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2020年8月20日 (木)

自分の中に毒を持て/岡本太郎

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 人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。

岡本太郎の言葉は常識で凝り固まった現代人に刺激を与えてくれる。

本書で印象に残った言葉は以下の通りだ。

自分に忠実に生きたいなんて考えるのは、むしろいけない。そんな生き方は安易で、甘えがある。ほんとうに生きていくためには自分自身と闘わなければ駄目だ。

自分らしくある必要はない。むしろ、〝人間らしく〟生きる道を考えてほしい。

つまり自分自身の最大の敵は他人ではなく自分自身というわけだ。自分をとりまく状況に甘えて自分をごまかしてしまう、そういう誘惑はしょっちゅうある。だから自分をつっぱなして自分と闘えば、逆にほんとうの意味での生き方ができる。

たとえ、結果が思うようにいかなくたっていい。結果が悪くても、自分は筋を貫いたんだと思えば、これほど爽やかなことはない。人生というのはそういうきびしさをもって生きるからこそ面白いんだ。

何でもない一日のうちに、あれかこれかの決定的瞬間は絶え間なく待ちかまえている。朝、目をさましてから、夜寝るまで。瞬間瞬間に。

「危険な道をとる」いのちを投げ出す気持ちで、自らに誓った。死に対面する以外の生はないのだ。その他の空しい条件は切り捨てよう。そして、運命を爆発させるのだ。

ぼくは口が裂けてもアキラメロなどとは言わない。それどころか、青年は己の夢にすべてのエネルギーを賭けるべきなのだ。勇気を持って飛び込んだらいい。

自分自身の生きるスジは誰にも渡してはならないんだ。この気持ちを貫くべきだと思う。

人間にとって成功とはいったい何だろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。

何かを貫こうとしたら、体当たりする気持ちで、ぶつからなければ駄目だ。

人生を真に貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。いのちを賭けて運命と対決するのだ。そのとき、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の味方であり、また敵なのである。

己を殺す決意と情熱を持って危険に対面し、生き抜かなければならない。今日の、すべてが虚無化したこの時点でこそ、かつての時代よりも一段と強烈に挑むべきだ。

ぼくは朝から夜まで、まる一日、絵を描き、文章を書き、彫刻にナタをふるう。全部まったく無条件に自分を外に向かって爆発させていく営みだ。この瞬間に、無条件な情熱をもって挑む。いのちが、ぱあっとひらく。それが生きがい。瞬間瞬間が新しい。好奇心と言えば、これが好奇心の源だろ

いまはまだ駄目だけれど、いずれ」と絶対に言わないこと。〝いずれ〟なんていうヤツに限って、現在の自分に責任を持っていないからだ。生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、現在に充実することだ。

そもそも自分を他と比べるから、自信などというものが問題になってくるのだ。わが人生、他と比較して自分をきめるなどというような卑しいことはやらない。ただ自分の信じていること、正しいと思うことに、わき目もふらず突き進むだけだ。

いつも言っているように、最大の敵は自分なんだ。

自信はない、でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また、それしかないんだ。意志を強くする方法なんてありはしない。そんな余計なことを考えるより、ほんとうに今やりたいことに、全身全霊をぶつけて集中することだ。

大切なのは、他に対してプライドを持つことでなく、自分自身に対してプライドを持つことなんだ。他に対して、プライドを見せるということは、他人に基準を置いて自分を考えていることだ。そんなものは本物のプライドじゃない。たとえ、他人にバカにされようが、けなされようが、笑われようが、自分がほんとうに生きている手ごたえを持つことが、プライドなんだ。

ほんとうに生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きることだ。それを忘れちゃいけないと思う。

人間は精神が拡がるときと、とじこもるときが必ずある。強烈にとじこもりがちな人ほど、逆にひろがるときがある。ぼくだってしょっちゅう行きづまっている。行きづまったほうが面白い。だから、それを突破してやろうと挑むんだ。もし、行きづまらないでいたら、ちっとも面白くない。

画家のゴッホも、行きづまりの結果、自殺した。彼はピストルを自分の身体に撃ち込んだんだけれど、その直前、丘の上で「駄目だ、駄目だ!」と叫んでいる姿を村の人が見かけている。彼はナマ身にピストルを撃ち込むことによって、自分の辿り着いた絶望的な芸術の袋小路をのり越えたんだ。しかしそのときはすでに遅かった。

生きるということを真剣に考えれば、人間は内向的にならざるを得ないのだ。また逆に、自分が内向的なために、かえって外に突き出してくる人もいる。だから内向的であると同時に外向的であるわけだ。これがほんとうに人間的な人間なのだ。歴史的に見て、英雄とか巨きな仕事をした人は、みんな内向性と外向性を強烈に活かしている。

動物を見てもわかるだろう、動物に内向性の動物はいない。人間だから、誰でもが内向性を持っているんだ。いくら派手に見える人間だって内向性を持っている。内向性で結構だと思えば、逆に内向性がひらいていく。

強い性格の人間になりたかったら、自分がおとなしいということを気にしないこと──それが結果的には強くなる道につながる。

もっと厳しく自分をつき放してみたらどうだろう。友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立してもいいと腹をきめて、自分を貫いていけば、ほんとうの意味でみんなによろこばれる人間になれる。

純粋に強烈に生きようとすればするほど、社会のはね返しは強く、危機感は瞬間瞬間に鋭く、目の前にたちあらわれるのだ。いつでも「出る釘は打たれる」。

激しく挑みつづけても、世の中は変わらない。しかし、世の中は変わらなくても自分自身は変わる。世の中が変わらないからといって、それでガックリしちゃって、ダラッと妥協したら、これはもう絶望的になってしまう。そうなったら、この世の中がもっともっとつまらなく見えてくるだろう。だから、闘わなければいけない。闘いつづけることが、生きがいなんだ。

ほんとうに生きようとする人間にとって、人生はまことに苦悩にみちている。矛盾に体当たりし、瞬間瞬間に傷つき、総身に血をふき出しながら、雄々しく生きる。生命のチャンピオン、そしてイケニエ。それが真の芸術家だ。その姿はほとんど直視にたえない。

最も人間的な表情を、激しく、深く、豊かにうち出す。その激しさが美しいのである。高貴なのだ。美は人間の生き方の最も緊張した瞬間に、戦慄的にたちあらわれる。

ひどくユニークで、突飛だと思われるかもしれないが。いま、この世界で必要なことは、芸術・政治・経済の三権分立である。モンテスキューの唱えた古典的な司法・立法・行政の相互不可侵というような技術的システムではなく、まったく新しい三つの原理のオートノミーを確立すべきだ。

明治百年以来、日本人はなりふり構わず、大変な背のびをしてきた。その成果で経済大国になったようだが。しかし国や組織ばかり太っても、一人一人の中身は逆に貧しくなってしまったのではないか。「日本人」は変身しなければならない。政治家よ、エコノミストよ、官僚よ、もっと人間になってほしい。

芸術と言っても、何も絵を描いたり、楽器を奏でたり、文章をひねくったりすることではない。そんなことはまったくしなくても、素っ裸で、豊かに、無条件に生きること。失った人間の原点をとりもどし、強烈に、ふくらんで生きている人間が芸術家なのだ。

ぼくが芸術というのは生きることそのものである。人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命をつき出し爆発する、その生き方こそが芸術なのだということを強調したい。〝芸術は爆発だ〟

全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッとひらくこと。それが「爆発」だ。人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発しつづけるべきだ。いのちのほんとうの在り方だ。

あるとき、パッと目の前がひらけた。……そうだ。おれは神聖な火炎を大事にして、まもろうとしている。大事にするから、弱くなってしまうのだ。己自身と闘え。自分自身を突きとばせばいいのだ。炎はその瞬間に燃えあがり、あとは無。──爆発するんだ。

今、この瞬間。まったく無目的で、無償で、生命力と情熱のありったけ、全存在で爆発する。それがすべてだ。

生きる──それは本来、無目的で、非合理だ。科学主義者には反論されるだろうが、生命力というものは盲目的な爆発であり、人間存在のほとんどと言ってよい巨大な部分は非合理である。われわれはこの世になぜ生まれてきて、生きつづけるのか、それ自体を知らない。存在全体、肉体も精神も強烈な混沌である。そしてわれわれの世界、環境もまた無限の迷路だ。

ぼくはこう考える。コミュニケーションを拒否するコミュニケーションをこそ人間存在の真ん中に主役としてすえなければいけない。情報化社会だからこそ、単なる理解を超えた超情報にもっと敏感に、真剣になるべきだ。ここで、とりわけ無目的な情報を提供する呪力を持った「芸術」の意味が大きく浮かびあがってくる。 

芸術は呪術である。というのがぼくの前からの信念だ。その呪力は無償のコミュニケーションとして放射される。無償でなければ呪力を持たないのだ。

ほんとうの芸術の呪力は、無目的でありながら人間の全体性、生命の絶対感を回復する強烈な目的を持ち、ひろく他に伝える。無目的的だからこそ。

繰り返して言う。何度でもぼくは強調したいのだ。すべての人が芸術家としての情熱を己の中に燃えあがらせ、政治を、経済を、芸術的角度、つまり人間の運命から見かえし、激しく、強力に対決しなければならないと。つまり、合理に非合理をつきつけ、目的的思考のなかに無償を爆発させる。あいまいに、ミックスさせることではない。猛烈に対立し、きしみあい、火花を散らす。それによって人間は〝生きる〟手ごたえを再びつかみとることができるだろ

何でもいい、見物人ではなく、とにかく自分でやってみよう。動いてみよう。日常のなかで、これはイヤだな、ちょっと変だなと思ったら、そうではない方向に、パッと身をひらいて、一歩でも、半歩でも前に自分を投げ出してみる。出発は今、この瞬間から。

強烈に生きることは常に死を前提にしている。死という最もきびしい運命と直面して、はじめていのちが奮い立つのだ。死はただ生理的な終焉ではなく、日常生活の中に瞬間瞬間にたちあらわれるものだ。この世の中で自分を純粋に貫こうとしたら、生きがいに賭けようとすれば、必ず絶望的な危険をともなう。 

人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきだ。それが誇りだ。死ぬのもよし、生きるもよし。ただし、その瞬間にベストをつくすことだ。現在に、強烈にひらくべきだ。未練がましくある必要はないのだ。

この1冊の本の中に、少なくともこれだけの刺激にあふれた言葉がある。

今の自分の生き方にカツを入れられたような感じだ。

でも、すごく気持ちいい。

こんな人、もう現れないだろうな。

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