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2019年5月20日 (月)

織田信長435年目の真実/明智憲三郎

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 歴史捜査の結果、信長の「知識・論理」には現代人が保有していない膨大な「あるもの」が存在していたことが明らかになりました。「信長脳」の中身が解明できたのです。その「信長脳」を駆使して信長は天下統一戦を勝ち抜き、さらにその先へと進もうとしていたこともわかりました。


若い頃の信長は奇行が目立ち、「大うつけ」と呼ばれていたのは有名な話だ。

うつけとは馬鹿者という意味で、「たわけ」とも言う。

服装はとても奇抜だったようだ。

「帷子の袖をはずして半袴をはき、火打石の入った袋や様々なものをぶら下げ、髪は紅や萌黄の糸で巻き立てて茶筅髷に結い、朱色の鞘の太刀を差していた」と書かれている。

行儀は現代人が見ても眉をひそめるようなものだ。

「町中を人目も憚らずに栗、柿や瓜にかぶりついて食べながら歩き、立ちながら餅をほおばり、歩くときはいつも人に寄りかかって肩にぶら下がりながら歩いた」とある。

当時の戦国武将は「孫氏」等、中国の古典を精読していた。

「孫氏」で注目されるのは「兵は詭道なり(戦とは騙し合い)」という考え方を基本に据えていることである。

『信長公記』にもしばしば「調略(謀略)」が用いられたことが書かれているが、戦国武将にとって騙すこと、つまり謀略は基本中の基本だったわけだ。

つまり信長の奇行は、父の信秀が中国の故事に倣って信長に大うつけを演じさせ、国内外の敵から信長を守ろうとしたと考えられる。

さらに有名な桶狭間の戦い。

桶狭間の戦いは信長軍が気付かれないように迂回路を通って今川義元の本陣を奇襲したとする「迂回奇襲説」が定説となっていた。

ところが、この戦いに参戦していたとみられる太田牛一の書いた『信長公記』の記述をもとにすると、迂回奇襲戦ではなく正面攻撃なのである。

「信秀脳」を継承した信長であれば、今川義元の侵攻に対抗する作戦を孫呉の兵法を駆使して立てたであろうと容易に推測できる。

そして、これで勝てるという目算の立つ作戦ができあがった。

だから確信をもって桶狭間での決戦に臨んだ。

信長の決断においては桶狭間の戦いの勝利は「必然・必勝」であって、「偶然・幸運」ではないということだ。

強い追い風が吹いている。いよいよ全力で突撃するときが来た。

空が晴れたのを見て信長は槍を取って、大音声を上げて「さあ、かかれ、かかれ」と叫んで突撃した。

追い風に乗って全員が大声を上げて突っ込んでいった。

「追い風のときには大声を出して進め」という呉子の兵法だ。

正に呉子の兵法の通りだ。

「千の力で万の敵を撃つ最善の策は狭い谷間で戦うことである。かりに少人数だったとしても、狭い地形を選び不意打ちをかければ、いかに相手が多人数でも驚きあわてざるを得ない」。

これで桶狭間の戦いの勝負は決した。

信長の勝因は「孫呉の兵法」を駆使した正面奇襲攻撃だったと言える。

桶狭間の戦いは「迂回奇襲」ではなく正面奇襲攻撃だったということは、私にとって新しい発見だ。

これだから、歴史は面白い。

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