« イラッとされないビジネスメール/平野友朗 | トップページ | 台湾物語/新井一二三 »

2020年9月24日 (木)

ヨーロッパ近代史/君塚直隆

Photo_20200919065301

「ルネサンスとは、世界の発見であり、人間の発見である。一六世紀までには、コロンブスからコペルニクスへ、コペルニクスからガリレオへ、地球の発見から天空の発見へと人類はたどりついたのである」。

古代ローマ帝国が崩壊したのちの中世ヨーロッパはまさに「神の時代」であった。

人々はキリスト教の神を畏れ、敬い、神のために生きた。

それがルネサンスの時代に入ってからは「人間」を再評価する動きが現れた。

人間の肉体も精神も決してくだらないものではない。

むしろすばらしいものなのだ。

これを表現する画家や彫刻家は、それが自身の作品なのだと署名を入れるようになった。

さらに宗教改革により、「神との関係」それ自体も個々人に限定できるようになった。

それまではローマ教皇庁を頂点に戴く教会なくしては、人は信仰にも救いにも与れなかった。

それが個々人の信仰のみによって義とされる時代へと変わっていったのだ。

この「個人」の登場こそがヨーロッパ近代のはじまりだった。

それはやがて近代科学の発展や、個々人の権利や信仰を尊重するという考えが拡がり、人々の生活に浸透していく.

それによって、最初はほんのひと握りの知識人階級や芸術家にのみ通用していた「個人」が、より多くの人々にも適用されるようになっていく。

それを促進したのが、啓蒙主義であり、市民革命であった。

18世紀前半までは、こうした知識や芸術は王侯貴族にのみ独占されてきた。

それが、フランス革命後の19世紀以降には、専門職階級や商工業階級、さらに世紀終わり頃までには労働者階級も、「個人」としての尊厳を保てるようになっていた。

それを大きく変えてしまったのが第一次世界大戦であった。

総力戦により、人々は身分や階級はもちろん、氏素性に関係なく、戦場に送り出されていった。

彼らの多くが自身のこれまでの人生とは縁もゆかりもない場所で命を落とした。

現代の戦争はもはや「英雄」など必要としなくなった。

必要なのは銃や大砲を撃ち、戦艦や戦闘機を操縦し、魚雷や爆弾を相手に撃ち込む兵士だけで事足りるようになったのだ。

人々が「神」から解放され、「個人」の尊厳が重要視されるようになったヨーロッパの近代において、それは王侯貴族から専門職・商工業階級という「市民」へと徐々に拡がりを見せていった。

それを「民主化の過程」と呼ぶことも可能であろう。

しかし、ここで忘れてはならないことは、「高貴なる者の責務」を信じこれを実践してきた王侯貴族はもちろんとして、種々の人権を享受されて「市民」として扱われるようになった人々には、必ず「個人」としての「責任ある態度」が要求されたことである。

たしかに選挙権がより下の階級や年齢層、さらに女性たちにまで拡大されたことは歴史的に見て重要なことである。

しかし選挙権とは、単に権利や政治的権力を意味したわけではない。

共同体における正規の構成員としての資格と、そこで責任ある態度をとる能力まで示すものになったのだ。

ヨーロッパ近代史が生みだした、「責任ある態度」に裏打ちされた「個人」という考えかたを、21世紀の私たちはもう一度見直してみてもよいのではないか。

そんなことをヨーロッパの近代史を学ぶことによって考えさせられた。

« イラッとされないビジネスメール/平野友朗 | トップページ | 台湾物語/新井一二三 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事