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2019年10月10日 (木)

デイヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか/森本浩一

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 日常的に母語で話したり書いたりしているとき、われわれは語や文の意味が当然わかっています。しかしその「意味」とは何かと聞かれても、なかなかうまく答えられません。言語哲学は、まさにこの意味とは何かという問いの探求を自らの課題としています。

私たちは言語を使うことで、何かを考えたり、考えを他者に伝達したりする。

この出来事をどう説明するかが言語を扱う哲学のテーマであり、その中心には「意味」がある。

言語を通じてなぜ人間は世界を理解したり、他者とある事柄で合意することができるのか。

これは真面目に考えると、単純なようで難解だ。

多くの哲学者や言語学者がこの問題を議論してきた。

そして、彼らは言語にはコミュニケーションを成り立たせる普遍的な共通の構造があるはずだと考えた。

しかし、デイヴィドソンは

「学習されたり、あるいは生まれつき持っていたりするものは何もない。言語使用者が習得し、現場で適用している明示的に定義された『共有の構造』という観念は諦めなければならない」

と言う。

衝撃的な言葉ある。

相互理解の共通の基盤がなければいったいどうすればコミュニケーションが成り立つというのだろうか。

独りごとがコミュニケーションではないように、コミュニケーションとは、自分とは異なる他者への意思伝達が成功したときにはじめて成立するもの。

言語の意味とは、輪郭のはっきりしたイメージや性質のリストのようなものではなく、心的には漠然としたもの。

心に描かれるものは、それが心的な現実である限りにおいて、人によって異なる。

ある個人が見ている一個のリンゴの「赤さ」の色感と「同じもの」を、他者が感覚することはできない。

要は、言語による伝達には限界があるということ。

ただ、哲学者の言葉はなんとも理解しづらいというのが実感である。

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