
戦略研究家マイケル・ハワードによると、一九六四年までに生じたほとんどの戦争の勃発は誤った情勢判断によるものとされる。もし為政者が正しい情報を得て情勢判断を下していれば、戦争以外の手段を選んだのかもしれない。
インテリジェンスという観点から歴史を振り返れば、この手の「情報の失敗」は有史以来繰り返されてきたことであり、それは為政者や軍人が情報を扱うことの本質的な難しさを示している。
外交や安全保障分野における「インテリジェンス」とは一体何か。
一般にインテリジェンスは生物の「知識、知能」の意味合いで使われるように、もともとは生物が「認識し、理解するための能力」である。
もし生物にインテリジェンスが備わっていなければ、食物を得ることも天敵から身を守ることもできず、すぐに死んでしまうだろう。
すなわち生命にとってインテリジェンスとは、自らの身の周りの様々な情報を取捨選択するための能力であると理解できる。
国家レベルのインテリジェンスについて言えば、それは「国家の知性」を意味し、情報を選別する能力ということになる。
英語圏ではインテリジェンスに「情報」という意味合いが与えられている。
ウェブスター大辞典には「知性」に続く二番目の定義として、「インテリジェンスとは敵国に関する評価された情報」とある。
今や国際政治や安全保障分野でインテリジェンスと言えば情報を指すが、同じ情報でもインフォメーションは「身の周りに存在するデータや生情報の類」、インテリジェンスは「使うために何らかの判断や評価が加えられた情報」といった意味合いになろう。
ちなみにCIAによる定義は以下の通りである。
最も単純化すれば、インテリジェンスとは我々の世界に関する知識のことであり、アメリカの政策決定者にとって決定や行動の前提となるものである。
イギリスにおいてインテリジェンスは、「間接的に、もしくは秘密裏に得られた特定の情報」の意味を持ち、アメリカのものに比べると情報源に重きを置いている。
本書においては国家が使用するインテリジェンスを「国益のために収集、分析、評価された、外交・安全保障政策における判断のための情報」という意味合いで使用されている。
ここで重要なのは、インテリジェンスが各省庁のためでも、政治家の知識欲を満たすものでもなく、「国益のため」という明確な目的の下で運用されているということなのである。
インテリジェンスの究極の目的は、「相手が隠したがっていることを知り、相手が知りたがっていることを隠す」、すなわち彼我の差を生み出すことなのである。
アメリカ国家情報長官室によると、国家インテリジェンスは以下のような機能を担っているという。
① 敵国に漏洩させることなく、政策決定者に対して有効な判断材料を提供する。
② 潜在的な脅威について警告する。
③ 重要事件の動向に対する情勢判断。
④ 状況の認知、確認。
⑤ 現在の状況に対する長期的な戦略的評価。
⑥ 国家の重要会議の準備、またその保全。
⑦ 海外出張の際の秘密保全。
⑧ 現在進行形の情勢に対する短期的な観測。
⑨ 重要参考人(特にテロ関連)に関する情報の管理。
恐らく世界で最も早くスパイや情報の重要性を見抜いたのは、古代中国の孫子であろう。
中国ではこの時代のスパイは「間」と呼ばれていたが、これは二つ折りにされた封書の間を覗こうとする行為に由来している。
日本でもここからスパイを間諜と呼ぶようになった。
孫子が「用間篇」としてスパイによる情報収集の重要性を説いたことはあまりにも有名だが、孫子がこの分野で卓越していたのは、それまでの占いによる情勢判断ではなく、人智、つまり人による情報収集手段を類型化しながら、その重要性を説いたことである。
孫子は、「聡明な君主やすぐれた将軍が行動を起こして敵に勝ち、人なみはずれた成功を収める理由は、あらかじめ敵情を知ることによってである。あらかじめ知ることは、鬼神のおかげで──祈ったり占ったりする神秘的な方法──できるのではなく、過去のでき事によって類推できるのでもなく、自然界の規律によってためしはかれるのでもない。必ず人──特別な間諜──に頼ってこそ敵の情況が知れるのである」
として、政治家や軍人がそれまでの超自然的な手段に頼ることを退けた。
このような孫子の思想は飛鳥時代には日本にももたらされ、その後日本のインテリジェンスの下敷きとなった。
アメリカで独立戦争が勃発すると、インテリジェンスの類まれなる能力を発揮したのは、後にアメリカ初代大統領となるジョージ・ワシントンであった。
ワシントンは暗号や秘密インクにも関心を示し、それらを活用した。
そしてそのような傾向は彼が初代大統領となってからも変わらず、1792年には連邦予算の12パーセントにあたる100万ドルもの費用が、秘密情報組織用の予算として計上されていた。
これは当時としては法外な金額であった。
太平洋戦線ではアメリカ軍が日本海軍の作戦暗号の解読に成功し、ミッドウェイ作戦での勝利や山本五十六連合艦隊司令長官機撃墜といった戦果を残している。
諜報活動で最も有名な事例が、1942年5月のミッドウェイ海戦であろう。
この時、ハワイで日本海軍の作戦暗号、JN‐25を傍受、解読していたジョセフ・ロシュフォート中佐率いる米海軍暗号解読班は、日本によるミッドウェイ攻略作戦について事前に把握することが出来た。
ミッドウェイ作戦における日本海軍の敗因は多々挙げられるが、米海軍が日本軍のミッドウェイへの攻撃意図を見抜いた時点で、日本側の勝利の見込みは薄くなっていた。
米海軍はこの情報を基に、持てる戦力を全力投入して日本海軍を迎え撃ったのである。
後知恵的ではあるが、アメリカの暗号解読に始まるミッドウェイでの日本海軍の敗北は、その後の戦争の帰趨を決定付けることになった。
暗号研究家デーヴィッド・カーンは、暗号解読が歴史の趨勢を変えた事例として、このミッドウェイとツィンメルマン事件を挙げている。
現代の国際社会ではアメリカですら一国では必要とする情報を収集できていない。
対テロやサイバー、組織犯罪の分野では各国のインテリジェンスは協力し合っており、アメリカを中心とした国際的な情報網が体系化されつつある。
他方、日本は各国の情報機関と形式上連携してはいるが、世界的なインテリジェンス協力の枠組みに参加できていない。
日本にとってこの問題は切実であると考えるべきではないだろうか。