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2020年7月の31件の記事

2020年7月31日 (金)

親中派の噓/櫻井よしこ

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 既存のメディアの歪曲報道や捏造報道はまだまだたくさんあります。「慰安婦問題」や「南京大虐殺」がどれほど、日本を貶めたかは、いまさら指摘するまでもないでしょう。
 何があっても日本が悪い、政府が悪いという視点から報道する大手メディアの所為で、日本は異常な国になり果てています。 

コロナ禍で今、世界は大変なことになっている。

感染拡大がなかなか収まらず、各国でロックダウンが行われ、経済も大きなダメージを負った。

そうなってしまった原因は何といっても中国の隠蔽体質にある。

周知のように武漢ウイルスに対して中国共産党政権は当初、何の危機感も抱いておらず、武漢市当局はウイルスに感染した患者の発生を隠した。

他方、原因不明の肺炎患者の発生を重大事と受けとめた医師、李文亮氏は2019年12月30日、「華南海鮮市場で7名がSARS(重症急性呼吸器症候群)に罹り、我々の病院の救急科に隔離されている」とグループチャットで発信した。

李文亮氏はその発信を咎められ、事情聴取を受け、「違法問題」に対する「訓戒書」に署名させられた。

さらに中国はWHOに強い圧力をかけて、1月22~23日の会議で「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」の宣言を見送らせた。

当該ウイルスのヒトからヒトへの感染は限定的だなどの誤った情報まで出させ、結果として国際社会にウイルスを広げた。

WHO事務局長のテドロス氏は「中国の講じた大規模な感染予防・抑制行動によって世界はより安全になった」などとも語った。

WHOのテドロス事務局長は中国の代理人と言われても仕方がなく、WHOは中国の意のままに動く専門機関になってしまった。

WHOを信じて従った国は、日本やスペイン、イタリアなど、みんな酷い目にあった。

一方、WHOの言うことを聞かなかった台湾は、素早く中国本土からの入国禁止措置を取った。

コロナ禍を通して明らかになったことがある。

それは中国の野望である。

そして今、アメリカとの対立があからさまになってきた。

アメリカが危機感を強める一つの大きなきっかけとなった中国の長期国家戦略が「中国製造2025」だ。

その中で掲げられている重点分野は次の10項目。

1 次世代情報技術(半導体、次世代通信規格「5G」)

2 高度なデジタル制御の工作機械・ロボット

3 航空・宇宙設備(大型航空機、有人宇宙飛行)

4 海洋エンジニアリング、ハイテク船舶

5 先端的鉄道設備

6 省エネ・新エネ自動車

7 電力設備(大型水力発電、原子力発電)

8 農業用機材(大型トラクター)

9 新素材(超電導素材、ナノ素材)

10 バイオ医薬・高性能医療

中でも1の次世代情報技術にアメリカは危機感を持っている。

中国は現在、半導体の世界最大の消費国だが自給できていない。

海外から輸入している。

中国は半導体の世界最大の輸入国なので、これでは構造的に弱い。

だからアメリカに半導体をストップされると自分たちは干上がってしまうと危機感を持っていて、半導体の自給率を高めていこうとしている。

中国がなぜこの5Gを、すべて自前でやろうとしているか。

それはアメリカとの覇権争いをしようとしているからだ。

習近平政権のスローガンは、「中華民族の偉大なる復興」であり、アメリカを倒して世界一位になること。

中国がアメリカに唯一勝てるのが、実はインターネットの世界だ。

最近は、中国が「制網権」、つまりインターネットを押さえるとしている。

これからの戦争は、「制空権」「制海権」「制宇宙権」よりも、「制網権」が重要だからだ。

戦争が始まる前に相手の軍のネットワークを全部壊してしまえば、戦争に勝ったようなものと言える。

その「制網権」を取るために中国は、中国仕様の5Gを世界中の国に売りつけてインフラ整備をし、主導権を取ろうとしている。

これは他の軍事産業よりかなり安上がりで、しかも効果が上がる。

そういう意味で近年、中国が5Gにものすごく力を入れている。

中国では2017年に「国家情報法」という法律ができた。

企業も個人も、求められたら、共産党政権に情報を提供しなければならないという法律だ。

だからファーウェイのCEOがいくら共産党には情報を提供しないと言っても、この法律の下ではいつ、どういう形でファーウェイが取得したデータが北京の共産党政権に押さえられるか分からない。

この構造の中で、5Gが広がっていることが問題なのだ。

だからアメリカがファーウェイを問題視しているのは当然だ。

重要なのは、いまの時代は安全保障問題が色濃く出てきているということ。

経済と安全保障が一体化した経済安全保障ということばが出てきた。

ところが日本企業の経営者は、かつての経済と安全保障が別々だった世界、これでビジネスがやれていた時代と同じメンタリティーでいる。

いまや経済と安全保障は一体化しているとの認識を経営者自身が持つべきだろう。 

本書で櫻井氏は二つのことを言っている。

第一に、これまで親中派が言ってきたこと、中国に対してはあくまでも宥和的姿勢で接することで関係はうまくいくというのは間違いだということ。

中国とよい関係を保つには常にこちら側が我慢して慎まなければならないという親中派の主張は間違いだということだ。
 
第二にいま人類は、確実に守るべき最も大切なものは何かという点で、これまでの道を振り返り、進むべきはこの道だということの確認作業に入っているということ。

中国共産党のように情報を隠し、カネの力と軍の力で支配する国家であってはならないと、多くの人々、民族、国々が考え始めている。

日本はこの局面で日本の歴史を振り返り、私たちは何者なのか、どんな国柄だったのかを想い出し、長い伝統の善き価値観を認識し、それを未来に向けての力とすることだ。

もはや安全保障はアメリカ、経済は中国というご都合主義は通用しない時代に突入したという認識を持つべきだろう。

2020年7月30日 (木)

体育会系/サンドラ・ヘフェリン

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 日本の「やればできる」は、学校や会社などの組織がその一員(つまりは生徒や社員)に命令するものです。つまり立場が「上の人」が「下の人」に対して強制しているところが、欧米との大きな違いです。

体育会系の考え方の基本は「やればできる」というもの。

欧米にも、「やればできる」という思考は存在する。

ただ、それはどちらかというと自分自身に対して、あくまでも優しく「私はできる」と言い聞かせるような行為。

「やればできる」は欧米の文化ではいわゆる「ポジティブ・シンキング」の一環であり、人生を明るくするためのもの。

ところが、日本の「やればできる」は上司が部下に、あるいは先輩が後輩に強制することば。

そしてそれが「感動」と結びつく。

つまり、「やればできる」と信じてやり続けたら不可能と思えたことが「できた」、「感動した」という枠組みで使われる。

少し前に「感動ポルノ」という言葉があった。

「24時間テレビ」関連でよく出てきた言葉だ。

健常者が障害者に課題を強いる形で、「一生懸命になって頑張る姿を見てみんなで涙を流す」というような場面にみんなが「感動」する。

あるいは小学校の運動会で行われる人間ピラミッドにみんなが「あんな小さい子供たちが」と「感動」する。

「やればできる」の体育会系思考に見える「頑張り至上主義」。

日本ではとにかく頑張ることがもてはやされがち。

これがひいては「ブラック企業」につながる。

日本の体育会系がおかしなことになっているのは、本人がそういう気持ちになることを待たずに、周りが「それぐらいで諦めるな」だの「もっとできるはずだ」だの「甘えるな」などとゴチャゴチャ言ってくること。

そして、頑張らないと、その人の人格を否定してしまうような風土が出来上がってしまっていること。

つまり、同調圧力を背景としたもの。

今、足りないのは体罰=傷害=暴力行為=犯罪という認識。

その認識がないと、気合だ、勝つためだ、とかなんとかいって体罰は減らないのではないだろうか。

2020年7月29日 (水)

ライフワークの思想/外山滋比古

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 ライフワークとは、それまでバラバラになっていた断片につながりを与えて、ある有機的統一にもたらしてゆくひとつの奇跡、個人の奇跡を行うことにほかならない。

著者はライフラークを地酒に譬えている。

バーテンダーはさまざまな酒をまぜてシェーカーを振れば、カクテルをつくることができる。

これを飲んだ人は酔っ払うから、彼が酒をつくったような錯覚を抱くかもしれない。

しかし、じつは一滴の酒もつくってはいない。

酒でないものから酒をつくった時、初めて酒をつくったといえる。

ただし、その過程で失敗すれば、甘酒になってしまうかもしれない。

酢ができてしまうこともあるだろう。

必ず酒になる保証はないが、もし、うまく発酵してかりにドブロクでもいい、地酒ができれば、それが本当の意味で人を酔わせる酒をつくったことになる。

私たちは、地酒をつくることを忘れて、カクテル式勉強に熱中し、カクテル文化に身をやつして、齢をとってきた。

今の日本人の知識やものの考え方は、だいたいにおいてカクテル式である。

よさそうな思想や技術を他人から借りてくる。

企業は戦後、競って外国から技術導入ということをした。

このために支払われてきた外貨は腰をぬかすほど莫大なものだ。

それは単に企業の技術だけではない。

私たちの生活のなかに入ってきている知識や知恵というものも、もとをたどってゆくと、多くは外国から借りてきたものである。

自分たちの頭で考えたりつくり出したりしたのではない知識や技術を適当に混ぜあわせ、シェーカーで振って、カクテルをこしらえている。

カクテルも酒なので飲めば酔いもする。それで、文化が栄えているというような錯覚を自他ともに持つこともできる。

けれどもカクテルはあくまでカクテルなのであって、一生涯シェーカーを振っていても、バーテンダーには一滴のアルコールもつくることができない。

自分でいかにして酒をつくるか。

ヨーロッパの、今までわれわれがカクテルに使った酒は、誰かがこしらえた地酒だ。

そうしたものを百年間、シェーカーで振ってよろこんでいた。

そして近代文化というものをこしらえてきた。

ほとんどの人は一滴のアルコールもつくれずに、一生を終る。

そろそろこの辺で、できてもできなくても、酒をつくってみるべきだ。

酒は一日にしてできるものではない。

〝ねかす〟、発酵のための時間が必要だ。

朝から晩まで酒のことばかり考えて、一日に何度も桶の中をつついたりしたら、かえって酒にはならない。

フランスのバルザックという小説家が、作品を書くときのテーマについて、やはり同じようなことを考えていたらしい。

テーマになりそうな経験、思いつきを並べてねかせておく。

ときどき様子をみるうちに、機が熟してくると〝テーマが向こうからやって来る〟と言っている。

発酵したテーマは、こちらが何もしないでも、テーマのほうから働きかけてくるというわけだ。

テーマはねかせたまま忘れてしまってよい。

そして、いくら忘れようとしても、どうしても忘れきれないもの、それが、その人にとってほんとうに大事なものだ。

そういったものをもとにして思考を伸ばしてゆくと、酒になる。

その酒は、カクテルのように口あたりはよくないかもしれない。

しかし、これは酒でないものからつくった酒で、酒を寄せ集めたカクテルとはちがう。

そのまま腐ってしまうカクテルではなく、年とともにコクの増す、芳醇なものなのだ。

と、このようにライフワークのことを述べている。

「私にとってのライフワークとは何だろう」と考えさせられた。

2020年7月28日 (火)

疫病2020/門田隆将

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 この星を支配し続ける人類を脅かす最大の敵はウイルスである
 2020年は、33歳の若さでノーベル生理学・医学賞を受賞し、2008年に82歳で世を去ったアメリカのウイルス研究の第一人者、ジョシュア・レダーバーグが残したこの言葉を世界中が噛みしめる年となった。 

世界は中国湖北省の省都・武漢市で発生した新型コロナウイルス感染症に地獄に叩き落とされた。

新型肺炎の発生源となった人口1100万人の武漢市は、1月23日に完全封鎖された。

しかし、それまでにおよそ500万人が脱出したとされる。

1月25日に始まった春節では、世界中で中国人や華僑が30億人も大移動した。

こうして新型コロナウイルスは世界中に拡散した。

新型コロナウイルスは、同時進行で世界各国のリーダーの資質と能力、国民をどう守るかという信念、安全保障への問題意識……等々、さまざまなことを炙り出す機会ともなった。

各国はウイルス対策、医療体制維持への方策、中国とのつき合い方など、根本問題を次から次へと突きつけられた。

日本政府の対応で一番悔やまれるのは、初動の遅さである。

この点で、台湾と大きな違いがみられた。

台湾政府は、のちに新型肺炎に罹って亡くなる中国・武漢市の李文亮医師が初めてウイルスのことを告発した翌日の2019年12月31日には、台湾政府は武漢で原因不明の肺炎により「複数の患者が隔離治療されている」という情報をキャッチし、WHOにもそのことを伝え、同時に最初の「注意喚起」を発出した。

さらにその夜からは、武漢直行便に検疫官が乗り込み、検疫を始めた。

驚くべき早さだった。

年が明けると、さらに動きは急になる。

2020年1月1日、台湾は入国してくる中国人全員の検温を開始した。

翌1月2日には台湾衛生福利部で「伝染病予防治療諮問会」が開かれ、さらなる対策への具体的討議に入った。

同日、陳時中・衛生福利部長は桃園国際空港を視察し、入念な防疫体制のチェックをおこなっている。

これらが1月1日と2日の間に一挙に講じられている。

5日には感染症の専門家会議が招集され、総統選直前の1月8日には、早くもすべての国際線と中国の厦門、泉州、福州などの船舶の往来の警戒レベルを引き上げた。

台湾の新型コロナウイルスとの全面的な闘いは、正式には法定感染症に指定されたこの「1月15日から」始まったと言える。

一方、日本政府はどうだったのか。

2月1日、日本政府はやっと「武漢を含む湖北省からの入国を当分の間、拒否する」と発表。

武漢市長自身が「500万人が封鎖前に武漢から脱出した」と認めているのにである。

すでに感染は中国全土に広がっていた。

各国が雪崩を打つように中国全土からの入国禁止を採っていった時、日本は極めて限られた制限に入った。

その中途半端な制限に対して「なぜ中国全土じゃないんだ」という声が逆に一層、党内に満ちていく。

この方針は、習近平・中国国家主席が国賓として来日することが正式に延期になる3月5日まで堅持された。

この初動の遅さと、対策の中途半端さがウイルスが日本中に拡散した一番の原因であろう。

一方、今回のコロナ禍は、日本の違った面も明らかになった。

それは、日本人の「現場力」の強さである。

日本人が「現場力」で戦ってきたことは歴史が証明している。

先の大戦でも、米軍を苦しめ抜いた南方戦線をはじめ、大本営の作戦失敗を現場力で補い、膨大な戦死者を出しながら奮戦したことは多くの歴史学者によって指摘されている。

最近の例でいえば、東日本大震災の時もそうだった。

福島第一原発事故で暴走する原子炉に立ち向かうために原子力発電所の所員が数多く現場に踏みとどまった。

危険で汚染されたリアクタービル(原子炉建屋)に突入をくり返したプラントエンジニアたちは、原子炉のベントを成功させ、日本を破滅の危機から救っている。

海外メディアは、彼らを「Fukushima50」と名づけて讃えたことは記録に新しい。

また、大震災でも、暴動と略奪が起こらない日本人の規律に世界は驚愕した。

災害イコール略奪が世界の常識なのに、日本ではそれが「起こらなかった」。

コロナ禍でも、日本人の特性は大いに発揮された。

そして代々受け継がれてきた日本人のその規範が「笑顔」で踏ん張る医療従事者たちを支え、ついに医療崩壊を回避した。

コロナ禍は、これからも続く。

日本を見つめなおすいい機会なのかもしれない。

2020年7月27日 (月)

たけしの人生相談/ビートたけし

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【相談】
 20代にして薄毛で悩んでいます。このままでは30歳ぐらいで激しくハゲてしまいます。育毛や植毛をするお金もありません。カツラも嫌です。どうしたらいいでしょうか?(26歳・男・美用品メーカー社員)
【回答!】
 坊さんになれ!
 以上(笑)。 


これは真面目な人生相談本ではない。

相談者も最初からそれを望んでいない。

むしろ、どんなひねった回答が返ってくるのかを期待して相談を投げかけている。

回答も、さすがビートたけしならではの切り口だといろいろな意味で感心する。

でも人生の悩み事なんて、ほとんどは笑い飛ばしてしまった方がよいのかもしれない。

その意味では一読する価値はある。

2020年7月26日 (日)

強者の流儀/朝倉未来

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 当たり前に見えることだからこそ大事であり、日々の積み重ねとして続けていくことが難しいというのも、僕はこれまでの経験によって痛感しています。

無免許運転により少年院に収容され、16歳から18歳までの1年4ヶ月を過ごし、退院後は格闘家を目指し、現在は総合格闘家、YouTuberとして活躍している著者。

その著者が大切にしているのは「当たり前に見えること」だという。

「余裕があるとはどういうことかというと、日常的なところでは、あまり怒らない、動じないということ。」

「面と向かって言えないことなら、別な場所でも言うべきではない。」

「自分の人生にマイナスな影響を与えるものと関わっていても仕方ない。」

「不正確な情報を元にして人を傷つけるというのは、めちゃめちゃ恥ずかしい。」

「八方美人でいたら、深く分かりあえる友達や仲間とは出会えない。」

「本当の自由とは何か。それは自分が全ての行動の責任を持っているということ。」

「一時的に失敗しないことよりも、その失敗のダメージをどれくらい軽減するか、失敗を単なる失敗に終わらせないでおけるかが大事です。」

「何か目的を達成するためには、死ぬ気で努力する必要があります。」

「覚えたものを定着させる上で一番いい方法は、人に教えることです。」

「不安を克服するための方法は、努力をする、ということに尽きます。」

と、これらの言葉も特別なことではなく、いうなれば「当たり前に見えること」。

逆に言えば、「当たり前に見えること」を大事にしそれを続けることが、成功者になる秘訣といえるのではないだろうか。

2020年7月25日 (土)

創作の極意と掟/筒井康隆

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 小説を書こう、あるいは小説家になろうと決めた時から、その人の書くものには凄味が生じる筈である。小説を書くとは、もはや無頼の世界に踏み込むことであり、良識を拒否することでもある。ただ無邪気な童話を書こう、心温まる話を書こう、純愛を書こうというような場合でも、小説を書く覚悟を決めた人が書く以上はどんな小説であれ、そこには必ず凄味がある筈で、だから逆に言えば、殊更小説には凄味がなくてはならぬなどと言う必要はないのかもしれない。

本書はプロの作家になろうとしている人に対して書かれている。

文章を書いてそれを生活の糧にするには相当の覚悟がいるのではないだろうか。

事実、小説家といわれる方々の中で、本業だけで食べていける人は何割位いるのだろう。

村上春樹や東野圭吾といったベストセラー作家は稀で、ほとんどは食っていけない。

にもかかわらず、小説家という職業を選ぶということの中には、当然覚悟がある。

だからプロの作家の書く小説には凄みがあるというのである。

凄味が必要、と言えばすぐに「死」だの、死に結びつく「恐怖」だのを書こうとするのも安易と言えよう。

死の恐怖は本能的なものである。

だからといって死や恐怖を登場人物に与えていくら怖がらせても、それが凄味を生むとは思わない方がよい。

もっと人間の深層の襞の中にある不条理感、無力感などが刺激されねばならない。

カフカの不条理感覚は「変身」にしろ「審判」にしろ、結果的には死に結びつくのではあるが、その表現の絶妙さゆえに凄味がある。

つまり死や恐怖は間接的表現の裏側にぼんやりとその存在をほのめかした方が凄味に結びつくことはあきらかなのだ。

と、このように述べている。

自らがプロの作家である著者が自分に言い聞かせるように書かれていることが印象に残った。

2020年7月24日 (金)

MMT/井上智洋

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 アメリカのMMT派経済学者でニューヨーク州立大学教授のステファニー・ケルトン氏は、来日した折に日本経済について問われて、「消費税を増税すべきではない」と発言していました。他のMMT派経済学者も、問われれば恐らく同じように答えるでしょう。 

昨年、消費税が10パーセントに引き上げられた。

それを機に経済がおかしくなった。

さらにコロナが追い打ちをかけた。

それが今の現状であろう。

消費税を上げることが良かったのかどうか?

それには様々な議論がある。

しかし、今注目を集めているMMTでは消費税の増税には否定的だ。

MMTは Modern Monetary Theoryの略で日本語に訳すと「現代貨幣理論」となる。

MMTでは過度なインフレにならないかぎり財政支出をいくら増やしても問題はないと主張する。

MMTによれば、円を発行することのできる日本やドルを発行することのできるアメリカでは、財政破綻することはあり得ないという。

実を言うと、「自国通貨建てで借金をしている国が財政破綻することはない」というのは、経済学的にごく当たり前のことを言っており、MMTの専売特許というわけではない。

他ならぬ財務省が「日・米など先進国の自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない」(財務省ホームページ)と述べている。

国が借金をしていると言っても、国が返す円というお金自体を国が発行しているわけだから、国がお金を返せなくなるという事態は、発生し得ない。

雑な言い方をすれば、国がお札を刷って借金の返済や利払いに充てればよいわけだ。

このように、MMTは主流派経済学者であっても受け入れざるを得ない単なる事実をいくつも唱えている。

MMTは、拡張的財政政策を採用して借金を増やすのが正しいのか、逆に緊縮的財政政策を採用して借金を減らすのが正しいのか、という国の命運を左右するようなテーマに関わっている。

MMTがすべて正しいとは思わないが、緊縮的財政政策一辺倒ではなく、様々な角度で日本の財政を考えるべきではないだろうか。

2020年7月23日 (木)

科学は誰のものか/平川秀幸

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 広くいいかえれば、「科学が問わない」あるいは「科学が問えない」問いを問うこと、科学者ではないがゆえに湧き上がってくる疑問を口にすること、それこそが、僕たちが科学技術ガバナンスのなかで果たせる、そして果たすべき決定的な役割なのだ。関西人風にいえば、「なんでやねん!?」と科学技術の斜め横からツッコミを入れることだ。

子供の頃、科学技術は光り輝く夢と希望に満ちていた。

アポロ11号の月着陸に胸躍らせ、大阪万博の開幕を待ちわびていた60年代。

家庭には、テレビや冷蔵庫などの電化製品が、続々と普及。

64年の東京オリンピックでは世界に向けて衛星中継された。

人々が、お茶の間にいながらにして、科学技術の進歩とそれがもたらす生活の豊かさや便利さを、まざまざと実感できる時代だった。

70年代、未来を彩っていたのは、科学技術の進歩が描く夢と希望だった。

たとえば原子力の夢。

大阪万博が開会した70年は、商用原子炉「敦賀発電所一号機」が稼動を始めた日でもあった。

そこで作られた電力は、関西電力が「万博に原子の灯を」の標語を掲げて建設した送電線を通して福井県から大阪に送られた。

場内でピカピカの電気自動車を動かしていたのも、もちろんその電力だ。

当時それは、原子力が開く明るい未来を象徴する出来事として、広く世の中に喧伝された。

ところが今原子力といえば、相次ぐ事故や不正により、科学技術と社会、人間のあいだの「軋み」の象徴となってしまっている。

科学技術の進歩がそのまま幸せな未来に続く──そんな明るい希望を素朴に信じられた時代は過去となり、科学技術は「夢と希望」であると同時に「社会問題」そのものでもあることを、私たちは知っている。

「夢と希望の科学技術」から「問題としての科学技術」へ。

この40年ほどのあいだに、私たちにとって科学技術の姿は大きく変わってしまった。

今問われているのは、科学技術の進歩に未来を任せるのではなく、望む未来に向けて、科学技術をどう「舵取り」していくか、そして「誰が」その舵を取るのかだ。

「科学技術の問題」には、科学的にきっちり答えなければならない問題とともに、科学では答えられない、答えるべきではない問題が含まれている。

期待や喜び、利益、あるいは失望や怒り、悲しみ、損失、不正義といった多様な社会的で人間的な意味を、科学技術は否応なく帯びてしまう。

そんな意味についての問いや語りを、見えなくさせてはならない。

そして、もう一つ大事なことは本来、科学的に語るべきではない問いを、科学的な語りから、いかに救い出すかということだ。

一方で「科学では答えられないものがある」とは知っていながら、「科学的な客観性は、唯一の正しい答えを保証してくれる」という期待は、今もとても根強い。

このため、しばしば科学は、本来答えるべきではない問いまで「科学的な語り」に囲い込んでしまうことがある。

私たちが、科学に委ねてよいものとそうでないもの、科学的に考えるべきこととそうでないことをかぎ分ける嗅覚を取り戻すこと。

科学の問いの向こう側を探ること。

それが科学技術に限らず、私たちが問われている問題ではないだろうか。

2020年7月22日 (水)

地上最強の男/百田尚樹

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 敢えて言う。モハメド・アリは単なる偉大なスポーツ選手ではない。彼は「地上最強の男」であった。それゆえにこそ、生きながら伝説の男となった。

本書はヘビー級ボクサーが「地上最強の男」であり、同時にカリスマであった時代、1800年代後半からモハメド・アリが王座を完全に失うまでのおよそ百年の間に生まれた26人のチャンピオンたちの物語である。

26人のチャンピオンのうち、私がリアルタイムで試合を観た選手は、モハメッド・アリ、ジョージ・フォアマン、ジョー・フレイジャーである。

まだ、私が中学生だったころ、キンシャサで行われたアリとフォアマンの試合に夢中になったことを今でも覚えている。

モハメド・アリ以前の世界ヘビー級チャンピオンの中に、アメリカ社会を変えるほどの力を持った偉大な二人の男がいた。

一人は黒人初の世界チャンピオンとなったジャック・ジョンソン。

黒人には公民権さえ与えられていない時代にチャンピオンとなったジョンソンは、黒人差別に対して堂々と「NO!」と言い、白人社会と真っ向から闘った。

もう一人は黒人として二人目の世界ヘビー級チャンピオンとなったジョー・ルイス。

彼はその圧倒的な強さにより、アメリカにおける黒人の地位を引き上げた。

そして、モハメド・アリの登場となる。

アリは、黒人差別が根強く残っていた1960年代のアメリカにおいて白人優越主義を激しく非難した。

ベトナム戦争への徴兵を拒否し、そのためにチャンピオンの座を剝奪された。

しかし、長い法廷闘争の末に無罪を勝ち取り、不屈の精神でカムバックし、チャンピオンの座に返り咲いた。

自らの信念に従って国家と闘うアリの姿に多くの人は共感し、やがて彼はスポーツ界の枠を超え、世界的なヒーローとなった。

本書は単なるヘビー級チャンピオンの物語でなくアメリカの負の歴史の書だ。

特に今のアメリカで起こっているブラック・ライブズ・マター運動の背景を理解するにも参考になる。

2020年7月21日 (火)

お金の流れでわかる世界の歴史/大村大次郎

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 本当に歴史を動かしているのは、政治や戦争ではない。
 お金、経済なのである。 お金をうまく集め、適正に分配できるものが政治力を持つ、そして、戦争に勝つ者は、必ず経済の裏付けがある。
 だからこそ、お金の流れで歴史を見ていくと、これまでとはまったく違う、歴史の本質が見えてくるものなのだ。

世界で最古のお金というのは諸説あるが、中国の殷王朝が紀元前1600年ごろ、貝を通貨の代わりにしたのが始まりだとされている。

一方、貴金属によるコイン状の貨幣がつくられたのは、紀元前670年ごろ、リディア王国においてだとされている。

世界史の中で、お金、富、財がどう蓄積され、どう流れていったのか、それが本書のテーマだ。

たとえば、ナポレオンが強かったのは、他国に比べてフランス軍の費用が安かったからだ。

他のヨーロッパ諸国は、傭兵による高額な軍隊を使っていた。

それはどこの国にとっても重い財政負担になっていた。

だがナポレオンは、徴兵制の導入により、安い費用で大きな軍隊を動かすことができた。

ただ、徴兵制により、軍事費が格段に安くなったとは言え、ヨーロッパ中に兵を繰り出すようになると、相当な戦費が必要となってくる。

武器や食糧などの調達に、多額のお金がかかってくるからだ。

しかし、それだけのお金を調達する手腕が、ナポレオンにはなかった。

ナポレオンは軍事的には天才だと言われているが、財政面ではまったくの素人だった。

財政面で苦境に陥るとともにナポレオンは力を失っていく。

古今東西、国家を維持していくためには、「徴税システムの整備」と「国民生活の安定」が、絶対条件。

国の栄枯盛衰には一定のパターンがある。

強い国は、財政システム、徴税システムなどが、しっかりと整っている。

そして国が傾くのは、富裕層が特権をつくって税金を逃れ、中間層以下にそのしわ寄せがいくときだ。

だから国を長く栄えさせようと思えば、税金を逃れる「特権階級をつくらないこと」だといえよう。

2020年7月20日 (月)

ちっちゃいおっちゃん/尾崎里美

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 潜在意識を癒すことで自分のパターンが変わり、未来が変わります。つまり、人間の未知なる可能性を開くカギを握るのがちっちゃいおっちゃんなのです。

ちっちゃいおっちゃんとは、ひと言でいうと潜在意識のこと。

私たちは自分で自分で考えて行動していると思っている。

しかし、実際には顕在意識はわずか5パーセント、潜在意識(無意識)が95パーセント。

ほとんど無意識に行動しているのである。

潜在意識は生まれてから現在まですべてのことが記録されている。

ちょうど、パソコンのハードディスクに記録してあるようなもの。

過去の経験、思い込みや決めつけ、自分に対するイメージ、すべてが記録されている。

五感を通じて体験したことはすべて記録される。

そして、6歳までに感情パターン、行動パターン、思考パターンが形成される。

すべての行動は心の命令であり、心に植えつけられた暗示の結果である。

人生に偶然なんかない。

すべてが必然。

人との出会い、お金との出会い、物との出会い…。

すべて自分の記録が未来を決めてる。

記録が同じパターンを繰り返す。

人間の思考パターンは過去の記録の再生である。

外側の世界をどう見るかは、心が決めてる。

外側の世界を見た瞬間に過去の記録で考え、感じる。

だから、心が変わると、外側の世界は違って見える。 

思考、言葉、感情はパワフルなエネルギーを持つ。

だから、いちばん大切なのは「自分を無条件で愛すること」。

自分に言うセリフは潜在意識の中に記録される。

自分のセルフイメージを高め、自分を好きになることが大切。

潜在意識の自分に「愛している。ありがとう」と言葉に出して言うか、心の中でつぶやくと癒される。

だから、良くも悪くも、私たちは「自分が信じた通りに生きてる」ということであろう。

2020年7月19日 (日)

傾聴のコツ/金田諦應

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 「傾聴」では、相手が語ることに対し、まずは「全肯定」します。
 どんな理不尽なことでも、非論理的なことでも、最初は肯定してあげるのです。

相手の話を聴くこと。

これは意外と難しい。

一度、傾聴の研修を受けたことがあるのだが、本当に難しいし奥が深いと思った。

傾聴では相手の話を決して否定しない。

すべてを肯定する。

相手の話を「全肯定」するときに、聴く側は「自己否定」をすることが必要だ。

傾聴の場は、善・悪を判断をする場ではない。

相手のいうことを、まずは「そのまま」「あるがまま」に受け止めて、共感なければならない。

これが難しい。

どうしても自分の意見を言いたくなる。

それをグッとこらえて聴くのである。

話の途中で口をはさみたい気持ちが起こったら、自分の心のどこかに、「相手が間違っている」「相手に教えてあげよう」「相手を導いてあげよう」という気持ちがないか、点検してみることだ。

傾聴では「待ち続ける」ことが何よりも大切。

「待つ力」をつけるためには、口をはさみたくなるのをグッとこらえること。

そのことに尽きる。 

ナチスの強制収容所での経験を書いた『夜と霧』の著者である、ヴィクトール・E・フランクルは「ロゴセラピー」という心理療法を提唱した。

ロゴセラピーではそれぞれの人間の人生には独自の意味が存在していると考え、その人の持っている「レジリエンス」(自己再生能力)を徹底的に信じる。

自分を再生させていく能力に対する絶対的な信頼。

必ず人間は生老病死のその苦しみの中で生きるのだけれども、その苦しみを背負って歩いていける。

そういう能力を持っている。

人間ってそういうものなんだ、という絶対的な確信を持って傾聴にあたることが必要。

もはやこれは「信仰」の領域といってよい。

2020年7月18日 (土)

遅いインターネット/宇野常寛

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 現在のインターネットは人間を「考えさせない」ための道具になっている。かつてもっとも自由な発信の場として期待されていたインターネットは、いまとなっては、もっとも不自由な場となり僕たちを抑圧している。それも権力によるトップダウン的な監視ではなく、ユーザーひとりひとりのボトムアップの同調圧力によって、インターネットは息苦しさを増している。

みんながどこにいても繋がっているようで、簡単にばらばらになってしまう。

これが今のネット社会。

そんな時代に、ゆっくりと、それぞれが自分の足で立って、強く繋がり合うことを本書は提唱している。

今や、民主主義はインターネットポピュリズムにより暴走するリスクが高まっている。

本書では「民主主義を半分諦めることで守る」ことを提案している。

提案内容は、主に三点。

第1に、民主主義と立憲主義のバランスを後者へ傾ける。

つまり、統治権力を憲法で縛る力を強化することでポピュリズムに走りがちな民主主義の暴走リスクを回避する。

第2に、選挙やデモの中間として、テクノロジーを活用して、日常の中に新しい政治参加の回路を作る。

例えば、ルールメイキングに、職業人が携われるクラウドローのような仕組みを導入する。

第3に、個人が自ら考えて問題設定し、世界を豊かにするためのメディアを構築する。

つまり、これが本書のテーマである「遅いインターネット」運動だ。

インターネットで誰もが素早く発信出来る時代だからこそ、速すぎるインターネットに流されて「じっくり自ら考える」力が欠如しがちではないか。

結果として、インターネットポピュリズムに加担してしまうことにもなる。

そこで、あえてスローに、しっかり読み、しっかり書き、新しく問題設定をし直す力を養うことで、世界の見え方を変えていくというものだ。

すべてではないが一部同意できる部分もある。

ネット社会に一つの警鐘をならす本であろう。

2020年7月17日 (金)

菊と刀/ルース・ベネディクト

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 菊も刀も、同じ日本像の一部なのである。日本人は攻撃的でもあり、温和でもある。軍事を優先しつつ、同時に美も追求する。思い上がっていると同時に礼儀正しい。頑固でもあり、柔軟でもある。従順であると同時に、ぞんざいな扱いを受けると憤る。節操があると同時に二心もある。勇敢でもあり、小心でもある。保守的であると同時に、新しいやり方を歓迎する。他人の目をおそろしく気にする一方、他人に自分の過ちを知られていない場合でもやはり、やましい気持ちに駆られる。兵卒は徹底的に規律をたたき込まれているが、同時に反抗的でもある。

40年ぶりに読んでみた。

本書で有名になった概念として「欧米は罪の文化、日本は恥の文化」というものがある。

罪の文化とはキリスト教の原罪に基づく考え方からくる。

一方の日本人は、幼いころから「世間体」ということを意識して育ち、それによって恥の文化が形成された。

欧米と日本の間に見られた最大の違いは、疑いなく、日本の兵卒が捕虜になったあと連合軍に協力したということである。

捕虜になった日本人は、もう人に合わせる顔がない、日本人としての人生は終わりだとあきらめた。

戦争がどのような決着を見るにせよ、とにかく帰国しようと心に思い描く者は一握りにすぎなかった。

殺してくれと頼む日本兵もいた。

「しかし、アメリカの習慣でそれが許されないということであれば、模範的な捕虜になりましょう」と申し出る有様であった。

彼らの優等生ぶりは、模範的捕虜の域を超えていた。

筋金入りの軍事専門家であり、しかも長年にわたって極端な国家主義を信奉していたにもかかわらず、彼らは協力的な姿勢を示した。

弾薬庫の所在地を明らかにし、日本軍の配置を事細かく説明し、アメリカ人に代わって宣伝文を書き、爆撃機に同乗してパイロットを攻撃目標へと誘導した。

と、このように日本人の二面性を記している。

日本人の恥の文化はどこから来ているのか?

日本人なら、まともでない人間から恩を受けたまま放っておくわけにはいかない。

恩にともなう借りを返そうと躍起になる坊ちゃんの心理は病的だ。

そう思った瞬間にベネディクトは、恩の貸借関係が日本人の倫理規範の要となっていることに思い至る。

それを分かりやすくアメリカ人に提示することが、『菊と刀』の課題となった。

そこでベネディクトは、恩の貸借を金銭の貸借になぞらえて説明する。

恩を受けておきながらそれをそのままにする者は、借金を返済しないのと同じことである。

アメリカで借金の返済に向けて強制力が作用しているのと同様に、日本では恩返しを促す力が働いている。

その強制力とは「恥」である。

義理を果たさないと、恥を知らない人間として世間の嘲笑を買う。

だから、日本人は義理を尽くす。

『菊と刀』の核心的部分はそのように要約することができるだろう。

今から読み返してみると、ずいぶん間違った理解もあるように感じるのだが、日本人を知る上での重要な本であることに間違いはないであろう。

2020年7月16日 (木)

国家を考えてみよう/橋本治

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「国家=国民」と「国家=領土」であるような「nation」と「state」という二つの言葉があるのは、英語だけではありません。フランス語にもドイツ語にも、同じ二種類の言葉があります。つまり、「国家」というものには、「人=国民」を中心にして考えるか、「土地=領土」を前提にして考えるかという、二つの違う考え方があるのです。

本書によると、「国家の歴史」は二段階に分かれているという。

第一段階はは「国家は支配者のもの」

第二段階は「国家は国民のもの」という近代国家。

ただ、日本の場合、明治時代になって「国家」という言葉が定着するまで、日本の歴史に「国家」の二文字はほとんど登場しない。

江戸時代まで、普通の日本人にとって、「国家」というものは、「どこかにあるのかもしれないけど、こっちとは関係ないから知らないよ」のものだった。

どうして「関係ないから知らないよ」ですんでいたのかというと、日本には「幕府」というものがあったし、「日本全体」を表す「天下」という便利な言葉もあった。 

では、いつ「国家」が出現してしまったのかというと、この答は簡単。

「明治」に改元され、この時に京都の御所で、「王政復古の大号令」というものが読み上げられた。

日本に「国家」は、この時に復活した。

江戸時代の最後には、明治維新を迎えるための二つのステップ、「大政奉還」と「王政復古」があった。

「王政復古」の二カ月前にあった「大政奉還」は、将軍徳川慶喜が、「政治の全権を朝廷に返還する、征夷大将軍も辞職する」と願い出たこと。

「王政復古」は、明治天皇のいる朝廷の方から、「これからは天皇が日本の政治の中心になる」という宣言が出されたこと。

というわけで、「王政復古の大号令」によって、「〝国家〟なんか知らないよ」だったはずの日本に、突如「国家」は登場した。

明治時代になって、「国家」は天皇のものになった。

そうして出現した「国家」を支える新しい組織が、「政府」なのだ。

強い支配者を作り上げて、そのことによって国家を強くするというのは、実は「近代の前段階」。

その「強い支配者の国家」を崩して「国民の国家」にしなければ、本当の近代はやって来ない。 

「革命」というもののなかった日本は、戦争で負けることによってやっと、「主権在民」を前提とする日本国憲法を持つ、近代国民国家へと生まれ変わった。

これらが日本という国家が生まれ、さらに近代国家へと生まれかわった歴史である。

あるのが当たり前であまり深く考えることのない「国家」というもの。

その成り立ちから近代まで「国家」というものについて改めて考えさせられた。

2020年7月15日 (水)

「辞める人・ぶら下がる人・潰れる人」/上村紀夫

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 マイナス感情の恐ろしいところは、個人レベルで蓄積するだけでなく、組織全体にも蓄積していくところです。

業種や業態等により、組織の病巣はそれぞれ異なる。

しかし、それらを生み出す原因は共通してる。

それは何か?

「マイナス感情の蓄積」である。

マイナス感情とは、端的に言えば「不満や不公平感」。

怖いのはこのマイナス感情は個人にとどまらず、放置していると伝染してしまうということ。

その意味でウイルスの感染に似ている。

マイナス感情の蓄積は次のようなメカニズムとなる。

まず、個人のココロにマイナス感情が生まれる(感染)

次に、マイナス感情が蓄積し、離職やメンタル不調などの症状が出る(発症)

最後に、周りのメンバーに影響し、組織全体にマイナス感情が蓄積する(伝染)

このような経路をたどる。

ただ、ウイルスと違うのは、放置していても決して治らず、ますます状況は悪くなるということ。

組織の病巣は、闇雲に施策を打っても切除が難しい。

組織の課題をどうにかしたいと手を打つ際には、その課題の表面的な部分だけに着目するのではなく、

第1に、組織が病んでいくそもそものメカニズムを理解し、

第2に、組織の「病巣」を切除する方法を定めていく、

この2つのフローを着実にこなすことが一番の近道と言える。

本書はその方法論について様々な事例が示されている。

これは非常に参考になる。

2020年7月14日 (火)

韓国内なる分断/池畑修平

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 文在寅、そして彼が体現している進歩派が清算したがっているのは、現在の日本という国や日本人ではなく、同じ韓国人のうちの保守派なのだ。

朝鮮半島が北と南に分断されていることは誰もが知るところだ。

しかし、著者は同じ国内において韓国は保守派と進歩派に分断されているという。

保守派か、進歩派か。

大きく括ると、企業経営陣、高齢者層、「嶺南」と呼ばれる南東部の慶尚道地方は、保守。

これに対し、労組、若者層、「湖南」と呼ばれる南西部の全羅道地方は、進歩。

韓国の場合、安保でこそ、保守派と進歩派は決定的にスタンスが異なる。

北朝鮮に関して、保守派が「敵対する事実上の国家」という視座で捉えるのに対し、進歩派は「同じ民族であり、統一を果たすべき同胞たち」という、民族主義を優先させる。

韓国の進歩派の人たちは、金大中、盧武鉉と10年間続いた融和的な対北朝鮮アプローチが、緊張を和らげ、統一に向けた足掛かりを築いたと胸を張る。

一方、保守派の人にその10年間について話を振れば、たいてい、「北韓に核やミサイルを開発する資金を垂れ流しただけだ」と手厳しい答えが返ってくる。

そして、新しい大統領が誕生すると、とりわけ保守派と進歩派の間で政権交代が起きると、韓国社会全体において、人事の一大シャッフルが繰り広げられる。

韓国の大統領は、行政府を構成し、事業への予算配分や人事で強大な権限を持ち、法案に対する拒否権を持つ。

そうした権限は、一般的に、議院内閣制の日本の総理大臣よりはもちろん、米国の大統領と比べても強いとされる。

いつしか定着した別称は、「帝王的大統領」。

大統領のさじ加減で決まる人事は、公職者たちにとどまらない。

官僚の天下り先ともなる公企業や公団・公社などの準政府機関のトップも、大統領次第だ。

さらに、そうした準政府機関のトップに就く人物は、自分に近い人物を補佐的なポストに据えるので、そうした補佐たちも、大統領が間接的に決める結果となる。

直接・間接を含めて、韓国全体で、いったいどれだけのポストが大統領によって決まるのか。

青瓦台の元高官は、著者に、「ざっと9900」と断言したという。

新大統領誕生で交代するポストは、9900人にとどまらない。

大統領が人事権を持たない民間企業においても、新大統領に対する忖度、より露骨に表現すれば忠誠心を示すべく、率先してトップや幹部を入れ替える事例が珍しくない。

このように、直接、間接、そして企業側の忖度を含めて、韓国大統領は強大な人事権限を有する。

結果、政治家たちはもちろん、官僚も、企業人も、記者も、新たな「帝王」に取り立てられた人たちは絶対的な忠誠心を示す。

逆に、新大統領によってポストを奪われた人たちは、怨嗟を募らせる。

「大統領選挙の翌日から次の選挙を睨んだ権力闘争が始まる」最大の原因は、大統領によって激変する人事にある。

どの大統領も、当初は絶大な権勢を誇るが、五年間の任期の折り返し点を過ぎ、三年目の後半あたりから、みるみる求心力が落ちていく。

そして、最後の一年目ともなると、政治的な指導力をまるで発揮できなくなり、国政は停滞してしまう。

「帝王」の絶大な権限は、案外と儚い。

任期は五年間ではあるが、実質的には四年弱といったところだ。

そして、大統領選挙の結果、勝者と敗者が入れ替わるたびに、社会全般で怨嗟が拡大再生産される。

韓国はこれを繰り返してきたというのである。

韓国をこのような目で見ると、韓国で起こっていることの本質が見えてくるのではないだろうか。

2020年7月13日 (月)

波に乗る力/武田双雲

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 赤ちゃんは、つねに今を生きていて、ものごとをフラットに観ていて、だから疲れない。

夢や志を持つのはとても良いことだ。

だが、やり方によっては危険なことがある。

夢や志が実現した未来が素晴らしいと考える半面、まだ実現していない今は素晴らしくない、よくないという考え方に陥ってしまうことがある。

未来が自分をおとしめる。

大事なことは、夢や志というものが、とにかくいいもの、力を与えてくれるもの、幸せにつながるもの、という見方をしないこと。

危険性も忘れないようにしたほうがいい。

本書のタイトル、「波に乗る」とはどういうことか?

簡単に言うと、「いい機嫌」であり、「いい気分」であり、「いい感情」のこと。

それが「いい波」だ。

未来志向、未来に縛られた状態から脱して、今を生きる。

今、いい波に乗れるようになって、幸せになる。

そんな生き方を本書は提案している。

誰でも部分的にいい波に乗って、今を生きることはできる。

温泉につかって、「気持ちいいな~」と思っているとき。

おいしいものを食べているとき。

好きな作家の新作を、徹夜で夢中になって読んでいるとき。

お気に入りの自転車で走っているとき。

付き合い始めたばかりの恋人と過ごしているとき。

子どもを見守っているとき。

愛犬と遊んでいるとき。

映画館の暗闇のなかで、息を詰めてスクリーンを見つめているとき。

こんなときは、誰もが未来に縛られてなんかいない。

間違いなく、今を生きている。

いい波、いい感情、いい気分、いい機嫌に、上手に乗れている。

いま、この瞬間に生きる、これがいい波に乗るということ。

現代人が幸せになれないのは、達成にとらわれているからだといえるかもしれない。

競争に勝てば、何かを達成すれば、成功すれば、人から認められれば、評価を受ければ、夢が実現すれば……。

何かを獲得すれば幸せになれるという幻想にとらわれている。

だから、結果を求めて一所懸命仕事をがんばるというのは、どこかに無理がある。

大事なことは「今、この瞬間に生きる」ということ。

本書はそのことを教えてくれる。

2020年7月12日 (日)

アメリカ大統領制の現在/待鳥聡史

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 アメリカの現代大統領制は、有権者をはじめとする国内外からの大統領に対する役割期待が変化したにもかかわらず、合衆国憲法の明文改正は行われず、憲法に定める権力分立のあり方を根本から変えることなく対応しようとしたところに特徴がある。

今年の11月、4年に一度の大統領選挙が行われる。

トランプとバイデン、どちらが大統領になるのか?

興味が尽きない。

アメリアか大統領というと強大な権力が付与されているという印象があるか、実際にはそうでもないという。

極めて限定的だというのである。

理由はその成り立ちを振り返ってみるとよくわかる。

1788年に今日まで続く合衆国憲法が発効したときから、アメリカの政治制度は二つの柱によって成り立ってきた。

一つは、首都ワシントンにある連邦政府と、カリフォルニアやテキサスなど各地の州政府が分業する「連邦制」である。

もう一つは、連邦政府内部で行政部門の長である大統領、立法を担う議会の上院と下院、そして司法部門である裁判所が、分業しながら抑制と均衡の関係を形成する「権力分立制」である。

大統領制は、権力分立制の別の呼び方だといってよい。

そして現在では、州政府よりも連邦政府の存在感が、そして連邦政府の内部では大統領の影響力が、それぞれ大きくなっている。

間違いなく、大統領は現代アメリカ政治の主役である。

合衆国憲法の制定に当たっては、具体的に二つの課題が存在した。

一つは、君主がいない政治体制でありながら、いかにして議会の権限行使を行き過ぎたものにしないか、ということである。

もう一つは、各邦がめいめい勝手な行動をしないようにすると同時に、長い歴史と立憲政治体制を既に持つ各邦を解体しないようにするにはどうしたらよいか、という課題である。

アメリカ合衆国憲法が想定していたのは、イギリスと同様に議会が政策決定の中心であり、それを君主ではなく大統領や裁判所が抑制するという連邦政府運営のあり方であった。

そこでの大統領は、自ら積極的に政策を展開していく存在というよりも、議会が立法を通して形成する政策に対して、事前あるいは事後に注文をつける存在だということが分かる。

しかし、20世紀以降におけるアメリカの国内政治や国際的地位の変化を反映して、大統領の存在感と役割は拡大する。

また、第二次世界大戦後にはマスメディアとしてテレビが急成長を遂げたが、その仕事を一人の人物が体現する大統領は、テレビの政治報道にとって格好の素材であった。

ケネディにおいて典型的にそうであったように、大統領個人の人柄や政治スタイルと政策が容易に結びつけられるため、人物とその画像によってインパクトを生み出すテレビとの相性が良かったのである。

ロナルド・レーガンが提唱したレーガノミックスのように、経済政策に大統領の個人名が冠されるようになったのは、その表れであったといえよう。

メディアに報道されることで、有権者の大統領への期待はますます強まった。

大統領側でも、メディアへの対応をいっそう拡充させるようになった。 

世界的に見ても、議会ではなく大統領が政策決定を主導するのは、20世紀の大統領制諸国においてごく一般的になっていた。

現代大統領制の出現は、このような世界的潮流のアメリカにおける表れと見ることも可能である。 

しかし、他の新しい大統領制諸国には見られないアメリカの決定的な特徴は、大統領の影響力拡大が憲法典の改正によって行われたわけではなかったことである。

アメリカにおける現代大統領制の出現は、合衆国憲法の明文規定を変化させずに、あくまで既存の権限の拡大解釈と、それを連邦議会や裁判所が追認することによって行われてきたことが、大きな特徴であった。

アメリカにおける現代大統領制が、大統領が担う役割の実質を変化させながら、憲法典の明文規定は修正しなかったことは、アメリカの大統領に潜在的制約を課すことになった。

多数派の行き過ぎを抑止することが想定されていた制度構造のままで、多数派の期待を担うという矛盾した役割が与えられ、そこで大きなディレンマに直面することになった。

現代のアメリカ大統領はこのようなディレンマの上に成り立っているということは覚えておいてよいのではないだろうか。

2020年7月11日 (土)

KPIマネジメント入門/堀内智彦

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 目標管理を成功させるには、目標設定は、経営目標→部門目標→個人目標へとトップダウンで行わなければなりません。当然、業績の達成と整合性があり、予算管理に裏打ちされている必要があるわけです。 

目標管理を導入している企業は多い。

ところがそれがうまくいっている企業はまれである。

なぜか?

目標設定がうまくいっていないからだ。

目標には定量的なものと定性的なものとがある。

本来目標は数値化したもの、つまり定量的なものであることが望ましい。

しかし、どうしても数値化できない場合に定性的な目標を設定する。

定性的な目標は評価の段階になってどうしても主観が入る。

では本当に数値化できない目標はあるのだろうか?

目標を定量化するというと、これは「定量化できない」という反論をするヒトがどの会社にも必ずと言っていいほどいる。

しかし、結論から言うと定量化できないテーマはない。

やり方によってかならず定量化できるものである。

そして定量化するための一つの手法がKPIである。

ここ数年、注目を浴びている「KPI」(Key Performance Indicator)というものがある。

「業績評価指標」などと訳されるが、この言葉の意味するところを、簡単にまとめると「目標達成度を測るためのプロセスないし結果の指標」と言える。

今、KPIが注目されているのは、「全社員が経営目標を共有して業績回復に努める」点にあると、筆者はいう。

KPIで採用されるべき指標とは、利益を生み出すプロセスたる会社のマネジメントと直結するものでなければならない。

KPIを導入・運用し、成果を出すためのポイントは次の4点に絞られる。

ポイント① トップダウンであること。

ポイント② 定量化されたものであること。

ポイント③ 業績向上に連動するものであること。

ポイント④ 毎月フォローアップを確実にすること。

目標管理を入れている企業は、KPIの手法を学び導入し定着させる必要があるのではないだろうか。

2020年7月10日 (金)

直観力/メンタリストDaiGo

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 アメリカで行われたある調査では、出会って一目惚れしたカップルの約半数がそのまま結婚し、さらにそのあとの離婚率も男性が約20%、女性は10%以下と驚くほどに低かったという結果が出ています(約50%というアメリカの離婚率を考えれば驚愕の低さです)。またこれとは別に「一目惚れで結婚した夫婦は幸せになる」という研究報告もあります。
 こうしたことからも、人が第一印象で感じる直観の精度は非常に高いと言えます。 

直観とは何なのか?

脳が意識して考えてから判断するのが普通の判断で、考えないで判断するのが直観。

言ってしまえば、それだけのこと。

なんとなく、気になる。

なんとなく、この人とは気が合いそうな気がする。

なんとなく、これを選んだ。

なんとなく、行きたくない。etc.

普段の生活のなかでそう感じることが多いこの「なんとなく」という感覚の正体こそが、本書のテーマである「直観」だ。

私たちが〝なんとなく〟感じる最初の直観は、ほぼ当たります。 

ああでもないこうでもないと迷ったら、最初の直観に従う。

人はわずか2秒程度で感じる〝なんとなく〟の直観だけでも相手をきちんと評価できる。

例えば野球の野手がフライをキャッチする行為。

ボールの軌道を見ながら「なんとなくここに落ちてくる」という直観によって落下点に入ってキャッチする。

こうした何の変哲もない、誰でもできる行動が、実は脳と直観のとてつもない能力によって生み出されている。

物体がどのように移動してどこに至るかという結果は、物理学に基づいた微分方程式を解くことでしか解明できまない。

しかも空中を移動する野球ボールの場合は、空気抵抗の存在もあり、放物線を描く軌道の計算も必要になるため、より複雑な微分方程式になる。

フライを〝何気なく〟取っているとき、人はみな、脳で直観的にものすごく難しい放物型偏微分方程式を解いている。

意識してしまうと、こんなに複雑な微分方程式を一瞬にして解くことは相当に優秀な人でも難しいだろう。

それを脳は直観で無意識のうちに解いてしまう。

誰もが持っている〝なんとなくの直観〟は、数学者や物理学者が挑むレベルの高度な計算を瞬時にこなせるほどに優秀なのだ。

この「なんとなく」こそが、直観の正体。

直観で決めたことと、熟慮して決めたこと。

どちらが正しい判断かというと前者であることがいくつかの実験で明らかになっている。

直観とは単なる「ヤマカン」ではない。

直観とは、積み重ねた知識や経験、記憶のデータベースから引き出された答えのこと。

科学的根拠のある脳のプロセスなのだ。

直観とは人生における選択と決断の最大の拠りどころとなる能力。

自分の直観を信じることができる人は、とにかく意思決定がスピーディ。

思考をスルーしているから余計なことを考えず、「こうしよう」と決めたら即、行動。信じているから迷わない。

「なんとなく」は、想像している以上に、将来の可能性を大きなプラスに導く〝最強のキーワード〟になるはず。

結局のところ、自分の直観を信じるとは、自分自身を信じるということなのであろう。 

2020年7月 9日 (木)

仕事はおもしろい/斎藤一人

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 もっと仕事に真剣になったほうがいい。真剣になってほしい。真剣にならないからおもしろくない。どんなことでも真剣にならなきゃおもしろくない。


高額納税者で有名な著者。

そのモットーは仕事はおもしろくということだという。

本書を読んでいると「おもしろい」という言葉が何度も出てくる。

「これから日本人に教育しなきゃいけないのは、『仕事はおもしろい』ということ。おもしろくやるんだよ。仕事も遊びのうち、仕事もゲームのうちと思って、楽しんでやるんだよ。」

「一行、たった一個の言葉を探すために、何冊も本を読むんだよ。そこがおもしろいんだよね。」

「だから私は、不況なんか来るとおもしろくてしょうがない。これが私の根底にある考えなの。」

「おもしろいでしょ?うちはね。本社が5人、私についてきてくれたお弟子さんが10人。これで日本一になる。」

何度も何度も「おもしろい」という言葉が出てくる。

結局、何事も面白くやるということが成功の秘訣ということではないだろうか。

2020年7月 8日 (水)

カエルの楽園2020/百田尚樹

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 次の日、ナパージュのツチガエルの中に、また病気に罹るカエルが出ました。このカエルもウシガエルを案内していたカエルです。ウシガエルから病気を移されたとみて間違いないようです。
 ツチガエルたちの間で病気を恐れる声がどんどん増えてきました。誰かがこの病気を「ウシガエル病」と名付けましたが、デイブレイクの仲間たちが「その名前はウシガエルを不当に貶める」と抗議し、代わりに「新しい病気」と呼ばれるようになりました。

本書は今の日本を寓話という形で描いている。

コロナ禍、習近平の国賓訪問、尖閣の問題が描かれている。

なんといってもネーミングが良い。

彼らを長年にわたって洗脳し続けているデイブレイクというツチガエルは、ナパージュの陰の権力者だが、このネーミングセンスは秀逸だ。

デイブレイクを直訳すると「夜明け」。

「夜明け」には「朝日」がのぼる。

おそらく、あの新聞のことであろう。

マイクというカエルは、報道番組に出てくるコメンテーターを象徴しているように見える。

私たちはふだんの日常生活において、テレビでコメンテーターや学者が語ることを聞く。

国会で議員たちが国政を論じているのを見る。

彼らはいずれも高学歴で、知識も教養もある。

それだけに、その発言ももっともらしく聞こえる。

しかし、彼らをカエルに置き換えて、同じセリフを言わせてみると、滑稽さ、愚かさ、間抜けぶりなどが見えてくる。

これが、著者が『カエルの楽園2020』を書いた理由であろう。

2020年7月 7日 (火)

世界の正しい捉え方/高橋洋一

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「桜を見る会」を〝疑惑〟に仕立て、安倍政権を倒そうとする野党の戦略は、合理的に考えれば筋悪だろう。〝疑惑〟と言いながら、結局はエビデンスが出てこない展開を見ていると、「桜を見る会」をめぐる一件は、結局は森友学園・加計学園問題と同じ構図だと言えるのではないだろうか。


今の世の中、情報が氾濫している。

それとともに、フェイクニュースが横行するようになった。

〝フェイク〟と言えば、アメリカ大統領選に大きな影響を与えたような海外のフェイクニュースのイメージが強いかもしれない。

だが、いつの間にか日本でもフェイクが横行するようになってしまった。

誰もが情報の発信者となり、その情報が瞬時に拡散されるインターネットの影響も多分にあると思う。

だが、新聞やテレビといったオールドメディアでも、事実を意図的に歪曲した印象操作や、エビデンスに乏しいニュースの垂れ流しが行われている。

例えば、官僚からのリーク。

官僚は、その気になれば自分たちの言いたいことを自由に記者に書かせることもできる。

「権力のチェック」がジャーナリストの使命と言うが、新聞記事を書いている記者の中で権力を的確にチェックできるような人は少ない。

多くの場合、不勉強な記者や思い込みの激しいデスクが、こうして官僚から渡された情報に何の疑いも持たずに記事を書いてしまう。

当然、フェイクニュースを報じてしまうこともありえる。

そしてそれらフェイクニュースはテレビのワイドショーなどで拡散される。

いつの間にか、それが世論になってしまうこともある。

「モリ・カケ」「さくら」などはその最たる例であろう。

今の時代、本当の意味でリテラシーをもつ必要があるということであろう。

 

2020年7月 6日 (月)

ハーメルンの笛吹き男/阿部謹也

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 伝説Sageとはおとぎ話・メルヘンと違って本来何らかの歴史的事実を核として形成され、変容してゆくものだからであり、特にこの〈笛吹き男と130人の子供の失踪伝説〉はまったくのフィクションとは考えられないほどの迫力をもって、人々の記憶に深く跡をとどめているからである。

ハーメルンの笛吹き男の伝説を通して、これが生まれた背景を客観的資料によって考察している。

13世紀ドイツの小さな町で起った、ひとつの小さな事件から生まれたローカルな伝説。

この伝説は僅かの間に全世界に知られるようになった。

1284年に起ったこの事件が何であったにせよ、この頃のハーメルンの人々の悲しみと苦しみが時代を越えて私たちに訴えかけているからであろう。

伝説とは本来庶民にとって自分たちの歴史そのものであり、その限りで事実から出発する。

その点でメルヘンとは質を異にしている。

「伝説は本来農民の歴史叙述である」(ゲオルク・グラーバー)といわれるゆえんである。

そのはじめ単なる歴史的事実にすぎなかった出来事はいつか伝説に転化してゆく。

そして伝説に転化した時、はじめの事実はそれを伝説として伝える庶民の思考世界の枠のなかにしっかりととらえられ、位置づけられてゆく。

〈笛吹き男と一三〇人の子供の失跡〉の伝説はハーメルンという一都市の伝説でしかなかった。

だが、市参事会の裏切りに対する鼠捕り男の復讐というモチーフが加わったことによって、この伝説は普遍的な意味をもつことになった。

16、7世紀以来〈ハーメルンの笛吹き男伝説〉は、教会や神学者による民衆教化の手段として、

あるいは不可解な運命に弄ばれてきたドイツ民族の過去の解明の一手段として、

あるいは解放戦争、ドイツ統一運動へ民衆を結集する手段として、

あるいは民衆精神の発露として、

あるいは単なる知的好奇心の対象として、

それぞれ神学、啓蒙思想、ローマン主義、歴史学などの対象とされてきた。

また文学や音楽の分野でもこの伝説は格好の題材とされ、ゲーテも1823年に『鼠捕り男』と題する子供向きの絵入りバラードを書き、大変よく読まれたという。

シューベルトやヴォルフなどの音楽家もそれを使って作曲している。

学者がどのように解釈し、解明しようとも、〈ハーメルンの笛吹き男と130人の子供の失踪〉の伝説はたとえ原型からどんなに変貌しようとも、忘れ去られることはないだろう。

親が成長した子供を旅立たせ、親しい者同士が別れを告げ、あるいは住みなれた土地を去って未知の国に旅立ってゆく時、

あるいは現在の生活に絶望した親たちが子供に美しいバラ色の未来の国を期待している時、

このようないつの世にも変らない情景がみられる限り、人々の胸の奥底に生きつづけることだろう。

また人間が他の人間を差別の目で見ることをやめない限り、〈笛吹き男〉はいつの世にも登場するだろう。 

2020年7月 5日 (日)

統計的な?数字に騙されないための10の視点/アンソニー・ルーベン

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 アンケート調査でどのような質問をされたのかがわかるかどうかを確認しよう。評判のいい調査会社であれば、それはすぐに見つかるはずだ。路上で誰かに呼びとめられてそんな質問をされたら、その意味がはっきりわかるだろうか。あるいは、あいまいだろうか。特定の答えを出すように仕向けられているかもしれないと感じるだろうか。「愛らしくて、ふわふわで、美しくて、かわいい子猫は好きですか」と訊かれたら、「猫についてどう思いますか」と訊かれたときよりも、猫に対するポジティブな気持ちを込めた返事をしてしまう可能性は高い。

統計的な数字はあらゆる場で出てくる。

世論調査による政権の支持率、失業率、平均賃金、野球のバッターの打率、投手の防御率・・・

世の中、統計数字であふれている。

そして、それを判断の基準にすることが多い。

2割バッターよりも、3割バッターの方がおそらくいいバッターだろう。

年俸も高いことが多い。

その意味では「数字はウソをつかない」といえる。

しかし、「数字にウソをつかせる」こともできる。

BBCの古典的コメディ番組〈イエス・プライム・ミニスター〉にこんなシーンがある。

老練の事務次官サー・ハンフリーが、若く経験の浅い秘書官のバーナードに、若者には生活のなかで規律や管理が必要だと思うかについて一連の質問をする。

それは、徴兵制を再開すべきかどうかという質問に持っていくためだった。

それから、若者たちの意思に反して武器を持たせるべきか、あるいは武器を与えて殺しかたを教えるべきかという一連の質問に移り、それも徴兵制の質問につながるものだった。

バーナードは徴兵制は再開されるべきであることにも、されるべきではないことにも同意していることになって、サー・ハンフリーはそれを「完璧にバランスのとれたサンプル」だと語った。

バーナードは先に訊かれた質問によって、最後の質問に賛成するように誘導された。

世論調査が特定の方向に回答者を導こうとしていることはよくある。

新聞各社の世論調査でも、特定の結論に導こうと意図した質問がみられる。

例えば、「〇〇の法案を強行採決した安倍政権を支持しますか?」と問われれば、「支持しない」と答える確率は高くなる。

「ウソつきは数字を使う」ことを知るべきだろう。

2020年7月 4日 (土)

スーパーヒューマン誕生!/稲見昌彦

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 スーパーヒューマンとは、拡張身体から人機一体、自動化と自在化、脱身体から分身、変身、融身体・合体へと至る人間の計り知れない進化の姿を指している。情報技術、バーチャル・リアリティ技術、機械技術、ネットワーク技術、すべてのテクノロジーが合わさるとき、人間は道具をつくるだけではなく、自らの身体性を自らの手でつくり変えることができる存在、つまりスーパーヒューマンへと姿を変えるのだ。


本書の副題は「人間はSFを超える」というもの。

人間を超える人間の姿、すなわち「スーパーヒューマン」の登場を描くことを目的に書き進められているのだが、そのビジョンを示すものとしてSF作品をあげている。

たとえば、1968に米国で公開されたスタンリー・キューブリック監督の名作映画『2001年宇宙の旅』。

この映画の製作に、MITの天才コンピュータ科学者、マービン・ミンスキーがアドバイザーとして参加していたというのは、よく知られる有名な話だ。

同作品に登場する「HAL9000」は、SFと研究の相互作用の成果であり、その後のAI研究の方向を決定づけ、AIイメージの原型ともなった。

その後、ミンスキーは1970年に設立されたMIT人工知能・コンピュータ科学研究所の創設者の一人となった。

研究者にとって、SF作品が果たしている役割は大きい。

理由は二つある。

第一に、SF作品は一般の人に研究をわかりやすく伝えるための言語として、また研究者同士が互いの研究内容を理解する上での共通言語としても機能しているということ。

第二に、SF作品は「つくりたいもの(WHAT)」を示すことで、人間を、特に研究者を動機づけてくれる存在だ。

研究とフィクションはあるところでは結びつくことがあるが、ほとんどの場合、直接につながることはない。

なぜなら、「つくりたいもの(WHAT)」はフィクションに描かれているが、「どのように実現するか(HOW)」までは示されていないからだ。

つまり、つくりたいもの(WHAT)をどのように実現するか(HOW)が研究者にとっての腕の見せどころであろう。

ただ、SF作品が未来の世界を考えるヒントを与え、研究者の動機付けにつながっていたのだというのは初めて知った。

そういった目で「スターウォーズ」や「マトリックス」を観るのも面白いかもしれない。

2020年7月 3日 (金)

ことばの発達の謎を解く/今井むつみ

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 多くの人は、子どもが「大人にことばの意味を直接教わり、間違いを直してもらいながら覚える」と誤解していますが、実際には、子どもは大人の話しかけを自分で分析し、自分でことばの意味を考えて覚えていくのです。

赤ちゃんはなぜ母語を学習できるのか?

お母さんのおなかにいるときから流暢に話ができるようになるまで、子どもが言語のどのような要素をどのように学習しているのか?

「ことばの意味」についてどのように理解しているのか?

「ことばの発達」と「思考の発達」はどのような関係にあるのか?

本書はこれらの問題を、子どもを対象にした実験の結果を紐解きながら、認知心理学・認知科学の視点から考えている。

子どもは、ことばを学習するとともに思考する力を育み深め、知性を発達させていく。

その過程は、私たち大人に人間の学習する力のすごさ、すばらしさをも教えてくれる。

赤ちゃんが最初に学習するのは母語のリズムとイントネーションの特徴だ。

赤ちゃんは生まれた時には人の発声器官がつくり出す物理的な音の違いに非常に敏感に気づくことができる。

自分の母語での音素のカテゴリーができてくるのは、母音で生後4か月くらい、子音で6か月くらいと言われている。

母音の方が音が継続的に続き、はっきり発音されるので、子音よりも早く学習できるのだろう。

赤ちゃんは聞こえてくる言語をただぼんやりと聞いているわけではなく、無意識のうちに鋭い分析をしている。

赤ちゃんは音のつらなりを区切って単語を見つけ、それを記憶にストックしていく赤ちゃん、実はとてもすごいことをしているのだ。

はじめてことばを言ってから最初の数か月の間、赤ちゃんは、最初に一つのモノに対応づけたことばを複数の基準で他のモノに使うことがよく見られる。

赤ちゃんはことばを学習する時、最初は苦労して試行錯誤を重ねながら、なんとか単語を覚え、暫定的にそれに意味をつける。

いくつかでも単語が学習出来たら、覚えた単語の間に共通するパターンをなんとか見つけようとする。

単語の間に共通するパターンをみつけたら、多少の間違いをしてもよいからその知識を新しいことばの学習に使い、語彙を増やし、成長させようとする。

語彙の中の単語の数を増やしたら、さらに単語の間の共通性を分析し、手がかり自体をアップデートする。

同時に、すでに学習した単語自体も新しい単語の学習に使う。

また、新しい単語が語彙に入ってくると、すでに知っていた単語の境界を直して、意味をアップデートしていく。

このプロセスの繰り返しによって、一つ一つのことばの意味を深めていき、同時に語彙を成長させていく。

つまり、システムの要素を学習しながら、同時にシステムの仕組みを探し出そうとする。

要素の間に共通するパターンが部分的にでも見つかるとすぐにそれを新しい要素の学習に使う。

新しい要素が増えるたびに、システムをアップデートし、修正する。

要素が増えると、要素間の細かい関係も前よりもよく見えてくる。

言い換えれば、システムについての知識が増えるわけだ。

その知識をさらに新しい要素の学習に使う。

要素とシステムはつねに連動し、行きつ戻りつしながら互いに互いを引っ張り上げ、成長させている。

実はこの発見、創造、修正の繰り返しのプロセスは、1歳の誕生日前の赤ちゃんがすでに行っている。

赤ちゃんは、言葉を覚え、理解するという過程の中で「発見」や「創造」や「修正」を行っている。

改めて、赤ちゃんって、すごいことを行っているんだと思った。

2020年7月 2日 (木)

ビジネス×数学=最強/永野裕之

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 数学で学ぶ方程式や関数、ベクトル、数列などはすべてある能力を磨くための材料でしかありません。この能力は、なくても困ることはありませんが、あれば人生を主体的に生きることができるので、文系・理系問わずすべての人が身につけておきたい能力です。その能力とはズバリ、「未知の問題を解く能力」です。

本書は数学がどのようにビジネスの世界で役立つのかを述べたもの。

算数と数学はそもそも目指しているものがちがう。

算数は、むかしでいう「読み・書き・算盤」の「算盤」にあたる。

「今日のセールは3割引!」や「日経平均は1万7357円」などの意味がわかったり、4人前のレシピで3人分の料理をつくるときに分量を換算できたりする能力は、生活に密着している。

こうした事柄について、すばやく正確に答えを導くことができなければ、社会人としてはしばしば苦労することになる。

算数では、解き方がわかっている問題を、数字を変えて反復することが重要視されているのはそのためだ。

一方の数学は、まるっきり苦手だったとしても、基本的な生活が立ち行かなくなるということはふつうない。

実際、社会人になってから2次方程式を解かなくてはいけないシーンや、ベクトルの内積の計算ができて得することは非常に稀だ。

数学を通して得られるものは「未知の問題を解く能力」である。

数学的な考えはビジネスのあらゆる場面で使われている。

例えば、アイゼンハワーは山積する仕事の優先順位をつけるため、横軸に「重要度」、縦軸に「緊急度」をとり、それぞれの仕事がどのカテゴリーに入るかを考えていったという。

そうすると仕事は次の4つに分類される。

アイゼンハワーは自身が編み出した「アイゼンハワー・マトリックス」を引き合いに出して、「大事なことは緊急であることはほとんどなく、緊急なことが大事であることもほとんどない」といっていたという。

こう考えれば、仕事が立て込んで切羽詰まったときでも冷静でいられるかもしれない。

こんなライフハック的な気づきも、掛け算的な整理の賜物だ。

そう考えると、数学的な考え方は意外とビジネスの世界で無意識に使っているのかもしれない。

2020年7月 1日 (水)

AI時代の労働の哲学/稲葉振一郎

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 非常に抽象的なレベルでは、「労働」という言葉は、「人間の生存に必要な活動」くらいの意味合いで用いられます。しかしながら「生存に必要な活動」くらいはどんな生物だってしているわけですから、他の動物と人間とを差別化する何かをここに付け加えないとなりません(後でも少し触れますが、ハンナ・アレントは「労働labor」と「仕事work」を区別した上で、動物もまた「労働」するとします。動物がしないのは「仕事」です。


本書はAIについて論じた本ではない。

「AI時代」というのはネーミングにすぎない。

よく論じられる「AIによって人間の労働が奪われる」ということを述べた本でもない。

本書は労働を主題にした哲学書である。

現代における労働哲学の書物である。

議論全体の基調としては、資本主義経済の下での機械化が人間労働に与えるインパクトの歴史を振り返っておく必要がある、というもの。

20世紀になり、機械化がどんどん進んでいった。

その結果、経済に注目すると、要するにサービス化、知識集約化が進んでいく。

情報技術、あるいは知的財産や人的資本のウェイトが高くなっていく。

労働現場への機械の導入は、労働内容の単純化、コモディティ化を引き起こす。

更にはそうやって単純化された労働、職務、作業は、それ自体機械によって代替される可能性が高まる。

その場合、労働が質的に変化するだけではなく、量的にも労働需要が、雇用が減ることになる。

これが産業革命以来、産業・労働の機械化が雇用に対して引き起こすネガティヴなインパクトとして、真っ先に、かつ繰り返し論じられてきた問題だ。

結果、機械化、そしておそらくはAI化によってもエリート層の「自由な労働」と、それと裏腹な中間層の「不自由で不定型な労働」はなくならないだろう、と常識的には予想されるということはないだろうか。

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