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2020年5月29日 (金)

検証 検察庁の近現代史/倉山満

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 検察庁法第15条は検事総長、次長検事のほか、東京・大阪・名古屋・広島・福岡・仙台・札幌・高松の八つの高検の長である高検検事長について、内閣が任命し、天皇から認証を受ける官職(認証官)と定めている。法務事務次官が認証官ではないのと比べると、法務省における検察官の地位が高いことがわかる。

「検察庁法改正案」が強引に審議入りしたことに対して、ネットで「#検察庁法改正案に抗議します」のハッシュタグで、国民が一斉に反発し、多くの芸能人や文化人が抗議の声を上げたことが話題になった。

今回の法案で問題になったのは、内閣が「公務の運営に著しい支障が生ずると認められる事由として内閣が定める事由がある」と認めるときは、定年前の職を占めたまま勤務させることができることになるという部分だ。

内閣が自分たちの気に入った検事総長や次長検事の定年を延長できるのではないかというところが問題になった。

つまり「内閣が」という主語の部分が一番の問題になった。

ただ、元々の法律の立て付けが検事総長、次長検事、高検検事長については「内閣が任命し、天皇から認証を受ける」存在とされているのだから、今回の改正案はそれに基づいてのものだとわかる。

問題はそれが国民に正しく伝わっていなかったことにある。

検察は正義を実現する組織だ。

善悪が価値観だ。

そもそも社会は経済活動で出来上がっている。

損得で動く。

その中で許せない悪をえぐりだし、裁判にかける。

ただし、あらゆる悪を摘発しては、社会は動かない。

自らの正義をふりかざして暴走することを、昔は「検察ファッショ」と呼んだ。

かといって、「お目こぼし」は巨悪を眠らせる。

今回の「賭けマージャン」の問題などがそれだ。

賭けマージャンをすべて摘発していたとしたら、それはそれで大問題になる。

パチンコなどもそうだろう。

検察は宿命的に、どこまでも矛盾の存在なのだ。

だから、むしろ、検察が自らの正義を振りかざして暴走することの方がよほど危険なのだ。

今でも記憶に新しいのは、平成21年6月の麻生自民党政権末期、大阪地検特捜部が村木厚子厚生労働省雇用均等・児童家庭局長を逮捕した事件だ。

「凛の会」という団体に対して、偽の障碍者団体の公的証明書を発行した容疑である。

障碍者団体と認定されれば郵便料金の特別割引制度を利用できる。

その便宜を図ったというのである。

村木は、当時から初の女性事務次官候補と期待されていた。

また高知大学卒と地方大学出身だったため、さらに関心を集めていた。

それだけに逮捕時のマスコミも、エリート官僚による汚職事件と大々的に報じた。 

検察は、村木が調書への署名を拒んでも、無理な強要はしなかった。

しかし、村木の容疑を固めるために行われた厚労省係長の上村や、「凛の会」関係者への虚偽内容の供述の誘導や恫喝はすさまじいものであった。

ところが、捜査の過程で、公的証明書のフロッピーディスクを改竄し、証拠隠滅罪を図ったことが判明し、村木に大阪地裁は無罪を言い渡した。

村木は復職し、その後は事務次官になっている。

日本の刑事裁判では、起訴するとほぼ100%の確率で有罪となる。

この数字ゆえに、日本の検察は「精密司法」と呼ばれる。

問題は、日本の検察は異様なまでに自白に拘るということだ。 

自白に頼るということは、検察官が事前に作り上げた「ストーリー」に当てはめるという危険性もある。

無実の人間を犯罪者にしてしまう冤罪の危険性だ。

その意味で強大な権力を持つ検察に一定の制限を加えるということは必要なのではないだろうか。

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