若林亜紀

Photo 発端は私が犯した「ミス」でした。私はこの前年まで経理課に配属されていました。研究所では労働問題の研究のために雇用保険料から年に六〇億円(当時)の予算をもらっていましたので、競争入札などを徹底して、二億円を節約して国に返しました。
「けっこう辛かったけど、がんばったわ」
 と一人喜んでいましたが、誰もほめてくれません。それどころか、経理部の上司は監督官庁である厚生労働省からきつく叱られたそうです。
「せっかく予算をとってやったのに、使い切らないで返すとは何事か。これでは来年の予算が削られてしまうではないか」
 お役所仕事の空しさ、バカバカしさを思い知った一瞬でした。

昔から公務員といえば、「遅れず、休まず、働かず」といわれていた。

本書を読んで、これが昔のことではなく、今もほとんど同じであるということを知らされた。

国家公務員の平均年収は約800万円である。

ボーナス前の査定もなく、同期ならみな同じ額のボーナスがもらえる。

民間で、特に中小企業でこれだけの年収をもらう社員は一部である。

私の関与する中小企業の場合、平均年収はせいぜい400万円といったところだろう。

これだけの給与をもらうのであっても、それだけの仕事をしてくれるのであれば納得できるのだが、実際は不祥事続きである。

そして予算は使い切らなければならない。

そうしなければ、次の期の予算がつかないからである。

お役所はなぜこんなに赤字を出してまで予算を増やしたがるのか。

それは、「ポストは予算についてくる」と言われ、予算が増えると、それに応じて部署の数や外郭団体の数が増え、管理職ポストや天下りポストが増えるから。

役所では、予算の獲得が出世につながる。

そのためには、予算は使い切らなければならない。

「公務員の常識は民間の非常識」ということではないだろうか。

2018年9月19日 (水)

自由をつくる 自在に生きる/森博嗣

Photo 結論からさきに書くと、「人生の目的は自由だ」と僕は考えている。自由を獲得するために、あるいは自由を構築するために、僕は生きている。少なくとも、今は本気でそう考えているのである。

自由とは、「自分の思いどおりになること」である。

自由であるためには、まず「思う」ことがなければならない。

次に、その思いのとおりに「行動」あるいは「思考」すること、

この結果として「思ったとおりにできた」という満足を感じる。

その感覚が「自由」である。

人間は思ったほど自由ではない。

知らず知らずのうちに数々の制約を受けている。

まず「思う」という段階で様々な制約を受けている。

自分の過去の経験や思い込み、そして常識というものに知らず知らずに縛られ、自由に思うことができなくなっている。

そして行動にも制約を受ける。

自由に行動するためには、それにふさわしい行動力がなければならない。

体力や柔軟性、持久力も必要だ。

体の柔軟性とともに思考の柔軟性も必要になる。

それらが備わって初めて自由に行動することができる。

結局、自由を手に入れるということは、そういう「できる自分」を作り上げることであり、自分の変化を積極的に推し進めること、といえると思う。

そして自由には責任が伴う。

一時期、「自己責任」という言葉が流行ったが、「自由」があって初めて「責任」を問われる。

ということは「自由」は、思っているほど「楽なものではない」ということである。

自分で考え、自分の力で進まなければならない。

そして結果には責任を持つ。

その覚悟というか、決意のようなものが必要だということではないだろうか。

2018年9月18日 (火)

他人を平気で振り回す迷惑な人たち/片田珠美

Photo 他人を平気で振り回す人は、しばしば自分自身を過大評価している。どうしてこんなに勘違いできるのかと周囲があきれるほど、自らの能力や容貌などを実際よりも高く評価していることも少なくない。  

他人を平気で振り回す人はどこにでもいる。

多くはそのことに無自覚である。

たとえば、「うわべはいい人」が実際には他人を振り回していることがある。

彼らは自分をいい人に見られようとするあまり、怒りも敵意も抱いてないかのように装う。

しかし、心の中は毒を抑圧している。

それをこそこそと陰湿な形で吐く。

これらの人たちの特徴は二重基準であるということ。

たとえば、会議の際に、上司から「自由に発言しなさい。自由闊達な議論こそが、会社の発展につながる」と言われたとする。

それを真に受けた若い社員が、仕事の分担に対する不満やプロジェクトの古くささなどを率直に述べたところ、急に上司の機嫌が悪くなり、それ以後きつく当たられるようになったという例がある。

あるいは「今日は無礼講だ」と飲み会の席でいわれ、部下が普段思っている本音をいったところ、翌日、上司からこっぴどく叱られるという例もその類だ。

また、平気で他人を振り回す人は自己を過大評価している。

不安や恐怖からわが身を守るために自分自身を過大評価せずにはいられない人はどこにでもいる。

自分自身の過大評価を、自己愛の傷つきへの防壁にしているわけだが、その結果、目の前の現実を直視できず、現実的な判断ができなくなる。

その結果、他人を振り回す。

結局、等身大の自分をそのまま受け入れていない人が、自己を肥大化させ、結果として他人を振り回してしまうということではないだろうか。

2018年9月17日 (月)

一秒宝/小栗成男

Photo 1秒という単位の時間を60倍したのが1分。3600倍したのが1時間。8万6400倍したのが1日。私たちは、毎日8万6400秒を生きているのです。もし1秒に1つのタスクができるとしたら、一時間で3600のことができてしまいます。そう考えると、1秒という時間の大切さをものすごく意識するようになります。

「人生から嫌なことをなくしてしまおう!」

これが本書のテーマ。

そのためには、いらつくことも、へこむことも、とにかく「ようこそ」と受けとめること。

そして、そういうことがあったおかげで、「自分の経験値を上げることができる」「反面教師にできる」「成長させてもらえる」と考える。

思い通りにならないことがいろいろあるほうが、絶対いい人生になる。

何でも簡単に思い通りになってしまったら、きっと人生はつまらない。

思い通りにならないことがあるから、人生、張り合いが出る。

そして人は失敗を通して成長していく。

大事なのは、そういう自分になろうと「思う」のではなく、「実行する」こと。

そうふるまうこと。

なぜなら、気分というのは行動に連動し、すべて脳が支配するからだ。

少なくとも、物事の受け止め方で人生が変わっていくというのはその通りであろう。

2018年9月16日 (日)

ファイナンスから始めなさい。/正田圭

Photo ファイナンスは、ビジネスの世界において非常に良く切れる「刀」のようなものです。ビジネスの世界に入ってきたばかりの足軽のような存在でも、ファイナンスという刀をうまく使いこなせるようになれば、立派な侍になることだってできるのです。

私にとって「ファイナンス」という言葉自体、よくわからない。

著者によると、「ファイナンス」とは、それだけわかっていれば何かできるようなスキルやノウハウではなく「物の考え方」であり、もっと言ってしまえば「教養」だ、ということ。  

ファイナンスとはノウハウでもなく特殊スキルでもなく教養であり、お金という枠組みで思考するためのフレームワーク。

そして、ファイナンスとは、一言でいうと、「物の値段」を考えること。

たとえば、M&Aのためには、様々な角度からその企業の値段を想定する必要がある。

しかし、それを決めない限りは意思決定できない。

ファイナンスとは、意思決定を行うための方法論であり、難しい数式をこねくり回すことではない。

ファイナンスはそのために必要なのだという。

ニュースなどで表面的には知っていた大企業のM&Aや倒産などの事例が分かりやすく説明されており、「ナルホド」と納得させられる部分があった。

2018年9月15日 (土)

はしゃぎながら夢をかなえる世界一簡単な法/本田晃一

Photo 人はみな、自分のセルフイメージ通りの人生を送っています。いまのあなたはセルフイメージ通りのあなたなんですね。

大切なのは心構え、マインドセットだということ。

たったひと言であらわせば「楽しく」ということ。

出発点は「楽しさ」。

そしてゴールも「楽しさ」。

たとえていうなら、冬山登山でなく春山登山をせよということ。

断崖絶壁を厳しい寒さに耐えながら山の頂上を目指すのが冬山登山。

一方、美しい自然を楽しみながら、いつのまにか頂上にたどり着くのが春山登山。

そして大事なのはセルフイメージを高めること。

「ない」に着目するのでなく「ある」に着目する。

「ない」に意識を注ぐと、「ない」前提で思考が回り、「ある」に意識を注ぐと、「ある」前提で思考が回っていく。

セルフイメージを高めることが大切ということは同感だ。

2018年9月14日 (金)

小さな会社の幹部社員の教科書/井東昌樹

Photo 数多くの中小企業の社長と接してきた私が、しばしば彼らから聞いた悩みがあります。こういう内容です。
「うちの会社の幹部社員はどうも頼りにならない」
「社内には自分の右腕になる存在がいない」
 業種、規模、社歴、業績などは関係なく、ほとんどの中小企業の社長が異口同音に自社の幹部社員への不満を漏らしていました。私の感覚では 99% と言っていいと思います。誰もが、ある種の物足りなさを訴えていたのです。

私も顧問先の社長から同じような話を聞く。

多くの社長は幹部社員に物足りなさを感じている。

では何が不足しているのか。

それは経営者としての視点である。

どの幹部社員も社員の目からしか会社を見ていない。

どうしても視野が狭くなる。

そして最後には逃げる。

これでは社長が不満を持つのも頷ける。

中小企業の社長は、自社の幹部社員に対して「全体を見ること」「自律的に動くこと」の2点を求めている。

言葉を換えれば、この2点はそれぞれ「戦略的視点を持つ」ことと、「マネジメント力を発揮する」ことである。

この「戦略的視点」と「マネジメント力」こそが、中小企業の経営幹部に必須の条件と言える。

さらに、「売上」と「コスト」「利益」の3つがしっかりと頭の中で把握できていること。

「売上 ─コスト=利益」という、誰もが知っているごく当たり前の構造を頭に入れていて、数字で経営を語れること。

つまり、数字で考え、体を動かす。

経営幹部の仕事は、この繰り返しだといってよい。

第1に、戦略的視点

第2に、マネジメント力

第3に、数字力

この3つが幹部社員の必須スキルといってよい。

問題はこれをいかにして身につけるかということであろう。

2018年9月13日 (木)

リーダーシップからフォロワーシップへ/中竹竜二

Photo スタイルを確立すると、困ったときに立ち戻る場所ができる。そのため一つのスタイルを築いた人間には進化が期待できるのである。それは、既に持っているスタイルを軸に、新しいチャレンジができるからである。
強い組織とは、仲間同士が、それぞれのスタイルを理解している組織だ。

リーダーシップの形は一つではない。

そして、強い組織をつくるリーダーには誰でもなれる。

そのためのポイントは自らのスタイルを確立することである。

理想のリーダーの条件は「ブレない」「言動に一貫性を持っている」ことがあげられる。

一方、ダメな上司は、言動にブレがある。

ブレないためには自らのスタイルを確立させることである。

スキルの習得よりも、スタイルの確立こそが、これからのリーダーに必要な条件となる。

「こだわり」や「その人らしさ」が滲み出て初めて、オンリーワンのスタイルになる。

要するに、オンリーワンを追求することにおけるナンバーワンを目指すことである。

リーダーがスタイルを持ち、フォロワー全てがそれぞれのスタイルを持つことで、組織のスタイルが確立されたとき、チーム力が上がると同時に、個のスタイルがより強固になる。

全員がリーダーと同じ気持ちでいること。

与えられたり指示されたりするのを待つのではない。

最終的に決断を下すのはリーダーだけれど、常にフォロワーもリーダーと同じように主体性を持って考える。

これが理想とする組織。

そのためには、スタイルの確立が大切だということであろう。

2018年9月12日 (水)

無愛想のススメ/池田潤

Photo 私はこれまで1万人以上の悩み相談に乗ってきた。
 その経験の中でハッキリと言えることがある。
 それは、 悩んでいる人のほとんどが「愛想の良い人」だった ということだ。

人の悩みのほとんどは「人間関係」から生まれると言われている。

人は愛想を良くすることでその悩みを解決しようとする。

しかし、愛想を良くすることで悩みを解決しようとするその姿勢こそが、悩みが解決されない最大の原因なのだと著者はいう。

だから必要なのは、「 無愛想になれる力」なのだと。

無愛想になれない人の愛想の良さは、自分を犠牲にすることで生まれている。

その結果、周りの人には分からないところで多くのストレスや不平不満を溜めている。

無愛想になるとは、他人がどう思うかではなく自分がどうしたいかを大事にする、ということだ。

無愛想で「在る」とは、どういうことか。

自分の好きなように生きる。

自分基準で生きる。

嫌なものには嫌と言う。

余計な罪悪感なく生きる。

他人からの承認に執着しない。

自分を愛し、他人を愛する。

そうやって生きていくということが、無愛想で「在る」ということだ。

対人関係においても、人生の選択においても、大事なのは周りがどうこうよりも「自分がどうしたいか」を判断基準にできるかどうかだ。

自分が自分の人生の主役で居続けることができるかどうかだ。

人から好かれたい。

それは、誰もが持つ思いだ。

しかし、その思いが強くなりすぎ、嫌われることを恐れすぎれば、自分らしい生き方はできなくなっていく。

つまり、自分らしき生き方をするために、「嫌われる勇気を持て」ということではないだろうか。

2018年9月11日 (火)

マスコミ偽善者列伝/加地伸行

Photo 事実、朝日擁護の知識人やジャーナリストらの姿勢は一律に反安倍、反自民、反保守……であり、己れ自身がすでに公平でないのに、さも公平でありげに言う。偽装の偽善者どもと言うほかない。

フェイクニュースという言葉がトランプ大統領の登場以来、盛んに使われるようになった。

確かに、大手マスメディアの流すニュースには偏ったものが多い。

特に客観報道を建前とするテレビメディアはそれが顕著である。

物事にはいろんな見方があるわけだから、マスコミはいろんな見方を提供すべきなのに、コメンテーターたちは一方的なコメントしかしない。

その姿勢は一律に「反安倍、反自民、反保守」である。

今でも、はっきりと記憶に残っているのは、4年前、集団的自衛権が閣議決定された時のことである。

それ以前の約半年、朝日新聞や毎日新聞などが中心となって反対運動をしていた。

その際、さまざまな方面の人に反対論を述べさせていた。

共通点は一つ「日本は戦争に巻きこまれ、若者は死んでゆく」というもの。

しかし、あれからずいぶん経ったのに、日本はまだ戦争に巻きこまれていない。

今は沖縄の知事選の報道が目立つ。

先日、沖縄の米軍基地に対する反対デモをテレビで見たが、「ヤンキーゴーホーム」とプラカードを掲げている人がいた。

これってヘイトスピーチだと思うのだが、マスコミは全く問題にしない。

偏向報道と言われても仕方ないだろう。

大事なことは多様な情報に接し、自分の頭で考えることであろう。

2018年9月10日 (月)

「地頭力」のつくり方/山中俊之

Photo 日本のビジネスパーソンが学んでいないことはデータでも裏づけられています。大学入学者の中で社会人経験があると推定される 25 歳以上の割合は、日本は2%程度であり、OECD諸国の平均が 20%程度であるのと比較してはるかに低くなっています(文科省およびOECD資料)。この数値から、大学卒業後に大学や大学院に入って学び直す人が少ないことがわかります。

今のような変化の激しい時代では、過去身に着けた知識や技術が陳腐化する速度も速い。

そのため、絶えず知識・技術をバージョンアップしていく必要がある。

ところが、世界的に見ても日本のビジネスパーソンほど勉強しない国民はいないという。

企業研修においてもそうである。

研修にかける費用は、米国の大企業では1人あたり平均1000ドル以上かけることが多いといわれる一方で、産労総合研究所によると、日本では4万円台とされている。

世界水準で見ると日本人ビジネスパーソンの能力開発への投資は大変に遅れているという事実をまず認識することが重要だ。

私たちはもっと世界に目を向ける必要がある。

著者がさまざまなマスメディアを検証したところ、8割から9割が日本中心、日本起点の情報であり、世界のごく一部でしかない日本の情報が大半を占めていたという。

情報が非常に偏っているのである。

普段私たちが接している情報は、次のような理由でとても部分的。

第一に、日本起点、日本中心の情報に偏っていること。

第二に、大手マスメディアやソーシャルメディアなどの思惑や噓の入り混じった一部情報に左右されてしまうこと。

第三に、そもそもメディアで情報になっていないことや自ら収集できない情報が抜け落ちていること。

これでは世界で何が起きているのかわからなくて当然。

大事なのは、過去の学歴ではなく、今どんな新たな知識を身につけて成長をしているかだ。

知識のバージョンアップが求められているという認識を持つべきだろう。

2018年9月 9日 (日)

「逃げ出したい!」と思ったとき読む本/西多昌規

Photo 「人間関係」であなたが悩んでいる対象とは、「脳」が、そもそも違うのです。そう考えると、異なる「脳」を自分一人の思い込みで説き伏せようというのは、無謀な「ドリブル強行突破」です。

人間関係がうまくいかないで悩む人は多い。

中にはそれによってウツになってしまう人がいる。

どうして人間関係がうまくいかないのか?

多くの場合、相手と自分とは違うという前提に立たないことによる。

人間は、無意識のうちに「こうすべき」「こうしなければならない」という考えに縛られている。

この「すべき思考」に囚われているうちは、相手との関係はギスギスしてくる。

なぜなら相手と自分とは違うから。

もちろん「こうすべきだ」は自分に対しても期待レベルを上げすぎるので、精神衛生上よろしくない。

ましてや「こうすべきだ」を相手に要求した時、必ずその期待は裏切られる。

期待が裏切られたときに、落ち込んだり、イライラしたり、怒りを覚えたりする。

感情は不安定になる。

この積み重ねが人間関係に亀裂をもたらす。

人間関係に悩む人は、自分と相手とは違うことをしっかりと心に刻むべきだろう。

2018年9月 8日 (土)

リミットレス!/大嶋信頼

Photo いくら先のことに備えても、嫌なことは起こります。逆に、先のことを考えれば考えるほど、〝今〟を生きられなくなるから、今が不幸になるのです。

すぐ不安になる人がいる。

軽い頭痛であっても「もしかしたら、脳の血管が詰まっているのかも?」

取引先からの受注が減ってくると、「もしかしたら、取引中止になるのでは?」

などと不安に駆られてしまう。

不安感が強いという面は、悪いことばかりではない。

人は不安や恐れがあるから将来起こるであろう危険を察知し、未然に防ぐことができる。

しかし、あまりにも不安や恐れが強すぎると、私たちの行動を制限する。

「石橋を叩いて渡らない」ということが起こる。

これは私たちの中で勝手に安全装置が働いて行動を制限してしまっているから。

このような「自分の行動に強く制限をかけてしまうもの」を本書では「リミッター」と定義している。

ではこのリミッターを外すにはどうすればよいのか?

処方箋は、「心よ」と問いかけることだという。

実は私たちは無意識のうちに両親や周りの人の考え方や価値観に問いかけ、結論を出そうとしている。

「こんな時、父はどう教えていただろう」

「こんなことをやったら上司はどう思うだろう」

無意識のうちに自分ではない存在に判断を委ねてしまっている。

思考とは「外部から入れられているもの」。

自分の頭から湧き出てきたことのように思えるが、両親をはじめとする誰かに影響されて出てくる。

つまり「自分の思考は、自分のものではない」。

しかし「心よ」と問いかけた時は、これと違った答えが得られる。

それは、未来の自分や過去の純粋な自分とつながって、私たちを優しい声で助けてくれるから。

なぜ優しいかというと、心の声は私たち自身だから。

これはやってみる価値がありそうだ。

2018年9月 7日 (金)

新・生産性立国論/デービッド・アトキンソン

Photo 先進国として胸を張れる世界最高水準のものづくりが求められ、それに応えているにもかかわらず、先進国の最低水準の所得しかもらえない。これが日本という国です。

日本の生産性が低いことが問題となっている。

先の国会で法制化された働き方改革関連法もその流れで出てきた。

ただ、気になるのはこの生産性を正しくとらえている人がどのくらいいるかという点である。

もっと言うならば生産性と効率性を混同している人たちがかなりいるように感じる。

GDPを国民の総人口で割ることによって算出されるのが1人当たりの生産性である。

簡単に言えば、生産性は使える資源をすべて総合的に考えて、どれだけ新たな価値が生み出せているかを測るもの。

一方、効率性はあくまでもある作業を、労力や時間、そして資源の無駄なくこなすこと。

「1人の社員が、1日に何個の商品をつくれるか」と言ってもいい。

つまり、付加価値と生産性は売上から計算する、効率性は売上とは直結しない概念。

生産性は、効率性より広い概念なのである。

たとえば、誰も求めていない商品を「効率よく」作ったとしても、売れない以上、売上がないので付加価値はゼロ。

また、1日中、労力・時間・資源を使って、不良品を無駄なくつくり続けることも、「効率がいい」と表現することはできるが、売上にならない以上は、生産性はゼロ。

生産性のないもののことを、無駄と呼ぶ。

日本の生産性が低いのは本当はもっと付加価値が高いモノやサービスを本来の価値より安く売っているからである。

高品質のものを低価格で売っていることにそもそもの問題がある。

高品質のものを高価格で売ることにもっと取り組むべきであろう。

2018年9月 6日 (木)

うまくいったやり方から捨てなさい/椎原崇

Photo 僕がこれまで多くの方の人生の転機を見てきた経験からいうと、「これまでうまくいったやり方」ほど、次の新しいステージでは「足かせ」になることが多い。

成功体験は強烈だ。

それだけに成功体験を捨てることには勇気がいる。

しかし、成功体験を捨てない限り、成功し続けることはできない。

今までうまくいってきたやり方、

今まで結果が出ていた考え方、

今まで役に立ってくれた能力、

今まで自分を支えてくれたノウハウ、

これらを捨てることは確かに勇気がいる。

だが、捨てない限りは新しいものは入ってこない。

そして、不思議なことに、「捨てる」と入ってくる。

捨てた分、余白ができるから、新しいものや、もっといいものがどんどん入ってくる。

そのためには、これまで成果が出ていたやり方と違う方法をやってみる、

普段これがベストだろうと続けていたトレーニングを変えてみる、

疑いもせずに最短距離と思っていた通勤路を変えてみる、

自分に一番似合うと思っている今の髪型を変えてみる、

あえて、今までなら選ばなかった色を選ぶ、

こういった些細なことから変えてみることだ。

「捨てる勇気を持て」ということだと思う。

2018年9月 5日 (水)

成功ではなく、幸福について語ろう/岸見一郎

Photo 三木は、幸福と幸福感は違うということを前提に次のようにいっています。
「成功するということが人々の主な問題となるようになったとき、幸福というものはもはや人々の深い関心でなくなった」(『人生論ノート』)

本書は、三木清の『人生論ノート』を題材にして、幸福について考察をしたもの。

まず、押さえておきたいことは、成功と幸福とはイコールではないということ。

幸福は各自においてオリジナルなもので、質的なもの。

他方、成功は一般的なもの、量的なもの。

幸福は各自においてオリジナルなものであるというのは、幸福はその人だけに当てはまるのであり、その人にとっては幸福であることでも、他の人にとっては、幸福であるとは限らないということでもある。

また、幸福は存在に関わり、成功は過程に関わる。

三木によれば、成功は進歩と同じく直線的な向上として考えられる。

他方、幸福には本来、進歩というものがないということを指摘している。

幸福は存在だというのだ。

過程ではない。

今をこうしてここで生きていることが、そのままで幸福であるという意味。

どういうことかというと、幸福であるために何かを達成しなくてもいいということ。

実は私たちは既に幸福で「ある」のに、そのことに気づいていないだけなのだ。

だから、そのことに気づくという意味で、私たちは幸福に「なる」。

そういうことを知れば、何かを達成しなくても、今このままで幸福であるということに気づいた時に、人はその瞬間に幸福になる。

人間がもしも、今日という日を今日という日のためだけに使えたら幸福になれる。

でも、過去を思って後悔し、未来を思って不安になる。

その両方を手放すことが、これからの人生を生きていく上で大事なこと。

今はこれからの人生の準備期間ではないということ。

今はリハーサルではなく本番。

「今を生きる」

これが幸福だといえるのではないだろうか。

2018年9月 4日 (火)

成功の戦略/江上剛

Photo 戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり。

孫氏のこの言葉は、「少数なのに強気なのは、大敵の餌食になってしまう」という意味だ。

敵より大きい兵力なら戦争してもいいが、そうでないならさっさと逃げろ、

あるいはそもそも戦争なんか考えるなということである。

孫子の考え方は、ある意味当たり前のことである。

だが、この当たり前に見えることが、最も難しい。

なぜ人々は無謀な戦いをしてしまうのだろうか?

日本軍を考えてみればいい。

アメリカと戦争した。

物量的にも圧倒的に差があるにも拘わらず、無謀な戦争に突入し、国を滅ぼし、多くの犠牲者を出してしまった。

なぜこんなことをしてしまうのだろうか。

孫子は、「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」と言う。

100回戦って100回勝っても、それは最上の策ではない。

戦わずして勝つのが最上の策だと言うのだ。

日本人は、玉砕覚悟で突撃し、死んでしまうところに敗者の美を感じることがある。

しかし、死んでしまったら元も子も無い。

ここで言っていることは、

負ける戦争はしない。

戦わないで勝つのが最上の策だ。

そのためには味方を集め、敵より圧倒的な兵力にならねばならない。

敵より大きな兵力になるまで戦いを避けたり、逃げたりすることは恥ではない。

ということである。

ビジネスの世界でも同様である。

やはり負けるとわかっている戦いはしないことは大切ではないだろうか。

2018年9月 3日 (月)

一流は知っている!ネガティブ思考力/榎本博明

Photo 心理学者チビ=エルハナニたちは、対人不安と共感能力の関係を検討する調査と実験を行っている。その結果、対人不安の弱い人より強い人の方が、他者の気持ちに対する共感性が高く、相手の表情からその内面を推測する能力も高いことが証明されている。

今の世の中、ポジティブ信仰であふれている。

テレビでも松岡修造的なキャラがもてはやされる。

しかし、ポジティブ信仰にはまっている人の中には、「今のままの自分でいいんだ」「自分はこのままでいいんだ」と思い込んでいる人が少なくない。

それでは成長がない。

人間は自分の負の部分を見つめ続け、克服することによって成長する。

ところが、ポジティブでありたいという思いが強い人は、自分の中の不安とか弱い気持ちとかを否定し、それらに目を向けようとしない傾向がある。

他人の不安とか弱い気持ちにも共感できず、否定的な態度を取る。

ポジティブな気分を維持するのが上手なタイプには、自分の失敗に目を向けない、失敗を直視しようとしない傾向がみられる。

失敗を振り返れば、「やらかしちゃった」「またやっちゃった」「参ったなあ」とネガティブな気分になる。

だから、振り返ることを極力避けようとする。

覚えておきたいのは、失敗を振り返る自分は、すでに失敗した自分を乗り越えているということだ。

失敗した自分は、たしかに思慮が浅かったかもしれない。

慎重さが欠けていたかもしれない。

態度が未熟だったかもしれない。

しかし、そのことを理解し、あれはまずかったと反省している今の自分は、当時の自分と比べて、かなりマシな存在になっている。

そこに気づくべきである。

実際、心理学的な実験により、ネガティブな気分が記憶の機能を向上させ、判断の誤りを防ぐことが証明されている。

さらにネガティブ気分が記憶能力を向上させるだけでなく、対人認知能力も向上させることがわかっている。

気分がネガティブなときの方がポジティブなときよりも相手を正確に判断できるなど、にわかに信じがたいかもしれない。

だが、心理学の実験によって、これも証明されているのである。

もっとネガティブ思考の良い面にも目を向けるべきだろう。

2018年9月 2日 (日)

日本人の発想中国人の発想/孔健

Photo_2 中国人は疑い深く、新聞を読んでも、官庁の報告を見ても、全てそれを額面通りに受けとるとは限らない。正確な報道、公正な報道がなされているとは思ってないからである。

日本人と中国人、顔はよく似ているが性格や発想には大きな違いがある。

概ねいえることは、中国人は非常にしたたかであるということ。

マスコミに対する態度などはその最たるものだろう。

国家やその代弁者となっているマスコミを人事ないのは、それによって痛い目にあわされてきた経験があるからだろう。

しかし、この点は日本人も見習う点があるかもしれない。

そして、どうすれば周囲を味方につけるかということにもたけているようだ。

例えば、日本では、夫婦喧嘩はドアや窓を閉めて始まるが、中国では、堂々とドアや窓を開けて始まる。

時には夫婦が、外に飛び出し、周囲の人が集まって来ると、そこで論争を繰り広げる。

見物人の人気を得て、演技力の優れている方が勝つ。

このような演技力は、ビジネスや政治の場面についてもいえる。

中国が盛んに世界に訴えるのも、その日常がそのまま外交の世界でも現れたものであろう。

いずれにしても、このようなしたたかな中国と隣同士なのが日本である。

「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」ということではないだろうか。

2018年9月 1日 (土)

なぜ日本人は世界の中で死刑を是とするのか/森炎

Photo 死刑廃止論者として有名な刑法学者ベッカリーア(一七三八―一七九四)は、「最も大きな効果を及ぼすのは、刑罰の強さ(=死刑)ではなくて刑罰の長さ(=終身刑)である」として、終身刑の優位という観点から死刑を否定しました。ベッカリーアによれば、重罪人を死刑にしてしまうより、終身刑にして生涯懲役に服させたほうが、被害者への賠償も行われ、有効だとされます。また、一瞬で死刑にしてしまうより、一生涯罪に服させたほうが、人々の意識にも長く残ることになり、犯罪の一般的な予防が期待できるとされます。

地下鉄サリン事件の実行犯13人が死刑を執行されたことを受け、死刑制度の是非が問われている。

先進国の中で死刑制度があるのは日本とアメリカだけ。

しかもアメリカは州によっては死刑制度は廃止されている。

死刑の基準はどうかというと、日本の裁判で死刑に関する判断基準を示した有名なものに、永山事件の最高裁判所判決がある。

事件当時未成年(19歳)であった永山則夫に対する死刑の当否が問題になったときに示された見解だ。

それによれば、

「犯行の罪質、動機、態様、ことに殺害の執拗性・残虐性、結果の重大性、ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状など」

を考慮し、

「やむを得ない場合に死刑の選択が許される」

ということになっています。 

つまり、「死刑になるのは3人以上殺害した場合で、2人殺害では死刑になる場合とならない場合がケースごとに判断され、1人殺害では原則的には死刑にはならない」といった大枠がある。

死刑制度の是非が議論されるとき、焦点になるのは、抑止力の問題である。

この点では、アメリカでは死刑廃止に踏み切った州と死刑を存続させた州とに分かれる中で、存廃いずれの州でも凶悪犯罪の数が大きく変わらなかったという事実もある。

死刑の犯罪抑止効果に関する研究も多数行われていますが、明確な形で抑止効果を実証できたものは、まだ現れていない。

また、犯罪被害者の遺族の感情の問題もある。

遺族が「死刑にしてほしい」と訴えるケースはよくある。

しかし、最も大きな問題は、もし冤罪だったら取返しが付かないという点である。

死刑にした後、無罪の証拠が出てきた場合、その命は戻ってこない。

恐らくこれが最大の問題だろう。

この辺りの事、しっかりと議論してもらいたいものだ。

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