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2020年7月29日 (水)

ライフワークの思想/外山滋比古

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 ライフワークとは、それまでバラバラになっていた断片につながりを与えて、ある有機的統一にもたらしてゆくひとつの奇跡、個人の奇跡を行うことにほかならない。

著者はライフラークを地酒に譬えている。

バーテンダーはさまざまな酒をまぜてシェーカーを振れば、カクテルをつくることができる。

これを飲んだ人は酔っ払うから、彼が酒をつくったような錯覚を抱くかもしれない。

しかし、じつは一滴の酒もつくってはいない。

酒でないものから酒をつくった時、初めて酒をつくったといえる。

ただし、その過程で失敗すれば、甘酒になってしまうかもしれない。

酢ができてしまうこともあるだろう。

必ず酒になる保証はないが、もし、うまく発酵してかりにドブロクでもいい、地酒ができれば、それが本当の意味で人を酔わせる酒をつくったことになる。

私たちは、地酒をつくることを忘れて、カクテル式勉強に熱中し、カクテル文化に身をやつして、齢をとってきた。

今の日本人の知識やものの考え方は、だいたいにおいてカクテル式である。

よさそうな思想や技術を他人から借りてくる。

企業は戦後、競って外国から技術導入ということをした。

このために支払われてきた外貨は腰をぬかすほど莫大なものだ。

それは単に企業の技術だけではない。

私たちの生活のなかに入ってきている知識や知恵というものも、もとをたどってゆくと、多くは外国から借りてきたものである。

自分たちの頭で考えたりつくり出したりしたのではない知識や技術を適当に混ぜあわせ、シェーカーで振って、カクテルをこしらえている。

カクテルも酒なので飲めば酔いもする。それで、文化が栄えているというような錯覚を自他ともに持つこともできる。

けれどもカクテルはあくまでカクテルなのであって、一生涯シェーカーを振っていても、バーテンダーには一滴のアルコールもつくることができない。

自分でいかにして酒をつくるか。

ヨーロッパの、今までわれわれがカクテルに使った酒は、誰かがこしらえた地酒だ。

そうしたものを百年間、シェーカーで振ってよろこんでいた。

そして近代文化というものをこしらえてきた。

ほとんどの人は一滴のアルコールもつくれずに、一生を終る。

そろそろこの辺で、できてもできなくても、酒をつくってみるべきだ。

酒は一日にしてできるものではない。

〝ねかす〟、発酵のための時間が必要だ。

朝から晩まで酒のことばかり考えて、一日に何度も桶の中をつついたりしたら、かえって酒にはならない。

フランスのバルザックという小説家が、作品を書くときのテーマについて、やはり同じようなことを考えていたらしい。

テーマになりそうな経験、思いつきを並べてねかせておく。

ときどき様子をみるうちに、機が熟してくると〝テーマが向こうからやって来る〟と言っている。

発酵したテーマは、こちらが何もしないでも、テーマのほうから働きかけてくるというわけだ。

テーマはねかせたまま忘れてしまってよい。

そして、いくら忘れようとしても、どうしても忘れきれないもの、それが、その人にとってほんとうに大事なものだ。

そういったものをもとにして思考を伸ばしてゆくと、酒になる。

その酒は、カクテルのように口あたりはよくないかもしれない。

しかし、これは酒でないものからつくった酒で、酒を寄せ集めたカクテルとはちがう。

そのまま腐ってしまうカクテルではなく、年とともにコクの増す、芳醇なものなのだ。

と、このようにライフワークのことを述べている。

「私にとってのライフワークとは何だろう」と考えさせられた。

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