
銃殺の前、兵士は布で彼の両目を塞ごうとしたが彼はそれを拒んだ。兵士はまた、彼を木に縛りつけようとしたが、彼はこれも拒否した。彼を跪かせようとしたところ、これまた彼は跪かなかった。兵士は力まかせに彼を蹴りつけて跪かせ、更に踏みつけ、銃の台座で彼を殴った。湯弁護士は、
「私を縛りつける必要はない。目隠しをする必要もない。なぜなら、私には大和魂の血が流れているからだ。もし、誰かに罪があるとしたら、それは私一人で十分だ!」
と言い、続けて日本語で、
「台湾人、万歳!」
と高らかに叫んだ。
この後、兵士は銃を撃った……最初の一撃、そして二発目を撃っても、彼は倒れなかった。そして三発目の銃弾で彼はようやく倒れた。
何と勇ましいことだろう!
戦後の台湾で、「日本人として」死んだ一人の英雄がいる。
その人は、父親が日本人で、母親は台湾人だった。
文字通り、「日本と台湾」の切っても切れない絆を体現するような生涯をおくった人だ。
2014年、その人が命を落とした日は、台南市の「正義と勇気の日」に制定された。
死後七十年を経てもなお、命日を正義と勇気の象徴と讃えられるほど、台湾で敬われているこの人の存在は、私たち日本人に、ほとんど知られていない。
その人の名は、坂井徳章と言う。
台湾名は、湯徳章だ。
彼は、内地に渡って中央大学予科に法律を学び、最終学歴小学校卒業でありながら文官高等試験司法科はおろか行政科にまで合格し、台南に戻って弁護士事務所を開設した。
第二次世界大戦終結後、中国国民党統治下で発生した二・二八事件において、台南市の人民自由保証委員として台南学生をなだめ、国民革命軍の報復によって台南学生が虐殺される事態を防いだ。
しかし、国民党軍に逮捕され、市中引き回しの上、大正公園にて処刑された。
彼は処刑されるとき「私には大和魂の血が流れている!」
木に縛りつける必要もなければ、目隠しをする必要もない。
なぜなら、自分には、〝大和魂〟の血が流れているからだ。
と叫んだ。
それは、鬼気迫る魂の叫びだった。
死ぬ間際の人間が、台湾語で民衆の魂に投げかけたのだ。
そして、徳章は、こうつづけた。
「もし、誰かに罪があるとしたら、それは私一人で十分だ!」
驚きと感動で人々は言葉を失っていた。
罪を負うべきは日本人一人に任せればよい、台湾人から犠牲者を出す必要はない。
私はそれを承知で死んでいくのだから。
皆もそう理解して、無駄死はしないでほしい。
私に日本人の血が流れていることで、犠牲者を私一人で済ますことができるのであれば、むしろ幸いなことではないか。
これこそが大和魂の死にざまなのだ、と。
徳章は、一転、今度は「日本語」で、こう叫んだのである。
「台湾人、バンザーイ!」
それは、とどめの言葉となった。
もはや疑いようがなかった。
この処刑されようとしている男は、自分たちに、
「こんなやつらに絶対に負けるな。誇りある台湾人よ、万歳!」
そう言っているのである。
多くの人に、強烈な記憶と感動を残して、湯徳章、日本名・坂井徳章は、逝った。
徳章の死は、台南市民の心に哀しみと、同時にはかり知れない財産を残した。
徳章の残した「言葉」と、最期に示した「態度」は、台南市民の記憶の奥に深く刻み込まれ、長くつづく蔣介石による〝白色テロ〟の時代も秘かに語り継がれる。
そして、半世紀のちに、徳章は、まさに忽然と〝復活〟を遂げる。
2014年3月13日、台南市の頼清徳市長は、湯徳章の「命日」にあたるこの日を台南市の「正義と勇気の紀念日」に制定することを発表した。
「正義と勇気」
湯徳章を表わすのに、これ以上、ふさわしい言葉はないのではないだろうか。