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2020年10月13日 (火)

バッシング論/先崎彰容

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 どうしてこういう社会になってしまったのか。謝罪と反省に明け暮れ、異様に「美しい」社会をつくろうとしているのか。敵をつくりバッシングばかりしているのか。
 あらかじめ、結論をいいます。それは現在の日本社会から「辞書的基底」が失われているから、というのが筆者のだした結論です。

現代社会を、筆者は「辞書的基底を喪失した社会」と定義している。

「辞書的基底」とは、文字どおり辞書のことを思いだしてもらえればよい。

英文を読んでいて分からない単語に出くわすと辞書を引く。

たとえばLIFEと引くと「生活」とある。

何の疑いもなく、英単語の横に日本語の「生活」と書き込んで先を読み進めていく。

この際の信頼を支えているのは、他のどの辞書にも、LIFEの意味は「生活」のはずだと信じられているからで。

出版社が違っていても、同じことが書いてあると信じている。

これが「辞書的基底」のある状態。

しかし現代の情報化社会は、辞書的基底を喪失している状態。

辞書的基底のない社会では、どこまでいっても、精神の安定を得られない人間が溢れる。

新しさを追求することを唯一の基準に生きる限り、古いことはそれだけで価値を喪失する。

「古臭い」と言われることを何より恐れ、商品の濁流に翻弄され、消費すること、すなわち「自分」であることを強いられる。

「新しさ」を価値基準にしている限り、時間の積み重なりに注目する学問、すなわち歴史や道徳、国語といった科目は必然的に軽視されるようになる。

無色透明と化した「自分」の中を、時代の流行が現れては消えていく。

情報があらゆる分野を席巻している現代において、大切なのは、その情報のうちから何が「自分」にとって価値があり、何に価値がないのかを判断する基準の回復、つまり「辞書的基底」の回復だ。

と、著者は述べている。

極端な独善者と自己喪失者の奇妙な同居が、なぜ現在、おこっているのか。

ここまで正反対の人が混在する「極端な社会」に、なぜ、なってしまったのか。

社会全体にいい意味でのグレーゾーン、あいまいさ、精神的余裕がまったくない。

両極端に分裂してしまい、その間から湧きでてくるはずの「ゆたかさ」が失われてしまっている。 

今のような時代だからこそ、人間としての厚みを増し、時代に翻弄されずに判断する基底を、「自分」の中につくりだすことが必要になってくるのではないだろうか。

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