AI VS.教科書が読めない子どもたち/新井紀子
私たちにとっては、「中学生が身につけている程度の常識」であっても、それは莫大な量の常識であり、それをAIやロボットに教えることは、とてつもなく難しいことなのです。
今、巷ではAIという言葉が氾濫している。
「AIが神になる?」「AIが人類を滅ぼす?」「AIが仕事を奪う」「シンギュラリティが到来する」等々、危機感をあおる言葉も多い。
しかし、AIは神に代わって人類にユートピアをもたらすことはないし、その一部が人智を超えて人類を滅ぼしたりすることもない。
AIやAIを搭載したロボットが人間の仕事をすべて肩代わりするという未来はやって来ないという。
AIがコンピューター上で実現されるソフトウェアである限り、人間の知的活動のすべてが数式で表現できなければ、AIが人間に取って代わることはない。
コンピューターはすべて数学でできている。
AIは単なるソフトウェアなので、やはり数学だけでできている。
数学さえわかっていれば、AIに何ができるか、そして何ができないはずかは、ある程度想像がつく。
例えば、非常に限定された条件でなければ、ロボットには冷蔵庫から缶ジュースを取り出すということさえ、簡単ではない。
ロボットが、「将棋の名人に勝てても、近所のお使いにすら行けない」と揶揄される理由はここにある。
私たち人間が「単純だ」と思っている行動は、ロボットにとっては単純どころか、非常に複雑。
「真の意味でのAI」とは、人間と同じような知能を持ったAIのこと。
ただし、AIは計算機なので、数式、つまり数学の言葉に置き換えることのできないことは計算できない。
では、私たちの知能の営みは、すべて論理と確率、統計に置き換えることができるのか。
残念ながら、そうはならない。
ここにAIの可能性と限界がある。
ではAIによって人間の仕事が奪われることを心配する必要はないのか。
AIと人間の能力がすみ分けされていればそうだ。
ところが、近年の子供たちの問題は、文章を理解する能力が劣化してきているということ。
計算は出来ても文章題ができない。
つまりAIの苦手な分野は子供たちにとっても苦手な分野になってしまっているという現実がある。
これではAIと人間のすみ分けができなくなってしまう。
その意味で、「AI脅威論」よりも、もっと深刻なのは、「教科書が読めない子供たち」の問題なのではないだろうか。
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