明治三十七年のインテリジェンス外交/前坂俊之
「ついに開戦が決まった。戦争は何年続くかわからない。私も、鉄砲かついでロシア兵と戦う覚悟だ。君は、ただちに米国に飛び、親友のルーズベルト大統領に和平調停に乗り出すよう説得してもらいたい」と、告げた。金子はこのとき、51歳であった。
本書は、日露戦争開戦決定すぐに、伊藤博文によって密使として米国に派遣され、ついにルーズベルト米大統領を説得し、米国世論を日本の味方につけた金子堅太郎の外交工作の全容に迫ったものである。
日露戦争は、近代日本国家の存亡をかけた運命の一戦だった。
ロシアとの国力差は、面積60倍、国家歳入8倍、陸軍総兵力11倍、海軍総トン数1.7倍である。
大東亜戦争開戦時の日米差よりはるかに大きい。
大東亜戦争が無謀な戦争というならば、日露戦争も無謀な戦争だと言える。
ただ、大東亜戦争との違いは、初めから「どう終わらせるか」を考え具体策を立て動いていたということである。
具体的にはアメリカの世論を味方につけるということ。
そのために金子賢太郎をアメリカに送る。
全米での日露戦争への関心は高かった。
金子は、政治家、財界人、弁護士、大学人らのパーティなどに引っ張りだこで、講演依頼が殺到する。
英語スピーチの達人であった金子は、大聴衆を前に、日本軍の強さ、武士道精神を説明して感銘を与え、日本びいきを増やしていく。
大統領との直接の会見やその晩餐会・私邸への招待などが計25回、
高官、VIPとの会談、晩餐会、午餐会などが60回、
演説スピーチが50回、
新聞への寄稿が5回に及んだという。
そして何よりもルーズベルトと金子は同じ大学の出身であり、友達であったということが最大のアドバンテージであった。
外交は、いかに日本で偉い人でも、その使命を持って行く先に友達がなかったならば、決してうまくいかない。
金子はルーズベルトに新渡戸稲造の「武士道」を贈呈する。
ルーズベルトは、この書ではじめて武士道を知り、武士道を研究するようになる。
ついには官邸で柔道まで稽古するに至る。
その後、とうとう日本から畳を取り寄せ、柔道の先生を呼んで、官邸の一部屋に畳を敷いて、そこで柔道着を着て稽古をした。
そこまで、いわば日本にかぶれた、
よく言えば日本にすっかり感化された。
それによってルーズベルトは日露戦争の講和に乗り出すことになる。
それが日露戦争の勝利に結びついたのは言うまでもない。
日露戦争は日本外交の勝利といってもよいのかもしれない。
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