暴走する能力主義/中村高康
いま人々が渇望しているのは、「新しい能力を求めなければならない」という議論それ自体である。
教育改革が叫ばれている。
従来の暗記中心の教育から、これから必要とされる能力を習得する教育に転換する必要があるというものだ。
生きていくためには、知的な能力も重要だし、周囲の人たちと協調していけるだけのモラルも必要だし、体力も必要だ。
これまでの一元的な能力の見方から多様で多元的な能力を総合的に評価する方向に舵を切り、これらを育てていこうという方向である。
しかし、この能力という言葉ほどあいまいでつかみどころのないものはない。
社会的に広く求められる能力を議論する場合、それよりもずっと抽象度の高い能力を問題にする。
「頭の良さ」「運動神経」「学力」「コミュニケーション能力」「コンピテンシー」などである。
そしてそのような抽象度を持った能力を扱う場合には、能力そのものの正確な測定はほぼ不可能であり、能力の測定で妥協するしかない。
どれほどの統計的・科学的道具をもってしても、このような抽象的な能力を直接測ることはきわめて困難なのである。
また、「能力」に関わる議論の怪しさは、なにも「新しい能力」に限ったものではない。
なぜなら、社会的に議論される抽象的な能力は、もともと厳格には測り得ない性質を持っているからである。
だから、「能力をどのように測ったらよいのか」という問題は、近代化以降つねに社会的争点となってきたし、これからもなり続けることになるだろう。
要するに、「能力を測る」というプロジェクトには、ゴールは事実上ないようなものなのだ。
そして、この議論は、全体として能力観が転換しているとの根拠のない前提がある
そのうえで、「ではどんな新しい能力が必要か」を無理やりひねり出そうとしている。
今の議論、「いつか見た光景」といった観をまぬかれない。
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