« "理由のない不安"を一瞬で消す方法/高牟禮憲司 | トップページ | 秋元康の仕事学/NHK「仕事学のすすめ」制作班 »

2020年11月 2日 (月)

江戸無血開城の深層/磯田道史

Photo_20201028064701

 慶喜は、いわゆる「大政奉還」によって政権を幕府から独断で朝廷に返上し、新政府軍との戦いに敗れたアンチ・ヒーローとして知られています。しかし近年、その政治手法が再評価され、慶喜なくして明治維新は実現しなかったともいわれています。
 慶喜は歴代将軍のなかでも特筆すべき強力な指導力で内政・外交に手腕を発揮し、当時、日本とコンタクトをとっていた諸外国からは「新たな国王」として高い評価を得ていました。

本書では江戸無血開城と、それにかかわった人物について記されている。

江戸無血開城の当事者である西郷隆盛と勝海舟という人物のみでなく、徳川慶喜、皇女和宮、篤姫らにも光をあてている。

例えば徳川慶喜。

慶応2年7月20日、大坂に滞在中の十四代将軍の家茂が病没し、将軍は空位となる。

慶喜は周囲に推されて8月20日に徳川宗家を継承する、すぐに十五代将軍となったわけではない。

将軍に就任したのは12月5日。

実に4か月も将軍の座に就くことを拒んだ。

図らずも徳川最後の将軍となった。

尊王攘夷の声が高まり、窮地に陥った慶喜は、ここで誰もが驚く奇策に出る。

それが、政権を朝廷に返上するという「大政奉還」。

おそらく慶喜や幕府の諜報に携わる役人は、薩長、特に薩摩藩の怪しげな動きを察知していただろう。

それならばと、先手を打ったことになる。

日本の将来像を選ぶにあたり、慶喜が思い描いていたのは、幕府の看板を書き換えただけの「浅い改革」。

当時、日本の人口は三千数百万で、旧幕府と親藩・諸代藩の人口は千二百万ほどで、4割近い人口を旧幕府が支配していた。

幕府を解体せずに新政府に移行しても、新政府には民政の機構もまだない。

結局は旧幕府の機構に頼らざるを得なくなると読んだ。

江戸総攻撃を決めた新政府に対し慶喜は戦いを避ける。

そして、新政府に対し、一通の書簡をしたためる。

「御征討使御差向猶予之儀ニ着徳川慶喜上書」という書面。

ここには次のような慶喜の心情が綴られている。

今回の事態は、まさにこの慶喜の至らなさが引き金であり、どんな処分でも受ける覚悟でいる。

なんの罪もない江戸の庶民に苦しみを与えることだけは、止めてほしい。

すべての罪は、この慶喜にある。罰するのであれば、この私だけを罰してほしい。

江戸無血開城にはこのような背景があった。

慶喜の汚名が完全に雪がれたのは、明治維新から30年以上の時を経てから。

明治31年には明治天皇への拝謁を果たし、その4年後には華族としての最高位である公爵となっている。

慶喜は65歳だった。

20世紀まで生き永らえた慶喜は、大正2年に病死する。

76歳だった。

その死の直前、こう語ったといいう。

「家康公は日本を統治するために幕府を開かれた。私はその幕府を葬り去るために将軍となったのだ」

著者は、徳川慶喜という人は富士山のような人ではなかったかと述べている。

短期的に近くに寄って見てみると、石ころや岩場ばかりだが、長期的に思い切り遠くから眺めてみると、非常に美しい姿をしている。

慶喜だからこそ、明治維新の変革の犠牲が少なかったのではないかと。

慶喜は歴史上、あまり評判のよい人物ではない。

しかし、慶喜という人物がいたからこそ明治維新が実現したのではないかと再認識させられた。

« "理由のない不安"を一瞬で消す方法/高牟禮憲司 | トップページ | 秋元康の仕事学/NHK「仕事学のすすめ」制作班 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事