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2019年9月の30件の記事

2019年9月30日 (月)

なぜ夫は何もしないのか なぜ妻は理由もなく怒るのか/高草木陽光

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 妻の相談は曖昧です。すでに答えが決まっている相談、本気で意見を聞きたい相談、とりあえず思いを吐き出したい相談。夫は妻の相談が「3種類のうちのどれにあたるのか」を瞬時に判断して、正しい返答を導きだすスキルが必要とされます。一つめに対しては「NOと言わない」。二つめは「アドバイス」や「提案」を。三つめは「共感」あるのみです。


私は男なので「なぜ妻は理由もなく怒るのか」ということをついつい考えてしまうことが多い。

そもそもの原因は男と女とは別の生き物と言ってよいくらい違うということ。

このことが分かっているかどうかに集約される。

例えば、夫婦で買い物に行く場合、その違いが表れる。

男性は、会話や行動に〝目的〟を求める生き物。

原始時代から、夫は食料を得る目的で狩猟に出かけた。

そのため、男同士の会話も、獲物を捕るために必要な会話が中心だったと考えられる。

だから買い物も、目的のモノを買えばそれで終了する。

しかも、それに費やす時間は短ければ短いほど良い。

しかし、男性と違い、女性が買い物に行く目的は、モノを買うことだけではない。

女性は、買い物をする〝過程〟を楽しみたい。

妻にとっては、目的がなくフラフラすることも、予定外の物を買ってしまうことも、何も買わないことも、全部ひっくるめて買い物。

このことが分かっていないと、お互いが相手に不満をもってしまう。

場合によっては喧嘩になってしまう。

これは一つの例だが、本書ではそのようなことがいくつも書かれている。

要は、いつも夫婦がお互いに「相手が望んでいるものを与えてあげたい」という気持ちを持ちつづけることではないだろうか。

お互い、違う生き物なのだから。

2019年9月29日 (日)

売れる営業の「質問型」トーク売れない営業の「説明型」トーク/青木毅

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 説明型営業マンは、欲求・ニーズを植えつける。
 質問型営業マンは、欲求・ニーズを引き出す。

会社員時代、ずっと営業の仕事をしてきた。

今、振り返ってみれば、そのスタイルは説明型営業だった。

質問型営業マンはお客様への聞き取りに、面会時間全体の8割ぐらいを使う。

商品説明というプレゼンテーションに、残った2割の時間を使う。

説明型営業マンはお客様への聞き取りを2割、商品説明というプレゼンテーション以降に時間の8割を使う。

しかし、ニーズが多様化した現在、説明型営業では限界が出てきているのではないだろうか。

人間は誰もが、自分の思った通りに動きたい、という特徴を持っている。

つまり、周りの人がどのように言い聞かせようと、自分の思った通りにしか動かない。

図式にすると、「感じる・思う→考える→行動」の段階を経て、人は行動へと進んでいく。

これを質問型営業マンはよくわかっている。

質問型営業マンは、質問をしながらお客様の思いを強め、考えを明確にして、お客様が自ら行動する方向へもっていく。

営業マンは、企業の代表としての使命を持ちながら、立場的にはお客様側に立ち、お客様が何を求めているのか、どのような問題を抱えているのかをヒアリングする。

その解決策として情報の提供、自社の商品の提案をする必要がある。

これこそが新しい時代の営業。

質問型営業マンにとって、お客様は一期一会の出会いの、かけがえのない友人だ。

その友人であるお客様を理解し、役立とうとすることに力をそそぐ。

お客様の欲求・ニーズを引き出し、実現・解決に最大限に協力する。

そのために商品の提案がある。

つまり、営業マンはお客様のアドバイザー、コンサルタント、あるいはカウンセラーという立ち位置の仕事に変わることであろう。

2019年9月28日 (土)

プロサッカー監督の仕事/森保一

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 選手のモチベーションをアップさせるには、どうすればいいのか?僕は、その問いに対する答えを持っていません

現日本代表監督である著者がサンフレッチェ広島の監督時代に書いた本である。

選手時代はオフト監督のもと、オフトの申し子と呼ばれていた。

サッカーの監督にもいろんなタイプがある。

そんな中、著者は基本を大切にするというタイプだ。

とにかく「基本を徹底する」。

これをやろうと決めたら、そこに全員が個々の力を100%注ぐこと。

チームとしてやりたいことを遂行するために、互いに支え合い、連携・連動すること。

より簡潔に言うなら、「個人の責任」と「チームワーク」。

その部分を徹底して伝える。

いわば、当たり前のことを当たり前にやること。

サッカーの監督はチームをマネジメントする立場。

しかし、実際に監督がやっていることは全体の何割かでしかない。

全力を尽くしてくれる選手たち、優秀なスタッフたち、そしてクラブに力を与えてくれるサポーターや地域の方々。

周囲の助けがあるからこそ、監督をやれている。

同時に、選手たちが持っている力を最大限に発揮できるのも、様々な方々の支えがあるから。

そのような認識が冒頭の「選手のモチベーションをアップさせるには、どうすればいいのか?僕は、その問いに対する答えを持っていません」という言葉につながる。

日本代表監督としてこれからどんな結果を残すのか?

楽しみだ。

2019年9月27日 (金)

言い方ひとつで!生き方が180度変わる「ことばのチカラ」/松はるな

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 同じ意味を伝えるにしても言い回しを変えた前向きことばをつかうことで、ポジティブな意味として伝えることができるのです。

ネガティブな言葉ばかりを選んでしまうと、全体的にマイナスな印象になってしまい「あの人と話すといつも嫌な気持ちになるな」と敬遠されることになりかねない。

逆に、ポジティブな言い回しに変身させて伝えることができれば「あの人と話すと晴れやかになれるな」と前向きな印象を与えることができる。

誰でも、前向きな印象の人と話したいもの。

何気ないひとことであっても、その言葉を聞いた人に与える印象は自分が思っている以上に大きい。

自分では無意識に伝えた言葉が、相手にとってネガティブな印象になったり、失礼になったり、場合によっては傷つけてしまうこともある。

そんな言葉をつかってばかりでは「あの人と話すと嫌な気分になる」と敬遠される可能性もある。

できれば「話すたびに楽しい気持ちになれる人」と思われたいもの。

ネガティブな言葉、率直すぎる言葉を「やわらかくポジティブな印象」に変えるためには、どのような表現に変身させればいいのか。

そのためには、ネガティブ言葉をポジティブ言葉に言い換えること。

また、その技術を身につけること。

たとえは、「遠慮がない」は「物怖じしない」「度胸がある」に言い換えることができる。

「緊張感がない」は「いつも自然体」「リラックスしている」に言い換えることができる。

同様に、

八方美人・口がうまい → フレンドリー・コミュニケーション力が高い

うるさい・騒々しい → 元気がある・バイタリティーがある

人見知り・口下手 → 誠実・思慮深い・奥ゆかしい

落ち着きがない → 活気がある・行動力がある

飽きっぽい → 好奇心が旺盛・興味の幅が広い

不器用 → 地道に一生懸命努力する

太っている → 安心感がある・存在感がある・グラマー

痩せている → スタイルがいい・スマート

気まぐれ → 気持ちの切り替えが早い

空気が読めない人 → 自分の世界を持っている人

派手な人 → 華やかな人・印象の残る人

マニアック → 物事を極める人

無愛想 → クール・寡黙な人

堅苦しい → 真面目・きちんとしている・凛としている

優柔不断な人 → 何事にも慎重な人

世間知らず → 純粋な人・心がキレイ

要領が悪い → ずるいことができない・誠実

平凡 → 手堅い考え・定番だけど大切

失敗 → 勉強になった・成長のためのよい材料・素晴らしい経験

このようにほとんどのネガティブ言葉はポジティブ言葉に言い換えることができる。

この技術を身に着け実行するだけで、人間関係はずいぶん変わるのではないだろうか。 

2019年9月26日 (木)

50代から強く生きる法/佐藤伝

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 50代からの「人生格差」を生む真因とは、「いま、このときの心」の差にあります。

50代は、あらゆる意味で「大きな差」がつく年代だ。

実年齢以上に老け込む人もいれば、まだ40代前半のように見える人もいる。

「気難しい」と煙たがられる人もいれば、「相談したい」と慕われる人もいる。

「こんなはずじゃ」と後悔する人もいれば、自分の人生に満足している人もいる。

この差はどこから生まれるのか?

著者は「いま、このときの心」の差にあるという。

具体的には、「生かされている」という感覚があるかどうか、ということ。

この感覚があるとすべてのことに感謝できるようになる。

感謝の言葉は、人に対して発するものと決まっているわけではない。

モノに対して、自然に対して、現象に対して……ありとあらゆる相手に「ありがとうございます」。

この「有り難う御座居ます」の感謝パワーが、「つまんない」日常を変革していく力になる。

「有り難う」とは、「こんなことは、めったにない」という、いわば、「奇跡」のこと。

「御座居ます」とは、「いま、ここにある」という意味。

つまり、「有り難う御座居います」という言葉には、「いま、まさに奇跡が起こっています。天の采配に感謝します!」というとても深淵な意味が込められている。

私たちがすべきことは、いまこの一瞬一瞬を感謝して命を輝かせて生きることだけだと著者はいう。

その通りだと思う。

少なくとも、嫌な老人にはなりたくないものである。

2019年9月25日 (水)

最強のデータ分析組織/河本薫

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 私の座右の銘は、医師であり政治家でもあった後藤新平氏の言葉、「金銭を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ」です。データと分析力を武器に、大阪ガスの経営に貢献できる人を残す。後を託せる人を残せなければ、どれだけお金を稼いでも、仕事を広げても評価は「中」どまり。人を残してこそ働いてきた意味があると、自分に言い聞かせています。

大阪ガスは2015年に企業情報化協会から「IT総合賞」を受賞した。

情報化促進貢献個人等表彰では「経済産業大臣賞」を受賞した。

いずれも、企業内にデータ分析専門組織を立ち上げ、ビジネスに貢献できるチームとして機能していることを評価されたもの。

このビジネスアナリシスセンターの歴史と培ってきたノウハウを振り返り、まとめるたものが本書である。

その中で印象に残ったのは、リーダーである著者がたとえ会社が倒産したとしても、どんなところでも通用する人材を育てようとしたというところ。

データ分析組織というと、オタクのような人材が集まった組織をイメージしがちだが、そんな人材は通用しないという。

混沌とした現実問題に対し、「目的」だけを頼りに論点を整理し、その目的を達成するために効果的な「問題設定」ができる力。

データ分析で得られた結果について、算出の前提条件や結果の不確実性まで踏まえた過不足のない理解をして、それを相手に分かりやすく伝わるように記述・説明できる力。

自ら行ったデータ分析や他者によるデータ分析について、本質を突く質問や問いかけを切り出せる力。

疑問をきっかけに、頭の中で整理した「理解」を再構造化できる力。

いずれのメンバーもこうした能力に長けているという。

データ分析を活用できる機会は、オフィスに閉じこもっていくら考えていても見つからない。

現場で働く社員や彼ら彼女らを指揮する本社スタッフとコミュニケーションを取るなかでヒントが見えてくるもの。

データ分析で問題を解くプロセスでも、分析者だけで完結することは少なく、分析結果を現場の担当者に見てもらい、納得感や新たな仮説を引きだしながら試行錯誤を繰り返していく。

加えて、ビジネスアナリシスセンターのメンバーは〝意外〟な能力を持っている。

それは「業務コンサルティング力」。

間接部門の立場で新たなデータ分析に着手する場合、対象となる事業部門の業務課題について事前知識は全くない。

そうしたゼロの状態から、データ分析で業務に役立つには、現場担当者へのヒアリングで業務を理解し、プロセスや費用対効果などの観点から業務プロセスを見直して、問題の所在を突き止める力も持っていなければならない。

単なるデータ分析者だけでなく、「社内コンサルタント」としての能力が求められるということだ。

データ分析で事業部門の業務改革をしようと思えば、最初から最後まで事業部門との連携が必要になる。

「見つける」「解く」「使わせる」のいずれのステップもデータ分析者がオフィスに閉じこもったまま成し遂げられる仕事ではない。

事業部門と連携しなければ何も始まらない。

「見つける」「解く」「使わせる」のいずれのステップにおいても、現場担当者と分析者が役割分担して、流れ作業的に進められるものではなく、両者が一心同体になってこそ、進められるもの。

確かに、このような能力を身に着けた人材は、どの企業に行っても通用するのではないだろうか。

2019年9月24日 (火)

孔子 論語/佐久協

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「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」


『論語』は、今をさかのぼること二千五百年ほど前、中国の春秋という時代を生きた「孔子」の言葉を集めた〝語録〟である。

孔子という人物は、そんな悟りきったような老人ではない。

行動的で、エネルギッシュで、情熱的で、不屈の精神の持ち主だった。

「人間というのはこうあるべきだ」「社会はかくあるべきだ」という理想に燃えて、生涯それを訴えつづけた。

論語の中で「三十にして立つ」で有名な言葉が上記抜き書き。

その訳は、

わしの経験にことよせつつ、人生というものについて語ってみよう。

十五歳《当時は数え齢だから現在の十四歳》くらいになったら、将来のことを漠然とでもいいから考えるといい。

私は十五歳で学問で身を立てようと決心した。

二十代は試行錯誤が許されるが、三十歳になったら的を絞るべきだろうな。

私は三十歳で独り立ちできた。

四十歳は難しい。

成功している者はしているし、ダメな者はまだ暗中模索だ。

自分の才能に対する自負もある。私も迷った。

だから、自分の迷いに惑わされないように気を引き締めるべき年齢だ。

五十歳になれば、どんな者でも自分の能力や運を冷静に見つめられるようになるもの。

また、社会における自分の役割もおのずと見えてくる。

だから、それに合わせて励むといい。

実りの季節だ。

六十歳にもなれば、経験も豊富になって、反対意見も余裕を持って聞けるようになる。

私もそうだった。くれぐれも経験をふりかざして頑固おやじや口出しおばんにならないことだ。

七十歳になったら、これまでやり残してきたことを、ハメをはずさない程度に、思いきりのびのびと楽しむことだ。

私も今そうさせてもらっているよ。

と、このようになる。

現代人にもそのまま当てはまるのではないだろうか。

2019年9月23日 (月)

治るという前提でがんになった/高山知朗

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 「娘の二十歳の誕生日においしいお酒で乾杯してお祝いする」というのが、自分の人生の目標となりました。それまでの目標だった「死ぬまで会社経営を続けること」から180度変わったのです。この目標がその後の辛い治療を乗り越えていく力にもなっていきました。

今、日本では2人に1人ががんになり、3人に1人ががんで死ぬと言われている。

著者は40歳で悪性脳腫瘍を告知された。

その闘病から2年後、2度目のがんである白血病・悪性リンパ腫を告知される。

がんでよく言われる「5年生存率」は、脳腫瘍では25%、白血病では40%、かけ合わせると10%。

つまり10人に1人しか5年生きられないという低い確率。

その2回のがんを、手術、放射線治療、抗がん剤治療のいわゆる「がんの三大治療」で乗り越える。

現在、再発の兆候も全くなく、普通の生活を送っているという。

なぜ、治ったのか?

それは治ると信じていたから。

昔から、「病は気から」という。

がん患者にとって、「自分で病気を治そうという意志」が大切。

著者にはその意志があったということではないだろうか。

がん患者である、なし、にかかわらず、勇気を与えてくれる本である。

2019年9月22日 (日)

「他人の目」が気になる人へ/水島広子

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 「他人の目」にとらわれるということは、人を気にしているようでいて、実は強烈に自分自身のことばかり見ているということ。「人からどう見られるか」というのは、自分だけについての話だからです。

「『他人の目』が気になる心」と「自信」は深い関係にある。

本当に自信があれば、人からどう思われようと気にならないはず。

自信がないから「他人の目」が気になる。

そして、「他人の目」を気にすればするほど、自信はなくなっていく。

「他人の目」を気にするということは、自分を「まな板の上の鯉」にするということ。

つまり、人からの評価に自分の価値を委ねきってしまうということ。

他人による評価は不安定。

それをもとに行動しているうちは、確かな安心は得られない。

評価には、相手の事情を無視した「決めつけ」「押しつけ」という暴力性がある。

「他人の目」を気にする、というのは、他人を気にしているようであって、実は他人をきちんと意識していない感覚だということは、よく理解しておく必要がある。

大事なことは「ありのまま」の自分をまず認めること。

自分の「ありのまま」を認められない人は、相手の「ありのまま」も認められず自己中心的になりがちだ。

自信は「つける」ものではなく「感じる」もの。

「自分を肯定する気持ち」を感じられることこそが本当の自信につながるといえよう。

2019年9月21日 (土)

A PERFECT DAY/ボブ・トビン

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 私は生まれながらの楽観主義者ではありません。楽観主義について私が理解していることはすべて、学んで訓練して身につけたものです。
 昔の私は常に最高ではなく最悪の事態ばかり考えていました。起こることすべての状況を絶望的に見せる色眼鏡を通して見ていたのです。
 私は時間をかけて、より良い思考や行動、話し方をするように自分を変えました。
 楽観性を身につけるには意識的な訓練が必要ですが、やがてそれがあなたの人格の一部となるのです。
 あなたが現実的楽観主義者になったとき、より多くの新しい可能性を見つけることができるでしょう。

著者の言う「パーフェクト」とは、何が起ころうとも、その状況にうまく適切に自信を持って対処でき、今以上の喜びと幸せに満ちた人生を送ることを意味する。

楽観主義者と悲観主義者では前者の方が幸せな人生を送ることができるだろう。

楽観主義者は、悪い知らせや挫折をほんの一時的な後退だとポジティブにとらる。

こうした出来事にもくじけることはない。

逆境に直面したら、それをチャレンジとみなし、いっそう努力する。

一方、悲観主義者は、自分がやることがうまくいかなかったときや、最悪の事態が起きたとき、それが自分の落ち度だと思い込む。

厳しい状況でも、それが必ずしも不幸や悲観的な展開に直結するとは限らない。

さまざまな対応のしかたがあると認識することだ。

大事なのは現実的な楽観主義者になること。

たとえば自分が働いている会社が人員整理を行おうとしているとする。

もし自分がが現実的楽観主義者であれば、解雇される可能性もあれば、解雇対象から外れる可能性もあると認識できるだろう。

また、異動になったり、転職先を斡旋されるなど多くの可能性があるはずだと気づくだろう。

解雇されても、もしかすると今よりも良い条件の仕事に出会う可能性もある、と前向きに考えることができる。

一方、自分が悲観主義者であれば、自分は解雇されると思い込み、失業という現実に打ちのめされ、新しい仕事を見つけるのは無理だと考えるだろう。

しかし、解雇されたとしても、それは考えているほど悪いことではないかもしれない。

悲観主義は変えられないものだと思わないことだ。

著者は楽観性を身につけるために意識的な訓練をしたという。

時間をかけて、より良い思考や行動、話し方をするように自分を変えましたという。

大事なことは、訓練や習慣づけによって自分は変わると信じることだと思う。

2019年9月20日 (金)

文在寅という災厄/武藤正敏

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 文在寅政権はもはや「災厄」だ。韓国国内を分断し、国民の生活をますます困窮させ、北朝鮮を温存させ、その脅威の高まりを許すばかりか、日韓関係を破壊し、北東アジアの安全保障をいたずらに混乱させながら、自分自身はそれが「正しい理念」の実践であり、戦いであると信じている。

現在の日韓関係が抱えている問題は、「韓国は常に正しく、日本は謙虚にそれに従うべし」、いわば「議論の余地なし」という文在寅政権側の姿勢にあると著者はいう。

著者は前著『韓国人に生まれなくてよかった』で「文在寅大統領は経済オンチ」「理性よりも感情で動く韓国人の悪い面が出てしまった」、「文在寅大統領の頭の中には北朝鮮のことしかなく、外交安保も経済政策も知らないポピュリスト」、「その政策は失敗し、やがて反日政策に転じてくるだろう」と述べているが、それが今起こっている。

文在寅政権は、日本にとって事実上「準同盟国」だった韓国を、残念ながら「準敵国」と捉えてもおかしくない存在にした。

日韓関係だけではない。韓国国内の問題に対しても、文在寅氏はよく似たリアクションを見せる。

経済情勢が悪化しても、米朝交渉が暗礁に乗り上げても、それを指摘し、批判する勢力をすべて「革命政権を邪魔している存在」と見なす。

だから、相手にする必要がないと考える。

むしろ、「あなたがたが謙虚になり、態度を改めよ」と繰り返し、暗に反対勢力への制裁をちらつかせる。

よく言えば、理念優先、悪く言えば独善的で、合理的思考は常に後回しである。

著者は文在寅政権の特徴を5つ挙げている。

第1に、現実無視

文在寅政権は、明白に起きている現実を把握することができないか、把握するつもりがそもそもない。

見たいことしか見ず、見たくないことは無視してしまう。

どうかすると、現実を提示する者を批判さえする。

第2に、二枚舌

時と場合において言うことが違う、あるいは矛盾する。

しかもそれを認めないか、認識する能力がないのか、日本とは「未来志向で」と言いながらそうした対応をしない。

第3に、無謬性と言い訳

間違いや責任を認めようとする気がなく、むしろ意固地になる。

言い訳と付け焼き刃的な策で状況は悪化するばかり。

第4に、国益無視

国益のために政策を考えているのではなく、「革新」政権の持続性を最優先している。

政策はそのための道具に過ぎない。

第5に、無為無策

現実に即していないため、問題を認識できず、認識しても相対化できないため、有効な改善策を考えられない。

以上である。

とはいっても、この政権と後2年以上付き合わなければならない。

著者は、ここまで国民感情がもつれあい、「譲る」「協力する」という言葉に現実味が感じられないいま、むしろ、ある意味ドライに「利用」しあうという感覚から始めればいいのではないかという。

韓国でよく使われる「用日」という言葉がある。

韓国の国益になる限り日本を利用し、利用できる限りにおいて感情は入れず冷静に付き合っていく、といった意味である。

日本人にはあまり響きのいい言葉ではない。

しかし、「用日」で大いに結構ではないだろうか。

その代わりに日本も韓国の利用できるところは利用する「用韓」でいく。

こうしたドライな付き合いが日韓関係を正常に戻すのではないだろうか。

と述べている。

もう日本も韓国も、互いを特別な国同士として考えるのをやめればいいだけだ。

感情的な対立を理由に現実利益を損なうくらいなら、合理性に立脚して、ビジネスでも安保でも、利用すればいいわけだ。

そして、隣国であり、地政学リスクを共有して経済構造も年々補完的になっている日韓両国には、まだお互いに十分「利用価値」がある。

そのようなスタンスでお付き合いすることがベターではないかと思う。

2019年9月19日 (木)

徹底的にかみくだいたドラッカーの「マネジメント」「トップマネジメント」/二瓶正之

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 自らのミッションを意識するために「何をもって人々に記憶されたいか」を絶えず問いつづけよ、とドラッカーは多くの著作で繰り返し述べています。ドラッカーは『マネジメント』で「人は人の成長を手助けすることによってのみ成長できる」と書いています。

ドラッカーはいろいろな表現を用いて「マネジメント」について説明している。

最もシンプルでわかりやすい本質をついた説明は「マネジメントとは、人の強みを生かして組織の成果につなげることである」というもの。

この説明には、

①マネジメントが組織を組織として機能させるものであること

②人に関わるものであること

③成果志向の考え方であること

④権限の正統性の根拠が示されていること

以上、4点が簡潔に表現されている。

更に、多くの経営学者が「初めに企業ありき」のスタンスで自らのマネジメント論を展開しているのに対して、ドラッカーは「初めに社会ありき」のスタンスでそのマネジメント論を展開している。

マネジャーの従来からの定義としては「他人(部下)の仕事に責任をもつ者」というのが一般的だった。

しかしドラッカーはその定義を排して「組織の成果に責任をもつ者」という新たな定義を示した。

マネジャーが取り組むべき2つの課題について『マネジメント』で説明している。

ひとつ目の課題は、部分の総和以上に大きい真の「全体」を創造すること。

2つ目の課題は、全ての意思決定と行動において近い将来必要なものと遠い将来必要なものを調和させること。

組織全体の相乗効果に配慮しつつ、近い将来と遠い将来の2つの時間軸の中で生き、行動していくのがマネジャーだということである。

マネジャーの基本業務として

①目標を設定する

②組織する

③動機づけを行い、コミュニケーションをはかる

④評価する

⑤自らを含めた人材を育成する

以上、5つを挙げている。

次に「リーダーシップ」についてだが、

ドラッカーは、まず「リーダーシップとは仕事である」と言う。

リーダーシップはカリスマ性とも資質とも関係なく、本質は「行動」にある。

その行動とは、組織の使命を考え抜き、それを目に見える形で明確に定義し、確立するということ。

次にドラッカーは、「リーダーシップとは責任である」と言う。

リーダーシップは地位や特権ではなく責任であり、優れたリーダーは常に自己に厳しい人。

失敗を人のせいしない。

リーダーたちが口にする「責任は私がとる」という言葉にリーダーシップの本質が示されている。

最後に、ドラッカーは、「リーダーシップとは信頼を得ることである」と言っている。

信頼がない限りリーダーに従う者は現れず、リーダーシップの発揮もできない。

つき従う者がいるということがリーダーの唯一の定義だ。

「マネジメント」や「リーダーシップ」という言葉は頻繁に使われるのだが、上記のように定義すると、わかりやすいのではないだろうか。

2019年9月18日 (水)

「3か月」の使い方で人生は変わる/佐々木大輔

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 3か月間、1つのテーマに向き合って取り組むことで、面白さを発見したり、知識や理解を深めることができたりするなど自分の成長が実感できる。

通常、会社で目標管理をする場合、その単位は1年か、あるいは半年である。

1年間、あるいは半年間の目標を立て、その達成に取り組む。

そして会社によっては、その達成度を評価し、ボーナスや昇給に反映させる。

ただ、実態は、1年間の目標であれば、目標を立てるときは、それなりに考えて立てるのだが、そのあとはその目標を意識することはほとんどない。

再度、目標を思い出すのは1年の終わりの時期になってから。

つまり、形式化しているのが実態である。

その点、本書で主張してるのは、3か月間で達成可能な目標を立て、取り組むというもの。

そしてそれを繰り返す。

短距離走を何度も繰り返すというイメージである。

確かに、「3か月」というのは、日数にすると90日だから「じゃ、やろう」と高い関心を保ちながら楽しく取り組める期間として、長すぎず短すぎずちょうどいい。

今は変化の激しい時代。

1年間は長すぎる。

3か月の目標設定、

意外と効果的なのではないだろうか。

2019年9月17日 (火)

どんな仕事も「25分+5分」で結果が出る/フランチェスコ・シリロ

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 ポモドーロ・テクニックの実践により、多くの人が休憩の重要性を理解するようになる。25分ごとに休憩を取ることで、新しい視点で問題について考え、別の解決策を見いだすことが可能になる。自分で間違いに気づいて修正したり、創造のプロセスが刺激されたりすることにもなる。休憩によって継続性の価値が高まるのだ。

本書はポモドーロ・テクニックの入門書である。

ポモドーロ・テクニックとは、集中して仕事をする時間を25分間と決め、その後確実に5分間の休憩を取る。

そして、それを繰り返すといったもの。

標準的なポモドーロ・テクニックは30分を1単位とする。25分間の作業と5分間の休憩だ。

ポロモードとはタイマーのこと。

ポモドーロは中断できない。つまり25分間、作業に集中することになる。

タイマーが鳴ることは、その作業の完全な終了を意味する。

「もうあと何分か」たとえ、それで終わらせられるとわかっていても、作業を続けることはできない。

5分間の休憩時間は完全に休憩しなければならない。

この短い休憩時間に頭を使うことをするのは避けるようにする。

たとえば、仕事に関係する話を同僚としたり、重要なメールを書いたり、急ぎの電話をしたりすることなどだ。

重要なのは、複雑なことを避けることだ。

頭の中を整理し、学習したことを取り込むことができなくなってしまうからだ。

それでは最高の状態で次のポモドーロに入れなくなってしまう。

この休憩時間には、それまでのポモドーロでしていたことについて考えるのをやめる必要がある。

要はダラダラ仕事をすることをやめ、メリハリをつけて仕事をする。

それによって仕事の効率を上げるということ。

確かに、人間が集中できるのはせいぜい25分間であろう。

その意味では、非常に合理的なテクニックではないだろうか。

2019年9月16日 (月)

スピーチや会話の「えーっと」がなくなる本/高津和彦

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 いくら話す内容が良かったとしても、余計な〈えー〉〈あー〉が頻繁に入ってきたら、残念ながらそのような評価を下されてしまいます。


自分がセミナーで話したのを録音して聞いたことがある。

すると「えー」とか「あのー」が多く、非常に聞き苦しい。

何とか直らないものかと考え、本書を読んでみた。

本書によると、この「えー」とか「あのー」というのをフィラー(filler)というそうだ。

フィラー(filler)とは、「fill」が「詰める」、「er」は「するもの」を意味する接尾辞。

すなわち、「詰め物」「充填剤」「つなぎ」「緩衝材」といった意味を持つ英単語であり、単語や文節、文章の「合間に挟み込む言葉」を幅広く指す。

フィラーのメカニズムとは何か?

著者は「心(感情・性格)」「思考」「声」を動力源としたメカニズムだという。

「心(感情・性格)」「思考」「声」の3つが同期し、安定して働いていればフィラーは出ない。

しかし、このうちの1つでも不具合が発生すれば、メカニズムに不均衡が生まれ、フィラーを発生させてしまう。

緊張している。

自信がない。

カッコつけようとしてしまう。

話す内容が決まっていない。

長い原稿を暗記している。

声が小さい。

滑舌が悪い。

1センテンスが長い。

これらがフィラーが出る典型的な状態である。

逆に、フィラーが出ない典型的な状態とは、

平常心を保っている。

自信がある。

自己肯定感が高い。

話す内容が決まっている。

よそ行きやお仕着せの言葉ではなく、自分の言葉で話せる。

短く簡潔で歯切れが良い。

大きな声が出せる。

滑舌がいい。

と、こういったもの。

ただ、これはある種の癖なのでなかなか直らないもの。

まず、手始めに、1センテンスを短くすることに取り組んでみたいと思う。

2019年9月15日 (日)

自省録/マルクス・アウレーリウス

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 君は三つのものから成っている。すなわち肉体、息、叡智である。このうち最初の二つは、君がその面倒を見てやらなくてはならないというかぎりにおいて君のものである。しかし真の意味ではただ第三のもののみが君の所有物である。


マルクス・アウレーリウスはローマ帝国の皇帝という地位にあって多端な公務を忠実に果しながら彼の心はつねに内に向って沈潜し、哲学的思索を生命として生きていた。

組織立った哲学的研究や著述に従事する暇こそなかったけれども、折にふれ心にうかぶ感慨や思想や自省自戒の言葉などを断片的に書きとめておく習慣があった。

それがこの『自省録』として伝わっている手記である。

マルクス・アウレーリウスは学識に長け、良く国を治めた事からネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌスに並ぶ五賢帝と評された。

対外政策ではパルティアとの戦争に勝利を収めたが、蛮族への予防戦争として始めたマルコマンニ人、クアディ人、サルマティア人などへの遠征は長期戦となり、国力を疲弊させ、自らも陣中で没した。


プラトーンは哲学者の手に政治をゆだねることをもって理想としたが、政治家としての彼は必ずしもうまくいってなかったように感じる。

理想と現実は違うということであろう。

2019年9月14日 (土)

43回の殺意/石井光太

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 虎男はカッターを握り直し、そんな遼太の首を三回ほど切りつけた。遼太は「うっ」と叫んで、痛そうに顔をゆがめる。虎男は遼太のタンクトップが血で赤く染まっているのを見て初めて、自分のしていることの重大さに気づいた。初めは痛めつけることが目的だった。だが、これだけの傷を負わせれば、警察に捕まるのは明らかだ。それに吉岡兄弟にだって半殺しにされる。――もう殺すしかない。

2015年2月20日、神奈川県川崎市の多摩川河川敷で13歳の少年の全裸遺体が発見された。

少年の全身に刻まれた作業用カッターによる切創は43カ所に及び、そのうち首の周辺だけでも31カ所に達していた。

もっとも重い傷は左頸部にあるもので、長さは16.8センチ、深さは1~2センチ、小動脈は真っ二つに切断されていた。

他にも11.5センチや9.5センチに及ぶ傷もあり、首の筋肉は無残に切られ、背中、足、額の皮膚は剥がれている。

事件から1週間、逮捕されたのは17歳と18歳の未成年3人。

逮捕された3人はゲーム仲間だった。

しかし、グループの面々はゲームやアニメに向き合うばかりで、相手のことを理解して友情を深めるということをしてこなかった。

そんな少年たちが一時の感情で暴力をふるい、留まるところがわからずに起こしたのが、今回の事件だった。

社会や家族といったセーフティーネットから漏れた場合、最後に頼りになるのは友人のような近しい人との関係だ。

だが、彼らは毎日のようにゲームセンターや公園に集って明け方まですごしていながら、信頼関係さえ構築することができず、暗黒の底へと転がり落ちていってしまった。

遼太に対する43回にのぼった暴行は、まさに彼らのそんな内面を示している。

仲間に対する虚勢、思いやりの欠如、人間不信、逮捕への不安、報復されることの恐怖、現実に対する諦念……。

彼らはそんな理由で一回また一回と無抵抗の遼太を切りつけているうちに、それが本物の殺意へと変わっていった。

「殺人を犯すような悪い奴らは、殺せばいいと思う。殺人は被害者から生きる権利を奪い取る行為です。そんな罪を犯した人間が、なんで生きる権利を守られなければならないのでしょう。」

こう訴える、殺された遼太の父親。

その気持ち、痛いほどよくわかる。

2019年9月13日 (金)

スマホメモ/須藤亮

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 弁護士や公認会計士など、高度な専門職と言われている職業までもAIに代替されていく時、それでも人間にしかできない領域、能力は何なのか。いろいろ言われていますが、その一つが発想力。つまり、異質なものと異質なものを掛け合わせ、新しい価値を生む力でしょう。スマホによる思考メモは、これを無意識にやっているのではないかと私は気づいたのです。

人間の脳はフラッシュメモリーのようなもの。

つまり、脳は毎時毎秒、実にいろんなことを考えているのに、それが瞬時に消えていく。

よく考えればもったいないこと。

これを忘れないうちにメモしておくというのが「スマホメモ」。

本書でいうスマホメモとは、星の数ほどある、浮かんでは消える脳の思いつきを文字に落とすこと。

脳は、ことあるごとに、ものごとの見方、解釈を一生懸命考えている。

それをメモとして落とす。

瞬時に浮かんでくる考えをその場でメモに残すためには常に携帯している必要がある。

そのツールとしてスマホは最適。

スマホであれば常に携帯している。

特にアイデアや考えがひらめく時というのは、そのことについて一生懸命考えなければならない時というよりは、むしろ何も考える必要のない時の方が多いもの。

それらをすべて浮かんできた瞬間にスマホにメモする。

メモが溜まってきたら、毎日暇をみては見返してみる。

また、メモをパワポに貼りつけたりして俯瞰してみる。

それによっていろんな情報がまじりあって化学反応を起こし、新しい発想が生まれる。

これからの人間の役割は、人間にしかできないこと、すなわち「知恵の創造」に専心することにシフトしていくだろう。

そして、そんな世界では、これまでなかったほど「脳の活性化」が求められてくる。

そのためにスマホメモは効果的な手法ではないだろうか。

是非、身に着けたいものである。

2019年9月12日 (木)

老人喰い/鈴木大介

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「日本の老人は、世界中でも最も金持ちで、最もケチな人種だ。若い人間が食えなくてヒイヒイ言ってる中で、金もってふんぞり返ってるこいつらから、たった200万程度を奪うことに、俺は一切の罪悪感を感じない。むしろ俺はこの仕事を誇りに思ってるよ」

著者が老人喰いの頂点とも言える特殊詐欺犯罪に手を染める若者たちを取材してきて、感じたのは彼らが「夜露の世代」だということ。

彼らと接していると、思い浮かぶのは砂漠の夜。

彼ら若者たちは、砂漠の中で渇いている。

周囲にはすでに枯れたオアシスと、涸れた井戸があるのみ。

今後雨が降る気配もなければ、自分たちで新たに井戸を掘るだけの体力も彼らに残されていない。

ただただ彼らは、夜露をすすって乾きに耐えている。

だが彼らの横には、水がたっぷりつまった革袋を抱えた者たちがいる。

これが、高齢者だ。

大きな誤解は、高齢者を狙う犯罪とは、高齢者が弱者だから、そこにつけ込むというものではないということ。

圧倒的経済弱者である若者たちが、圧倒的経済強者である高齢者に向ける反逆の刃なのだということである。

この歪みまくった日本の階層化社会の中で、彼ら老人喰いの若者たちは必然的に生まれた。

そこにはいわば「闇の再配分」といった位置づけがあり、彼ら自身がそれを大義名分として掲げている。

高齢化社会とは「生産力を失った多くの高齢者を、少数の若者が支える社会」。

そして、かつてないほどに拡大した若者と高齢者の経済格差と、努力しても報われることがあまりに少ない現代の若者の世代観から、必然的に「支えることより奪うこと」を選ぶ者は生まれた。

これが老人喰いだといえるのではないだろうか。

2019年9月11日 (水)

サイコパスの真実/原田隆之

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 サイコパスには、一般の人々と異なるさまざまな特徴があるが、それを専門家でない者が見分けることは、非常に困難である。不可能だといっても言いすぎではない。なぜなら、サイコパスは人を騙すことを得意としているからだ。凶悪事件の犯人に対して、「あんなに優しい人がなぜ」「あんなに礼儀正しく、どこにでもいる普通の人なのに」などの証言がされることがあるが、もしかすると犯人はサイコパスで、周囲が皆、まんまと騙されていたのかもしれない。

サイコパスとは、良心を欠いて生まれた人々である。

サイコパスと聞いて思い浮かぶのは「羊たちの沈黙」のレクター博士である。

しかし、見るからにサイコパスとわかる人物は稀だという。

サイコパスとは多種多様な人々であり、連続殺人事件のような凶悪犯罪に加担している者は、例外的だと言ってよい。

圧倒的大多数のサイコパスは、連続殺人者でもなければ、犯罪者ですらない者もいる。

サイコパスの原因については謎が多いが、さまざまな事実も明らかになりつつある。

なかでも、家庭環境や生育環境にはほとんど原因がないことは、数多くの研究がはっきりと示している。

サイコパスは共感性や良心だけでなく、不安や恐怖心という感情もない。

自分の犯した罪の重さについて、何も感じることができないばかりか、死刑を宣告されたということに対しても心が動かないのである。

行動の統制力が皆無で、衝動性が顕著であることも特徴的である。

イギリスの神経科学者で、現代におけるサイコパス研究の第一人者であるジェームズ・ブレアによれば、およそ一般人口の1パーセントから3パーセント存在すると見積もられている。

人口の1パーセントがサイコパスだとすると、日本の場合、何と百万人を超える数のサイコパスがいることになる。

サイコパスは、対人的に重大な被害をもたらすだけでなく、その対人関係の持ち方には、きわめて特徴的な側面がある。

それを簡単にまとめると、表面的な魅力、他者操作性、虚言癖、誇大化した自尊心などである。

さらに、性的に放縦で、短い婚姻関係を繰り返す傾向も特徴的である。

サイコパスの対人的特徴として筆頭に挙げられるのは、一見人当たりがよく、魅力的であるという点である。

相手を惹きつけるだけの魅力と、卓抜したコミュニケーション能力が、サイコパスの特徴である。

サイコパスは、人を操作する術に長けている。そればかりか、心に弱みや悩みを抱えている人を見抜くのが得意で、そのような人に近づいては、巧みにその心の隙間に取り入ろうとする。

サイコパスは、病的な虚言者でもある。

まさに、息を吐くように噓をつくと言っても過言ではない。

そのため捜査官や心理学者のような専門家ですら、サイコパスには騙されてしまうことが多い。

ときに、サイコパス犯罪者は、取り調べに素直に応じたり、刑務所内では模範的受刑者となったりする。

「自分は生まれ変わった」などと述べ、熱心に治療プログラムを受けたり、通信教育を受講したりする。

しかし、それらはみな、上辺だけの演技であり、噓である。

サイコパスの表面的な人当たりのよさの下には、肥大した自己中心性と傲慢さが隠れている。

また、情緒を表す語彙が乏しく、今抱いている感情を詳しく説明するようにと言われても、細やかな表現ができないことが特徴である。

実際、細やかな心の動きがないので、表現しろと言われてもできないのである。

心の襞がなく、感情に深みや人間味がないのがサイコパスである。

サイコパスには、不安や恐怖心が欠如している。

悪事をはたらくときだけでなく、そもそも彼らは何かにつけ、不安を感じることがない。

そして、名を馳せた政治家、巨大企業の経営者、高名な学者のほか、トップアスリート、有名芸能人やアーティストなどにこのような「成功したサイコパス」が多いと言われている。

例えば、スティーブ・ジョブズやトランプ大統領はサイコパスである可能性が高いというのである。

確かに、世の中で成功するためには、ある面良心は邪魔になることがある。

意外と、日常生活の中で会っている人の中にサイコパスがいるのかもしれない。

2019年9月10日 (火)

なぜ危機に気づけなかったのか/マイケル・A・ロベルト

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 リーダーは、ハンター(狩人)になって、組織に大きな危機をもたらす可能性のある問題を、積極的に探さなければならない。問題が自分のところまでやってくるのを待っていてはいけない。


いま書店に行くと、問題解決の書籍であふれている。

しかし、一番大事なのは問題を発見すること。

何が問題なのか?これが明確にならないと解決などできない。

問題発見のスキルを磨くことで、組織に大惨事をもたらしかねない脅威を、あらかじめ阻止することができる。

組織の機能停止や崩壊は一瞬で起こるものではなく、徐々に進行するものだ。

リーダーが問題発見するためには7つのポイントがある。

第1に、情報のフィルターを避けること。

リーダーのまわりの部下たちは情報にフィルターをかけることがある。

この事実を認識しなければならない。

彼らはリーダーの貴重な時間を無駄にしたくないため、たいていは善意によって、フィルターをかける。

ときには悪いニュースをフィルターにかけ、撥ねてしまう。

問題を発見するには、こうしたフィルターを避けなければならない。

第2に、人類学者のように観察すること。

リーダーは、自然な環境の中で人々の集団を観察することを学ばなければならない。

いわば人類学者になるのである。

人に質問するだけでなく、その行動を見守らなければならない。

というのも、人の発言と行動は一致しないものだからだ。

第3に、パターンを探し、見分けること。

優れた問題の発見者は、問題のパターンを探し、見分けることができる。

過去の個人的な経験や組織としての経験をチェックする方法を身につければ、問題を人より早く見分けられるようになる。

第4に、バラバラの点を線でつなぐこと。

一見バラバラの情報の断片の中から「点をつなぐ」能力を磨かなければならない。

危機の兆候はあちこちに散らばっていることが多い。

細切れの情報をたくさん集めて、やっと組織の抱える問題が見えてくるのだ。

第5に、価値のある失敗を奨励すること。

優れた問題発見者になるには、部下にリスクを取ることを促し、失敗から学ぶ方法を教えなければならない。

失敗の中にも有益なものがあるからだ。

それは学習と改善の機会となる。

リーダーは、有益な失敗とその他の失敗を区別しなければならない。

第6に、話し方と聴き方を訓練すること。

リーダーは自分自身のコミュニケーション能力だけでなく、組織全体のコミュニケーション能力も磨かなければならない。

部下に率直かつ効果的な話し方を教え、組織のあらゆる階層のマネジャーに、懸念を伝えたり、問題を指摘したり、社会通念に異論を唱える部下にうまく対応したりする方法を教える必要がある。

第7に、行動を振り返り、反省のプロになること。

スポーツチームの偉大なコーチや監督は、過去の試合や演技の録画を見て、自分のチームの問題だけでなく、ライバルが抱える問題からも教訓を得る。

リーダーは、反省し見直すことに熟達し、新たな行動を効果的に練習する方法を考えなければならない。

以上の7つのポイント、リーダーの心得として押さえておきたいものである。

2019年9月 9日 (月)

自分を嫌うな/加藤諦三

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 人間はすっ裸で街を歩くことはできないが、心は裸で歩くことができる。それなのに、心について裸に自信のない人は、つい着飾ってしまう。


他人のために、いろいろなことを一生懸命にやるのだけれども、なぜかうまくいかないという人がいる。

その人はまず、自分が何に囚われているかをはっきりさせるべきである。

「自分は愛されていない」という根源的な恐れを持っている人は、人にやたら親切にしたり、お節介をする。

それによって相手から感謝されたり「ありがとう」といわれることによって、「自分は愛されている」と認識したいからである。

そして、自分は愛にあふれた親切な人だと思い込もうとする。

つまり「見た目」と「内面」とは違うのである。

何かを抑圧して生きている人は、まず自分が何を抑圧しているかをはっきりさせ、一日もはやくその抑圧をやめることである。

ナルシシストは、現実をあるがままに受けとることができない。

自分のナルシシズムに適合するように世界を変形して受けとる。

ヒトラーは、自分の信者を発見し、批判者を弾圧した。

そして、自分を神だと信者に思いこませようとしたし、信者もまた神だと狂信したがった。

うぬぼれている人間は、心の底では自分はたいしたことはないと自分に失望している。

自分の無価値感から必死に眼をそらしている。

自分はダメな人間だという感じ方を意志の力で無意識へ追いやっているのである。

人の心を歪めてしまっているのは、ストレートな利己主義ではない。

愛他主義の仮面をかぶった利己主義である。

人の心を歪めてしまっているのは、ストレートな敵意ではない。

敵意を隠した親切である。

人の心を歪めてしまっているのは、ストレートな憎悪ではない。

愛情に擬装された憎悪である。

人の心を歪めてしまっているのは、ストレートな自己本位ではない。

他人本位の底に隠されている自己本位である。

まず、内面に目を向け、自分が何に囚われ、動かされているのか?

それを知ることが大事ということではないだろうか。

2019年9月 8日 (日)

自信/加藤諦三

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 自信とは、自分が自分に依存していることである。甘えとは、自分が心理的に他者に依存していることである。甘えている者が自信の欠如に苦しむのは当然なのである。他人の是認あるいは賞賛なしには、自己確立できないからである。そして戦いこそが、この甘えの心理を切り捨ててくれる。他者によって与えられていた自己評価を脱出できるからである。

自信のない人は、あやまって現実を解釈し、その解釈にしがみついて生きてきた人である。

自信のない人は、ありのままの自分を受け入れてくれる人の前でも、自我防衛をおこなう。

人は、自分が必要とされていると感じた時に愛が生まれ、利用されていると思った時に憎しみが生まれる。

自信のある人は、努力しなくても自然と他人の正体が見えてくる。

自信のない人は、どんな人と会っても心理的に安定した対等の立場で話ができない。

自信のない人は、めったやたらに他人の前で背のびしてよく見せようとする。

劣等感の激しい人は、ことに劣等感の激しい人の前で背のびして、自分を実際よりよく見せようとする。

自信のない人は、自分の好ましい自己像が脅威を受けると、容易に相手の要求に追従してしまう。

たとえ不当であっても、相手の願いを聞き入れることで「よい人」であろうとするからである。

他者に気に入られようとして心が迎合的になっていると、容易に他者に操作されてしまう。

そして操作されることで、その人はより自信を失う。

だから、他人に好かれようと行動するより、自分を尊敬できるように自ら行動することだ。

他人に好かれることを人生の目標にすると、ノイローゼになる。

他人が自分をどう思っているかで、自分を評価しようとしたりしていると、いつまでも自信はもてない。

現実がたとえどんなに耐え難くても、そのありのままの姿をとにかく認識しようという態度をぬきに、自分自身を信頼するようになることはできない。

自信を持つためには恐れずに自己主張することだ。

自己主張というのは、自分を偽らないということ。

自分を偽っている者が自分に自信をもてるわけがない。

甘えのある者は、自信をもつことはできない。

甘えとは相手との一体感を求めることだからである。

自己主張とは、自分の望みを相手の前にさらけだすことである。

その結果として、その相手を失うかもしれない。

その相手とは今後まったくべつの人生を歩むかもしれない。

そんな危険をおかしながら、自己を主張する時、その人は自信を得る。

そのような自己主張をする時、自分の中にある相手との一体感への希求は切り捨てられる。

私たちは戦いによって自信を得ていく。

戦いの機会を避ける者は、けっして真の自信を得ることができない。

戦うことが自信を得るうえで大切なのであって、負けるか勝つかが問題なのではない。

血みどろになって戦った者は、たとえ負けても自信を得ているはずである。

自分が正しいと思うことも、それを主張することで憎まれることも、人間にとって大いなる戦いである。

憎まれるのが恐くて自分を主張するのを避けることは、戦いを避けたことになる。

「恐れずに自己主張せよ!それによって自信を得ることができる」

これが本書のメッセージだと思う。

2019年9月 7日 (土)

自分に自信をつける最高の方法/常冨泰弘

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 心が自信で満ちていることで得られる一番のメリットは、悩みや不安が入りこむ余地が少なくなり、笑顔があふれ、心からの楽しみが増えることです。

人は「自信をつける」と内面が変わってくる。

人間関係や人生にチャレンジする意欲といったことまで、すべてが輝きをまとうようになる。

さらに人は自信がつくと、話し方のほか、姿勢、ファッションなどの見た目が変わってくる。

自信に満ちあふれた人は、なぜ、輝いているのか?

それは、自信というものが、人間性を表すあらゆる要素に影響するからだ。

自信をもてば、あらゆることが「これでOK!」となる。

自信がある人は、自分の判断、行動、表現を尊重できる。

自分には何かをする価値があると思えるので、したいと思ったことを素直に実行することができるようになる。

自信とは、「自分は大丈夫だ、これでいいのだ」という思いだ。

これには根拠は不要だ。

よく「根拠のない自信」という。

「〇〇を経験したから自信がある」「〇〇の資格をもっているから自信がある」という「根拠のある自信」は、積み上げられた「経験」や「能力」による自信だ。

これは、土台が崩れれば、一緒にガラガラと崩れてしまう自信だともいえる。

一方、「根拠のない自信」は、経験を積み重ねるための下地、「心の土台」の部分に当たる。

なぜそう思うのか自分でもわからないけれど、「自分は大丈夫」「やればできる」「失敗してもなんとかなる」という確信をもっている。

この感覚が、本当の自信がある状態だ。

こうした「自分はなんとなく大丈夫だ、OKだ」と思える感覚、自己肯定感が、本当の自信の正体だ。

自分自身や自分の行動に自信をもつことができれば、傷つくことや、否定されることへの恐怖心が減っていく。

何かで失敗したとしても、「私がやってきたことには価値がある」と、精いっぱい努力してきた自分を誇ることができるようになる。

むやみに取り乱したりせずに、ゆったりとした気持ちで人生を送れるようになる。

ではそのような「根拠のない自信」をつけるためにはどうすればよいのか。

実は、そのようなセルフイメージは、生まれてから6歳までの間に形成される。

その「幼少時のセルフイメージ」を修復するワークが本書ではいくつか紹介されている。

その中の一つはこのようなもの。

①落ち着ける静かな環境で椅子に座り、数回深呼吸し、リラックスする。

②自分の目の前に、こちらを向いて立っている5、6歳の小さな子ども(自分の子どものころの姿)をイメージする。

③その子の気持ちを察してあげる。

④その子が癒やされるように、その子がかけてほしいと思っているであろう言葉をかけてあげる。

例えば、「○○ちゃん、あなたはそのままで価値があるよ」といった言葉をかけながら、、小さな子どもの自分をひざの上に乗せて抱きしめ、やさしく背中や頭をなでてある。

また実際になでるしぐさをしする。

これを5~10分繰り返す

すると「幼少期のセルフイメージ」を修復することができる。

「自分はここにいていいのだ」という自己肯定感や、「私は両親や友人にとって大切な存在なんだ」という自己重要感が高まる。

やってみる価値があるのではないだろうか。

2019年9月 6日 (金)

結論!朝鮮半島に関わってはいけない/石平

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 「できるなら、朝鮮半島と関わらないに越したことはない!」、それこそが本書の出した最終的な結論であり、朝鮮半島の歴史をつぶさに考察した筆者の心からの叫びでもある。


著者の主張はちょっと言いすぎと思えなくもないが、朝鮮半島の歴史を見てみると納得できる部分もある。

二つの半島国家が、揃って前近代に踏みとどまっているのは一体なぜなのか。

その理由は、実は朝鮮半島の歴史そのものに内在しているため、朝鮮民族の建国史に遡ってみる必要がある。

半島民族が作った最初の国家は高句麗(紀元前37年~668年)である。

そして高句麗の成立以来、朝鮮半島の歴代王朝はずっと隣の中華帝国に朝貢を続けた。

高句麗から李氏朝鮮までの半島国家は一貫して、中国皇帝を頂点とした「華夷秩序」の中の朝貢国であった。

朝鮮人の中華思想はまず、自分たちが中国の文化と文明、すなわち儒教の思想と礼儀をきちんと修得していることに依拠している。

つまり李氏朝鮮の知識人は、中華文明の一員であるかどうかは住む地域によってではなく、その中華文明のコアとなる儒教と礼儀の受容・履行によって決まる。

遠い新羅や高麗の時代から儒教を受容して科挙制度を導入し、李氏朝鮮になってからは中国とそっくりそのままの政治制度を移植した自国は、すでに十分に教化を受けて正真正銘の中華文明の国となった、と考えた。

だからこそ、彼らは自国を「小中華」だと自慢げに語ることができるのである。

そして朝鮮民族は何度も他国の侵略を受けている。

しかし、朝鮮半島侵略を背後から後押しする協力者となったのは、ことごとく、朝鮮民族だった。

隋王朝による高句麗侵略の時も同じことである。

百済も新羅も、競い合うように中華皇帝の前にはせ参じて、高句麗への出兵を嘆願し、促した。

言ってみれば、誰よりも中華帝国からの侵略を待ち望んでいたのは、彼ら自身であった。

21世紀の現在、韓国人や韓国政府は「わが民族は歴史上、1000回以上の侵略を受けて甚大な被害を受けた」と言って、自分たちは「侵略の被害者」であると強調する。

しかし三国統一戦争の歴史をつぶさに見てくると、朝鮮民族が受けてきた侵略の多くは、彼ら自身がむしろ招き入れた外国軍の介入であり、彼らが「待ち望んでいた」こと。

そんな彼らを、一概に「侵略の被害者」と見なすことができるだろうか。

そして、百済征伐と高句麗征伐の両方で最終的勝利を収め、中華帝国の面子を保った唐王朝にしても、朝鮮半島での戦争で、面子を保つ以上の利益を得たことはほとんどなかった。

唐王朝の遠征は単に、新羅の朝鮮半島統一を助けただけのことである。

朝鮮半島と深く関わると、最終的にはみな火傷してしまう。

日本も例外ではない。

日本は、朝鮮半島が再び大陸勢力に支配されて日本の脅威となることを防ぐため、1909年、日本政府は当時の大韓帝国政府との合意のもとで日韓併合を決め、翌年に併合した。

1929年、カーネギー財団から朝鮮に派遣されたアメリカ人記者は、

「日本は併合以来19年間にして、数百年間停頓状態にあった朝鮮と、近代文明国との間に渡り橋を架けてやった」

と証言した。

朝鮮の近代化を推し進めたのはまさに、近代文明国家としての日本だった。

にもかかわらず、今、この日韓併合そのものが問題になっている。

国と国との約束はことごとく反故にされる。

それが今の日韓の関係につながっている。

根は深い。

そう考えると、著者の主張は頷けるものがある。

2019年9月 5日 (木)

「ホットケーキの神さまたち」に学ぶビジネスで成功する10のヒント/遠藤功

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 外苑前のカフェ香咲の店主である岩根愛さんが、大切なヒントをこう教えてくれました。
「どこにでもある定番がめちゃめちゃ美味しかったら、必ず売れます」
 思わず唸ってしまうほど、ビジネスの本質を突く鋭い指摘です。


ビジネスで成功するうえで最も大切なことは何か?

それは、「差別化」だ。

差別化とは、ほかにはないオリジナルな価値を生み出すこと。

成功している会社は、例外なく差別化された価値を生み出している。

逆に、どんなに努力しても、差別化されていないものは、お客さまから支持されず、競争に勝つことはできない。

では、ホットケーキはどうなのか?

一見、どこでも売っており、誰でも作れる、最も差別化に程遠いもののように思える。

ところが、実はホットケーキは「ブルー・オーシャン」なのだ。

ブルー・オーシャンとは「誰もいない青い海」のこと。

経営戦略論では「競合相手のいない未開拓領域」を意味する。

ありふれていて、面倒くさくて、値段も安いから、一見儲かりそうには思えない。

だから、誰も参入しない。

実際、手づくりのホットケーキを出す個人経営のお店は、首都圏で40店舗ほどしかない。

首都圏には4000万人もの人が住んでいるのに、わずか40しかお店がない。

一見、『成長が見込めない』と思えるビジネスでも、経営者の気付き、導き方次第では競争相手のいない、穏やかな青い海で無限の可能性を享受し続けることができるようになる。

大事なのは、ほかの会社が簡単には真似できない深さを伴った「持続可能な差別化」を生み出すこと。

精魂を込める。

いまでは誰も使わない古くさい言葉かもしれない。

でも、本書で紹介されている繁盛店の人たちは、世の中の変化に抗うかのように、まさに精魂を込めて、毎日毎日ホットケーキを焼きつづけている。

「変わる」のが当たり前の風潮の中で、「変えない」ということは簡単にできることではない。

そして面白いことに、それがビジネス的に見ても、じつはとても合理的なのだ。

日によって生地のコンディションは変わるので、単純に分量を数値化できない。

自分の感覚で『ここだ!』と思う固さで止める。

たった1滴の違いで、出来栄えがまったく変わってくる、とある店主は言う。

「変えない」ことも差別化につながることを改めて教えられた。

2019年9月 4日 (水)

ドイツ人はなぜ、1年に150日休んでも仕事が回るのか/熊谷徹

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 ドイツの企業では、管理職も含めて、「余人を持って代え難い」、つまり「その人でなくては仕事がつとまらない」という状況は、ほとんどない。そのかわり、担当者が2週間会社に来なくても、他の社員がお客さんの問い合わせにすぐに対応できるように、書類や電子ファイルをわかりやすく整理しておくことが徹底されている。誰もが有給休暇を取れる会社を築くための第一歩は、書類を整理して、担当者以外の人が、必要な書類をすぐに見つけられる体制をとることだ。

ドイツ企業のほとんどのサラリーマンは、毎年約30日の有給休暇をほぼ100%消化し、1日10時間以上働かない。

午後6時には、たいていの企業のオフィスはがらんとしている。

日曜日と祝日の労働は、原則として禁じられている。

土曜日に働くサラリーマンも、めったにいない。

にもかかわらず労働生産性は日本より高い。

たとえばOECDのデータベースによると、ドイツの労働生産性は調査の対象になった35ヶ国内で9位だが、日本は21位とかなり低い。

なぜドイツの労働時間は短いのだろうか。その最大の理由は、政府が法律によって労働時間を厳しく規制し、違反がないかどうかについて監視していることだ。

企業で働く社員の労働時間は、1994年に施行された「労働時間法(ArbZG)」によって規制されている。

この法律によると、平日つまり月曜日から土曜日の1日あたりの労働時間は、8時間を超えてはならない。

1日あたりの最長労働時間は、10時間まで延長することができるが、その場合にも6ヶ月間の1日あたりの平均労働時間は、8時間を超えてはならない。

つまりドイツの企業では、1日あたり10時間を超える労働は、原則として禁止されているのだ。

ドイツ人は、「人々が全体の調和よりも、個人の利益を追求する社会で、最低限の秩序を守るためには、法律や規則で市民や企業の行動を律する必要がある」と考えているのだ。

また、残業時間が多い課の課長は、取締役や組合からにらまれる。

管理職は、自分の勤務評定が悪くなると、昇進に影響するので、なるべく社員に残業をさせないようにする。

さらにドイツの企業では、日本の企業よりもチーム精神が希薄なので、同僚が残業していても、自分の仕事が終わったらさっさと帰るのは常識だ。

「おれが仕事をしているのに、先に帰りやがって」というねたみの感情はない。

自分が与えられた仕事だけをやっていればいいのだ。

この背景には、ドイツの企業では、自分の仕事や責任の範囲が明確に決まっているという事情もある。

日本の企業のように、仕事の範囲があいまいということがない。

ドイツ人は、行方不明の書類を見つけるために時間を無駄にするのが大嫌いだ。

整理されていない状態、ごちゃごちゃした状態を、ドイツ語でChaos(混乱・混沌)と呼ぶが、この言葉には、日本語以上に「劣悪」というイメージが含まれている。

ドイツ人は、無駄な仕事をしたり、無駄な時間を費やしたりすることをひどく嫌う。

ドイツの大半のオフィスで書類がすぐに見つかるように整理されている理由の1つは、彼らが書類を捜すために時間を無駄に費やしたくないと考えているからだ。

ドイツ人は、仕事をする時に「費用対効果」の関係を常に考えている。

費やす時間や労力に比べて、得られる効果や利益が少ないと思われる場合には、仕事を始める前に、「そのような仕事をする意味があるのか」と真剣に議論する。

したがって管理職にとっては、これから行おうとする仕事や課題がなぜ彼、または彼女のチームにとって重要なのかについて、社員を説得できるかどうかが、重要な鍵となる。

ドイツ人は、日本人と違って、「がんばっている」というだけでは全く評価しない。

過程よりも結果を重視するのだ。

がんばっているのに成果が出ない社員よりも、あまりがんばらなくても、短い時間で成果を上げる社員のほうが評価される。

「がんばり」を評価するのは、日本独特のメンタリティだ。

ドイツ企業の絶対的な成果主義と、社員と企業の間の緊張関係、さらにドイツ人の生真面目な国民性が、労働者保護の仕組みの悪用を生まず、生産性の向上につながっていると言える。

ドイツ語でUrlaubと呼ばれる休暇は、人々のメンタリティや人生観を理解する上で、最も重要な言葉の1つである。

ドイツ人は、他者のために行う労働の時間と、自分のために使う時間を厳密に区別する。

そして、企業などが自由時間を侵すことを断固拒否し、自由時間の確保を重要視する。

そんなこんなでドイツ人と日本人とでは働き方がずいぶん違う。

すべてをマネする必要はなく、ドイツ人の働き方にも問題があるのだが、働き方改革が叫ばれている今、参考になることは多いのではないだろうか。

2019年9月 3日 (火)

古代日本人と朝鮮半島/関裕二

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 田中臣の答えが、興味深い。「そうではない」といい、
「百済は是反覆多き国なり」
 すなわち、百済は信用ならないというのだ。すぐに、約束を違えると言っている。

日本と韓国との関係がうまくいっていない。

「なぜあんなわけの分からないことを言い出すのか」

「なぜ、互いの主張が平行線を辿るのか」

とつい思ってしまう。

本書ではそのような問題意識のもと、せめて、日本と朝鮮半島の関係を、古代にまで溯って見つめ直し、そのヒントを見つけようと試みている。

日本には独自の文化がある。

第一に、青銅器が日本にもたらされる以前、すでに日本列島には、一万年の縄文時代があって、現代人の想像を遥かにしのぐ、独自の文化を形成していた。

第二に、「縄文文化という確固たる基礎」が出来上がっていたので、次から次へとやってくる新たな文物や発想に、すぐに適応していったことだ。

すべてを受け入れるのではなく、取捨選択し、不必要なものには見向きもせず、気に入ったものには磨きをかけ、いつの間にか実物を凌駕してしまった。

つまり、「最果ての地」「吹きだまり」だったことが古から現代に至るまで、日本人の素質を決定づけてきた最大の原因だったのではないかと思えてくる。

結論を先に言ってしまえば、お人好しで戦いに弱く、争いに敗れ追い出されてきた人間が、最後に辿り着いたのが日本列島であり、もう逃げ場がない列島人は、この地でいかに生きのびるかを模索したのだろう。

われわれの御先祖様たちは、他と比べて「弱かった」「お人好しだった」から、豊かな土地をどんどん追い出され、ついに、極東の島国に辿り着いたのではなかったか。

文物の通り道であるがゆえに、つねに隣国の侵略の脅威に怯え続けてきた朝鮮半島の人たちとは、根本的な発想が違っていて当たり前だ。

「文物の通り道(朝鮮半島)」と「最果ての地(日本列島)」に別れた人たちの意思疎通がうまくいかないことは、むしろ当然のことといえるのかもしれない。

2019年9月 2日 (月)

ビジョナリー・カンパニー【特別編】/ジム・コリンズ

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 第五水準のリーダーシップとは「謙虚さ」や「親切さ」、単なる「包容力」や「全員の合意を得る力」ではない。第五水準とは要するに、正しい決定が下されるようにすることである。どれほど困難であっても、どれほどの痛みを伴うものであっても、長期的に偉大な組織を築き、組織の使命を果たすために必要な正しい決定が、合意や人気とは関係なく下されるようにすることが要点である。

本書は、「ビジョナリーカンパニー2 飛躍の法則」の遺にあたる内容。

「ビジョナリーカンパニー2 飛躍の法則」で分析した「偉大な存在となった企業の条件」は、営利企業だけではなく、さまざまな社会組織にまで押し広げて適用できると著者のジム・コリンズは主張する。

「ビジョナリーカンパニー2 飛躍の法則」で述べられている中で、「第五水準のリーダーシップ」というものがある。

「第五水準のリーダーシップ」として、例えば、偉大な企業へ導いた方の多くは万事控えめで、物静かで、内気で恥ずかしがり屋ですらある。

個人としての謙虚さと、職業人としての意志の強さとういう一見矛盾する組み合わせを持ち合わせている。

たとえれば『パットン将軍』や『カエサル』よりも、『リンカーン』や『ソクラテス』に似ている。

第五水準の指導者が第四水準の指導者と違う点は、野心が何よりも目標、活動、使命、仕事に向けられていて、自分個人には向けられていないこと。

野心を実現するために必要であれば、何であれすべて行う意思をもっていることである。

リーダーシップを発揮しているといえるのは、指導に従っている人たちにそうしない自由があるときだけである。従う以外に選択肢がない場合には、リーダーシップとはいえない。

第五水準の指導者が第四水準の指導者と違うのはこの点にあるといえる。

そして本書では、それぞれ目的は異なる社会組織・団体に、「ビジョナリーカンパニー2 飛躍の法則」で述べられている「第五水準のリーダーシップ」がどのように発揮されているかの述べている。

真に偉大な組織とは営利・非営利にかかわらず、共通の要素があるということであろう。

2019年9月 1日 (日)

ビジョナリー・カンパニー④/ジム・コリンズ

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 誰もが分かっている事実が一つある。これから何が起きるのか、誰も知らないということだ。にもかかわらず、一部の企業や経営者は並外れたやり方で大混乱の時代を切り抜けている。時代の変化に受動的に反応しているのではなく、自ら何かを創造している。単に生き残っているのではなく、勝ち進んでいる。単に成功しているのではなく、躍進している。すなわち、持続可能で偉大な企業をつくり上げているのである。

著者は、不確実でカオスのような時代に他を圧倒して成長している偉大な企業7社を導き出した。

それを10X型企業と呼んだ。

10X型企業とは同業よりも最低10倍以上のパフォーマンスを上げている企業のこと。

そしてそれを率いるのは10X型リーダーだ。

調査対象になった10X型リーダーは、未来を予測できるビジョナリーではなかった。

「何が有効なのか」「なぜ有効なのか」を確認し、実証的なデータに基づいて前に進む。

リスク志向ではなく、大胆でもなく、ビジョナリーでもなく、創造的でもない。

より規律があり、より実証主義的であり、よりパラノイアなのである。

驚いたことに、イノベーションは成功のカギではない。

確かに10X型企業も多くのイノベーションを起こす。

しかし調査では、「10X型企業が比較対象企業よりもイノベーション志向である」という前提を裏づけるデータは出てこなかったという。

10X型企業が比較対象企業よりもイノベーションで劣るケースさえあった。

より重要なのは、イノベーションをスケールアップさせる能力、すなわち創造力と規律を融合させる能力である。

アップルに復帰してジョブズは最初に何をしたのか。

iPodでもないしiTunesでもない。

iPhoneでもないしiPadでもない。

まず規律を導入した。

規律がなければ創造的な仕事もままならない。

規律とは、本質的には「行動の一貫性」である。

一貫した価値観、一貫した長期目標、一貫した評価基準、一貫した方法。

長い時間を経ても行動が一貫しているということだ。

10X型リーダーはまったく手加減しないし、偏執狂的でさえある。

自らの探求に集中し、決して妥協しない。

何に出くわしても過剰反応せず、「長い物には巻かれろ」とも無縁だ。

自らの探求と無関係であれば、好機到来となっても飛び付かない。

並外れた粘り強さを持ち合わせ、自ら設けた基準から決して外れない。

誰にでも「ここは決定的に重要。だから完璧にやり遂げなければならない」という瞬間がある。

その瞬間を上手に生かすか、それとも浪費してしまうか、これで人生が左右される。

10X型リーダーはその瞬間に常に備え、その瞬間が到来したら必ず認識・掌握する。

続いて日常雑務を棚上げして一心不乱に働き、約束通りに最高の成果を出す。

いざというときには、同等ではないエネルギーを使って同等ではない瞬間に反応する。

これが10X型リーダーだ。

10X型リーダーの条件として「創造性」や「イノベーション」という言葉は誰もが思いつくが、「規律」というキーワードが出てきたのは意外だった。

でも考えてみたら確かにそうだ。

創造性を生かすのは「規律」なのだから。

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