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2020年8月の31件の記事

2020年8月31日 (月)

儲かる経営の方程式/相馬裕晃

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 では、「失われた30年」を脱却して、日本経済が元気を取り戻すために、私たち一人ひとりのビジネスパーソンにできることとは何でしょうか?一言で言えば、それは一人ひとりの「思考と行動の革新(バージョンアップ)」だと思います。私たち一人ひとりが自社や自部門の課題や業績を「自分ゴト」と捉え、部分最適ではなく「全体最適」の観点から、経営改善や改革につながるような発想や行動が求められるのではないでしょうか。

B/SとP/Lは会社の通信簿だ。

どんな活動をし、どれだけ使って、どれだけ儲けて、どれだけ残ったのか?

それを表している。

最終的にどれだけ利益が残ったのかが問題になるのだが、利益には質の「良い利益」と質の「悪い利益」がある。

質の「良い利益」は利益の増加に伴いキャッシュも増えるので、儲けていると言える。

しかし、利益が増加しているのにキャッシュが減少する質の「悪い利益」も存在する。

例えば、B/Sを見て現金の残高が減少していて、その代わりに、売掛金や在庫が増えていればそれは質の「悪い利益」。

利益はあくまで『意見』だ。

決算のやり方次第で赤字を黒字にすることは簡単にできる。

キャッシュが『事実』だ。

だから大事なのはキャッシュを見ること。

会社は儲けがないと潰れてしまう。

だから、いくら儲かったか、損したかは重要な情報だ。

P/Lは会社の1年間の「通知表」だ。

B/Sは会社の「健康診断書」と表現できる。

B/Sの資産総額=体の大きさ

資産の内訳=体型(やせ型、肥満型、筋肉質)、体質(貧血の有無)

負債・純資産の割合=会社の体力、を表している。

そして、現金 = 血液(現金がないと会社は倒産する)

在庫 = 脂肪(経営するために必要だが、多すぎると問題)

固定資産= 筋肉(売上を上げるために必要)

資産というのはB/Sの左側で「目に見える」情報だ。

体の大きさや体型などは目に見える。

右側の負債と純資産は「目に見えない」体力の情報だ。

会計はビジネスの共通言語だ。

会計の目的は「経営の実態を数値で見える化」すること。

多くの社長の悩みは、立場の違いからくる社員との意識のズレである。

会計を社内の共通言語とすることができればコミュニケーションが円滑になる。

そして会社のお金の問題を自分事としてとらえることができるようになる。

その意味では社員であっても最低限の会計の知識が必要となるのではないだろうか。

2020年8月30日 (日)

東大落城/佐々淳行

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 時に1月19日午後5時46分。
 安田講堂の〝城攻め〟が始まってから、実に34時間46分、〝東大のいちばん長い日〟は終わろうとしていた。
 梯子をよじのぼって屋上に躍りあがった五機の磯部第一中隊長は、河野第四中隊長、石川分隊長らとともに最終点検のため時計台に昇った。時計台は食糧倉庫だったと見え、パン、握り飯などがぎっしり貯えられていた。時計台最先端には籠城学生らが立てた赤旗が結びつけられたままになっている。
 磯部中隊長は、赤旗をとりはずし、中年の東大教職員が手渡す真新しい日章旗をてっぺんに掲げる。大寒の風吹く夕闇空に、クセノン投光器のイルミネーションをうけた日の丸がへんぽんと翻る。5時55分だった。


本書は、東大安田講堂の攻防戦に、警視庁の警備第一課長として臨んだ著者が、当時のメモを元につづった迫真のドキュメントである。

東大安田講堂攻防戦は、リアル・タイムのテレビ生中継で現場の状況が長時間、直接お茶の間に放映された最初の大事件だった。

その視聴率の高さは、当時記録的といわれた。

安田講堂事件は目的も手段もまちがいだったことが今日では証明された、〝直接行動〟による世界同時・急進・暴力革命路線、「トロツキズム」の挫折の始まりだった。

当時はベトナム戦争の最盛期であり、中国では「造反有理」の文化大革命の嵐が吹き荒れていた。

東大闘争は、前近代的な官学の体質改善要求の学生運動に端を発している。

それに、全世界的な流れだったベトナム反戦の平和運動、既成の権威と体制打倒の文化大革命、日米安保条約改訂阻止の反安保政治闘争などの大きなうねりが加わる。

〝パックス・ソヴィエティカ〟こそ至高のイデオロギーと誤信した左翼運動とあいまって、長期にわたる〝高原闘争〟に発展した政治闘争だった。

全共闘はその政治目標達成の方法論として、マルクス・レーニン主義の「目的は手段を正当化する」との理念を援用し、〝直接行動〟を目的の正しさによって正当化される「人民の抵抗権」と理論づけて、ゲバ闘争を展開して結局自滅した。

安田講堂事件は、その自滅の始まりだった。

東大闘争を頂点とする全共闘闘争とは、果たして戦後日本の興隆にどんな役割を果たしたのか?

またそれは歴史的にみて戦後の社会運動史、学生運動史にどのような意義を残したのだろうか?

もしそれが、時間とエネルギーの空費にすぎない〝壮大な無〟だったとすれば、機動隊の流した血と汗も無駄となる。

治安と秩序を守るために彼らが心身の重圧に耐えた長い日々や、眠りを奪われた多くの夜もまた無意味になってしまうだろう。

それではあまりにむなしいし、双方の犠牲者たちも浮かばれない。

改めてそう思う。

2020年8月29日 (土)

科学的にラクして達成する技術/永谷研一

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 目標達成に必要なのは、根性論や気合いとは無縁の、単なる「技術」です。
 技術があれば「やる気」でさえコントロールできるようになります。

目標達成というとどうしてもやる気と根性という言葉が出てくる。

しかし、著者は、目標達成には、特別な能力はいらない、ただ、やり方を知っているか、知らないかだけだという。

「ラクして達成する技術」は、PDCFAに当てはめると、次のようになる。

P 「目標を立てる」技術

D 「行動を続ける」技術

C 「経験を振り返る」技術

F 「人と学び合う」技術

A 「自分の軸を見出す」技術

この5つである。

例えばPの目標を立てる」技術

目標設定のためには、「問題」「課題」「成果」の3つの言葉を、明確に理解する必要がある。

あるべき姿と、現実とのギャップを「問題」と呼ぶ。

「課題」は、優先度が高い問題を解決するために取り組む内容。

「成果」は、課題に取り組んで得られる結果であり、達成期限と達成基準が表現されているもの。

そして、この3つの言葉を組み合わせてできた、より行動に結びつきやすい目標を「行動目標」と呼ぶ。

こんな形でPDCFAのサイクルを回す。

目標を達成する技術を身につけることは、自分で自分を成長させることにつながる。

PDCFAサイクルの習慣は、プロフェッショナルに成長させる。

そして、目標を達成したら、再度、(P)目標を立てて、D→C→F→Aを繰り返していく。

このように、PDCFAサイクルは二重ループの構造になっている。

このサイクルを回して目標達成を続けることで、最終的に「ありたい姿」を実現していくことができる。

目標達成は技術であるということは覚えておいてよいだろう。

2020年8月28日 (金)

令和の成功/斎藤一人

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 成功って、誰でも引き寄せられるんです。全然難しいことじゃないんだよね。
 じゃあ、どうしたら成功できるんですかって、3つの秘訣を知っておけばいいの。
 ①「簡単」で 
 ②「楽しい」ことを
 ③「もっと、もっと」と望む
 たったこれだけ。 

いつも笑っている成功者は、簡単で楽しいことを「もっと、もっと」と追求している。

そうじゃなきゃ、成功し続けることはできない。

成功している人の中には、急に挫折するケースもある。

それはなぜか。

いきなり「真面目」に目覚めるから。

真面目になって、難しいこと、楽しくないことを考え始めると、どんなに成功していた人でも失敗する。

真面目でつまらないことは、それほど怖い。

そして楽しいこととは自分の得意なジャンルということでもある。

ウサギとカメの寓話がある。

最後は働き者が勝負に勝つという内容だが、著者は違った見方をする。

著者はカメはウサギと「かけっこ」で勝負をしちゃいけないという。

自分が得意な、泳ぎに持ち込まなきゃダメ。

この物語では奇跡的にカメが勝ったけれど、そんなことは現実にはありえない。

カメは「泳ぎ」で勝負しなきゃいけない。

著者のウサギとカメの物語に対する見方は面白い。

でもその通りだと思う。

自分が勝てそうなジャンルでしか戦わないことだ。

これなどはビジネスの本質をとらえていると思う。

2020年8月27日 (木)

なぜ、成熟した民主主義は分断を生み出すのか/渡瀬裕哉

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 「アイデンティティの分断」は、ほぼ無限に新しい切り口を伴って何度でも繰り返し仕掛けられる。われわれはその内容を吟味する余裕すらなく、知識人・メディア・政治家たちにより、新しく生産された分断内容による「社会的な被り物」を着けるよう強制される。

著者によると、民主主義社会におけるアイデンティティの分断は、選挙のマーケティング技術の発展によってもたらされているという。

アイデンティティの分断とは、技術革新がもたらした単なる結果に過ぎない。

そして、アイデンティティの分断が政治的動員に利用されることで、本来は多様であるはずの人々のアイデンティティは、画一的で単純なものに押し込められていく。

選挙の現場では無限とも言えるほどの社会問題が陳列棚に並べられており、人々の間に生じている「アイデンティティの分断」については、否が応でも目に入ってくる。

なぜなら、選挙活動の基本原理は「人々の分断を煽り、自らの支持者を投票に行せるように動機付けること」にあるからだ。

選挙のマーケティング技術の定義は「社会に存在するアイデンティティの分断を発見し、その分断の認知を広く流布し、なおかつ有権者のアイデンティティを画一化に向けて誘導する技術」である。

選挙のマーケティング技術の根幹は、「アイデンティティの分断」を発見することにある。

つまり、単純な情報技術の問題ではなく、社会科学的な要素を踏まえて人間社会を複数のグループに隔てる断層を発見する行為こそが、何よりも重要なのだ。

アイデンティティの分断を発見することは、選挙の観点から見ると「選挙争点」を作ることとほぼ同義である。

そして、その「アイデンティティの分断」を発見することを専ら仕事にしている人々が知識人である。

本来、人間が持つアイデンティティというのは、極めて多様な要素を含んでおり、次々に新しい要素を加えられる柔軟なものだ。

生得的環境によっていくらかの制約はあるが、原則として、人間は自らの自由意思で、自分のアイデンティティに関して採用・不採用の判断を行える能力を持つ。

しかし、知識人・メディア・政治家たちは、人々のアイデンティティをある特定の断面からのみ切り取って分断し、その分断面から見える画一化されたアイデンティティを人々に形成させようという試みる。

彼らは人間が持つアイデンティティの多様性を切り捨てることで、人々を画一的な政治的価値を持つ「部品」に切り替えようとしている。

アイデンティティの多様性を失った人々は、画一化された思考の下、分断の壁の向こう側に存在する「敵対者」との終わらない争いを続けさせられることになる。

このような不毛な行為の繰り返しが不必要な社会的対立や軋轢を生み出し、私たちの民主主義が健全に作用する機能を奪いつつあるのだ。

そのため、私たちは自らのアイデンティティを形成・維持すること、そして民主主義の健全な機能を回復するために、必要な対応を取ることが求められている。

社会構造上、「アイデンティティの分断」は避けられない流れだ。

しかし、こうした間違った他者の言説によって受動的に分断が行われる状態にあっては、その分断が不幸を再生産してはいまいか。

こうした状況を言語化し、克服する必要があるのではないだろうか。

それが民主主義の課題だと思う。

2020年8月26日 (水)

感情の正体/渡辺弥生

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 私たちは、一般に、「怖いから逃げる」「悲しいから泣く」と考えがちです。ところが、実はその反対で、「逃げるから怖い、泣くから悲しいんですよ」という説明を受けたら、どうでしょう。

本書は、「感情」というキーワードをもとに、それに操られないための知恵やスキル、支援のあり方を探っている。

感情については、身体感覚がまず敏感に異変を感じ取り、その感情を後で認識すると考えるほうが正しいという理論がある。

ふつうは、まず「怖いな」「悲しいな」と感じてから、逃げようとか泣き出すという順序に思えます。

ところが、この理論は、まず何かを察知して先に逃げるとか泣くという行動がとられてから、そのあとに「ああ怖かった」「ああ悲しい」と感じるのが本当だと主張する。

つまり、意識よりも自身の末梢神経での反応がまずあって、次に「怖い」「悲しい」という認識を持つと考えられるのだ。

ということはまず行動を変えれば、感情もそれに伴って変わるということになる。

これなどは日常の生活に取り入れることができるのではないだろうか。

また、最近よく言われる「マインドフルネス」についても書かれている。

マインドフルネスは、仏教が継承してきた教養や実践システムに組み込まれた念や気づきである「サティ(sati)」という瞑想の技術を、宗教的文脈から切り離して「パッケージ化」したスキルだ。

おもに瞑想の実践と、その際の考え方などだ。

マインドフルネスは認知療法や行動療法など広範囲に応用されるので、総合的な精神療法と言える。

仏教の「サティ」は、私たちが欲望や煩悩に翻弄され、苦悩に満ちた人生を歩んでいる現生を乗り越え、彼岸に至るための「覚り」を得ることを目的として行われる救済的な行法。

それを各個人が、現世でより幸せになるために抽出したもの。

仏教の思想を、いわば世俗的文脈に持ち込んだものと言える。

日本マインドフルネス学会では、マインドフルネスを、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」と定義している。

「観る」とは目で見ることだけに限らず、「聞く、嗅ぐ、味わう、触れる」の五感すべて、さらに五感によって生じた心の働きをも観る、という意味であるとされている。

現在の経験への気づきという定義がある。

マインドフルネスにとって大事なのは、自分自身の感覚と、今ここに注意を向けること。

また、いわゆる雑念を排除しようとせず、思い浮かぶことに対して悪いとかいいとかという判断をせずに、そのままにしておくということ。

マインドフルネスの特徴は、二つに集約できる。

一つは、判断を加えないという視点。

自分が嫉妬に苦しんでいるとか劣等感を持っている、あるいは、怒りの気持ちを抱えているということに、今ここでのその経験に注意を向けても良いとされる。

ただし、だから自分はダメなのだ、といった判断をする必要はない。

いわば、そのまま受容するというトレーニングをすることが求められる。

二つ目は、穏やかにこの瞬間を受容するというもの。

これまでの一般的な問題解決のやり方は、目標を未来に設定して、達成するための方法を分析し、それを実行することだった。

これを「することモード」(Doing Mode)と考えると、マインドフルネスが強調するのは「なることモード」(Being Mode)だ。

つまり、過去や未来をあれこれ詮索せず、今ここに注意を向けるということ。

確かに、私たちの思考は、過去や未来に向けられていることが多く、そこから生じる感情に振り回されることが多い。

「今、この瞬間」に注意を向けることは大事なことではないだろうか。

2020年8月25日 (火)

Think CIVILITY/クリスティーン・ポラス

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 突き詰めれば、最も重要なのは人間関係である。そして、礼節は人間関係の基礎となる。他人に対する態度、ふるまいに常に敬意があれば、それは自分自身を前進させることにつながるし、キャリアにも必ず良い影響をもたらす。他人と良好な関係を結ぶのに役立ち、人生を良い方向に導くことになる。

企業の問題の半分以上は人間関係にかかわることだという実感が私にはある。

多くの場合、いい人間関係の職場は生産性も高い。

逆に人間関係がうまくいっていない職場は生産性が低い。

そしてその人間関係を壊す一番の原因は無礼な言動である。

上司の無礼な言動には、大きく分けて次のような種類がある。

部下を人前であざける、軽く扱う。

部下の仕事ぶりを常に過小評価し、自分の組織の中での地位は低いと思い込ませる。

部下を心が傷つくほどひどくからかう。

成功した時の手柄は自分のものにするが、何か問題が生じた時には他人のせいにする。

どの場合でも、重要なのは、その言動が本当に相手に対する尊敬や配慮を欠くものだったかどうか、ではない。

重要なのは、された方がどう感じたかである。

尊敬や配慮を欠く扱いを受けた、と相手が感じるかどうかだ。

言動が相手の目にどう映ったかが問題となる。

そもそもなぜ、礼節は悪化し続けているのだろうか。

理由としてグローバリゼーション、世代間ギャップ、職場環境や人間関係の変化、テクノロジーの進歩などがあげられる。

何れにしても、現代の私たちが、自分にばかり目を向け他人にはあまり目を向けないというのは事実だ。

そのせいで、他人の扱いが無礼なものになってしまい、結果として皆に害をもたらしているわけだ。

職場に無礼な人がいると、そこで働く人たちの心の健康にも悪影響があることが、調査によって明らかになっている。

当然、ストレスには他の要因もあり、私生活で無礼な人に会うこともあるので、そのストレスの影響もあるだろう。

だが、それを考慮したとしても、職場の無礼な人たちが心の健康に与える悪影響が大きいことは疑い得ない。

アメリカ心理学会の試算によれば、職場のストレスによってアメリカ経済にかかるコストは1年に5000億ドルにものぼるという。

なんと仕事上のストレスが原因で毎年5500億日もの就業日が失われ、職場で発生する事故の60~80パーセントはストレスが原因で、アメリカ人の通院の約80パーセント以上がストレスに関係しているとも言われる。

無礼な言動と対をなすのが礼節ある言動である。

礼節ある態度とはたとえば、人に感謝する、人の話をよく聞く、わからないことは謙虚に人に尋ねる、他人の良さを認める、成果を独り占めせずに分かち合う、笑顔を絶やさない、といったことを指す。

礼節ある言動とは、つまり相手を丁重に扱う言動ということだが、必ず心から相手を尊重する気持ちがないとうまくはいかない。

見返りに相手から何かを得よう、自分の属する企業の利益につなげようという気持ちが背後にあると、いくら相手を丁重に扱ったところで意味がなくなってしまう。

礼節ある言動はよい効果をもたらす。

まず言えるのは、礼節ある人には、「声がかかりやすい」ということである。

何かを一緒にやろうと誘われる機会が多くなる。

礼節ある人はそうではない人よりも、たやすく大きな人的ネットワークを築くことができる。

ネットワークが大きくなればそこに有能な人が含まれている可能性も高まるだろう。

人は尊重されると、自分に価値があると感じ、力を発揮することができる。

リーダーの礼節ある態度は部下の気分を高め、その人が属するチームや企業の業績も上げることができる。

敬意はほんの些細な態度に現れる。

それだけで得られる結果は違ってくる。

より礼儀正しくなるには、また、礼儀を重んじる文化を組織に根づかせるには、まずは基本に目を向ける必要がある。

常に周囲の人に気を配ること。

他人の立場でものを考えること。

笑顔でいる時間を増やすことも大事だろう。

一つひとつは難しいことではない。

どれも皆が幼稚園の頃から教わってきたはずのことである。  

礼節ある言動とは、いわば人として当たり前の言動である。

基本に目を向け、基本に戻ろうということだと思う。

2020年8月24日 (月)

トップの教養/倉山満

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 トップの心得は「自分がすべての責任を引き受ける覚悟」であるといいました。ですから、「みんながわかってくれない」などと泣き言をいった瞬間、その人はトップではないのです。

トップの教養とは、人に使われるのではなく、人を使う知力をもつことだ。

トップたるもの、人をコントロールしなければならない。

自分についてきてくれる部下や仲間は指示を待っている。

だから、味方をコントロールできて初めて、組織は動き出す。

第三者をコントロールしてこそ、事業はうまくいく。

敵に対してコントロールができれば、戦いに負けることはない。

そして、そのすべての根源が、自分をコントロールすること。

自分をコントロールできない人間が、トップとして他人をコントロールできるわけがない。

そして、トップは自分の言葉を持っていなければならない。

戦国時代、織田信長は語る言葉をもっていた。

そして、その言葉を使い分けていた。

一つは「天下布武」。

乱れた世の中に力で秩序を取り戻す。

武士など公務員に対する言葉だ。

この言葉の続きは、「おれについてくれば、働き次第で身分に関係なく出世させてやる!」だ。

その言葉に惹かれ、素性の知れない、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益のような人々が集まってきた。

光秀は前半生不明の素浪人、秀吉は農民、一益は忍者の出身ともいわれている。

彼らはよく働いた。

もう一つは「楽市楽座」。

民間企業に対する言葉だ。

当時は「座」といって、政府の権力に守られた特権商人たちだけに営業の自由があった。

既得権益の保護のために、新規参入は阻害されていた。

それに対して信長は、「おれの領民になれば、自由に商売できるよ」と呼びかけた。

信長は、言葉の力によって仲間を集める人だった。

信長からトップとしての在り方を学ぶことができるのではないだろうか。

2020年8月23日 (日)

ポスト・コロナ「新しい世界」の教科書/髙橋洋一、渡邉哲也

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 かつて1918~1920年にかけてスペイン風邪が流行し、その後、1929年からの世界大恐慌、そして1939年からの第二次世界大戦と、約10年ごとに大きな出来事が続きました。それと同じような流れになりそうな気配もあります。

本書は高橋氏と渡邊氏との対談本である。

お二人が共通した見解は、今回の新型コロナで世界は大きく変わるということ。

100年前のスペイン風邪によって世界は大きく変わった。

同様なことが今回の新型コロナでも起こるのではないかと両者ともいう。

スペイン風邪の流行から約100年の時を経て、世界は新型コロナウイルスの猛威に襲われた。

スペイン風邪では世界中で5億人が感染し、1700万~5000万人の死者が出たと言われている。

当時、世界は第1次世界大戦(1914~18年)の真っ最中だったが、このスペイン風邪により戦争は終結へと向かわざるをえなかった。

スペイン風邪の余波は世界経済に大きなダメージを与え、1929年からの世界大恐慌、世界のブロック経済化、そして第二次世界大戦へと向かう一因となった。

パンデミックが世界を大きく変えた一つの事例であろう。

今回の新型コロナウイルス感染症では、死者の数では圧倒的に今回のほうが少ない。

しかし、社会に対するインパクトでは、結構、同じくらい大きなものがあるのではないだろうか。

しかも、今回は新型コロナと大恐慌が一緒に来るような感じになるかもしれない。

以前も大恐慌後に世界の分断が進み、それで戦争へと向かっていった。

今回も恐慌と世界の分断が起こりつつある。

戦争については、ミサイルなどでドンパチするというのではなく、国際機関をどちらが支配するかといったことや、サイバー戦争のような、「見えない戦争」になるだろう。

新型コロナは日本の問題点も明らかにした。

日本も変わるときだろう。

2020年8月22日 (土)

論理的思考のコアスキル/波頭亮

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 論理的思考に対する根本的な理解である〝理論〟と、能力を習得・向上させるための具体的なトレーニング方法である〝実践〟の両方を備えたプログラムによれば、論理的思考力を大幅に向上させることが可能である。

思考とは、端的に定義するならば「情報と知識を加工すること」である。

情報と知識を照らし合わせたり繋ぎぎ合わせたりして何らかのメッセージを得るプロセスが「思考」である。

情報と知識を加工して意味合いを得るプロセスが思考なのである。

このプロセスからも分かるように、〝良く〟思考するためには、多くの知識を持っている方が有利である。

思考とは情報と知識を照らし合わせたり繋ぎ合わせたりして意味合いを探す行為なのであるから、情報が一定でも知識が多い方がより多くの意味合いを抽出できるわけである。

思考力は、得られた情報に対して照らし合わせるための「知識」と、情報と知識とを照らし合わせたり繋ぎ合わせたりする「情報の加工力」の2つのファクターで構成されている。 

「情報と知識を〝照らし合わせる〟〝繋ぎ合わせる〟プロセスで行われている情報加工のミクロの作業は、

①考察対象を要素に「分ける」こと

②分けられた考察対象の情報要素を、それに対応する知識要素と「比べる」こと

③考察対象の情報要素と知識要素を比べて得られた〝同じ〟と〝違う〟という判別結果を統合・整理して、〝同じ〟要素で「くくる」こと

である。

そして、「分ける」「比べる」「くくる」が、人間の思考で行われる最も基礎的な情報加工作業ということになる。

大事なことは、この「分ける」「比べる」「くくる」ことを繰り返しトレーニングして自分のものにすること。

論理思考についてはこれに尽きるのではないだろうか。

2020年8月21日 (金)

リード・ザ・ジブン/宇佐美潤祐

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 「リード・ザ・ジブン」の出発点は、自分自身が一体何をやりたい人間なのかを深く内省・洞察し、「志」として結晶化することから始まります。そして、各個人の「志」を会社の目指している「ありたい姿」とシンクロさせ自分の仕事に意味づけをします。それを〝自分事化〟と呼びます。〝自分事化〟できると、誰かにいわれるのではなく、自分の思いをベースにどんどん行動を起こすことのできる〝自律自走人材〟に脱皮できます。脱皮を繰り返すことにより〝過去最高の自分〟に進化し続けることができます。


日本には社員個人と会社の特異な相互依存関係が存在している。

〝会社が主、社員個人は従〟で、社員個人の「志」は置き去りにされている。

そしてその背景に日本固有の雇用慣行・人事制度がある。

これからの日本に求められるのは、未来の「ありたい姿」を思いを込めて構想し、そこから現状を引き算し、何が本質的な課題なのかを再定義する未来志向型経営だ。

筆者は日本企業が自律性をもつ鍵は、「個人と会社の成長を同期化」させることにあるいう。

リーダーシップの問題として、会社としては、社員が共感を感じられる「ありたい姿」を提示する。

個人サイドは、これまできちんと考えてこなかった自分自身の「志」を深く深く内省し、はっきりさせ、その「志」が会社の「ありたい姿」とどう関係しているのかを腹落ちさせる。

リーダーシップの根源は自分が一体何を成し遂げたいのかというリード・ザ・セルフにある。

それに周囲が共感してリード・ザ・チームになる。

ひいては世の中に大きなインパクトをもたらすリード・ザ・ソサエティになる。

リード・ザ・ジブンは、自分事化を通じて、日本固有の呪縛から〝自律自走人材〟として脱皮させる。

それによって組織・チームワークの強みに磨きをかけ、過去最高の自分を育て、仲間を育て、最強チームをつくる。

これこそがリーダーシップの原点。

逆にに言えば、これがない人には、人はついては来ないということではないだろうか。

2020年8月20日 (木)

自分の中に毒を持て/岡本太郎

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 人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。

岡本太郎の言葉は常識で凝り固まった現代人に刺激を与えてくれる。

本書で印象に残った言葉は以下の通りだ。

自分に忠実に生きたいなんて考えるのは、むしろいけない。そんな生き方は安易で、甘えがある。ほんとうに生きていくためには自分自身と闘わなければ駄目だ。

自分らしくある必要はない。むしろ、〝人間らしく〟生きる道を考えてほしい。

つまり自分自身の最大の敵は他人ではなく自分自身というわけだ。自分をとりまく状況に甘えて自分をごまかしてしまう、そういう誘惑はしょっちゅうある。だから自分をつっぱなして自分と闘えば、逆にほんとうの意味での生き方ができる。

たとえ、結果が思うようにいかなくたっていい。結果が悪くても、自分は筋を貫いたんだと思えば、これほど爽やかなことはない。人生というのはそういうきびしさをもって生きるからこそ面白いんだ。

何でもない一日のうちに、あれかこれかの決定的瞬間は絶え間なく待ちかまえている。朝、目をさましてから、夜寝るまで。瞬間瞬間に。

「危険な道をとる」いのちを投げ出す気持ちで、自らに誓った。死に対面する以外の生はないのだ。その他の空しい条件は切り捨てよう。そして、運命を爆発させるのだ。

ぼくは口が裂けてもアキラメロなどとは言わない。それどころか、青年は己の夢にすべてのエネルギーを賭けるべきなのだ。勇気を持って飛び込んだらいい。

自分自身の生きるスジは誰にも渡してはならないんだ。この気持ちを貫くべきだと思う。

人間にとって成功とはいったい何だろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。

何かを貫こうとしたら、体当たりする気持ちで、ぶつからなければ駄目だ。

人生を真に貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。いのちを賭けて運命と対決するのだ。そのとき、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の味方であり、また敵なのである。

己を殺す決意と情熱を持って危険に対面し、生き抜かなければならない。今日の、すべてが虚無化したこの時点でこそ、かつての時代よりも一段と強烈に挑むべきだ。

ぼくは朝から夜まで、まる一日、絵を描き、文章を書き、彫刻にナタをふるう。全部まったく無条件に自分を外に向かって爆発させていく営みだ。この瞬間に、無条件な情熱をもって挑む。いのちが、ぱあっとひらく。それが生きがい。瞬間瞬間が新しい。好奇心と言えば、これが好奇心の源だろ

いまはまだ駄目だけれど、いずれ」と絶対に言わないこと。〝いずれ〟なんていうヤツに限って、現在の自分に責任を持っていないからだ。生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、現在に充実することだ。

そもそも自分を他と比べるから、自信などというものが問題になってくるのだ。わが人生、他と比較して自分をきめるなどというような卑しいことはやらない。ただ自分の信じていること、正しいと思うことに、わき目もふらず突き進むだけだ。

いつも言っているように、最大の敵は自分なんだ。

自信はない、でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また、それしかないんだ。意志を強くする方法なんてありはしない。そんな余計なことを考えるより、ほんとうに今やりたいことに、全身全霊をぶつけて集中することだ。

大切なのは、他に対してプライドを持つことでなく、自分自身に対してプライドを持つことなんだ。他に対して、プライドを見せるということは、他人に基準を置いて自分を考えていることだ。そんなものは本物のプライドじゃない。たとえ、他人にバカにされようが、けなされようが、笑われようが、自分がほんとうに生きている手ごたえを持つことが、プライドなんだ。

ほんとうに生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きることだ。それを忘れちゃいけないと思う。

人間は精神が拡がるときと、とじこもるときが必ずある。強烈にとじこもりがちな人ほど、逆にひろがるときがある。ぼくだってしょっちゅう行きづまっている。行きづまったほうが面白い。だから、それを突破してやろうと挑むんだ。もし、行きづまらないでいたら、ちっとも面白くない。

画家のゴッホも、行きづまりの結果、自殺した。彼はピストルを自分の身体に撃ち込んだんだけれど、その直前、丘の上で「駄目だ、駄目だ!」と叫んでいる姿を村の人が見かけている。彼はナマ身にピストルを撃ち込むことによって、自分の辿り着いた絶望的な芸術の袋小路をのり越えたんだ。しかしそのときはすでに遅かった。

生きるということを真剣に考えれば、人間は内向的にならざるを得ないのだ。また逆に、自分が内向的なために、かえって外に突き出してくる人もいる。だから内向的であると同時に外向的であるわけだ。これがほんとうに人間的な人間なのだ。歴史的に見て、英雄とか巨きな仕事をした人は、みんな内向性と外向性を強烈に活かしている。

動物を見てもわかるだろう、動物に内向性の動物はいない。人間だから、誰でもが内向性を持っているんだ。いくら派手に見える人間だって内向性を持っている。内向性で結構だと思えば、逆に内向性がひらいていく。

強い性格の人間になりたかったら、自分がおとなしいということを気にしないこと──それが結果的には強くなる道につながる。

もっと厳しく自分をつき放してみたらどうだろう。友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立してもいいと腹をきめて、自分を貫いていけば、ほんとうの意味でみんなによろこばれる人間になれる。

純粋に強烈に生きようとすればするほど、社会のはね返しは強く、危機感は瞬間瞬間に鋭く、目の前にたちあらわれるのだ。いつでも「出る釘は打たれる」。

激しく挑みつづけても、世の中は変わらない。しかし、世の中は変わらなくても自分自身は変わる。世の中が変わらないからといって、それでガックリしちゃって、ダラッと妥協したら、これはもう絶望的になってしまう。そうなったら、この世の中がもっともっとつまらなく見えてくるだろう。だから、闘わなければいけない。闘いつづけることが、生きがいなんだ。

ほんとうに生きようとする人間にとって、人生はまことに苦悩にみちている。矛盾に体当たりし、瞬間瞬間に傷つき、総身に血をふき出しながら、雄々しく生きる。生命のチャンピオン、そしてイケニエ。それが真の芸術家だ。その姿はほとんど直視にたえない。

最も人間的な表情を、激しく、深く、豊かにうち出す。その激しさが美しいのである。高貴なのだ。美は人間の生き方の最も緊張した瞬間に、戦慄的にたちあらわれる。

ひどくユニークで、突飛だと思われるかもしれないが。いま、この世界で必要なことは、芸術・政治・経済の三権分立である。モンテスキューの唱えた古典的な司法・立法・行政の相互不可侵というような技術的システムではなく、まったく新しい三つの原理のオートノミーを確立すべきだ。

明治百年以来、日本人はなりふり構わず、大変な背のびをしてきた。その成果で経済大国になったようだが。しかし国や組織ばかり太っても、一人一人の中身は逆に貧しくなってしまったのではないか。「日本人」は変身しなければならない。政治家よ、エコノミストよ、官僚よ、もっと人間になってほしい。

芸術と言っても、何も絵を描いたり、楽器を奏でたり、文章をひねくったりすることではない。そんなことはまったくしなくても、素っ裸で、豊かに、無条件に生きること。失った人間の原点をとりもどし、強烈に、ふくらんで生きている人間が芸術家なのだ。

ぼくが芸術というのは生きることそのものである。人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命をつき出し爆発する、その生き方こそが芸術なのだということを強調したい。〝芸術は爆発だ〟

全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッとひらくこと。それが「爆発」だ。人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発しつづけるべきだ。いのちのほんとうの在り方だ。

あるとき、パッと目の前がひらけた。……そうだ。おれは神聖な火炎を大事にして、まもろうとしている。大事にするから、弱くなってしまうのだ。己自身と闘え。自分自身を突きとばせばいいのだ。炎はその瞬間に燃えあがり、あとは無。──爆発するんだ。

今、この瞬間。まったく無目的で、無償で、生命力と情熱のありったけ、全存在で爆発する。それがすべてだ。

生きる──それは本来、無目的で、非合理だ。科学主義者には反論されるだろうが、生命力というものは盲目的な爆発であり、人間存在のほとんどと言ってよい巨大な部分は非合理である。われわれはこの世になぜ生まれてきて、生きつづけるのか、それ自体を知らない。存在全体、肉体も精神も強烈な混沌である。そしてわれわれの世界、環境もまた無限の迷路だ。

ぼくはこう考える。コミュニケーションを拒否するコミュニケーションをこそ人間存在の真ん中に主役としてすえなければいけない。情報化社会だからこそ、単なる理解を超えた超情報にもっと敏感に、真剣になるべきだ。ここで、とりわけ無目的な情報を提供する呪力を持った「芸術」の意味が大きく浮かびあがってくる。 

芸術は呪術である。というのがぼくの前からの信念だ。その呪力は無償のコミュニケーションとして放射される。無償でなければ呪力を持たないのだ。

ほんとうの芸術の呪力は、無目的でありながら人間の全体性、生命の絶対感を回復する強烈な目的を持ち、ひろく他に伝える。無目的的だからこそ。

繰り返して言う。何度でもぼくは強調したいのだ。すべての人が芸術家としての情熱を己の中に燃えあがらせ、政治を、経済を、芸術的角度、つまり人間の運命から見かえし、激しく、強力に対決しなければならないと。つまり、合理に非合理をつきつけ、目的的思考のなかに無償を爆発させる。あいまいに、ミックスさせることではない。猛烈に対立し、きしみあい、火花を散らす。それによって人間は〝生きる〟手ごたえを再びつかみとることができるだろ

何でもいい、見物人ではなく、とにかく自分でやってみよう。動いてみよう。日常のなかで、これはイヤだな、ちょっと変だなと思ったら、そうではない方向に、パッと身をひらいて、一歩でも、半歩でも前に自分を投げ出してみる。出発は今、この瞬間から。

強烈に生きることは常に死を前提にしている。死という最もきびしい運命と直面して、はじめていのちが奮い立つのだ。死はただ生理的な終焉ではなく、日常生活の中に瞬間瞬間にたちあらわれるものだ。この世の中で自分を純粋に貫こうとしたら、生きがいに賭けようとすれば、必ず絶望的な危険をともなう。 

人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきだ。それが誇りだ。死ぬのもよし、生きるもよし。ただし、その瞬間にベストをつくすことだ。現在に、強烈にひらくべきだ。未練がましくある必要はないのだ。

この1冊の本の中に、少なくともこれだけの刺激にあふれた言葉がある。

今の自分の生き方にカツを入れられたような感じだ。

でも、すごく気持ちいい。

こんな人、もう現れないだろうな。

2020年8月19日 (水)

天空の星たちへ/青山透子

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 突然何やら〝速報〟の文字が出た。
 気にもとめずにおしゃべりをしていた私の耳に「ギヤー」という声がする。
 何事?
 誰が騒いでいるのよ?
 うるさいわねえ……。
 そんな気持ちで声のする方向を見る。
 ふと壁掛け時計に目をやると、十九時二十六分だった。
 テレビのアナウンサーのこわばった顔と同時に流れた速報ニュースが目に飛び込む。
「臨時ニュースを申し上げます。日航123便、十八時羽田発大阪行きのB747機がレーダーから消えたもようです……」
 え? うちの飛行機なの?
 123便?
 私の初フライトの便名じゃないの……。
 消えた? ジャンボジェットが?
 まさかそんな……。
 背筋が凍るとはこのことなのか、一瞬で全身に鳥肌が立つ。

1985年8月12日、日航ジャンボ機墜落事故が発生した。

日航123便、羽田発大阪行き、乗客509名、運航乗務員3名、客室乗務員12名、乗員、乗客合わせて524名だった。

この123便は著者が客室乗務員として初めて乗った便名だという。

そして、その事故機に乗っていた客室乗務員たちは、新人だった著者に仕事を手取り足取り教えてくれた同じグループの先輩たちだったのだという。

その後、著者は日航を辞め、調査に乗り出す。

なぜ墜落事故が起きたのか?

なぜ墜落現場の特定が遅れたのか?

あれから35年経った今も消えない疑問が残る。

当時の新聞から見えてくる新たな疑問。

矛盾する事故原因。

当時を知る関係者への取材を含めたノンフィクションである。

操縦不能になった機内。

「墜落」という逃れられない現実、突然目の前に「死」という恐怖が迫る。

そんな中、最後の最後まで冷静に働いたCAたちがいた。

乗客に不安を与えず、冷静に対応を行った。

「死」を覚悟して遺書を残した乗客がいたことも知られているが、最後まで望みを捨てず、「不時着」に備えてメモを残したCAがいた。

飛行機を立て直すコックピットの懸命な努力。

極限状態の中で懸命にプロの仕事をまっとうした乗務員の姿がそこにあった。

決して風化させてはならない事故である。

2020年8月18日 (火)

人に頼む技術/ハイディ・グラント

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 私たちが何かをしようとするときは、成功する可能性の見込み、と成功したときに得られるもの、の二つが動機として作用しているのです。
 この理論を〝助けを求めること〟に当てはめると、私たちが誰かに頼み事をするときの動機付けは、相手が「イエス」という確率と、どのような質の助けを得られるかという二点についての予測の産物であると言えます。そして、私たちはこの二つをどちらも過小評価しているのです。

人に何かを頼むのは勇気がいる。

ほんのわずかであっても、〝人に助けを求める〟という考えを頭に抱くことは、私たちをひどく不快にする。

研究によって、それは肉体的痛みと同じくらい現実的な「社会的痛み」を引き起こす可能性があることがわかっている。

誰かに助けを求めるのは難しい。

不器用でぎこちない。

また、遠慮がちな頼み方は裏目に出やすく、相手に助けてもらえる可能性を低くしてしまう。

つまり助けを求めることに消極的だと、必要な支援を得られなくなる。

うまく人の力を借りるには、相手に〝助けよう〟という動機を持たせるための小さな合図である、「人を動かす力」を理解する必要がある。

これを実践できると、周りから助けてもらいやすくなる。

助けを求める人は、相手が助けてくれる可能性を過小評価する傾向がある。

これはとても価値のある事実だ。

なぜなら、私たちが想定しているよりも、人から助けてもらえる可能性は高いということだからだ。

何かを頼まれたとき、「ノー」と答えるのは大きな苦痛を伴う。

そのため、一度目に断った相手から二度目の依頼をされたときには、「イエス」と答える確率が上がる。

連続して「ノー」というのは、それほどまでに心苦しいことなのである。

「認知的不調和」のために、一度「イエス」と言った相手からの依頼には「ノー」と答えにくくなる。

「私は人助けをする、親切な人間だ」という自己認識を保ちたいと考えるからだ。

これらはすべて、助けを求める人にとっては良い知らせである。

誰かに助けられると、複雑な感情が生じることがある。

結果として、助けを求めることで、相手に良くない印象を持たれたり、能力がない人間だと見られたりしないかと躊躇してしまいがちになる。

だが研究によれば、人は、助けた相手にそれまでよりも強い好意を抱くようになることがわかっている。

助けることは、助けた側にさまざまなメリットをもたらす。

気分が高揚し、温かい気持ちになり、世の中を良い場所だと思えるようになる。

誰かの助けを求めようとするときに、必要以上の気まずさを覚えるべきではない。

頼み事をするときには、不安な気持ちでいっぱいになるものだ。

適切な方法をとれば、それは頼まれた側にとって、自分自身や依頼者に対してとても良い感情を抱く機会になる。

つまり、人は頼まれることを決して嫌なことだとは思っていないということ。

必要な時には勇気をもって助けを求めることだろう。

2020年8月17日 (月)

凡人起業/小原聖誉

Photo_20200812060901  凡人起業で大切なことは、いかに失敗しないか、です。たとえば1社目の起業と2社目以降の起業とでは、めざすところがまったく違うと考えています。
 1社目の起業ではホームランを狙って大振りするのではなく、できるだけバットを短く持ってヒットを打つ、少なくとも出塁することが大事です。

著者は自らを凡人だという。

そして、起業してみてわかったのは、「凡人には凡人なりの起業の仕方、戦い方がある」ということ。

凡人企業には原則がある。

第1に、成長市場に参入する

第2に、その道のプロになる

第3に、仕事に集中する仕組みをつくる

という3原則である。

特に、どの市場に参入するかは重要だ。

凡人起業では、失敗をしないようにバットを短く持ってヒットを狙う。

なので、自分の経験を生かして、自分の土地勘のある業界で起業する。

その業界内で、どの会社がどんなことで困っていそうかは、それまでの経験で当たりがつくはず。

そして、つくりたいものをつくるよりも、時代に乗ることのほうが大切。

また、最高のものである必要はない。

成長市場で誰よりも先にやるとうまくいく。

「拡大・成長しそうな市場で先行者になる」

それが、失敗しない起業の参入方法だという。

さらに、「その会社が何をするか」よりも、「市場の何に貢献する会社か」を掲げたほうが、人の心に響く。

それがお金のない会社の戦い方。

そのようにして確実にシングルヒットを打って塁にでること。

これが大事だというのである。

起業を志している人には参考になるのではないだろうか。

凡人であるかどうかは別にして。

2020年8月16日 (日)

セイバーメトリクスの落とし穴/お股ニキ

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 日本の野球はあまりにも固定観念や先入観、形やイメージに支配されすぎている。大げさかもしれないが、野球は日本社会全体の縮図であるとも言えるし、衰退国家の現状をよく表しているともいえる。

野球というゲームで勝利するために望ましい選手は、攻撃ではより得点を増やし、投球・守備では失点を減らすことのできる選手である。

主観を排除して統計・数値でこれを突き詰めたのがセイバーメトリクスであると言える。

セイバーメトリクスのはしりとなった名著『マネー・ボール』の中で「三振を恐れるな、しかし三振するな」という言葉が出てくる。

これが実に本質を突いている。

三振を恐れてコツコツと当てにいく打撃だけでは、投手は恐怖を感じないし、野手は前に出やすいのでヒットコースも狭まってしまう。

四球を選ぼうとしてボールを見すぎると、ストライクを投げられて追い込まれる。

一方で本当に三振すれば、ほぼ確実にアウトとなってしまう。

野球というスポーツはこのように、相反する要素の両立が多くの場面で必要とされる。
 
0か100かの二元論からなるべく脱却し、最適なバランスを探っていくことが求められるのだ。

ほぼ全てのプレーを統計化できる野球はデータ分析との親和性が高く、テクノロジーの進化の恩恵を受けて発展してきたのは間違いない。

近年のITの発展はすさまじく、今後もさらに新たなトレンドや革命がここから生まれる可能性も高いだろう。

しかし、そんな時代だからあえて言いたいのが、データ分析の危険性である。

データは決して万能ではなく、どんなに高度な統計技術を用いても、主観やバイアスが入るリスクは消し去れない。

元々のデータ自体が事実を100パーセント表現しているとも言いきれない。

数字は重要だが、数字ばかり過剰に追い求めて本質を見失うことはままある。

一般的に、データを見る人ほどその有効性を過大評価し、また全ての要素を均一化しすぎて個別具体的なケースを全て無意味だと切り捨てる傾向がある。

昨今は属人的な要素を嫌う傾向が強いが、レベルの高い才能の世界であればあるほど、その人にしかできないことの価値が高まるのである。

それを理解した上で注意深くデータを扱うべきであり、これまたバランスの問題でもある。

何かある度に指標ばかりに頼る人には「考えるな、感じろ!」と言いたくなってしまう。

数字や指標は極めて大切だが、まずはスポーツの本質や野球という競技自体への理解が必要なのではないだろうか。

そしてそれはビジネスの世界でも同様に言えることである。

2020年8月15日 (土)

人生の目的の見つけ方/勝屋久

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 「自分の人生を生きる」とはどういうことだろうか?
 僕は、自分の本質(愛)を輝かせることだと思っている。
 本質とは、何かをすること、何かを成すことではなく、「在り方」だ。

本書は48歳で日本IBMをリストラされた著者が、どのように自分のハートを取り戻し、自分とのつながりを深めてきたのか、自分の人生をで生きられるようになってきたのか、そのプロセスを述べている。

その中で、著者が起業し、様々な人と接する中で、自分には「人をつなげる才能」があることに気づく部分は印象的だ。

「Venture BEAT Project」をスタートしてから1~2年後に、参加メンバーや友人から「勝屋さんは人をつなげる才能がありますね」とか、「人とつながる、つなげることの天才ですね」と、よく言われるようになる。

彼らの言葉を聞いても、初めは「そんなの、誰でもできることじゃないのか?」と思い、素直に喜べなかったし、受け入れることもできなかった。

自分の「好き」を基準にしてやっていたので、そこに価値があるのかないのかが、まったくわかっていなかった。

あるとき、人をつなげる才能があると褒められて、「そんなこと誰でもできますよ!」と言い返したら、こんな言葉が返ってきた。

「いいえ、できませんよ。少なくとも僕にはできないです。

だって、面倒くさいし、恥ずかしさもあるし、僕には無理だ。

勝屋さんはすごいです!

数字では表せないけど、スタートアップ業界に確実に価値をもたらしているんだから」

と言われたという。

そして自分の「つながる・つなげる」才能に気づけたおかげで、著者の人生が楽しい方向へと動き出した。

結果として、わずか数年で、どこにでもいるような普通のサラリーマンが、当時のスタートアップ業界で名の知れた存在にまでなったというのである。

いかに自分の隠れた才能に気づくことが大事かということではないだろうか。

2020年8月14日 (金)

ニューヨークのアートディレクターがいま、日本のビジネスリーダーに伝えたいこと/小山田育、渡邊デルーカ

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 なぜ日本ではブランディングが正しく理解されていないかを考えたときに、その根底にあるのは日本での「デザイン」の解釈が他の国々と異なっているからだということに気がつきました。

欧米ではデザインとビジネスとは密接に関連するもの。

ところが、日本ではその考え方がなかなか伝わらない。

著者はその理由を、日本ではデザインの解釈が他の国々と違うからだという。

欧米で「デザインする」ということは、

●クライアントをよく観察し

●課題や問題点や強みを見極め

●オーディエンスや時代、市場を考慮し

●問題解決する方法を柔軟にクリエイティブに考え出し

●それを可視化して伝わるかたちに落とし込んでいく、

ということ。

それに対し日本の「デザインする」ことは、この最後のプロセスの一部である「見た目の良いものをつくること」であると考えられている。

つまりデザインとビジネスは別物と考えられている。

しかし、ブランディングにとってデザインは欠かせない。

ブランディングとは、

●戦略的に企業、商品やサービスの強みを引き出し

●環境や時代、消費者のニーズを踏まえながら

●消費者や社会に伝わるようなかたちで表現し

●企業のブランド価値を向上させる

経営戦略だ。

ブランディングは、「戦略」と「アウトプット」の両方が、クリエイティブで串刺しされてはじめて成り立つ。

世界のなかでの、ビジネスにおいての日本の強み。

それはなんといっても日本の技術力の高さ、商品の品質の高さだ。

では、日本の弱みとは何か?

それは伝えることが不得意だということ。

せっかく良いものをつくり素晴らしい志を持ってビジネスをしていても、伝わらなければ意味がない。

日本は実質的価値を上げることが得意だが、情緒的価値を上げることは苦手だ。

そして、ブランディングの最終目的は、「企業価値」を向上させ、お客様のロイヤリティを獲得すること。

いわば、お客さまに信頼してもらい、ファンになってもらうことだ。

その意味で、日本の企業は今こそブランディングに取り組むべきではないだろうか。

2020年8月13日 (木)

「コロナ以降」中国は世界最終戦争を仕掛けて自滅する/宮崎正弘

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 中国人の性格は二重人格が標準。石川五右衛門が長谷川平蔵に変身することに矛盾を感じない。つまり放火犯が消防士に化けたのが、各国にマスクを提供するという中国の「マスク外交」である。中国では、泥棒が逃げるときには、泥棒を追いかけるふりをするのだ。

コロナ以降、世界の中国への向き合い方が変わるのは目に見えている。

というか、もうすでにアメリカを中心に世界各国でその動きが出てきている。

著者が中国の状況をつぶさに観察していくと、次のような悲惨な実情が把握できるという。

第一は中国の社会的難題の深化である。

共産党幹部とその親族だけが豊かな暮らしをなし、全体を俯瞰すると富と貧困差の激しい拡大という現実がある。

「不平等の恒久化」は末端民衆の不満を堆積させる。

怨念の鬱積が深く沈殿している。

都会へ流れ込んだ流民も、不況となって建設現場にも職がなくなり、さらに貧窮化する。

貧富の構造が固定化しつつある。

第二に中国の外交的難題が一向に解決されず、明らかな矛盾があちこちで露呈したことである。

軍事力と豊饒だった外貨をバックに、台湾との断交を迫るなどの脅迫的外交、その強引すぎた中華圏拡大に軋みが出てでた。

習近平が目玉としてきた壮大なシルクロード・プロジェクト、すなわちBRI(一帯一路)が世界各地で蹉跌している。

第三は中国の内政問題の矛盾が露呈し始めていることだ。

デジタル機材を駆使しての国民監視システムはほぼ完成した。

と同時にAI全体主義システムの弱点が露呈した。

日本の産業界の認識ではAIの開発は平和目的であり、経済の効率化、暮らしの向上を目ざした発明であるにもかかわらず、中国は最初から軍事転用だけを狙った。

コロナを機に、世界の中国への見方が明らかに変わってきた。

特にアメリカはそれが露骨にあらわれてきた。

この結末はどうなるのか。

もし通常戦争が勃発しても、それは局地戦に留まるか、代理戦争のレベルでおさまるだろう。

というのも、核兵器をお互いが飛ばしあうとなれば、人類の滅亡につながる。

そのことは、米中ともに共通認識であり、世界の常識である。

だが、現在の米中対立は事実上の戦争状態である。

高関税をかけあった貿易戦争は、ファーウェイ排除などハイテクの争奪をめぐる技術戦争に移行している。

サイバー戦争も見えないところで進行中だ。

次に中国の在米資産の凍結といった金融戦争となるといわれている。

これらの動きは今度ますますエスカレートしていくのか、それともどこかで歯止めがかかるのか?

目が離せない。

2020年8月12日 (水)

他人を支配したがる人たち/ジョージ・サイモン

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 人を追い詰め、その心を操り支配しようとする者──「マニピュレーター」は、聖書に書かれた「ヒツジの皮をまとうオオカミ」にじつによく似ている。人あたりもよく、うわべはとても穏やかなのだが、その素顔は悪知恵にあふれ、相手に対して容赦がない。ずる賢いうえに手口は巧妙、人の弱点につけこんでは抜け目なくたちまわり、支配的な立場をわがものにしている。

攻撃行動は基本的にふたつのタイプに大別することができる。

「潜在的攻撃性」と「顕在的攻撃性」だ。

みずからの目的や到達点をきちんと定め、その実現や獲得に向けて、うそ偽りのない、明白な態度で人と競い合うのなら、それはまぎれもない顕在的攻撃性に分類される。

だが、〝勝つ〟ことに執着するあまり、手段は選ばず、その意図を隠すために、陰にまわって人をあざむくのなら、そんな行動は潜在的攻撃性だと考えたほうが適切だろう。

攻撃性パーソナリティーは多くの点でナルシストの特徴と一致している。

そのため攻撃性パーソナリティーは自己愛性パーソナリティーの変形だと考える専門家もいて、実際、このタイプが自分に対して抱く過剰な自信、自己陶酔ぶりはよく知られている。

関心の対象は自身の欲望やみずからに課した目的や計画と、すべては自分にかかわるものばかりだ。

そして、目的の前に立ちはだかるものは、人であろうがなんであろうがその存在は断じて許そうとしない。

攻撃性パーソナリティーは5つの基本タイプに分類できる。

①非抑制的攻撃性パーソナリティー

②擬似適合的攻撃性パーソナリティー

③加虐的攻撃性パーソナリティー

④略奪的攻撃性パーソナリティー(サイコパス)

⑤潜在的攻撃性パーソナリティー

まずは〈非抑制的攻撃性パーソナリティー〉

このパーソナリティーの持ち主は、他者への敵意を隠したりはしない。

凶暴な言動も多く、しばしば犯罪的だ。

「反社会的」というレッテルを貼られるのがこのタイプで、すぐカッとなり、恐れや警戒心を正常に感じ取る能力が欠け、衝動的で向こう見ずでもある。

次に〈擬似適合的攻撃性パーソナリティー〉

このタイプも〝潜在的〟ではなく〝顕在的〟な攻撃性だ。

そして、ビジネス、スポーツ、司法、軍隊といった、好戦的であることが社会的に受け入れられている分野に攻撃の矛先が限られている場合がほとんどである。

タフであること、がんこであること、負けず嫌いといった特徴は、この場合むしろ賞賛の対象となっている。

競争や勝負の場では、「ひとつもんでやろう」「かわいがってやれ」などといった好戦的な言葉を好んで口にしている。

〈加虐的攻撃性パーソナリティー〉

これも顕在的攻撃性に分類されるパーソナリティーだ。

多くの攻撃性パーソナリティーがそうであるように、加虐的攻撃性パーソナリティーも権力に勝る地位を求め、人の支配を欲する。

だが、このタイプがほかと異なるのは、加虐的攻撃性パーソナリティーの場合、被害者が苦しみ、弱者としてはいつくばるその姿にとりわけ満足を覚えるという点だ。

〈略奪的攻撃性パーソナリティー〉

略奪的攻撃性パーソナリティーこそもっとも危険な攻撃性だ。

〝サイコパス〟〝ソシオパス〟と呼ばれるものこそ、この略奪的攻撃性パーソナリティーにほかならない。

攻撃性パーソナリティーの5番目の下位タイプが潜在的攻撃性パーソナリティーだ。

ほかのタイプと同様、このタイプもナルシストに通じる特徴があるのではと考えられるかもしれない。

だが、潜在的攻撃性パーソナリティーの場合、このタイプ特有の特徴が数多くあるので、それによってほかのタイプとはまぎれもなく異なる攻撃性パーソナリティーであることがうかがえる。

他人を支配したがる人はどこにでもいる。

そして大抵、その接し方に苦慮する。

場合によっては組織や人間関係に大きな問題を引き起こすこともある。

人間関係をめぐる大半のトラブルは、かたや精神的には独立して他者に対しては攻撃的である側と、その一方で、不安定な自分を抱え、他者に対してすがろうと必死になっている者のあいだで起きている場合がほとんどだ。

健全な性格の持ち主とは、本能的な衝動を抑制できる人のことだ。

自らの行為をその意味に照らし合わせて調整できる。

しかし、中には自らの攻撃性をコントロールできない人もいる。

そのことを十分理解しておく必要があるのではないだろうか。

2020年8月11日 (火)

人生を豊かにしてくれる「お金」と「仕事」の育て方/松浦弥太郎

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 自分が感動することに投資を続けましょう。いつかそれが、人を感動させることにつながります。

古書販売からスタートし、「暮しの手帖」編集長を務めた後、IT業界へ進出した著者。

その基本的な考えは好きなことを続けるということ。

もっともレバレッジが効く投資は、自分が感動することへの投資。

いろんなことを面白がって、楽しんで、何かに感動するようなライフスタイルを続けるために投資をする。

本を読んで主人公に共感する。

悲しい映画を観て泣く。

好きなアーティストのライブに行って興奮する。

一流レストランで美味しい料理と一流のサービスを体験する。

旅に出て知らなかった文化に触れる。

そうやって何かに感動することが、大きな実りにつながる。

感動すれば、誰かに伝えたくなる。

人に会って話をしたり、文章に書いたり、その感動を絵にする人や音楽にする人もいるかもしれない。

そうやって感動が人を動かす。

好きなことは、立派なことでなくていい。

好きなことそのものではなく、好きなことへの情熱が、人の心に響き、共感を呼ぶ。

確かにこんな生き方ができたらいいだろうなと思う。

ただ、こんな生き方ができている人はわずかだと思う。

これが難しいところだ。

2020年8月10日 (月)

日本沈没/小松左京

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「最悪の場合……」
 田所博士は、ごくりと唾をのみこんだ。
「──これは、地震の被害の大小にはかかわらずだ。……最悪の場合──日本列島の大部分は、海面下に沈む……」
 凍りついたような沈黙が、部屋の中におちてきた。

50年前に本書が原作の映画を観たことがある。

その当時は単なるフィクションとしてパニック映画として楽しく観たことを覚えている。

しかし、最近感じているのは、日本人は自然災害とともに生きてきた国民だということ。

地震、津波、台風と、毎年様々な災害に見舞われる。

そして、今年はコロナである。

今後も、日本沈没とまでいかなくても、それに近い災害に見舞われる可能性は十分ある。

大災害やパニックのシミュレーションにとどまらず、組織論や危機管理論、日本人論といった様ざまな要素をもつ小説で、一気に読んでしまった。

2020年8月 9日 (日)

認知症の人の心の中はどうなっているのか?/佐藤眞一

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 何度も同じことを尋ねるのは、それがその人にとってとても大事なことであり、気になっているからです。
 ところが、認知症になって物事を記憶する力(記銘力)が衰えると、自分がさっき同じことを尋ねたという事実を、覚えていません。大事なことだから気になっているのに、どうなっているかわからないから、不安になって尋ねる。この繰り返しです。

認知症の高齢者(65歳以上)は、厚生労働省の調査によれば、2012年には462万人だったが、団塊の世代が全員後期高齢者(75歳以上)になる2025年には、約700万人になると推計されている。

これは、65歳以上の人の5人に1人の割合。

私の実母も85歳だが、認知症の症状がところどころ出てくるようになってきている。

何度も同じことを尋ねるなど、そんな症状も出てきた。

そんなことがあって本書を読んでみた。

自分で決めたことを自分でできない。

自分の行動を自分でコントロールできない。

これが自律の失われた状態であり、人にとって、非常につらいことだ。

なぜならば、人は本来、自律的な存在だから。 

認知症の人は、この自由が奪われた腹立たしさ、自己決定できないつらさが、日常のすべてにわたって起こってくる。

しかもそれは、ほかの誰のせいでもない、自分の病気のために起こる。

自分で自分をコントロールできないこと。

その原因が自分の内部にあること。

他者に依存せざるを得ないこと。

それらすべてが、誇りを持って自律的に生きてきた自分の身に起こる。

まず認知症とはどのようなものか理解して接することが大切なことではないだろうか。

自分もそうなってしまうかもしれないのだから。

2020年8月 8日 (土)

寛容力のコツ/下園壮太

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 人に寛容でありたい。そう思うのなら、自分にも寛容である必要があります。相手を許す前に、自分を許すことが大切なのです。寛容力を高めるためのコツは、ここにあります。

寛容力を身につけたいという前に、自分を不寛容にさせる「怒り」や「イライラ」がどうして起こるのか考えることが、とても大切だ。

寛容力がほしいなら、もっと「生身」の人間について知ること。

人間というものは、完璧ではない。

一定ではない。

一貫性もない。

その「事実」を知ることがとても大切。

その上で、有効なやり方が示されている。

例えば、自分にOKを出す「サイコーの評価法」というものが紹介されている。

一日が終わったら、

●よかったところ、三つ

●悪かったところ、一つ

●今後の改善点、一つ

を挙げて、自分を前向きに評価し、自分にOKを出す。

ただ、これだけ。

もうひとつ有効なのが、怒りに関する名言や格言をつぶやいてみること。

たとえば、「短気は損気」のようなシンプルなものや、

徳川家康の「怒りは敵と思え」、

トルストイの「憤怒は他人にとって有害であるが、憤怒に駆られている当人にとってはもっと有害である」といった言葉もある。

ボーヴォワールは、「どうにも乗り越えられない障害にぶつかったときは、頑固さほど役に立たないものはない」といっている。

オードリー・ヘップバーンは、「いばる男の人って、ようするにまだ一流でないってことなのよ」といったそう。

好きな小説家や俳優、スポーツ選手、歴史上の偉人などの言葉から、お気に入りの「怒りを収める言葉」を見つけて、いざというときにつぶやいてみること。

更に、怒りは人を視野狭窄に陥らせるので、次のような「七つの視点」から出来事をとらえ直してみる。

①自分視点

・私は何が一番傷ついた?

・私は疲れている?

・私は最近、嫌なことが積み重なっている?

・私は相手に何か恨みがあった?

・私がいったことは正しい?それとも思い込み?

②相手視点

・相手は何をしたかった?

・相手は何か不安や不満があった?

・相手は何か伝えたいことがあった?

③第三者視点

・他の人から見たら、自分はどう見える?

④宇宙視点

・宇宙から(上から)見たら、自分はどう見える?

⑤時間視点

・(たとえば)一カ月後は、部下との関係はどうなっている?

・(たとえば)三年前は、自分は(部下と比べて)どうだった?

⑥感謝視点

・相手に感謝できるとすれば、どんなこと?

⑦ユーモア視点

・この出来事を笑いのネタにするとすれば?

このように、さまざまな方向に視点を広げてみることで「違うとらえ方」ができるようになる。

感情をケアする方法は、野球の素振りと同じ。

上達するためには繰り返し繰り返し地道に練習することが大切。

そして、必要に応じて自分なりの工夫を加えていくことで、本当に使える、本当に役立つスキルになっていく。

いくつか試してみて自分の「得意技」とすればよいのではないだろうか。

2020年8月 7日 (金)

近代中国史/岡本隆司

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 われわれはかように異形の経済世界と隣り合わせにいる。自らの常識では理解不能な相手と、否応なくつきあっていかねばならない。

本書は経済史の視座から16世紀以降の中国を俯瞰し、その見取り図を描いている。

かつて世界に先んじた中華帝国は、なぜ近代化に遅れたのか。

現代中国の矛盾はどこに由来するのか。

グローバル経済の奔流が渦巻きはじめた時代から、激動の歴史を構造的にとらえなおす。

日本で経済成長といえば、「ものづくり」であり、技術開発である。

「世界の工場」となった中国でも、もちろん製造業が盛んではある。

しかし、創意工夫を旨とし、先端技術を競う「ものづくり」を中国で想像することはおよそできない。

自前の技術だと言い張って運行をはじめた中国版新幹線・高速鉄道は、その好例である。

そこからすぐ連想するのは、技術やパテント、あるいは著作権を尊重しない態度であり、いわゆる「パクリ」や海賊版が横行する現状も、その根源は同じだろう。

それでどうして高度成長が可能だったのか。日本人の感覚では、どうにもわかりにくい。

例えば「国民国家」という言葉のとらえ方。

日本や欧米では、国家と国民が曲がりなりにも一つの共同体をなしているというイメージだ。

しかし、少なくとも史上の中国は、両者一体とならない二元的・重層的な社会構成だった。

私たちは普通に「国民」という。

それは「国」と「民」が一体化したnationのことであり、その翻訳語である。

欧米や日本の近代国家はそれが基本構造をなしている。

しかし、中国は歴史的に「国」と「民」が一体にならなかった。

「国」はあくまで王朝、統治機構にすぎない。

漢・唐・明・清などの王朝名は、普通に「天下を有する称号」といわれる。

王朝政府が「天下」、すなわち民間社会を領有している、という世界像なのであり、「国」と「民」とは、互いに領有の主体・対象となるべき外者、よそ者であった。 

それは現在の税制にもあらわれている。

現在の日本では、所得税・法人税・消費税の割合に大きな差はない。

額でいえば、個人が負担する所得税が最大、企業が負担する法人税が最少である。

それと比べれば、中国の所得税収入は、微々たるものである。

税収全体の一割にも満たない。歳入の多くを占めるのは、法人税と日本の消費税にあたる種々の間接税である。

中国はこのように、権力が相手にする社会とそうでない社会とに分かれている。

前者は納税に応じるごく一握りの富裕層の人々が構成している。

直接に政府権力を支えているのは、そんな納税階層だったわけで、かれらの支持を失えば、権力は存立しえない。

政府権力にとっては、その存立を依存する納税階層から見離されないようにすることが問題だった。

そうしたしくみと思考法が、収支黒字の時に減税免税を実施させ、赤字の時でも増税を躊躇させて、財政の縮小と歳出の欠乏をもたらし、いよいよ文武官僚の俸給は薄くなって、不正汚職を再生産する。

それが清代、いな中国の王朝時代にくりかえされた政治過程だ、といっても過言ではない。

「士」「庶」・「官」「民」の二元構造に、公的な教育・政治の不在。

一方通行的な収奪。

これが少なくとも明清時代・数百年間にわたる、中国社会の基本的な特徴である。

政府権力はいわば、乗っかっているだけで、とても社会を掌握していたとはいえない。 

そして、その矛盾が今に至るまで続いているということではないだろいうか。

2020年8月 6日 (木)

感情リセット術/樺沢紫苑

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 近年の脳科学研究によって、「感情」や「気分」は物質に還元されることがわかってきました。つまり、「心」の変化と思われていたことが、実は脳内物質やホルモンの増減であると解明されています。
 言い換えると、「苦しい」や「楽しい」といった感情は、脳内物質、ホルモンの変化にすぎないのです。

世の中の悩みの9割は、「ネガティブな感情」が原因だと著者はいう。

そしてそのようなネガティブな感情は脳内物質やホルモンの変化によるという。

例えば、「苦しい」状態では、「ノルアドレナリン」「アドレナリン」「コーチゾール」という「3大ストレスホルモン」が分泌される。

「楽しい」もまた脳内物質の変化で、楽しいときに分泌する脳内物質が「ドーパミン」「エンドルフィン」「セロトニン」。

ドーパミンは、「幸福物質」とも呼ばれ、目標を達成したとき、夢や願望が実現したときに分泌される。

「やったー!」と達成感を感じているときは、ドーパミンが出ている状態。

あるいは、何かこれから楽しいことがあるという「ワクワク」した気分のときにも分泌される。

また、大好きなあの人のことを考えて「ドキドキ」するときにも出てくる。

ドーパミンは、目標を設定し、困難を克服し、自分の壁やハードルを突破したときに分泌される。

何かにチャレンジし、人間を進歩と向上へ駆り立てる、モチベーションの源となる物質だ。

ドーパミンは、簡単すぎる課題をクリアしても分泌されません。ある程度の難易度、困難を乗り越えてはじめて分泌される。

また、脳のなかでは、「やらされ感」を持つとノルアドレナリンが分泌され、「自発的」にやればドーパミンが分泌される。

モチベーションをつかさどる、脳の「側坐核」。

この部分は「報酬」をもらうことで興奮する。

楽しい、嬉しいといった感情はもちろん、仕事で何かを達成したり、人からほめられたり、誰かに愛されたり。こうした「精神的な報酬」が側坐核を興奮させ、やる気物質ドーパミンの分泌をうながしてくれる。

報酬を与えると脳は勝手に頑張ってくれる。 

ドーパミンを出し続け、モチベーションを常に高く保つには、より高い目標設定と、今まで以上のご褒美を自分にあげることが重要。

人間が持つモチベーションはたった2つしかない。

「楽しさ、褒美、ほめられるために頑張る=快適なことを求める」ドーパミン型モチベーションと、「恐怖や不快や叱られることを避ける=逃げるために頑張る」ノルアドレナリン型モチベーション。

この2つだけ。

なぜ、追い込まれると、実力以上の力を発揮できるのか?

これもまた、脳内物質で説明できる。

人は追い込まれると、ノルアドレナリンとアドレナリンが分泌される。

「苦しい」の元になるこれらの脳内物質だが、元々は、危険な状態から一刻も早く抜け出すために、心と身体の能力を瞬時に高める物質。

ノルアドレナリンは集中力を高め、脳機能を活性化する。

アドレナリンは筋力をアップし、身体能力を高める。

つまり、人は追い込まれたときに、高い能力を発揮できるように設計されているのだ。

「火事場の馬鹿力」は、ありえる話。 

マッサージを受けているときの「気持ちよさ」や「リラックス感」、大自然のなかで感じられる「やすらぎ」は、セロトニンによるもの。

セロトニンは「癒しの物質」とも呼ばれる。

笑顔をつくるだけで、感情がリセットされるのも脳内物質の働き。

笑顔をつくるだけで、感情をリセットする3種類の脳内物質が分泌される。

まず、癒しの脳内物質、セロトニン。

セロトニンは表情筋をコントロールをしている。

逆も真なりで、「自然な笑顔」をつくるだけでセロトニンを活性化することができる。

2つ目が、幸福物質のドーパミン。

ドーパミンが分泌されると、楽しい、幸せな気持ちになる。

3つ目が、脳内麻薬エンドルフィン。

エンドルフィンが分泌されると、感謝、感動など幸福感が最高レベルに増幅される。

さらに、笑顔はストレスホルモンの働きを低下させ、血圧や血糖値も下げる。

副交感神経を優位にしてリラックスをもたらす。

笑顔は、脳科学的にも高い感情リセット効果があることが証明されている。

成長ホルモンを分泌させる簡単な方法が、「運動」と「睡眠」。 

運動は、セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンという主要な脳内物質の放出を調整する。

いつも「笑顔」で過ごし、適度な「運動」を習慣化し、よい「睡眠」をとること。

これが重要ということであろう。

2020年8月 5日 (水)

社会学入門/稲葉振一郎

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 社会科学において実験の代わりとして重要になってくるのが、第一に統計的な大量観察、そして第二に歴史研究です。

社会学的な関心からすれば、失業率との関連でよく注目されるのは、たとえば犯罪に関する数字だ。

おおまかにいうと、失業率と犯罪に関する数字はかなり連動する。

更に当然思いつくのは自殺だ。

「不況になると自殺者が増える」とはよくいわれる。

全体としての傾向を見たときには、自殺率と失業率は似たような動きをしている、ということが分かる。

連動している複数の数字の組み合わせを見つけ出していくことが、統計数字を見ながら社会について考えるときの基本だ。

つまり、複数の数字を見たときに、それらの数字の間に一定の規則的な関係が成り立っているらしい、ということを見つけ出していく作業が、社会の科学的な分析の第一歩であるといってもよい。

なぜこれらの数字が連動しているのか、その理由を考えなくてはいけない。

数字の連動という現象の背後にある現象を生み出すメカニズム、つまりどのような因果関係があるのかを考えないといけないわけだ。

このメカニズムを説明するものが社会学というもの。

そう考えると、社会学とは意外と身近なものであることがわかる。

2020年8月 4日 (火)

行政学講義/金井利之

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 戦後一貫して、首相など内閣を補佐する組織体制の強化が求められてきました。しかし、首相を支えるべき総理府は、中身のない組織なので、役に立ちませんでした。総理府に大臣庁を置くと、それ自体が独自の基本単位になってしまいます。総理府は、これといった明確な所管事務を持たないので、総理府に本拠を置くキャリア官僚集団が成長しませんでした。そのため、内閣官房の強化が一貫して求められてきたのです。

行政学とは、私たちに支配の権力を及ぼす行政の目に見えにくい作用を、何とかして明らかにしようという学問である。

現代日本の統治は、民主主義に基づいているとされている。

では、民主主義とは何なのか。

本書では単純に、支配を受ける人々が、同時に支配者でもある、という「統治者と被治者の同一性」という考え方であるとしている。

政治と行政とは、支配を行う為政者集団のなかにおける上下関係を意味しているともいえる。

初期の明治体制においては、藩閥が上位支配者集団なので、その者達が政治家。

そして、藩閥のもとで下働きをするのが、行政職員に相当する。

現代では政治家とは、統治者集団のなかで、試験制度を通じないで、上層の幹部要職を占める集団。

行政職員とは、統治者集団のなかで、試験制度や資格任用制度を通じて形成される集団。

そして、行政職員のなかでも、上層の要職を占める行政幹部職が、しばしば「官僚」と呼ばれる。

それ以外の中下層を占めるのは、「吏員」と呼ばれる。

日本国憲法第15条は、以下のように定めている。

①公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

②すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

③公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。

④すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。

ひっかるのは、②の「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」の部分。

素直に読めば、政権与党や内閣が、官僚の人事権を握ることはあってはならないということになる。

しかし、組織の論理から言えば、内閣が官僚の人事権を握らなければ、官僚は政治家のいうことを聞かないかもしれない。

そして、その矛盾から起こったのが「忖度」である。

このあたりが、今後の課題となってくるのではないだろうか。

2020年8月 3日 (月)

伸びる新人は「これ」をやらない!/冨樫篤史、安藤広大

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 すぐに決める、決めたらすぐやる、間違えたら修正して何回もやる――、とにかく実行すること。新人の皆さんにとって、PDCAサイクルでもっとも重要なのは「D」、すなわち実行であることを意識してください。

PDCAサイクルを回すことが大事だということはよく言われる。

ところが、新人のなかにはPDCAの最初の「P」、すなわちPLAN(計画)にどうしてもこだわってしまう人がときどきいる。

そうした新人は、計画することに精一杯で、時間だけが経過してしまう状況に陥りがち。

何しろ、まだまだ経験が少ないので、成功パターンも把握できていない。

ベテランの先輩社員なら一瞬で排除するような選択肢まであれこれと考慮し、心配し、結局は最低限の回数しか実行できずに終わるというパターンも多い。

新人のうちはそれでは成長できない。

失敗できるのは新人の特権だ。

また新人のうちは失敗しても大きな損害にならないような仕事が割り振られるもの。

なので、心配性な人も割り切って、あまり先回りして心配しないように意識し、とにかく実行と修正を繰り返すことを重視すること。

特に新人の頃は、まずは実行してみること。

そして、「あ! ここが間違っていた」とミスに気づいた場合は、スムーズに進んでいた場合とのギャップを明確にして、そのギャップを埋めていく作業を素早く繰り返す。

つまり、微修正を繰り返しつつ進むほうが、より早く正解に近づける。

成功に近づく一番簡単な方法は、まず自分の権限・責任の範囲内で決められることを決めて実行し、そのことで生じたギャップの認識をして修正する。

この作業を何度でも繰り返すこと。

これが、新人が確実に成功に近づく王道であり、これしか方法はないということさえできる。

新人は、どれだけ多くの失敗を経験できるかが「成長の幅」になる。

実行しないことこそが何より危険なこと。

新人は、自分が「これでいく」と決めたら、とにかく実行する。

そして、速やかに失敗するくらいでいい。

あれこれとリスクを考えて、何もせずに時間がすぎて成長が遅れてしまうことをこそおそれること。

おなじPDCAサイクルであっても、ベテランと新人とでは力を入れる部分が違うということは覚えておいてよいだろう。

2020年8月 2日 (日)

なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか/野嶋剛

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 日本で新型コロナウイルス対策が本格的に動き出し、国民的な関心事となったのは3月からだった。しかし、台湾では1月から2月にかけて、政府として、社会として、「やるべきこと」をやり終えていた。

今回のコロナ対策で一番うまくやった国は台湾だろう。

中でも初動の速さは目を見張るものがある。

ウイルスの情報は12月末には情報は台湾政府にも入っていた。

ただ、武漢、肺炎、SARSという断片情報だけでは、まだなんとも掴みようがない話であり、政府として動きを取ることはできない。

当時、台湾の保健衛生を担当する衛生福利部の傘下にある疾病管制署の副署長であった羅一鈞は、数日間、睡眠時間を削って必死に中国と台湾のネットを見つめ続けていた。

それは、台湾政府が防衛策に動くべきかどうか、判断材料となる何らかの「証拠」を探し出すためだ。

そのようにして、たどり着いたのが、武漢市衛生健康委員会の通達だった。

その内容はこんなものだった。

「原因不明の肺炎治療状況に関する武漢市衛生健康委員会の緊急通知」というタイトルで、

「各関係医療機関へ:上部機関の緊急通知によれば、当市華南海鮮市場で原因不明の肺炎患者が現れている。

対応作業のため、各単位は至急この1週間に診察した類似する原因不明の肺炎患者の統計を取り、本日午後4時前に統計表を市衛生健康委員会医政医管処までメールで送るように」と書かれていた。

日付は12月30日だった。

この文書は武漢市が正式に発出したものであり、その真実性は高いことが見て取れた。

羅一鈞はそのまま睡眠を取らずに、早朝までにこの通知に加えて、武漢市で27人の感染者が確認され、うち7人は重篤な症状であるとの別ルートで得た情報も含めた資料を一気にまとめた。

そして自らが所属する衛生福利部に対して緊急レポートを提出し、すぐさま台湾政府内で共有された。

この12月31日に、台湾政府は対外的にも重要なアクションをとっている。

中国政府に対して、事実確認のための問い合わせを送った。

さらにWHOに対して、通報を行っている。

情報の把握、閣僚会議、検疫体制の強化、中国への確認、WHOへの通報、そして、国民への注意喚起。

これだけのメニューが12月31日に行われた。

新型コロナウイルスの特徴は、その狡猾さにあったというのが衆目の一致するところだ。

潜伏期間が比較的長く、発症しない人や軽症で終わる人も多いが、約2割の人は重症化し肺炎を引き起こす。

肺炎に至るとなかなか治療は難しい。

やっかいなのは、症状が出ていない不顕性の感染者がさらなる感染を引き起こす点だ。

静かにこっそりと社会のなかに潜り込み、いつの間にか感染者を広げている。

だから、初動が大事なのだ。

日本はこれができなかった。

情報に対する感度の低さは、あの戦争での敗戦にもつながった。

今後はますますこの情報が大事な時代に突入するのではないだろうか。

2020年8月 1日 (土)

「新型コロナ恐慌」後の世界/渡邉哲也

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 感染の終息が長引くほど、中国への反発と中国離れが加速していくことになる。同時に、グローバリズムが終焉していくことになるだろう。

今回のコロナショックによって、二つのことが起こるといっている。

一つは中国離れ、そしてもう一つはグローバリズムの終焉である。

平成はグローバリズムの始まりの年でもあった。

1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊すると、翌年には東西ドイツ統一が実現。

そして、91年12月のソ連崩壊へと一気に進み、戦後長らく世界を分断していた東西冷戦が終結した。

米ソ対立に勝利したアメリカは覇権国となり、アメリカ支配による平和の時代、「パックス・アメリカーナ」が訪れたといわれるようになった。

資本主義が共産主義に勝利し、敵対国家が消滅したことで、世界に統一ルールに基づく資本主義を広げ、「ワンワールド」を実現しようという考えが広まった。

国境という壁をなくし、ヒト・モノ・カネの移動の自由化を実現する。

それによって世界経済はより効率的になり、世界の人びとはより豊かになることができる。

これがグローバリズムである。

冷戦時代の大きな国家から、国家の役割を小さくし民営化を進める「新自由主義」と呼ばれる経済政策路線が主流となり、これがグローバリズムを後押しした。

だが、ヒト・モノ・カネの移動が自由化されると、先進国の企業はこぞって低賃金の開発途上国へ生産拠点を移し、そのなかから世界中で生産、販売を展開するグローバル企業が誕生した。

そして、グローバリズムの恩恵を受けて急成長したのが中国であった。

豊富な資源と人件費の安さによって、多くの企業が中国に進出した。

中国はその技術を盗むことによってどんどん発展していった。

習近平政権になってから、中国はヨーロッパ、アフリカまでを陸路や海路で結ぶ「一帯一路」構想をぶちあげ、沿線国に対してインフラ建設への支援をもちかけてきた。

しかし、その実態は、「支援」といいながら高い利率で融資を行い、その国が返済不能になれば、建設したインフラの使用権を中国が奪うという「サラ金」的手法を展開している。

たとえば、スリランカのハンバントタ港などは、中国の融資を返済できないため、インフラの99年間にわたる使用権を中国側に渡すことになり、地元住民の反発を招いている。

そして今回のコロナである。

コロナ禍は中国の隠蔽体質を見事にあぶりだした。

多くに国が中国に反発した。

さらに最近の香港問題である。

今、アメリカは完全に反中国に変わった。

一部のメディアでは、ファーウェイをはじめとする中国企業の排除について、トランプ大統領の一存で行われているように報じられている。

しかし、これは2018年の国防権限法とEARというアメリカ議会が成立させた法律に則った措置であり、トランプ大統領は議会の指示に従っているにすぎない。

もしも大統領が何もしなければ、逆に国防権限法に違反したことになるのだ。

中国での新型コロナウイルスの感染拡大は、アメリカ企業の中国撤退をうながすという点で、EARによる中国との関係断ち切りをさらに加速させることになるだろう。

今回の事態は、世界に「チャイナリスク」を強く印象づけるだけでなく、中国のカネに依存してきた人たちをあぶりだし、彼らに大きなダメージを与える結果になった。

中国人旅行客が来ないため収入が途絶え、ウイルスの拡散によって国内の利用者も激減し、資金ショートによる倒産が進んだ。

日本は、内需がGDPの85パーセントを占める国である。

中国人のインバウンドが経済全体に与える割合は、せいぜい1パーセントにすぎない。

それに対して、日本人全体の消費や生産がとまった場合の影響は計り知れないものがある。 

日本は内需主導の国であり、インバウンドが期待できないならば、内需拡大のために具体的な施策が必要になる。

デフレの要因はさまざまだが、デフレ脱却には製造業の国内回帰と賃金の引き上げが重要である。

安易に外国人労働者を受け入れるのではなく、高付加価値の商品を日本人がつくることが重要である。

コロナ前と後とでは、全く違った世界になっていることは間違いないだろう。

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