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2020年11月の30件の記事

2020年11月30日 (月)

皇帝たちの中国史/宮脇淳子

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 シナの歴史書は、シナ人が勝手に書きました。だから、中国人の「どこそこに、こう書いてある」を真に受けてはいけません。全然、当てにならないのです。 

本書に登場するのは、始皇帝、漢の武帝など古代シナの皇帝たちから、元のフビライ・ハーン、明の朱元璋、清の康熙帝など。

歴代皇帝たちの治乱興亡を中心に、これまでの通説を根底から見直している。

たとえば、「東夷・西戎・南蛮・北狄」という言葉がある。

自分たちは文明人、彼らは野蛮人だとして、中央の「文明人」が周囲の人々につけた呼称だ。

「東夷・西戎・南蛮・北狄」の中から漢字を使い、よその民族と交渉する人々が現れた。

彼らが、富を蓄え、都市を築き、都市の住民となり、「オレたちはお前らと違う。高い文化を持ち、豊かなのだ」と自らを区別したところから中華文明は始まった。

そのようにして、漢字の読み書きができ、都市に住むエリート階級が「中国人」になった。

つまり、「中国人」とは、もともと先進的な一民族として存在したわけではなく、生物学的なルーツは「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ばれた野蛮人そのもの。

彼らが互いに混血しあって、できあがったエリート階級にすぎない。

「中国人」とは、実は、「東夷・西戎・南蛮・北狄」の子孫だったのだ。

悪名高い「焚書」だが、あれは、その他の字で書かれた書物を焼き払ったもの。

後世、文明破壊のように悪く言われるが、実は、文字統一を主な目的とする措置だった。

焚書を行なわなかったら、文字統一はならず、文字統一がならなければ、シナの統一もなかった。

その後、王朝は何度も変わるが、幾度も分裂しながら、シナには再三再四、大帝国が出現する。

しかし、始皇帝が文字を統一しなかったら、それもなかった。

もちろん現在の中華人民共和国もない。

日本人には想像もつかない誤解もプロパガンダもたっぷりのシナの歴史。

中国5千年の歴史などというが、そもそも中国という国が5千年前からあったわけではない。

皇帝たちがそれぞれ異なる国をつくって、その国が交代しただけ。

シナの最初の皇帝である始皇帝のあと、武帝が建てた漢はまったく別の国家と見なければならない。

そうなると中華人民共和国はわずか70年の歴史しかないことになる。

たいていの国は、嘘をつかないまでも、史実を都合よく取捨選択し、誇張している。

また、関心のある史実を重視し、そうでないものは無視している。

歴史を学ぶ場合、それを前提にすべきということであろう。

2020年11月29日 (日)

喪失学/坂口幸弘

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 人生の歩みのなかで、私たちはさまざまなものを失いながら生きている。「生者必滅、会者定離」といわれるように、この世は無常であり、命あるものは必ず滅び、会った者とはいずれは別れる運命にあるというのが定めである。人生は喪失の連続であるといっても過言ではない。

近頃、「ロス」という言葉を見聞きすることが多い。

「パートナーロス」「母ロス」「父ロス」「ペットロス」といった言葉が、メディアで紹介され、特集が組まれたりしている。

著名人の結婚や引退、テレビ番組の終了などでも、ファン心理を象徴する表現として用いられている。

喪失の体験を積み重ねていくなかで、私たちは多くのことを学ぶことができる。

大切なものを失った経験を通して、人は成長できるともいえる。

米国の社会心理学者のジョン・H・ハーヴェイは、「重大な喪失」とは、人が生活のなかで感情的に投資している何かを失うことであると定義している。

悲痛な喪失を体験するということは、自分にとって心から大切と思える「何か」がそこに存在したことを意味している。

精神分析学の領域では、愛する人の死や親離れ・子離れなど、愛着および依存、あるいは自己愛の対象を失う体験は、「対象喪失」と呼ばれる。

そして、対象喪失において失われるものは、意識的あるいは無意識的に自分にとって大切なもの、慣れ親しんだものとして心に取り込んでいるもの、自分の一部のように思っているものであるとされる。

みずからが深く心を寄せる対象を失う重大な喪失は、ライフサイクルのさまざまな局面で生じる。

それらは、必ずしも悪い出来事や変化において経験されるとは限らない。

結婚や子どもの誕生、進学、昇進、困難な目標の達成など、良い出来事や変化にも必然的に喪失はともなう。

喪失体験は、失われた対象によって大きく、「人物」の喪失、「所有物」の喪失、「環境」の喪失、「身体の一部分」の喪失、「目標や自己イメージ」の喪失の5つに分類される。

喪失体験は5つの分類だけでなく、さまざまな視座から区分することができる。

失われた対象の性質に基づき、米国の心理臨床家であるテレーズ・ランドーは、実体のあったものがもはや存在しない「物理的な喪失」と、実体のないものを失う「心理社会的な喪失」もしくは「表象的な喪失」に大きくわけている。

物理的な喪失は、家や財産、身体の一部を失うなど、失われたものを客観的に把握することができるため、その事実や衝撃は他者からも認識されやすい。

一方、夢や目標、自信、希望を失うといった心理社会的な喪失の場合、他者からはみえづらく、その重大性が見過ごされやすい。 

わが国の喪失研究の第一人者である精神科医の小此木啓吾氏は、喪失体験を「外的対象喪失」と「内的対象喪失」に区分している。

外的対象喪失とは、近親者の死や母親からの分離、転勤など、自分の心の外にある人物や環境が実際に失われる経験である。

それに対して、内的対象喪失とは、夫や妻の不貞行為による幻滅など、みずからの心のなかだけで起こる経験である。

外的対象喪失と内的対象喪失は、必ずしも一致せず、同時に経験されるわけではない。

喪失は、何らかの力によって半ば強制的に経験させられるものばかりではない。

喪失体験には、「強いられた喪失」と、「選択した喪失」がある。

強いられた喪失には、死別のように自分が望まないのに対象を奪われたり、無理に引き離されたりする場合だけでなく、対象である相手自身から見捨てられたり、突き放されたりする場合もある。

死別の場合でも、自殺による死に直面した遺族であれば、故人から見捨てられたという複雑な思いを抱くことがある。

また、みずからの過失によって対象を失わざるをえなかった場合には、喪失の衝撃はきわめて大きく、後悔や自責の念に長く苦しむことになるかもしれない。

一方で、選択した喪失は、思い出の品を処分したり遺品を整理したりするなど、大切なものをみずから手放すことである。

積極的に選択することもあれば、おかれた状況のなかで選択せざるをえない場合もある。 

選択した喪失にも苦悩はともなう。

たとえば、人工妊娠中絶は選択した喪失の一例である。

中絶を選択した人には、やむをえない事情から苦渋の決断をした人も多いだろう。

近年では、新型出生前診断の拡がりもあって、難しい判断を迫られるケースが増えてきている。

また、ペットロスの場合には、安楽死を含めた治療の選択にともなう罪悪感が大きな苦痛となることが指摘されている。

強いられた望まぬ喪失のつらさは他者に共感されやすいが、選択した喪失のつらさはわかってもらえないこともある。

みずからが失うことを選択したがゆえに生じる葛藤や苦しみがあることも広く理解される必要がある。

人生においては、思いもかけず、重大な喪失に直面することがある。

突然のリストラで仕事を失うこともあれば、不慮の事故に遭って身体の機能を失うこともある。

自然災害によって家や財産をまたたく間に失うことも他人事ではない。

こうした予期せぬ喪失は、予測された喪失に比べ、深刻な衝撃をもたらす可能性が高い。

また、人生で遭遇する出来事の性質や状況によっては、一つの喪失にとどまらず、波及的に複数の喪失をともなうこともある。

最初の喪失と同時に起こるか、もしくはその結果として生じる物質的または心理社会的な喪失は、「副次的な喪失」とよばれる。

「人は二度死ぬ」といわれるように、肉体的な死がおとずれても、人々の記憶から失われない限り、故人は生き続けられると考えることもできる。

少なくとも故人との強い絆を感じている者にとって、姿形はなくとも、故人とともに生きている。

米国の家族療法家であるポーリン・ボスは、「あいまいな喪失」という概念を提唱している。

あいまいな喪失には二つのタイプがある。

一つは、身体的には不在であるが、心理的に存在していると認識されることにより経験される喪失である。

このタイプは、水難事故や山岳遭難事故、自然災害などでの行方不明者の家族が経験するものであり、生存は絶望的だが遺体が長期間発見されないという場合が典型である。

東日本大震災では、8年が経過した今でも2500人以上が行方不明のままである。

また、誘拐が疑われる子どもの家族が経験している喪失もこのタイプに含まれる。

もう一つは、身体的には存在しているが、心理的に不在であると認識されることにより経験される喪失である。

このタイプには、認知症の患者や慢性の精神障害者を抱える家族が経験する喪失などが含まれる。

重度の認知症患者の場合、肉体は存在しているが、あたかも人格が変わってしまったかのような言動がみられることがある。

家族の顔すら覚えていないこともある。

この種のあいまいな喪失は、家族にとって先のみえない大きなストレスとなりかねない。

喪失の「失」という漢字は、巫女が身をくねらせて舞い祈る形で、エクスタシーの状態にある人の形、すなわち自失の状態を表しているという。

特に突然の予期せぬ喪失の場合には、あまりのショックに、我を忘れて頭のなかが真っ白になってしまう、いわゆる茫然自失に陥るかもしれない。

聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生は、2017年7月に105年と9カ月の生涯を閉じられた。

クリスチャンであった日野原先生は、「神は越えられない苦しみは与えられない。そしてそのなかで逃れる道を与えてくださる」という聖書の言葉を紹介したうえで、次のように述べている。

「あなたは今悲しみの真っ只中にいて、一生自分は笑うことがないと思っているかもしれません。でも僕達人間には、時間がかかっても必ず悲しみを乗り越える力が備わっています。綺麗な花を見たり、素晴らしい音楽を聞いたり、友達と心が通じ合えたり、そんな癒やしの恵みを味わうことで、生きていてよかったなと思える瞬間が必ずやってきます。その時を信じて待つのです」

後悔とは、過去の行為を解釈することである。

みずからの意図的あるいは非意図的な行為に対して激しく後悔している場合、起こってしまったことをあたかも事前に予測することができ、自分が他の選択をできたかのように感じがちである。

このように事後的に、それが予測可能であったと考えてしまう心理は、「後知恵バイアス」とよばれる。

「あきらめる」の語源は、「あきらむ(明らむ)」であり、道理を明らかにするというのが本来の意味であり、断念や放棄という否定的な意味合いだけを含むわけではない。

「あきらめる」とは、人生そのものを捨てるのではなく、自分にできることとできないことを区別して、できないことをやめること、あるいは人間の力ではどうしようもないことがあるという事実を認めて、過去や将来について思い煩わず、目の前に全力を傾けることだという。

あきらめることは、人生に対して卑屈になるのではなく、思い通りにならない現実を認めつつ、そのうえで主体的に生きることである。

重大な喪失を経験し、心機一転、新たな生活や人生の一歩を踏み出すのは悪いことではない。

ただ、喪失後まもなくは、物事に集中することや論理的な思考が難しく、冷静な判断ができない恐れがある。

転居や転職、財産の処分など大きな意思決定は、しばらくのあいだは控えたほうが無難である。

急いでことを起こすことによって、新たな苦悩を生じさせる可能性もある。

もちろん喪失の状況によっては、素早い決断や行動が求められることもあるだろう。

その場合でも、自分ひとりで性急にことを進めるのではなく、人に相談しながら可能な限り時間をかけるようにしたほうがいいだろう。

しばしば人生を前向きに生きることは大切であるといわれる。

何事にも積極的であることは長い目でみたときには望ましいのかもしれないが、いつも急いで前へと動かなくてもいいのではないだろうか。

「つらい」という言葉は、「つらなし(連無)」が語源であり、同伴の者がおらず、苦しい心境が元の意味であるという。

喪失体験の苦難や苦悩を分かち合える仲間とつながることで、体験者一人ひとりの言い知れぬつらさが軽減されるかもしれない。

「立ち直る」ということは、あたかも風邪が治り、本来の健康状態を取り戻すかのような印象があるが、何事もなかったかのごとく喪失体験を消し去ることはできない。

私たちができるのは、喪失から回復し、以前の状態に戻ることではなく、大切な何かを失った状況のなかで生きることである。

すなわち、喪失から「立ち直る」、あるいは喪失からの「回復」ではなく、喪失への「適応」が求められているのである。

喪失への適応を旅にたとえるならば、目的地は喪失前と同じ場所ではない。

一人ひとりが異なる風景を見ながら、決して平坦ではない道のりにおいて、自分のペースで旅を続け、やがて以前とは違う新しい場所にたどり着くのである。

喪失に適応するためには、失った事実を受けとめ、自分の気持ちや直面している困難と折り合いをつけていくことが必要である。

拭いきれぬ思いをいかに消し去るのかが大事なのではなく、その思いを抱えつつも、自分なりにどのように生きるのかが重要である。

人生において喪失を重ねるなかで、人はその経験から多くのことを学んでいく。

しかし一方で、喪失そのものを意識して学ぶことも大切である。

「死」を考えることは「生」を考えることといわれ、人生で何を失い、どう向き合うのかを考えることは、みずからの人生をどのように生きるのかを問うことでもある。

欧米では死に関する教育は、デス・エデュケーション(死の準備教育)とよばれ、1960年代頃から、その必要性が広く認識されている。

日本では、アルフォンス・デーケン氏が、1975年に上智大学で「死の哲学」を開講し、その後、1982年に「生と死を考える会」を設立するなど、デス・エデュケーションの実践・普及に貢献した。

デーケン氏は、死の準備教育の目的は、「死を身近な問題として考え、生と死の意義を探求し、自覚を持って自己と他者の死に備えての心構えを習得すること」であると述べている。

生と死の教育や学習は、学校教育の場だけでなく、生涯にわたって続くものである。

現代社会は、人間が自然を支配し、コントロールすることを目指して発展を遂げ、私たちに多くの恩恵を与えてきた。

新たに得たものや可能になったことは数え切れず、私たちの暮らしは便利で豊かになってきた。

一方で、人生の歩みにおいて、喪失の現実は変わらずにあり、重大な喪失に直面している人たちも多い。

「何かを得ること」「失わないこと」が重視されがちな社会のなかで、ともすれば「失うこと」は置き去りにされてきたように思われる。

私たちは、大切なものを失うという現実を頭ではわかっていても、その事実を意識的あるいは無意識的に避けがちである。

喪失の現実を直視することは、みずからの将来に対する不安や恐れを少なからず喚起する。

喪失を意識させるものを回避することは、そうした不安や恐れへの対処行動の一つであると考えられる。

重大な喪失の可能性を一人ひとりがどう受けとめ、どう引き受けるかに応じて、社会のありようも変わってくるのではないだろうか。

まずは、病気や障害、大切な人との死別、みずからの死など重大な喪失を特別視せず、当事者もそうでない人も気負うことなく、自由に語れる社会を目指すところから始めることだろう。

 

2020年11月28日 (土)

望遠ニッポン見聞録/ヤマザキマリ

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 私にとって近くて遠い、心地好さと拒絶が一体化した祖国、日本。母は「日本だけが世界じゃない」と言っていたけれど、日本という世界の複雑さと面白さは、こうして長く離れて暮らしていると、よりはっきり見えてくるものなのだ。

ジパングは、中国大陸の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。

また、ジパングの人々は偶像崇拝者であり、外見がよく、礼儀正しいが、人食いの習慣がある。

これはマルコポーロ『東方見聞録』で紹介しているジパング、つまり日本。

この言葉に象徴されるように西欧の人にとっては日本は理解できない異国だ。

本書はイタリア人と結婚し、イタリアで暮らしている著者が、遠くの国から見た日本について語ったもの。

特にイタリア人と日本人とは全く違うという。

例えば映画「ゴッドファーザー」の中で、マイケル・コルレオーネの妹であるコニーが夫に対してヒステリーを起こすシーンがある。

あの壮絶な有り様を思い浮かべるとわかりやすい。

彼女もマフィアという複雑な家庭に属する立場上、何かと耐え忍ばなければならない環境に置かれている女性だが、キレる時は完全に、完璧にキレる。

夫がどんなに暴力夫だろうと何だろうと、じっとそれに耐え続けなければならないという意識は彼女の内には存在しない。

あのヒステリックシーンは決して映画のストーリーを面白くさせるために特別演出された女性の行動パターンではなく、西欧世界の中では極めて頻繁にあるもの。

イタリア女の恐ろしさはラテン系女子にありがちな大声で暴れたり皿を割ったりするなどの突発的なヒステリーだけでは済まされないところだ。

特に元凶が嫉妬というのは最悪なパターンであり、彼女らの憤りは寄生虫となって男どもの胸の内に執拗に凶悪な毒素を分泌し続ける。

自分が傷ついたその5倍は男達が落ち込んで、女神は最終的には自分しかいないのだと思わせるところまで持っていかないと納得がいかない。

そんな性質がイタリア女にはある。

男女を問わず、イタリア人というのは何かと大袈裟な人種だ。

画鋲を踏んだだけで救急車を呼ぶ人もいるし、日常生活で何か腑に落ちないことがあればすぐに裁判だ。

愛情表現の面においても日本人のように言葉で伝えなくてもそれぞれの気持ちを察知し合うなんてことは考えられない。

恋人同士に限らず、家族は何かのたびに抱擁してそれぞれの体の存在を認識し合う。

見知らぬ人とでも握手を交わすことでスキンシップは必ず取る。

これらは日本とは全く違う。

おそらく、このような人間関係はコロナ禍であってもなかなか変えることはできないのだろう。

本書を読んでみて、イタリアでコロナの感染が拡大したのも、致し方ないのかなと思ってしまった。

2020年11月27日 (金)

amazonの絶対思考/星健一

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 学ぶべきなのは、ジェフ・ベゾスの理念をスタートとして、アマゾン、そしてアマゾニアンと呼ばれる社員が、その理念を具現化し貫いてきたビジネスを進める上で「普通」となっている「基準」なのである。
 その「基準」は革新的なビジネスを生み出す思考方法であったり、新たなビジネスを構築しスケールさせる(規模を拡大させる)メカニズムをつくる方法であったり、それを可能にする社内文化の醸成などである。

アマゾンジャパン成長の過程は3期に分けられる。

第1期は創業時の2000年から2005年頃。

まだまだ混沌とした中でベンチャー、スタートアップのようなカルチャーのもと、仕組みを作りながらも属人的なところも残っていたと思われる時代。

第2期は、2005年から2015年頃まで。

自動化が進み、商品カテゴリーをどんどん拡大。

毎年の事業プランは対前年比数倍にする計画を立て、それを達成していった。

社員数は、数百人から数千人規模に一気に拡大し、大企業病にならないように意識しながら組織マネージメントを行うとともに、アマゾンのカルチャーを醸成していった。

直近、第3期となる2015年以降は、新規事業などにより組織はさらに拡大し多くの大規模な縦組織ができた。

それと共に各リーダーへの権限委譲が進んだ。

一度醸成した独特で強烈なアマゾンの組織文化は微調整されながらもますます強さを増し、さらなるビジネス拡大の牽引力となっている。

アマゾン内部では「プラットフォーム」という言葉は使用しない。

プラットフォームという言葉には、市場をコントロールし独占し得ることを示唆するイメージがあり、アマゾンはそれを目的にはしていないというポジションを明確にしているからだ。 

更に、失敗が許される文化があり、失敗から多くのことを学び取るという考えで、見切りを付ける思い切りもいいのが、アマゾンの事業展開の特徴ともいえる。

高い授業料ではあるが、失敗から得たノウハウがその後の新規事業の成功に結びついている。

では、サービス品質向上のために、何をどのように実践していくか。その考え方を示しているのが「お客様の発想や要望からスタートし、常にお客様の立場で考えること」という理念である。

お客様のためになるのであれば可及的速やかに導入される。

それが、アマゾンの「普通」の判断基準になっている。

「ベゾスの紙ナプキン」についてのエピソードが、ITビジネスの世界では伝説のように語り継がれている。

ジェフ・ベゾスは1964年、ニューメキシコ州生まれ。プリンストン大学を卒業後、ニューヨークの金融業界でファンドマネージャーとして働いていた。

退職後、オンライン書店ビジネスを構想し、レストランでどんな事業を目指すのか友人と語り合いながら、手近にあった紙ナプキンに書き留めたといわれだビジネスモデルの図。

「Flying Wheel(フライングホイール)」と呼ばれ、社員同士では英語で「Napkin Thingy(そのナプキンのやつ)」、日本語では「グルグル」と呼ぶこともある。

驚くべきことに、ジェフ・ベゾスが示した「Flying Wheel」の概念は、創業から20年以上経った今でもアマゾンのビジネスを支える普遍的な「基準」となっている。

成長によって得られる収益は、企業の利益とするよりも、優先的にさらなる顧客体験の向上に投資していくという考え方も、このビジネスモデルに則っている。

アマゾンには独特のカルチャーがある。

旧態的な企業にありがちな「努力と根性」重視ではまったく通用しない。

データをとことん分析し、オポチュニティーを探し出し、システムや仕組みのイノベーションによって自動化、効率化を進める。

何ごとにもスケーラビリティを求められるのが、アマゾンの「普通の基準」。

雇用する人材、そして既存の社員にもそうしたカルチャーへの理解と実践が求められる。

常に顧客の目線で行動するのは簡単ではない。

企業は利益を出さなければ存続できない。

そのような中、トップ、経営層が率先して「Customer Obsession」を貫き通すことによって他メンバーが迷いなく行動できることになる。

このような経営層の気骨も重要。

アマゾンでは「社員全員がリーダーである」という考えが徹底されている。

そのためには全社員に「Ownership」が不可欠であり「それは私の仕事ではありません」といった視野の狭い言い逃れは禁句となっている。

社員は年初には直属上司と「ゴール設定」を行い、上司は定期的に「1on1」によってその達成をフォローしていく仕組みが徹底されているのも、アマゾンの特長的な点といえる。

設定するゴールには「SMART」があることが求められる。

つまり、

「S=Specific(具体的であること)」

「M=Measurable(測定可能であること)」

「A=Achievable(達成可能であること)」

「R=Relevant(会社及びチーム目標に関連している)」

「T=Timebound(明確な達成時期を定めること)」

という五つの原則にかなったゴール(目標)であることが必須である。

各社員のゴール設定は一つではない。

「自分が担当するサービスの顧客数を1万人増やす」「品揃えを10万から15万にする」といった業務に直接関わる目標もあれば、

「英語のレベルを上げ、グローバル会議でリードできるようになる」といった個人的スキルの向上など、

さまざまな目標を設定し、定期的に上司に報告、相談しながら、期限内での達成に向けて進めていく。

人事評価の基準は、一般的な企業に比べて公平にして厳格だ。

基準には大きく分けて三つの側面がある。

一つ目が、先ほど挙げた「SMARTゴール」に対するパフォーマンスの達成度。

二つ目が、リーダーシップ・プリンシプルをベースとしたその人のリーダーシップ、仕事の進め方などの評価。

最後の三つ目は「成長性」の評価。

さらに、ジェフ・ベゾスは「いつかアマゾンは潰れる」とも予測している。

「アマゾンは倒産するだろう。大企業を見ると、その寿命は30年程度。100年ではない」。

ベゾスはさらに、「もし我々が顧客ではなく、我々自身に注力し始めたら、それは終わりの始まり。アマゾンの仕事は顧客に注力することによって倒産を可能な限り遅らせること」と付け加えた。

こうしたベゾスの発信は当然アマゾンで働く社員にも届き、危機感が醸成され、企業カルチャーとして浸透している。

理念が共有され、企業カルチャーとして浸透し、健全な危機感が醸成されている。

これらがアマゾンの強さといえるのではないだろうか。

2020年11月26日 (木)

人生を変えるアウトプット術/千田琢哉

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 アウトプットのコツがある。それはとりあえず「当たり前」を全部出し切ること。

どんな一流のプロでもまず「当たり前」をすべて出し切ってから、ようやく卓越したアイデアが降りてくる。

イメージとしては100個の「当たり前」を出したあと、101個目からプロとしてのアウトプットが始まる。

最初の100個目までのアイデアは、ごく平均的な就活生や新入社員でも考えつくようなものばかりだが、101個目からはプロらしくなってくる。

ウケを狙ったような奇抜さがなくなり、肩の力が抜けていい塩梅でキレとコクが出てくる。

だから、最も大切なことは、徹底的に「当たり前」を出し切ること。

今はインターネットの時代。

インターネット上では、アウトプットした人間しか力を持てないようになっている。

より正確にはアウトプットし続ける人間しか力を持てない。

アウトプットをやめた瞬間が、その人の死になるということだ。

ネットの世界ではアウトプットをやめた人間は、この世に存在しないのと同じだからである。

アウトプットこそが最高の信頼であり、アウトプットに勝るブランドは存在しない。

アウトプットこそがこの世の真実なのだ。

インプットを軽視するわけではない。

ただ、インプットはあくまでもアウトプットのための手段だ。

仮説を立てたら早速それを試して検証してみる。

現実と仮説のズレを分析し、再度チャレンジする。

この繰り返しで必ずや希望の光を見出すことができるだろう。

常に自分のアウトプットには改善点があるという向上心こそが、一流の証。

アウトプットせざるを得ない環境に身を置くことで、インプットは自然にできる。

飛躍的に成長したければ、それが一番の早道だ。

確かに、世の成功者を見てみると、間違いなくアウトプット重視型だ。

でも、アウトプット重視型の人は何割ぐらいいるのだろう。

おそらく1割にも満たないのではないだろうか。

2020年11月25日 (水)

空想教室/植松努

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 「違う」ということを楽しんでください。「違う」というのはすばらしいことなんです。

20人にも満たない町工場から、自家製のロケットを打ち上げるという経験をした著者。

その著者が、そこから見つけた、どんな夢でも実現させてしまう方法について語っている。

著者は夢とは「今できないことを、追いかけること」だという。

そして、誰かに「してもらおう」と思わず、まずは自分で考えて、自分でやってみること。

これは人が生きていく上でとっても大事なこと。 

自分が「できる」ようになれば、誰かに「してあげられる」ようになる。

お金の支出が減るだけではなく、それが仕事になるかもしれない。

人間にとって最もいいことは、「できなかったことが、できるようになること」。

そして、大事なのは「なんで失敗したんだろう」「だったら次はこうしてみよう」という言葉をかけ合うこと。

たったそれだけのことで、失敗は階段の一段となり、私たちを未来に運んでいってくれる。

失敗は無駄ではない。

〝せっかくしてしまった〟貴重なこと。

次をより良くするために必要なデータ。

だから自分が失敗したときも、誰かが失敗したときも、人を責めずに考えてみること。

「なんで、失敗したんだろう?」「だったら、次はどうすればいいんだろう?」と。

失敗は必要なことだ。

だから「失敗は許されない」なんていわないこと。

能力というものは、失敗するか成功するかの「経験」によって身につく。

「楽をする」ということは、つまり「その経験を避ける」ということ。

いやなことと出合ったらまず「なんでいやだと思うのかな?」と考える。

それが、人を助ける発明のきっかけになる。

いやな思いをしているのは、自分だけじゃない。

他にもいっぱい自分と同じように、いやな思いをしている人がいる。

だからまず自分を救うこと。

その方法が誰かを救う方法にもなる。

大事なことは「わからないこと」をそのままにしなければなんでもできる、ということ。

「わからない」というだけだから、わからない。

わからなかったら調べればいい。

ただそれだけでなんでもできる。

著者の言葉を聞いていると、何か気持ちが楽になる。

「夢」を持つことの大切さ、「天職」を持つことの大切さを教えてくれる。

2020年11月24日 (火)

武器としての会計思考力/矢部謙介

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 決算書は、経営の実態と独立して存在するものではありません。経営の実態は、必ず決算書などの会計の数字に現れます。いわば、決算書は会社の実態を映し出す「鏡」なのです。

会計思考力とは、会計を使って「経営の現実を読み解く力」プラス「経営の現実を変える力」

B/Sには、その会社の戦略や経営方針がよく表れている。

B/Sが示しているのは、会社の決算期の時点で、どのような方法で資金を調達し、その集めた資金をどう投資しているのか。

特に、純資産のなかでも特に分析を行なううえで着目すべきなのは、利益剰余金。

利益剰余金を見ることで、これまでその会社が大きな利益を上げてきたのかどうかを測ることができる。

B/Sを読むときには、次の3つの点がとても重要。

①一本一本の木(個別の項目)を見る前に、まず森(全体像)を眺めながらわかることと疑問点を整理する

②全体像を把握してから、大きな木(金額の大きい項目)に着目する

③B/Sと現実のビジネスのつながりを常に意識する

次にP/Lだが、P/Lにも、B/Sの場合と同じように読むときのコツがある。

そのコツをまとめると、次のとおり。

①まず、P/Lの全体像を把握する

②次に、販管費の内訳を金額の大きい順に見てビジネスの特徴をつかむ

③P/Lと現実のビジネスのつながりを常に意識する

しばしば、利益が出ているにもかかわらず、倒産してしまう「黒字倒産」という事例がある。

これは支払いに充てられる現金が不足するために起こる。

こうしたことから、会社の経営を分析するうえでは、支払いに必要な現金が十分足りているかどうかが非常に重要であることがわかる。

キャッシュ・フロー計算書では、こうした現金の動きを見ることができる。

キャッシュ・フロー計算書を分析するときには、その会社がキャッシュ・フローをどのようにバランスさせているのかを見ることが重要。

営業活動によってきちんとキャッシュを稼ぐことができているか、投資に対してどの程度キャッシュを振り向けているか、フリー・キャッシュ・フローをどのように配分しているのか、といった視点で見ていくとよい。

そのうえで、「安全性」「効率性」「収益性」「成長性」という4つの視点でみる。

安全性とは、倒産の可能性はありそうか?負債に対する支払い能力に問題はないか?という視点。

効率性とは効率的な経営ができているか?投入した経営資源が有効に活用されているか?という視点。

収益性とは、十分な経営成果(=利益)を上げることができているか?という視点。

成長性とは、高い成長力を持っているか?今後に向けた成長余力はありそうか?という視点。

決算書は数字の世界だ。

しかし、決算書を読み取ることで、様々な企業の実態が浮き彫りになる。

ビジネスマンにとって、会計思考力は必須のスキルといえるのではないだろうか。

2020年11月23日 (月)

最後の相場師是川銀蔵/木下厚

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 是川の投資方法はまったく違った。実にオーソドックスで、理詰めである。是川は、自身の相場哲学について、こう語っている。
「株は最高の経済学。あらゆる経済現象が集約されているのが株価や。私は、その経済現象を細密にわたるまで徹底的に調査・分析をして結論を出し、信念を持って投資しておる。だから、少々のことでビクついたり、弱気になったりはしない。場合によっては、2年でも3年でもジッと持ち続ける。そのうちに、必ず私が予想した通りになる。チャンス到来だ。そのとき、一気に勝負に打って出るわけや」


かつて、相場道をかたくなに守り通しながら、ただひとり勇猛果敢につぎつぎと大勝負を仕掛けて証券界をアッといわせてきた男がいた。

「最後の相場師」「怪物投資家」「希代の相場師」「相場の神様」などと数多くの異名で、いまなおその名を知られる是川銀蔵だ。

1897年7月28日に兵庫県赤穂市に生まれた是川が、さまざまな職業を転々とした後、本格的に株式投資を始めたのは34歳のときである。

以後、1992年9月12日に95歳でこの世を去るまでの約60年間にわたって「生き馬の目を抜く」世界で生き抜いてきた。

「最後の相場師」と呼ばれた是川だが、自分のことを相場師とは言っていない。

「その理由は、私が“〝相場師”〟ではなかったからや」、生前、是川はきわめて明快に、そう言い切っている。

さらに続けて、こうも語る。

「相場師というのは、ロクに調査・研究もせず、僥倖を当てにしたり、イチかバチかの投機的な考えで投資する人のことを指すのや」

そういう意味では確かに是川は相場師ではないだろう。

是川は銘柄を徹底的に調査する。

しかも、自分の足で歩いて、そして経営者に会って事柄を確認したうえで、これまでのご自分の人生経験、知識、あるいは調査に基づく幅広い視野で判断し、行動を起こす。

これが行動の原点になっていた。

是川は決して天才型の人ではない。

もちろん、隠れた才能や能力は生まれたときから持っていたものであろうが、それに研きをかけ開花させたのは、まさに血の出るような努力と「待ったなしの真剣勝負」による経験である。

そういう意味では、典型的な努力型の人である。

是川のいう“〝カメ3則”〟というものがある。

「ウサギのように己れの力を過信して勝負を急ぐのではなく、カメになったつもりでマイペースを守り、時間をかけてじっくり勝負すること」である。

いわば、是銀流の“〝自戒3原則”〟というべきものだ。

その3原則とは──、銘柄は水面下にある優良なものを選び、値上がりをじっくり待つこと。

毎日の経済の動きから目を離さず、自分で勉強する。

証券会社、新聞、雑誌の宣伝のたぐいに惑わされないこと。

過大な思惑はせず、手持ちの資金内で行動すること。

是川は、92歳を迎えた当時、波乱万丈の人生を振り返り、

「七転び八起きの人生というが、私の場合は、それじゃ勘定が足らんのだ。転んでは起き上がり、また転んでは起き上がり、そんなことを92歳の現在まで何十回となく繰り返してきたもんや」 

明治、大正、昭和、そして平成の4代を生き抜くことになった是川、こんな人物、もう現れないだろうなと思う。

2020年11月22日 (日)

世界でいちばん自分を愛して/中野裕弓

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 すべては「まずは自分から」なのです。自分を幸せにすることに躊躇する必要はありません。それよりも、それこそが、あなたがインパクトのある活動を続ける原動力になるのです。

本書で紹介する「愛のコーヒーカップ」理論は、「他人よりもまず自分に徹底的に愛を注ぐ。それによっておのずと人生が好転する」という、経験を通して体得した著者の哲学。

自分が満たされると、注いだ愛は自分のカップから溢れ出し、周囲の人をも幸せで満たし始める。

さらに注いでいると、やがて、世界中に幸せが広がっていく……。

つまり、「まずは自分から」という順番。

世界の人が幸せになるには、自分が基本で、自分自身を十分愛で満たして、自分自身が豊かで幸せな気持ちになることが大事。

実は人類共通の、生まれてきた目的が1つある。

それは、「わたしたちは人生を味わいつくし、愉しむためにこの世に来ている」ということ。

苦しむためでも、悲しみのため途方に暮れるためでもない。

「人生を味わいつくし、愉しむため」の人生の基本というべきものが、「愛のコーヒーカップ」。

自分のホンネを大切にし、心地よいと思うことを自分にしてあげる。

落ち込んだり、失敗したときなどは、叱咤激励ではなく、自ら優しくかばってあげる。

何か、失敗をしたとしても、自分を責めるのではなく、ただ、起きたことを冷静に分析すればいい。

そして、善し悪しを裁くのではなく、世の中は人それぞれ、多様性に満ちているから面白い、と思えるようになったら、気分も若返る。

「愛のコーヒーカップ」理論で見るのは物事の肯定的な面だけ。

愛するのは「まずは自分から」というのは確かにその通りだと思う。

そうでない愛はニセモノといってよいだろう。

2020年11月21日 (土)

「値づけ」の思考法/小川孔輔

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 値づけ(価格戦略=プライシング=価格の決め方および見せ方)を思考していくに当たっては、次の3つのポイント(課題)を考慮しないといけません。
 ①季節や時間帯、顧客によって価格を変えるかどうか?
 ②利益を出すために、利幅(利益)を大きく取るか?
  あるいは、小さな利幅で売上増(客数、買上点数)を狙うか?
 ③売上と利益を増やすために、顧客の心理をどのように利用するか?

商品やサービスの値付けは重要だ。

絶妙な値付けは売上や利益を拡大させることができる。

経済学の公理の1つに、「価格弾力性は、粗利率の逆数になる」という定理(ドーフマン・シュタイナーの公式)がある。

日配食品の粗利率は約33%といわれているので、その価格弾力性はその逆数で約3(=1÷0.33)となり、5%の値引きで日配食品の売上個数は15%(=値引き率の3倍程度)伸びると推定できる。

その公理によれば、セブン-イレブンの場合は、7人に1人程度(15%)が値引きされた商品を選ぶと想定できる。

実際に、スーパーでは値引きシールが貼られた生鮮品はほぼ完売する。

したがって、少し控えめに見積もっても、食品廃棄率(現状では売上の2~3%程度)は0.5~1%に、特に弁当やおにぎりなどの日配食品の廃棄率は売上の3~5%程度(現状では売上の10%程度)に減少すると思われる。

つまり、食品廃棄ロス削減を目的とする5%のポイント還元という「上手な値引き」によって、消費期限が間もなく到来する弁当などの日配食品の購入をお客に促し、彼らの財布の紐を緩ませて、加盟店のオーナーの純収入が50~85%も増加する。

本部も最終利益が10%以上は増加する。

USJがダイナミック・プライシングの導入に踏み切ったのには、繁忙期にパーク内(園内)が混み合って、来場者の顧客満足度が低下していることが背景にある。

チケットの料金を変動価格にする狙いは、パーク内の混雑度を平準化するため。

しかし、USJにとって価格を変動させるメリットは、混雑の緩和だけではない。

価格変動制でチケットを販売することによって、最終的に利益を増やすことができるから。

繁忙期は入場料を割高に、閑散期は割安にする価格設定の方式は、「(時間による)差別価格制」と呼ばれるもの。

大手EC企業は、自社のWebサイトを頻繁に利用してくれている顧客の性別・年齢や収入、割引価格やクーポンへの反応の仕方、さらには個人的な趣味や購買行動の特徴などを熟知している。

そのため、どのタイミングで、どのくらいの値引き、あるいは値上げを提示すれば、顧客がどのように反応してくれるのか、おおよその予測をすることができる。

適切な価格を設定するために、コストを積み上げて検証するのは、もちろん大切なこと。

だからといって、モノをつくってコストが確定してから価格を決めていては、このご時世ではまったく売れない。

勝ち残るためには、スピーディで、ひとひねりした価格のつけ方が必要。

また、徹底したムダの排除が、値ごろ感のある価格実現のカギといえる。

どんな値付けをするのか?

企業の戦略がそこに集約されているということであろう。

 

2020年11月20日 (金)

企業不正の研究/安岡孝司

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 リスクマネジメントの基本は経営理念をリスク管理の中心軸に据えることです。

日本を代表する名門企業で大規模な不正事件が相次いで発覚している。

問題が発覚した会社は、どこも立派な企業ばかり。

リスクマネジメントには取り組んでいたはず。

それが機能しないのはなぜなのか。

例えば、特定分野の技術開発で、担当者が長年その仕事に就いていると、その内容に精通している人が限られてしまいまう。

匿名で通報しても通報者が特定されやすい状況では、内部通報が機能しにくい状態になる。

このことからも定期的なローテーションがリスクマネジメントのためには重要だとわかる。

公正な判断のできる人や組織を育てるためにも、互いに牽制しあえる風土は重要だ。

会社の内部統制やリスクマネジメント体制をチェックするときに「3つのディフェンスライン」という考え方がある。

1 業務の現場でのリスクマネジメント

2 財務部、リスクマネジメント部、検査部などでのリスクマネジメント

3 内部監査部によるリスクマネジメント

以上の3段階のリスクマネジメントだ。

第1のディフェンスラインは、現場レベルでのリスクマネジメントを意味する。

たとえば、会社にある受発注システムは、営業部がカラ受注をしないための仕組みといえる。

また、工事現場や工場などで安全確認を励行する仕組みも第1のディフェンスライン。

そして製造部の担当者が行う製品の検査や、ソフトウェア開発のときの開発担当者によるチェックも、第1のディフェンスライン。

社内規程なども第1のディフェンスラインに含まれるものが多い。

第2のディフェンスラインは現場と独立な立場でリスクマネジメントを行うこと。

金融機関にはリスク管理部という部署があるが、一般の事業会社ではリスク管理部がないケースのほうが普通。

検査部とか品質管理部などがこの役割を担う。

たとえば、工場で作られた商品の品質や性能は、製造部門とは独立した検査部門でチェックすることが基本。

ところが実際にはそうなっていないことがある。

第1と第2のディフェンスラインの違いは、業務リスクをとっているか、とっていないかで分かれる。

たとえば、製造部門は、製品の品質・性能と売上についてのビジネスリスクをとっている。

しかし、検査部は生産性を上げるために、不良品をパスさせるようなことをしない。

つまり検査部はビジネスリスクをとっていないことになる。

第3のディフェンスラインは、内部監査部の仕事と考えておけばよい。

業務監査部や内部監査部の名前がついていることもある。

また必ずしも監査という名前がついていない場合もある。

検査部やリスク管理部との違いは執行部門にあるか否かだ。

そして、それぞれのリスクに対して対応を考えるとき、その戦略は4通りある。

リスクの「低減」「回避」「移転」「保有」である。

リスクの低減とは発生頻度を下げるとか、影響度を小さくすること。

たとえば「大地震」については、免震建物に入居することで社屋の安全性を高め、倒壊による影響度を小さくするという戦略がある。

「新事業の失敗」は事前のマーケティングを強化することで失敗する発生頻度を下げられるかもしれない。

この戦略もリスクの低減になる。

回避とはそのリスクを持つビジネスをやめること。

新事業への進出をやめる場合は新事業リスクの回避になる。

また赤字続きのビジネスをやめることも同じ。

移転とは、他の部署や会社にリスクを肩代わりしてもらうこと。

わかりやすい例は火災保険や自動車保険。

これによって保険会社に火災や事故のリスクを移転することになる。

「為替変動」の例では、為替予約を銀行と取引することで、影響度を低減できる。

この場合、リスクは銀行に移転されたことになる。

保有とは、とくに対策を行わずにそのままの状態でリスクを受け入れること。

なんらかの対策にとって低減された後の残余リスクが十分小さくなったときに、その状態にしておくことは残余リスクを保有していることになる。

たとえば「情報漏洩」に関してはセキュリティ対策ができているとし、これ以上何もしないことにする。

このようにリスクマネジメントの段階や戦略には様々ある。

ただ、どんなに取り組んでもリスクはゼロにはならない。

要は、そのリスクといかに真摯に向き合うかということではないだろうか。

2020年11月19日 (木)

アイデアソン!/須藤順、原亮

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 アイデアソンの特徴は、多様な人が一緒にアイデアを目に見える形にし、何度も何度も対話やディスカッションを繰り返す中で新たな商品やサービスアイデアを生み出すところにある。1人では思いつかないようなアイデアを、他の参加者とのコミュニケーションを通じて具現化する場と言える。

本書ではアイデアソンを、「多様な主体が主体的に集まり、主体間の相互作用を通じて、課題解決に向けたアイデア創出や新たな商品・サービス・アイデアの創造を目指す共創の場」と定義している。

「アイデアソン」は「アイデア」と「マラソン」を組み合わせた造語。

「アイデアソン」の醍醐味は何といっても、多様な人が集まり価値創造に向けて共創するところにある。

語源である「アイデア+マラソン」が表す通り、スポーツのような爽快感と苦しさを味わえることも魅力の1つ。

アイデアソンの最大の魅力は、組織や所属、職種、専門性のほか、年齢や性別の異なる多様な人が参加する「多様性」にある。

アイデアソンは、合意形成を図る場や対話の場とは異なり、テーマに対してアイデアを具体的な形にすることが求められる。

重要なのは、アイデアを目に見える具体的な形として可視化し、その実用性を参加者全員で確かめる点。

アイデアソンでは、参加者が課題やアイデアを各自で考える個人ワーク、

ペアになり課題発見やアイデアを相互レビューし合うペアワーク、

そして、チームでアイデアのブラッシュアップやプロトタイピングを行うグループワーク、

と、個人・ペア・グループによる相互作用を繰り返す。

つまりアイデアソンは、多様で異質な知を持つ他者が集まり、コミュニケーションを活発化させることで集合知を生み出す場だと言える。

画期的なイノベーションを生み出すのは、グループゆえに生まれる天才的発想「グループ・ジーニアス」の重要性にある。

イノベーションは一度きりのひらめきではなく、ひらめきの連鎖によって具現化する。

つまり、多様な主体によるコ・クリエーション(共創)がイノベーションを生み出す。

ポイントは2つある。

1つは、インプットによって参加者の意識の中に一定の制約を与えること。

必要な情報をすべて提供するのではなく、アイデアソンの中で参加者に考えてほしい領域や方向性を提示し、アイデア創出の幅を一定程度狭めておくことが望ましい。

もう1つは、現場の追体験を意識した話題提供を行うこと。

特に課題にフォーカスする必要がある場合は、インプットにおいて現場の課題をできるだけ深いレベルで共有できるような仕掛けが必要となる。

たとえば、一般論ではなく、個別具体的な問題に焦点を当てることや、専門家などではなく、実際に課題を抱えている当事者による悩みを報告してもらうといったことも方法の1つである。

アイデアソンで生まれたアイデアが実際に形になるには、何よりも“will”が重要となる。

つまり、「この課題を解決したい」、「こんなサービスを創りたい」という強い意志が必要である。

そのためには、アイデアソンで扱うテーマに対して当事者性を持った人をいかに巻き込むかが大切となる。

アイデアソンで良案が出たら、それを実現させるために実際に行動を起こせる想いと能力を持った人が、コアな当事者となる。

コアな当事者がいないアイデアソンは、アイデアを出すだけで終わってしまうケースが大半。

アイデアソンにかける時間は、最も短いもので90分程度、そこから半日(4時間程度)、1日(8時間程度)、あるいは2日などが一般的。

簡単なブレストのみでフラッシュアイデアを集めるのであれば半日以内、

テーマのインプットなども行ったうえで視点を広げたアイデアを集めるのであれば1日コース、

出たアイデアのブラッシュアップを行うなら2日コースで行う。

多様な人が集まり価値創造に向けて共創するアイデアソン。

一度、体験したいものだ。

2020年11月18日 (水)

がんばらない練習/pha

Pha

 僕は自分の「できなさ」に愛着がある。他の人がみんなできることが自分にはできなかった、そんな傷口の集合体こそが自分の人生だ。嫌だったこともつらかったこともあったけど、そんな体験が自分を作ってきた。もし自分の欠点が全部なくなってしまったら、そんなものはもう自分ではないだろう。できることよりできないことのほうが、他の誰とも違う自分らしさを作っているように感じる。

著者は京大卒で元ニートだという。

そんな中で見つけた著者なりの自分らしい生き方について述べている。

著者は自分のことを完璧主義だという。

しかし、そんな生き方は苦しい。

一度も選択を間違えたくないと思っていても間違えることはある。

何事についても「こうでなければならない」ととらえると、世の中はあいまいさに満ち、矛盾だらけ。

そんなことにいちいち悩んだり、怒ったりしたのではもたないだろう。

そして見つけたのが「がんばらない」生き方。

完璧主義をやめる。

人間は欠点もあり、間違うこともある。

自分のできない部分を消し去ろうとしてがんばりすぎる必要はない。

できない部分を愛して受け入れてやることが大切。

それこそが自分らしさの本質なのだから。

むしろ、そういった「できなさ」こそが人生の醍醐味。

人生の全てが自分の思うように進んだとしたら、何の面白みもないだろう。

そんなものは人生ではなくただの妄想だ。

生きるということは自分の妄想と現実との差を確認し続ける行為だ。

人生は思うようにならないからこそ面白い。

結局、そんな生き方をした方が楽だし、いい結果が得られるということではないだろうか。

2020年11月17日 (火)

安売り王一代/安田隆夫

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 私はことごとく業界の「逆張り」を実践してきた。しかも計算ずくの逆張りではなく、むしろ苦肉の策として逆張りせざるをえなかった。しかし、逆張りで勝負したからこそ、誰にもマネのできない企業を育てることができたのだと思っている。

ドンキという企業の本質をひとことでいうなら、それは「権限委譲」だと著者はいう。

たとえばドン・キホーテ一号店の時代から、商品の仕入れ、陳列、販売等にいたるまで、店の業務はすべて部下に権限委譲し、いっさい口を出さなかった。

これはまさに業界の常識を覆す発想だが、当初は窮余の末にひねり出した苦肉の策だった。

だが結果的に、部下に全幅の信頼を置いて権限委譲したからこそ、社員は見違えるように働き出した。

社長は店舗開発とか財務戦略など、「これだけは経営者がやらなければならない」という中核業務だけに集中する。

そうした分業体制が好循環的に機能し、ドンキは倍々ゲームで急成長、会社は一挙に巨大化した。

つまり徹底した権限委譲こそ、ドンキ最大のサクセス要因であり、また存立基盤そのものなのだ。

ドンキの特徴の一つは「圧縮陳列」だ。

まるでジャングルのように商品が陳列されている。

今日のドン・キホーテの姿は、すべて「泥棒市場」の成功と失敗の上に立脚していると言っても過言ではない。

それほど「泥棒市場」は、著者とって強烈な原体験の場となった。

ドンキの前身「泥棒市場」の時代、不思議なことに、圧縮陳列を始めてからのほうが、お客さまの受けが良くなったという。

掘り出し物がないかと期待感をもって丹念に見て回ってくれるし、当時は値付けもイイカゲンだったので、実際に掘り出し物は多くあった。

流通の教科書には「見やすく、取りやすく、買いやすく」が小売店舗の鉄則だと書いてある。

しかし、「苦肉の策」として逆張りをした結果、そこに鉱脈があることを発見した。

著者は頑として流通のプロや経験者を雇わず、ドン・キホーテをあくまで素人集団で押し通した。

それくらい、事業、業態としての独自性にこだわった。

なぜそこまでこだわったのか。少なくとも、定番商品を主体に、教科書どおりきちんと整理整頓された店や売場に、「買い物の面白さ」は決してないこと。

これが「泥棒市場」で私が学んだ最大の教訓だった。

ところが圧縮陳列のやり方、現場の社員に教えようとしてもなかなか教えられない。

そこで「これでダメならきっぱり諦めよう」と腹をくくって、「教える」のではなく、それと真逆のことをした。

「自分でやらせた」のである。

それも、一部ではなく全部任せることにした。

従業員ごとに担当売場を決め、仕入れから陳列、値付け、販売まですべて「好きにやれ」と、思い切りよく丸投げした。

しかも担当者全員に、それぞれ専用の預金通帳を持たせて商売させるという徹底ぶりである。

これこそ、のちにドンキ最大のサクセス要因となる「権限委譲」と「個人商店主システム」の始まりだ。

要は自ら考え、判断し、行動する「体験環境」を用意してやれば、従業員たちに〝頭脳と創造性〟がひとりでに育ってくるのである。

権限委譲によって、仕事が労働(ワーク)ではなく、競争(ゲーム)に変わったからだ。

社員同士で競いあいながら、面白がって仕事をするようになれば、以心伝心でお客さまもそれを面白がり、店は一気に熱気と賑わいに包まれて行く。

ゲームをする上で、著者は以下のような方針を定め、厳守させた。

・明確な勝敗基準

・タイムリミット

・最小限のルール

・大幅な自由裁量権

これが成功の決め手になった。

権限を委譲する上での最大要件は、ベタな言い方だが「人を信頼すること」──これに尽きる。

社員を信頼し、仕事を任せれば、皆一生懸命になる。

さらに仕事が面白くなってゲーム化することで社員には「勝ちたい」という強い気持ちが芽生える。

当然のことながら、勝つと嬉しいし、負けると悔しい。

だからゲームはやめられなくなる。

この繰り返しにより、皆のレベルがスパイラル的に上昇し、現場はどんどん進化し、何度も脱皮して成長する。

この好循環こそ、他の多くの流通小売業と全く違う文化とDNAを持つ、ドン・キホーテの根源的なパワーの源である。

権限移譲がいかに従業員のパワーを生み出すか。

ドンキの成功はそのことを教えてくれる。

2020年11月16日 (月)

定年後の仕事は40代で決めなさい/原正紀

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 過去を振り返りながら、未来の自分を思い描くことで、その未来に適さない選択、判断は自然としなくなるのです。当然、人生で大事な職業選択をすることは、重たいものです。しっかりと自分の「軸」を定めてから臨むのがベストです。その軸を定めるときに必要不可欠なのが、自分自身をしっかりと把握することです。

昭和の時代は、一生一つの会社で勤め上げることが当たり前だった。

しかし、時代は変わった。

変化の激しい時代、一つの仕事を一生続けられると考えるのは夢物語。

変化に応じて自分自身も変えていく必要がある。

多くの人は「自分の軸」を持っていない。

それゆえに、将来への不安を増幅させている。

自分を明確に持っている人は意外と少ない。

将来「自分の特技、いいところを活かして、こうなりたい」と強い思いを持てさえすれば、自然と確かな灯りがともる。

大事なのはそれを自分で決めること。

不本意にぶら下がらないようにしていくこと。

いやいや置いてもらうような残り方は、その後の人生の輝きを失わせてしまう。

これまでの自分のキャリアは満足すべきものだったのか。

何を得て何を成したのか。

今後はどうありたいのか。

そのために何をすべきなのか。

何のために、どう自分は行動するのか。

自分を明確にしていくと、自然とこれらのことがわかり、今後の方向性も決まってゆく。

このプロセスこそが重要であり、できるだけ早くそれを考え始めたほうが、トータルの人生が満足すべきものになっていく。

変えられない未来を不安に思うのではなく、変えられる未来に対して手を打つことが大事。

では、どうやって手を打てばいいのか。

それは自分の未来をデザインすること。

いままでの自分が積み上げてきたキャリアを振り返り、自分の特性、自分の思いを再確認し、この先の自分はどうありたいか。

そのためには、どんなキャリアを積まなければいけないのか。

そうやって自分の未来をデザインする。

つまり、キャリアデザインが自分の未来を変えてくれる。

キャリアをデザインしていくうえで重要なのは、「現在最適」ではなく「未来最適」の状態。

現在の世界の状況を表す言葉として、「VUCA(ブーカ)」というキーワードが世界的に語られている。

Volatility(不安定さ)、Uncertainty(不確実さ)、Complexity(複雑さ)、Ambiguity(曖昧さ)という4つの単語の頭文字でつくられた言葉。

予測不能な不透明な社会を表している。

これは個人のキャリアを取り巻く環境の総称ともいえるもの。

でも、そんな時代だからこそ、「自分の軸」を持つことが大事。

不透明な状況で軸が無かったり、ぶれてしまっては、迷走しかねない。

若いうちの迷走なら、まだいい。

でも年を重ねてからの迷走は、取り返しがつかなくなることもある。

もうひとつは、変化に柔軟に対応すること。

重要なのはその両立。

つまり、軸を持ちながらも変化に柔軟に対応する。

自分の軸があれば、変化に対応しても迷走することはない。

キャリアのなかで自分が意識する軸、これだけは外せないよりどころを「キャリアアンカー」などという。

アンカー=船の碇のように、それがあることで漂流するのを防ぐ。

その軸とは強み、専門性、やりたいこと、こだわり、何でもいい。

自分が信じて賭けられるものを持つことが大切。

「自分の軸」を持つこと。

自分の人生を他人任せにしないこと。

これが何よりも大事な時代になってきたということであろう。

 

2020年11月15日 (日)

教養としての政治学入門/成蹊大学法学部

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 日中国交正常化で何が合意されたのか。単純にいえば、安保問題と台湾問題をめぐる「不同意の同意」が成立したといえる。外交交渉では、お互いの主張の違いを残したまま合意に至ることが少なくない。いわゆる「暫定協定」と呼ばれるものだ。日中国交正常化は、まさにその言葉がぴったり当てはまる政治決着であった。


いま政治学で何が問題になっているのか?

なぜそれが争点なのか?

本書は政治史・政治理論・国際政治・福祉政治・行政学・地方自治などの専門研究者がわかりやすく論じている。

中でも、日中国交正常化について記してある部分は興味深い。

政治は、相異なる利害が共存する事実を受け入れるところではじめて生起する。

日中国交正常化はたんなる日本と中国との外交関係の復活に留まらない。

交渉がまとまるプロセスには、日米安全保障条約、台湾問題、歴史認識、中国の国内政治や日本の自民党内の政局など様々な要素が関係していた。

そして、国交正常化で取り決められた合意の多くは、今日の日本外交をも規定している。

そして日中の関係は同時にアメリカと中国の関係抜きには語れない。

アメリカと中国の対立が決定的になるのは1950年6月に起こった朝鮮戦争だ。

この戦争に中国が参戦したことによって、朝鮮半島で米中両国は初めて正面から対決した。

この戦争が日本に与えた影響も大きかった。

出撃・兵站基地としての日本の戦略的価値が上がったことから、アメリカを中心とする連合国の間で、占領下にあった日本を早く独立させようという動きが活発になったためである。

こうした流れを受けて、1951年9月、吉田茂政権はサンフランシスコ平和条約ならびに日米安全保障条約を締結し、日本の占領が終わって独立した後も、米軍が日本本土に引き続き駐留することを受け入れた。

吉田茂政権は、この二つの中国のうち、台湾の中華民国を、平和条約を締結する相手に選んだ。

1952年4月に結ばれた日華平和条約は、日中接近を阻止したいアメリカの強い要請によるものだった。

しかし、当然ながら中国側はこの日本の選択に激しく反発した。

中国は日華平和条約の調印直後に、各国にいる中国の外交官に日本との接触を全て禁じる指令を発した。

そして、日華平和条約は不法かつ無効なものであり、日本が中国と外交関係を樹立したければ、まずこの条約を破棄せねばならないと主張した。

かくして、日本は、中華民国との間で条約関係を持ちながら、中華人民共和国とどのように関係を築くかという「二つの中国」問題に直面することになった。

1950年代から60年代にかけての日本の歴代政権は、アメリカを刺激しない範囲で、「政経分離」と呼ばれる中国との間で民間貿易や文化交流だけを進める方針をとった。

そんな中、慎重であった田中首相を国交正常化交渉に踏み切らせたのは、中国側が日本に示した竹入メモと呼ばれるものであった。

竹入メモとは、竹入義勝公明党委員長が周恩来首相と会談し、その内容を記録した覚書のこと。

中国側は日本に大きな譲歩を示した。すなわち、中国は竹入を通じて、

①日米安保には触れず、1969年の佐藤・ニクソン共同声明にも言及しない、

②「賠償請求権」の放棄、

の二点を提示した。

さらに台湾問題についても、共同声明や宣言に盛り込まず、台湾が中国の内政問題であることを承認して、日中両国の共同声明発表後に台北から大使館を撤収すればよいという条件を示した。

さらに周恩来は日本に対する戦争賠償も正式に放棄することを初めて明らかにした。

中国側のメッセージは明確であった。

台湾との実務関係や賠償といった日中交渉の争点となりうるカードを事前に切り、事実上の要求を日本と台湾の外交断絶に絞ることで、日本側に決意を促した。

ただ、日本のアメリカに対する説明は苦しいものがあった。

もともと「台湾条項」の取り扱いは、安保問題と台湾問題が重なり合った部分にある。

そのため、アメリカには台湾の安全保障に日本が関与するという姿勢を示したまま、中国側とは台湾問題をめぐる合意を作り上げなければならなかった。

そこで日本政府が考え出したのは、台湾に関わる日米安保条約は従来の法律的解釈を保ったまま、中国との間でこの問題を政治的に処理するという方針であった。

日本は「法律面」と「政治面」の二つの論理を使い分けることで、日中関係と日米関係の両立を図ろうとした。

日中国交正常化における政治決着の本質は、争点の最終的な解決を棚上げして、両国の異なる意見を表面化させるような行動をとらないという暗黙の合意が成立した点にあろう。

こうした暗黙の合意は、条約や法律ではなく、周恩来の「言必信、行必果(言えば必ず信じ、行なえば必ず果す)」という言葉に示されるように指導者の信頼関係に支えられていた。

両国は相互の見解の相違を認識しながら、国交正常化によって新たな関係に踏み出したのである。

1968年秋に国連アジア極東経済委員会が協力して行なった学術調査で、東シナ海に石油が埋蔵されている可能性が判明した。

そのため、1970年代以降、台湾と中国が相次いで尖閣諸島の領有権を主張するようになった。

今、尖閣周辺で中国の領海侵犯が露骨になってきている。

かつてのあいまいさが後々の火種となっているのは何とも皮肉なものだ。

2020年11月14日 (土)

中国五千年の虚言史/石平

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 基本的に中国人は儒教の影響から家族主義であり、血族および地縁や利益共同体の疑似家族(「圏子」という)以外は、すべて信用できない相手と見なす。また、家族であっても、夫婦は完全には信用しない。

本書は日本人に帰化した著者が中国の虚言の歴史をつづったもの。

中国人は基本的に他人を信用しない。

だから、何か利害関係に発展する場合、必ず嘘をつく。

そしてその嘘がバレても、とにかく嘘をつき通そうとする。

中国人が自らの嘘を認めるのは、相手が圧倒的に立場が上で、そのまま嘘をつき通せば、自分の利益にならないときである。

みんながみんなそうだから、とにかく嘘だらけの相互不信社会になる。

中国には、「中国ではなんでもニセモノ、本物なのは詐欺師だけ」ということわざがあり、かつて江沢民政権時代に首相を務めた朱鎔基も、そのことを口にしていた。

現在の習近平政権において、共産党一党独裁の正統性を強調するためには、反日抗日をテコにするしかない。

そのため、抗日の被害を極大にし、それに打ち勝った中国共産党という神話を強化せざるをえない。

例えば、中国共産党政権が誕生してから、抗日戦争による中国軍民の死傷者は、年を追うごとに増え続けている。

習近平は抗日戦勝69周年記念式典をはじめ、さまざまな公式の場で、抗日戦争中の中国軍民の死傷者は3500万人だと述べている。

だが、この死傷者3500万人という数字の根拠について、習近平は一切、示していない。

中国政府にも、中国国内の研究でも、この数字を立証する論文はまったくない。

つまり何の根拠もない。

そもそも1950年、中国共産党政権が樹立した直後に発表された中国での日中戦争犠牲者数は1000万人だった。

それが85年には2100万人になった。

そして江沢民政権のもとで反日教育が始まり、95年になると、この3500万人になってしまった。

つまり、45年間で3.5倍に膨れ上がったことになる。

その理由について、中国共産党も誰も説明していない。

中国にとって、歴史とはあくまで政治に利用するものなのだ。

たとえば、毛沢東が主導し、中国全土を大混乱に陥れた文化大革命について、中国共産党は1981年に「文化大革命は動乱と災難」であり、「毛沢東の誤った認識が引き起こした」としていた。

だが、2018年3月から中国の中学校で使用され始めた新しい歴史教科書では、「動乱」「災難」という文言や、「毛沢東の誤った認識」といった表現は削除され、毛沢東の判断は間違っていなかったことにされている。

また、中国ではいまだに、1989年の天安門事件について公に語ることはタブーとされている。

そのため、事件に関連した人物の存在が抹殺されてきた。

中国人の「嘘つき」体質は、今後も数百年にわたって不変であろう。

そもそも習近平体制自体が、政権にとって都合の悪い情報を遮断し、習近平の実績を水増しし、嘘によって神格化しようとしている。

表現の自由がないのだから、政権はいくらでも嘘をついて人民をコントロールできる。

そして中国人も、その大きな虚構のなかで、保身のために嘘をつき続けなくてはならない。

あらゆるニセ情報、謀略を用いて相手をねじ伏せるというのが、中国の伝統なのだ。

どこまで上手に嘘をついて相手を騙すかが、勝敗を左右する。

そういう故事について、中国では子供の頃から嫌というほど聞かされる。

日本では「嘘つきは泥棒の始まり」であるが、中国では「嘘つきほど成功する」なのだ。

中国では、成功者が嘘つきであるのと同時に、愚かな者は騙されて当然だという風土でもある。

騙すほうよりも、騙されるほうが悪いのだ。

昔から、中国における嘘の撃退法は、相手が嘘をつくことがわかっているなら、こちらも嘘をつくというものだ。

つまりそれは、誰も最初から信用しないことを意味する。

最後は、誰がいちばんうまく騙したかということで、勝者が決まる。

そして、そんな国のお隣にあるのが日本なのである。

くれぐれも外交で中国に騙されないことである。

2020年11月13日 (金)

嫌なこと、全部やめても生きられる/プロ奢ラレヤー

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「負けない、投げ出さない、逃げないこと」をよく、J‐POPの歌詞では推奨されますよね。 個人的に、こういう歌に文句をつける気は一切ないのですが、ただ「ダメになりそうな時」こそ僕はこの歌詞の真逆のことが大事なんじゃないかと思っています。つまり「負けること、投げ出すこと、逃げ出すこと」ですね。

「他人のカネで生きていく」というモットーを掲げ、見ず知らずの人に奢られるという活動を行う自称「プロ奢ラレヤー」。

フォロワーは2年半で約9万人、彼に奢った人は2000人以上。

さらに、そんな生き方をコンテンツ化し月に3桁万円の収入!

実践するのはただ一つ、「嫌なことをしないだけ」。

本書を読んで一部共感できる部分もある。

一方、SNS全盛の今だからこそできる生き方だと思う。

著者はまだ20代。

これからの長い人生。

奢られるだけで生きていけるほど人生は甘くはないというのが実感だ。

2020年11月12日 (木)

アメーバ経営/稲盛和夫

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 アメーバ組織は、小集団独立採算制のもとでそれぞれ活動をおこなうため、自由度の高い組織体といえる。それは、人に管理されて働くのではなく、自らが主体性を発揮して仕事に取り組むことで、自己の能力を高めていける組織である。

アメーバ経営とは、本書の著者、稲盛氏が京セラを経営するなかで、京セラの経営理念を実現するために創り出した独自の経営管理手法。

著者が経営の実体験のなかで創り出したのが「アメーバ経営」。

大きな組織を独立採算で運営する小集団に分けて、その小さな組織にリーダーを任命して、共同経営のようなかたちで会社を経営する。

このような経営手法を用いれば、会社の隅々にまで目が行き届き、きめ細かな組織運営がおこなえるようになるの。

そのため、それまで収益性が低迷していた会社でも、想像もつかないほどの高収益企業に変身することができる。

アメーバ経営では、会社の経営方針のもと、アメーバリーダーにその経営が任されている。

リーダーは小さな組織の経営者として、上司の承認を得ながら自ら経営計画を立て、実行の任にあたる。

そのため、アメーバ経営では、経験は短くても経営者意識にあふれるリーダーを育成することができる。

そのリーダーが中心となり、アメーバの構成メンバーは、自らの目標を立てて、それぞれの立場で目標達成に向けて最大限に努力する。

その結果、全員が目標達成に向けて力を結集する「全員参加経営」が実践できるのである。

アメーバ経営とは、組織を小集団に分け、市場に直結した独立採算制により運営し、経営者意識を持ったリーダーを社内に育成すると同時に、全従業員が経営に参画する「全員参加経営」を実現する経営手法なのである。

非常に移ろいやすいのも人の心なら、ひとたび結ばれると世の中でこれくらい強固なものもない。

アメーバ経営においても、人の心がベースとなっている。

人体に何十兆という細胞があり、ひとつの意志のもと、すべてが調和しているように、会社にある何千というアメーバがすべて心を合わせてこそ、会社は一丸となれるのである。

アメーバ経営は、小集団独立採算により全員参加経営をおこない、全従業員の力を結集していく経営管理システムである。

各組織を独立採算制で管理するには、損益計算が不可欠になる。

しかし、専門的な決算書では素人にとってわかりにくい。

そこで、会計知識を持たない人でもわかるように、損益計算書に工夫を加え、わかりやすくした「時間当り採算表」を作成した。

この「時間当り採算表」を使えば、小集団のリーダーは現場の採算管理を容易にできる。

「うちの部門の採算を高めていくには、この経費を減らさなければならない」とメンバーに指示することができる。

また、現場のメンバーも、この採算表であれば容易に理解できるから、すべての従業員が経営に参加することができる。

つまり、リーダーを育てると同時に、経営に関心を持ち、経営者マインドを持った従業員を社内に増やしていくことができる。

ただ、アメーバ経営は、世間でもてはやされているような経営ノウハウではない。

ただの経営ノウハウであれば方法や手順さえ学べばよいが、アメーバ経営はやり方だけを真似してみても、うまく機能しない。

その理由は、アメーバ経営は、経営哲学をベースにした、会社運営にかかわるあらゆる制度と深く関連するトータルな経営管理システムだからである。

アメーバ経営を実現するためには、全従業員が何の疑いもなく全力で仕事に打ち込める経営理念、経営哲学の存在が必要だ。

この理念や哲学を抜きにしてただ方法論だけを真似てもうまくいかないというのはその通りだろう。

2020年11月11日 (水)

100%得する話し方/新井慶一

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 世の中の99パーセントの人は、「人の話を聞いている」と言いながら、実は、「自分が話すことばかり考えている」のです。その証拠に、会話が終わったあと、相手と何を話したか詳細に覚えている人はほとんどいません。

著者は、世の中の99パーセントの人は、会話で損をしているという。

なぜなら、99パーセントの人は会話をするときに、相手の話をまったく聞いていないから。

また、世の中の99パーセントの人は、話の聞き方を間違っている。

大事なことは、聞き手である自分が「会話の舞台から降りて」相手に9割話をさせること。

人は、誰かと話をするとき、1対1であれ1対多数であれ、無意識のうちに相手と同じ舞台に立って話をしている。

この意識を変える。

つまり、相手より自分自身を一段下げて話をすることを意識する。

99パーセントの人は、人の話を聞かず、自分が何を話すかばかりを考えている。

これは、たとえて言うなら、全員が舞台にのぼってセリフを言おうとしている状態。

人は、自分にスポットライトを当ててくれる人に向かって大事な話をする。

人は、自分にスポットライトを当ててくれる人を好きになる。

そして、その人に恩を返したい気持ちになる。

これを心理学では、「返報性の原理」と呼ぶ。

スポットライトは話し手だけに当てる。

これだけで、相手はずいぶん話しやすくなるのではないだろうか。

少なくとも、会話で損をすることはなくなるだろう。

2020年11月10日 (火)

あなたの才能があなたを苦しめる/大嶋信頼

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 あるとき、「あ! 私自身の才能で私は苦しめられていたんだ!」ということがわかりました。そうしたら、私が「この人すごい才能を持っているのに」とうらやましく思ったあの方も、その才能に苦しめられているから、使えなかったんだ! ということが見えてきます。

才能になぜ苦しめられるようになるのか。

それは、才能があればあるほど嫉妬されて周囲から攻撃され、足を引っ張られるから。

才能を発揮しようとすると、周囲から足を引っ張られる、ということを何度も繰り返しているうちに、「自分の才能によって苦しめられている」と、自分の才能を嫌うようになってしまう。

自信がない人、才能がまったくない、と思い込んでしまっている人ほど、本当は才能の塊だったりする。

その才能のせいで、周りから足を引っ張られてしまっている。

周りから足を引っ張られると、才能を気づかないうちに隠してしまい、自信がなくなってしまう。

だからこそ、自信のないところに自分の才能が埋まっている可能性が高い。

嫉妬で発作を起こしたとき、相手の口から出てくる言葉は「全部うそ」。

そこには真実は1ミリも隠れていなかったりする。

そして、嫉妬した瞬間に「自分にもうそ」をついてしまう。

そこから「相手に対するうそ」が自動的に出てくるので、自分がうそを言っている感覚がまったくない。

自分より才能のある人を見たとき、素直に認めることが出来ないのが人間というもの。

何とも面倒くさい。

だからこそ、相手から嫉妬されたら、嫉妬されるほど自分には才能があると思えばよいということであろう。

2020年11月 9日 (月)

戦国武将の超絶カッコいい話/房野史典

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 戦国武将も僕らと同じ人間です。
 同じ人間が、命をかけて、あれだけ激しい時代を駆け抜けていった……。
 そこには、ドラマしかありません。

戦国時代は様々なドラマがある。

大逆転を生み出す知恵。

巨大な敵に立ち向かう勇気。

悲哀に彩られた運命。

誰かを救う底なしの優しさ。

こんな物語が、400年以上前の日本に存在した。

戦国時代といえば織田信長。

「戦国時代は信長に始まり、信長に終わる」という言葉があるほど、織田信長は戦国時代に欠かせない人物。

信長は、政治でも戦いでも当たり前を疑い、昔ながらのやり方が理にかなっていなければ、即座に違う方法を求めた武将だ。

その姿勢は人とのコミュニケーションにも表われている。

信長は身分の低い者とも普通に会話したし、能力があれば重要な仕事も任せた。

秀吉がまさにその典型例。

肩書きや身分で人を判断せず、その人間の本質を見て付き合っていた信長。

次に豊臣秀吉。

天下人になるほど圧倒的だった秀吉の人間力。

彼が突出していた部分。

それはなんといっても〝人たらし〟という能力。

秀吉に備わっていた資質には、政治力、軍略の才、それらを可能にする頭の回転の速さなどが挙げられるが、そのどれもが〝人たらし〟という武器の前にはかすむような気がする。

陽気な性格で派手なことを好み、目標達成のためにありったけの情熱を注ぎ、情にほだされやすく涙もろい。

この人間性で、会った者たちをことごとく惚れさせる。

優秀な人たちが、自分のために能力を使ってくれるんですから、こんなに最強なことはない。

そして徳川家康。

何をどういわれようが、「天下を取って、260年以上続く平和な世の中を築いた」

これが、すごいこと。

偉業も偉業。

それに、天下を取るまでの苦労、紆余曲折も半端じゃない。

さらに、戦闘能力も政治能力も超一流。

家康は、信長、秀吉が持っていなかったものを持っている。

それは、〝チーム力〟。

ワンマンな部分が多い信長。

身分が低かったため、最初から仕えてる家臣のいない秀吉。

2人は、〝チーム一丸〟という部分が薄め。

しかし、家康には、「徳川」を名乗る前、「松平」の頃から共に戦ってきた家臣がいた。

もっといえば、松平家に先祖代々から仕えてくれている人たちも。

家康の出身地、三河地方にちなんで、〝三河武士〟と呼ばれた最強軍団。

徳川家康を中心に一枚岩となるその絆こそ、天下統一の最大要因だった。

他にも多くの戦国武将の物語が載っている。

読むと楽しくなり、それなりに勉強になる本だ。

2020年11月 8日 (日)

嫌いなヤツを消す心理術/神岡真司

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「自分の心を変える」方法も、「相手の心を変える」方法も、いずれも潜在意識を上手に活用することで、「嫌いな人」は消えてなくなるのです。

誰にでも嫌な人はいる。

「嫌な人を消すことができたらどんなにいいだろう」と思っている人も多いだろう。

しかし、実際に人を消してしまえば、それは犯罪だ。

そうではなく、本書で言っているのは心理療法を活用して心の中から嫌な人を消す方法である。

本当の意味で、「嫌いな人」を消すには、「自分の心」と「相手の心」の両方へ作用させる心理技法を講じる必要がある。

手順は次の通り。

これを同時に行う。

「自分の心を変える」→「相手を嫌う心」を消す。

「相手の心を変える」→「自分を嫌う心」を消す。

嫌いな人に対しても、秘かに心理技法を施すことで、その人の心にも変化を起こす。

すなわち、相手にも「こちらを嫌う人」という「敵の領域」からの脱出を図ってもらうべく操作する。

カギは、アサーティブな態度をとること。

それは人間関係を支配と従属の関係でとらえたり、差別することなく、対等にふるまうことでお互いがウィン・ウィンの関係を保てるようにするためのコミュニケーション作法と言える。

強者と弱者の関係といった垣根を乗り越え、「あなたもOK、私もOK」という双方が自立的な関係を目指す。

アサーティブのとらえ方では、人間を3つのタイプに分類します。

★アグレッシブ・タイプ…積極的・能動的・攻撃的で他人に抑圧的なタイプ。

★パッシブ・タイプ…消極的・受動的・依存的で他人に従属的なタイプ。

★アサーティブ・タイプ…相手と自分の権利を守る自立的なタイプ。

相手が「イヤだな」と思うようなことは、一切しないのはもちろん、同時に相手からも「イヤなこと」をされたら、正直に「それはイヤだから、やめて」と対等な立場で率直に主張していく。 

アサーティブというのは「対等な関係における自己主張」。

アサーティブな対応は、相手を増長させることなく、対等の人間関係にあることを相手に悟らせ、相手が感じている「生存本能の脅威」をなくさせるために行うもの。

つまり、アサーティブな対応は、こちらが「敵」ではなく、「中立」であることを相手に示すことに他ならない。

アサーティブな対応をするためのトレーニング方法は簡単。

「嫌いな人」からの攻撃を受ける場面をイメージし、アサーティブに切り返す自分の姿を、頭の中で何度もシミュレーションすればよいだけ。

嫌いな人のことが浮かんだら、まず肩を落とし、全身の力を抜くようにする。

人間の本能には、もともと不快な気分を早く取り去りたいという潜在意識のはたらきがある。

よって、「快の状態」へとスムーズに誘導する段取りさえ、整えてあげれば、容易にそこに導かれる。

これは実行してみていいのではないだろうか。

2020年11月 7日 (土)

米中AI戦争の真実/深田萌絵

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 GFWに加わった新機能の一つに、中国共産党に不都合な言論を自動的に検出するものもある。これは、表向きはSNS上のヘイトスピーチを自動的に検出するために開発されたアルゴリズムだが、中国共産党によってSNS上の言論弾圧ツールとして利用されている。

今、米中は目に見えない戦争をしている。

米中が繰り広げるAI戦争の実態は、「監視」と「言論統制」だ。

世界中の人々の通信や家庭での会話を監視し、不穏分子をAIで予測して事前に取り除き、AIで言論・情報制御を行い、民主主義国家の有権者の投票行動をコントロールしていこうという流れが世界的に起こっている。

例えば、GFW。

GFW(グレート・ファイアウォール)とは中華人民共和国本土のインターネットに存在している大規模情報検閲システムとその関連行政機関の通称である。

中華人民共和国国内外で行なわれるインターネット通信に対して監視するだけでなく、接続規制・遮断も行う大規模なネット検閲システムである。

GFWは、そのビッグデータを解析して、思想ごとに分類している。

例えば、中国共産党に反抗する人間を特定するだけでなく、さらには危険度をレベル分けしていく。

その採点は社会信用制度にも反映されている。

一般的に「社会信用制度は、中国国内で中国国民が採点されている」と考えられている。

だが、実際は国外も含めてネットを利用するほぼすべての人々が採点されている。

例えば、ある人スマホがネットにつながった状態で、ブラウザ上で「習近平」と打てば、本人に知られることなくGFWはその人が習近平に関して検索しようとした情報を収集している。

誰が、どこで、キーワードを打ち込んで検索したかを収集して、ビッグデータとして活用している。

中国が世界中にあるAI技術を持つ企業に技術供与を依頼しているのは、GFWに犯罪予測機能を持たせるためだ。

少しでも早く、反共活動家となる不満分子を見つけ出し、デモやテロを未然に防ぎたいというのが習近平の悲願だ。

AIが活躍するのは、不満分子の特定だけではない。

反対分子の逮捕、社会的抹殺までが仕事なのだ。

人間は、たとえ冤罪でも「あの人は犯罪者かもしれない」という情報を与えられるだけで、「あの人を信用するのは止めよう」となり、いつしか「あの人の話はウソだ」と思うようになる。

中国共産党の真実を知る人間を世間が「信じるに値しない人物」だと認定すれば、その人物の言論は存在しないも同然で、わざわざ労して暗殺する必要はない。

あとは、いかに「あいつは犯罪者だ」と印象付けるかだ。

ターゲットを「信用に値しない」と印象付けるのに最も簡単な方法は「印象操作」だ。

この印象操作もあらゆる方法があるが、最も多いのがSNS上のネット世論工作によるものだ。

彼らの手口は、ターゲットが何を言おうが「デマだー」「被害妄想だ!」「精神病だ!」とコメントを続けることによって、その言論を読む人に対して印象操作を行うことである。

この手法はイメージが重要な政治家に有効だ。

AIを長年研究してきた研究者は、当初、人々の行動から発生するビッグデータを解析しているうちに人の行動を予想できるようになると考えていた。

その解析結果をもとにAIでパーソナライズされた広告を打ち出すと、かなりの確率で推薦商品が売れる。

その研究を続けているうちに、彼らはあることに気が付いた。

「AIが人の行動を予測しているだけでなく、AIが出した予想が人の行動に影響を与えている」と。

そして、そのような社会が今、目の前に迫っている。

米中のAI戦争は決して他山の石ではなく、私たちの問題だという意識は持つべきだろう。

2020年11月 6日 (金)

「ひらがな」で話す技術/西任暁子

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「人は〝ひらがな〟で話を聞いている」
 実は、多くの人がこのことに気づかないまま、相手に伝わりにくい話し方をしてしまっているのです。 

おもしろい話し方も、感動する話し方や説得力のある話し方も、すべては「わかる」から始まる。

わかりやすく話すために知っておくべき大原則。

それは、「人は〝ひらがな〟で話を聞いている」ということ。

ということは、大切なのは、自分の話が「相手にどう聞こえているのか」を徹底的に考え抜くこと。

「音」で聞いている相手の頭の中がどういう状態なのか、常に想像すること。

どんな言葉も相手の耳に「ひらがな」で一音ずつ届くのは同じ。

そこから、前後の流れを受け取ってようやく、本来の漢字の意味で理解することができるということ。

だから、気をつけたいポイントは次の三つ。

①丸い言葉を使う

目で見てわかりやすい言葉と耳で聞いてわかりやすい言葉は、同じではない。

漢字がすぐに思い浮かぶ言葉、あるいは、漢字にしなくてもわかる言葉が「丸い言葉」。

丸い言葉は、耳で聞いてすぐわかるので、聞き手もわかりやすいと感じる。

四角い言葉は意味がぎゅっと詰まっているので、それを「ひらく」のに時間がかかる。

一方、丸い言葉は意味が「ひらかれ」ていて、わかりやすい感じがする。

②句読点をつけて話す

ひらがなで聞こえている話には、「間」がとても大切。

だから、話す時にも言葉に句読点を打って話すこと。

③言葉の粒の大きさを変える

「話が単調だ」「聞いていると眠くなる」「飽きるから最後まで聞いていられない」

もし、こんなふうに言われたら、その問題は「言葉の粒」の大きさを変えることで解決する。

「言葉の粒」の大きさを意識すると、声の大きさも変わる。

伝えたい言葉ほど、目の前にひらがなが飛び出すくらい大きな粒をイメージして話すことが大事。

これが「ひらがなで話す」ために欠かせない三大要素といえる。

私たちは言葉を使って考える。

だから、自分の頭の中でふだん使っている言葉は、そのまま話す時にも出てしまう。

しかし、相手は「ひらがな」で聞いている。

このことは本書を読んてはじめて気づかされたこと。

大事なことは、自分の話した言葉が、相手にどのように伝わっているか、そのことを意識して話すことではないだろうか。

2020年11月 5日 (木)

ソーシャルメディア文章術/樺沢紫苑

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「共通話題」+「オリジナリティ」=「最強」という公式が成立します。
 誰もが知っている、あるいは誰もが関心のあるホットな「共通話題」を取り上げ、そこに自分らしいオリジナリティを少しだけ加えると「共感」を呼ぶ。これが、「共感ライティング」の極意といえるのではないでしょう。

これからは、インターネットの時代だ!

これに対して反論する人は、まずいないだろう。

インターネットの時代。

しかしこれは、「書く」能力が重視される時代ともいえる。

今までの時代は、「話す技術」の時代だった。

自分の思ったこと、考えたことを、きちんと言葉で話せる人。

上手に話して伝えられる人が優秀な人であり、成功する人であったはず。

社内のコミュニケーション、お客様との会話、あるいは、営業のトーク。

多数の人の前で話す、プレゼンテーションの技術。

しかし、これからは「書く技術」の時代。

インターネットの時代は、「書く技術」が必要とされる時代。

今から書く技術を磨き、仕事での成功とプライベートの充実を得る。

「書く」だけで、「幸せ」が手に入る時代なのだから、「書く技術」を磨かない手はない。

「ソーシャルメディアに書く」というのは、「文章を書く」というよりも、「社会でお付き合いする」感覚に近いので、文章が上手なだけではうまくいかない。

文章の質よりも「伝わる」ということや、読者の「共感を得る」ということが、ソーシャルメディアでは何倍も重要。

そもそもソーシャルメディアとは何か?

著者は「ユーザー参加型のメディア」をソーシャルメディアと定義している。

ユーザー、すなわちインターネットにアクセスする1人1人が主体となり、コンテンツを投稿、書き込むことによって構築されるメディアのこと。

不特定多数の人たちが集う場所であり、必ず誰かが見ている場所が、ソーシャルメディア。

ソーシャルメディアに書く場合は、「1000人がいる講堂で話している」という心構えを持つこと。

そうすると、まず問題は起きない。

「これ、書いて大丈夫かな?」と思ったら、「1000人を前にして、その内容を堂々と話せるだろうか」と自問自答してみること。

多くの人は、ソーシャルメディア・ユーザーは、たった2つの目的で使用している。

それは、「情報収集」と「交流」。

実にシンプルだ。

「濃い情報発信」と「心の込もった活発な交流」。

この2つを徹底的に行うだけで、ソーシャルメディアで成功する。

情報発信者としてするべきことは、徹底した情報出し。

読者が「凄い」「おもしろい」「ためになる」と思うような、濃い情報、役に立つ情報を出しまくる。

ソーシャルメディアのユーザーは、ソーシャルメディア上の文章に何を望んでいるのか。

それを一言でいうと、「共感」

情報発信者は、これは読者に役立つだろうと発信し、実際に読者は「これだ!」と情報に飛びつく。

情報発信者と読者を結びつけるのが「共感」。

「共感」とは、共に同じものを感じる感覚。

情報発信者と受信者が、共に同じ情報に「重要性」「稀少性」「必要性」「おもしろさ」などを感じたわけだから、情報が発信され読まれる瞬間に、「共感」が生まれる。

ソーシャルメディアで歓迎される文章とは、「上手な文章」ではなく、「共感を呼ぶ文章」

ソーシャルメディアで信頼を得るために、必要なライティングスキルは、

共感を得て読者の感情をゆさぶる「共感ライティング」

圧倒的にコミュニケーションを深める「交流ライティング」

読者にわかりやすく届ける「伝わるライティング」

ということになる。

では、共感を呼ぶために必要なものは何か。

それは、「共通性」

心理学に「類似性の法則」というものがある。

これは、「人は自分と共通性のある人に好意を持つ傾向がある」という法則。

ライティングにおいても、自分と読者との「共通性」、自分と、そして読者の多くが今興味を持っている「共通話題」を意識して書くと、読者に親近感を持ってもらいやすくなる。

いかに共感してもらえるような話題を取り上げ、共感を呼ぶ文章を書くか。

これがポイントということてあろう。

2020年11月 4日 (水)

結局、自分のことしか考えない人たち/サンディ・ホチキス

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 自己愛人間は、何の自覚もなしに境界を侵害する。人の日記や手紙を勝手に読む。浴室や寝室のドアはないも同然だ。衣類や持ち物を無断で〝拝借する〟。会話を盗み聞きする。おせっかいな質問をしたり、聞かれてもいない意見を押しつけたりする。アイデアや手柄を盗む。秘密を守らない。キスやハグを強要する。

本書は自己愛人間について語られている。

自己愛の欲求は「絶えず周囲の承認や称賛を求める」というかたちであらわれる。

だがその根底には、ちょっとした非難にも傷つきやすいという脆さがあり、その脆さゆえ、自己愛の問題を抱えた人間は激しい恥の意識を覚える。

彼らのような人はカリスマ的で魅力的だったかと思うと、次の瞬間には非常に冷淡で計算高く、予測のつかない怒りを爆発させたりする。

彼らはパーソナリティ上の欠陥を抱え、自分をすばらしい特別な人間だと思い込み、自己中心的な行動を見せたり態度を取ったりする。

その病の名を自己愛(ナルシシズム)といい、自己愛の強い傲慢な人間を自己愛人間(ナルシシスト)と呼ぶ。

自己愛(ナルシシズム)は、ギリシャ神話のナルキッソスに由来する言葉である。

若く美しいナルキッソスは、その傲慢なふるまいによって神々の怒りを買い、復讐の女神ネメシスから下された罰によって、自分だけを愛するようになった。

そしてある日、泉の水面に映った自分の姿にうっとりと見とれ、自分への愛に取り憑かれて、やがてやつれてスイセンの花になった。

自己愛は今の時代にはじまったことではない。虚栄心が強くて貪欲で、相手を操ろうとする人間や、慢心して思いやりのない人間はいつの時代にもいた。

ところが厄介なことに、本来は欠陥であるはずのそのパーソナリティ上の特徴が、今の時代には広く世間の承認を得ているのだ。

躍起になって社会を変えようとした人びとは絶望した。

そして、自分がコントロールできる、自分が変えられると思える唯一のもの、つまり「自分自身」に焦点を合わせるようになった。

アメリカ人は、自己の内面へと意識を向けはじめた。

ある意味、「自己に取り憑かれ」はじめたのである。

健全な自己愛とは、自分自身の感情を感じることができ、相手がその時に抱いている感情をも共有できる能力だ。夢見る力を持ち続けながら、現実と幻想とを区別できる能力である。

自信喪失に陥らずに、夢の実現を積極的に追い求められる才能でもある。

健全な自己愛は、真の自尊心の上に成り立つ。

ところが、自己愛人間には真の自尊心が欠けている。

彼らの態度の裏には、よちよち歩きの発達段階から成長していない〝2歳児の姿〟が隠れている。 

彼らはお世辞を使って、相手をいい気分にさせるのがうまい。

だが、その相手が「特別な人間」だという錯覚が消えてしまえば、相手に対する称賛もすぐに消えてしまう。

誰かに特別扱いされ、注目されるという体験は、どんな場合でも酔いしれるような心地よさをもたらす。

ところが、自分を称賛する相手が隠れ型自己愛人間の場合、その心地よさは唐突に終わりをつげる。

歪曲、幻想、隠れ型自己愛人間による相手の勝手な理想化、恥の投げおろし……。

自己愛人間はこれらの手段を駆使して、自分は不充分で、価値のない人間だという感覚を寄せつけまいとする。

自己愛人間が世間に見せる表向きの人格は、たいてい優越感に満ちている。

ところが、その傲慢な仮面の裏に隠れているのは、膨らんだ自尊心でできた脆い風船である。

彼らにとっては、自分が優秀なだけではダメである。

非常に優秀なだけでも、まだ充分ではない。

彼らにとっては、自分が「ほかの人よりも」優れていなければ何の価値もないのだ。

自己愛人間にとって、価値は絶対的なものではない。

つねに誰かや何かと比較して、自分が相対的な尺度で勝っていなければダメなのだ。

自己愛人間にとって、競争は自分の優位を確認する手段である。

彼らはたいてい自分にとって都合のいい、自分が勝てる競争にしか加わらない。

敗北は激しい屈辱をもたらすからだ。

彼らはリスクを負わず、努力もなしに自分が輝ける舞台を選ぶ。

そして成功を収めると、今度は完璧さを追求しようとし、その過程で周囲の承認を要求する。

「自分を褒めてほしい」と要求するのは、実のところ、自分の優位性に自信が持てずに、エネルギーの補給が必要な時である。 

自己愛の根底に潜んでいるのは、現実であれ、想像上であれ、劣等感から生まれた耐えがたい恥の意識を排除したいという欲求である。

自己愛人間は、相手の欠点をいろいろあげつらう。

無意識のうちに相手をおとしめて、自分の優位な立場を回復させるためである。

自分のなかの侮辱の感情に気づいたとしても、彼らは断固としてねたみの感情を否認する。

ねたみを認めれば、自分が相手より劣っていると認めることになるからだ。

自己愛人間は、自分のねたみの感情にも、優越感を持ちたいという欲求にも気づかない。

彼らが感じるのは、ただ独善的な蔑みかもしれない。

そしてそれは、またの名を憎悪ともいう。

彼らにとって「重要なのは自分の気持ちと欲求だけ」であり、「何でも自分の思いどおりになって当然」なのだ。

相互関係や助け合いという発想は、彼らにはない。

なぜなら、周囲は「ただ自分に同意し、自分に従い、自分を褒めちぎり、自分を慰めるために存在する」からだ。

自己愛人間は、特権意識を振りかざす、1、2歳児の幻想の世界に生きているのである。

と、このように自己愛人間について述べられている。

本書を読んでみて、現代は自己愛人間が増えているように感じた。

特に、成功者と呼ばれる人の中に、自己愛人間は多いのではないだろうか。

2020年11月 3日 (火)

秋元康の仕事学/NHK「仕事学のすすめ」制作班

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「僕の企画のリュックサックのなかに今ぽーんとタネが入ったんですよ」

本書は秋元氏へのインタビューをまとめたもの。

秋元氏は、肩書きこそ「作詞家」であるが、そのほかにも小説や、映画の企画・原作や監督、漫画の原作を手がけたり、人気アイドルグループAKB48の総合プロデューサーであったりと、ひとつの肩書きに縛られることなく、その活動は多岐にわたっている。

特に優れているのはその企画力だが、秋元氏は企画について次のようにいっている。

企画とは、自分の居場所をつくること。

〝この人がいないとダメなんだ〟とまわりに認めてもらえる手段でもある。

オーバーに言えば、〝存在価値〟かもしれない。

なので、企画を考えるということは、実は誰にとっても身近なもの。

言いかえれば、企画とは、「あるある話」をすることと似ている。

例えば、「本屋さんで、なぜ人は、読んだらすぐに捨ててしまう雑誌なのに、一番上からではなく、真ん中辺の雑誌を手に取るんだろう」と言う。

すると、みんなが「ああ、あるある」と頷く。

こうした「あるある話」をするには、面白いネタに気づくという〝視点〟が一番大切。

秋元氏は日常的にさまざまな気づきをリュックサックにどんどん入れて、必要なときに取り出すという作業を行っているという。

重要なのは、リュックサックに入れるときや、あるいは取り出すときに、その素材に対してどれだけ想像力を働かせて拡大できるかということ。

そこにこそ、企画を生む秘訣がある。

そして、どんなときでもこういうことを考え続ける。

日常の中で耳にした何気ないひと言であれ、新聞であれ、テレビであれ、雑誌であれ、すべてに企画の入り口はある。

食材は、集めようと思わなくても気づけばいくらでもある。

企画の入り口は、他人の意見よりも、まず自分が面白いと思うかどうか。

「自分が正解だ」と思うことが一番大切。

そして、付箋を貼ったものがどれだけ記憶というリュックサックに入るかによって、おのずとつくることができる料理も多くなる。

と、このように自らの企画について語っている。

要は日常の中でいかにアンテナを張って、引っかかったモノをリュックサックに入れるかが大事ということではないだろうか。

2020年11月 2日 (月)

江戸無血開城の深層/磯田道史

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 慶喜は、いわゆる「大政奉還」によって政権を幕府から独断で朝廷に返上し、新政府軍との戦いに敗れたアンチ・ヒーローとして知られています。しかし近年、その政治手法が再評価され、慶喜なくして明治維新は実現しなかったともいわれています。
 慶喜は歴代将軍のなかでも特筆すべき強力な指導力で内政・外交に手腕を発揮し、当時、日本とコンタクトをとっていた諸外国からは「新たな国王」として高い評価を得ていました。

本書では江戸無血開城と、それにかかわった人物について記されている。

江戸無血開城の当事者である西郷隆盛と勝海舟という人物のみでなく、徳川慶喜、皇女和宮、篤姫らにも光をあてている。

例えば徳川慶喜。

慶応2年7月20日、大坂に滞在中の十四代将軍の家茂が病没し、将軍は空位となる。

慶喜は周囲に推されて8月20日に徳川宗家を継承する、すぐに十五代将軍となったわけではない。

将軍に就任したのは12月5日。

実に4か月も将軍の座に就くことを拒んだ。

図らずも徳川最後の将軍となった。

尊王攘夷の声が高まり、窮地に陥った慶喜は、ここで誰もが驚く奇策に出る。

それが、政権を朝廷に返上するという「大政奉還」。

おそらく慶喜や幕府の諜報に携わる役人は、薩長、特に薩摩藩の怪しげな動きを察知していただろう。

それならばと、先手を打ったことになる。

日本の将来像を選ぶにあたり、慶喜が思い描いていたのは、幕府の看板を書き換えただけの「浅い改革」。

当時、日本の人口は三千数百万で、旧幕府と親藩・諸代藩の人口は千二百万ほどで、4割近い人口を旧幕府が支配していた。

幕府を解体せずに新政府に移行しても、新政府には民政の機構もまだない。

結局は旧幕府の機構に頼らざるを得なくなると読んだ。

江戸総攻撃を決めた新政府に対し慶喜は戦いを避ける。

そして、新政府に対し、一通の書簡をしたためる。

「御征討使御差向猶予之儀ニ着徳川慶喜上書」という書面。

ここには次のような慶喜の心情が綴られている。

今回の事態は、まさにこの慶喜の至らなさが引き金であり、どんな処分でも受ける覚悟でいる。

なんの罪もない江戸の庶民に苦しみを与えることだけは、止めてほしい。

すべての罪は、この慶喜にある。罰するのであれば、この私だけを罰してほしい。

江戸無血開城にはこのような背景があった。

慶喜の汚名が完全に雪がれたのは、明治維新から30年以上の時を経てから。

明治31年には明治天皇への拝謁を果たし、その4年後には華族としての最高位である公爵となっている。

慶喜は65歳だった。

20世紀まで生き永らえた慶喜は、大正2年に病死する。

76歳だった。

その死の直前、こう語ったといいう。

「家康公は日本を統治するために幕府を開かれた。私はその幕府を葬り去るために将軍となったのだ」

著者は、徳川慶喜という人は富士山のような人ではなかったかと述べている。

短期的に近くに寄って見てみると、石ころや岩場ばかりだが、長期的に思い切り遠くから眺めてみると、非常に美しい姿をしている。

慶喜だからこそ、明治維新の変革の犠牲が少なかったのではないかと。

慶喜は歴史上、あまり評判のよい人物ではない。

しかし、慶喜という人物がいたからこそ明治維新が実現したのではないかと再認識させられた。

2020年11月 1日 (日)

"理由のない不安"を一瞬で消す方法/高牟禮憲司

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 難しいのは、この「適度な不安」の持ち方なのです。
 人はともすると極度の不安を持つことが多く、「猛烈に怒る上司が悪い」と戦う姿勢を見せたり、反対に「向いていないからやめようかな」と逃げの姿勢になったりしがちです。
 しかも、どちらの姿勢にも疑問を感じることがありません。
 そこで大切になってくるのが、「理由のある必然的な不安」なのか、「理由がなく場違いな不安」なのか、この違いをしっかりと区別できるようになることです。

人は誰もが不安を感じる。

しかし、不安を持つことがすべて悪いことではない。

不安というものは、役に立つことも多々ある。

なぜならば、人はなんらかの不安を感じることで、「なんとかしなければ……」と思い、具体的に対処するからだ。

もし、危険があるのに不安を感じなかったらどうなるか。

何の準備もしないまま、ワクワク気分だけで旅行に行くことになる。

何ごともなく旅行を満喫できるかもしれないが、思いもよらぬ大変な目や怖い目に遭遇する可能性も高い。

このように「不安」は、ネガティブな感覚だから、ただなくせばいいという単純なものではない。

問題は「理由がない不安」である。

この理由のわからない不安や閉塞感から抜け出すには、自分を保てるだけの心の安定感が必須だ。

その第一歩として、「心のバランスを整え不安を解消していく方法」を本書は伝えている。

これは何も難しいことではなく、数秒でできるものもある。

いくつかのちょっとした心と体の使い方を学ぶだけで実現できる。

さらに、「セルフイメージ」を高めていくことで不安を解消し、より自分を保てるようになる。

例えば、不安を鎮める手順として次のような方法を紹介している。

①ゆっくりと右手を強く握りしめ、拳をつくる(10秒程度)

②ゆっくりと左手を強く握りしめ、拳をつくる(10秒程度)

③握りしめる強さが左右同じになるように観察し、調整する(10秒程度)

④右の拳の力を半分にゆるめる(10秒程度)

⑤左の拳の力も半分にゆるめる(10秒程度)

⑥そのまま握りしめる力が左右同じになるように観察し、調整する(30秒程度)

⑦そのまま拳を胸に軽く当て、触覚を観察する(10秒程度)

⑧拳をのど元に軽く当て、触覚を観察する(10秒程度)

難しいものではないので、やってみる価値はあるのではないだろうか。

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