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2020年11月29日 (日)

喪失学/坂口幸弘

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 人生の歩みのなかで、私たちはさまざまなものを失いながら生きている。「生者必滅、会者定離」といわれるように、この世は無常であり、命あるものは必ず滅び、会った者とはいずれは別れる運命にあるというのが定めである。人生は喪失の連続であるといっても過言ではない。

近頃、「ロス」という言葉を見聞きすることが多い。

「パートナーロス」「母ロス」「父ロス」「ペットロス」といった言葉が、メディアで紹介され、特集が組まれたりしている。

著名人の結婚や引退、テレビ番組の終了などでも、ファン心理を象徴する表現として用いられている。

喪失の体験を積み重ねていくなかで、私たちは多くのことを学ぶことができる。

大切なものを失った経験を通して、人は成長できるともいえる。

米国の社会心理学者のジョン・H・ハーヴェイは、「重大な喪失」とは、人が生活のなかで感情的に投資している何かを失うことであると定義している。

悲痛な喪失を体験するということは、自分にとって心から大切と思える「何か」がそこに存在したことを意味している。

精神分析学の領域では、愛する人の死や親離れ・子離れなど、愛着および依存、あるいは自己愛の対象を失う体験は、「対象喪失」と呼ばれる。

そして、対象喪失において失われるものは、意識的あるいは無意識的に自分にとって大切なもの、慣れ親しんだものとして心に取り込んでいるもの、自分の一部のように思っているものであるとされる。

みずからが深く心を寄せる対象を失う重大な喪失は、ライフサイクルのさまざまな局面で生じる。

それらは、必ずしも悪い出来事や変化において経験されるとは限らない。

結婚や子どもの誕生、進学、昇進、困難な目標の達成など、良い出来事や変化にも必然的に喪失はともなう。

喪失体験は、失われた対象によって大きく、「人物」の喪失、「所有物」の喪失、「環境」の喪失、「身体の一部分」の喪失、「目標や自己イメージ」の喪失の5つに分類される。

喪失体験は5つの分類だけでなく、さまざまな視座から区分することができる。

失われた対象の性質に基づき、米国の心理臨床家であるテレーズ・ランドーは、実体のあったものがもはや存在しない「物理的な喪失」と、実体のないものを失う「心理社会的な喪失」もしくは「表象的な喪失」に大きくわけている。

物理的な喪失は、家や財産、身体の一部を失うなど、失われたものを客観的に把握することができるため、その事実や衝撃は他者からも認識されやすい。

一方、夢や目標、自信、希望を失うといった心理社会的な喪失の場合、他者からはみえづらく、その重大性が見過ごされやすい。 

わが国の喪失研究の第一人者である精神科医の小此木啓吾氏は、喪失体験を「外的対象喪失」と「内的対象喪失」に区分している。

外的対象喪失とは、近親者の死や母親からの分離、転勤など、自分の心の外にある人物や環境が実際に失われる経験である。

それに対して、内的対象喪失とは、夫や妻の不貞行為による幻滅など、みずからの心のなかだけで起こる経験である。

外的対象喪失と内的対象喪失は、必ずしも一致せず、同時に経験されるわけではない。

喪失は、何らかの力によって半ば強制的に経験させられるものばかりではない。

喪失体験には、「強いられた喪失」と、「選択した喪失」がある。

強いられた喪失には、死別のように自分が望まないのに対象を奪われたり、無理に引き離されたりする場合だけでなく、対象である相手自身から見捨てられたり、突き放されたりする場合もある。

死別の場合でも、自殺による死に直面した遺族であれば、故人から見捨てられたという複雑な思いを抱くことがある。

また、みずからの過失によって対象を失わざるをえなかった場合には、喪失の衝撃はきわめて大きく、後悔や自責の念に長く苦しむことになるかもしれない。

一方で、選択した喪失は、思い出の品を処分したり遺品を整理したりするなど、大切なものをみずから手放すことである。

積極的に選択することもあれば、おかれた状況のなかで選択せざるをえない場合もある。 

選択した喪失にも苦悩はともなう。

たとえば、人工妊娠中絶は選択した喪失の一例である。

中絶を選択した人には、やむをえない事情から苦渋の決断をした人も多いだろう。

近年では、新型出生前診断の拡がりもあって、難しい判断を迫られるケースが増えてきている。

また、ペットロスの場合には、安楽死を含めた治療の選択にともなう罪悪感が大きな苦痛となることが指摘されている。

強いられた望まぬ喪失のつらさは他者に共感されやすいが、選択した喪失のつらさはわかってもらえないこともある。

みずからが失うことを選択したがゆえに生じる葛藤や苦しみがあることも広く理解される必要がある。

人生においては、思いもかけず、重大な喪失に直面することがある。

突然のリストラで仕事を失うこともあれば、不慮の事故に遭って身体の機能を失うこともある。

自然災害によって家や財産をまたたく間に失うことも他人事ではない。

こうした予期せぬ喪失は、予測された喪失に比べ、深刻な衝撃をもたらす可能性が高い。

また、人生で遭遇する出来事の性質や状況によっては、一つの喪失にとどまらず、波及的に複数の喪失をともなうこともある。

最初の喪失と同時に起こるか、もしくはその結果として生じる物質的または心理社会的な喪失は、「副次的な喪失」とよばれる。

「人は二度死ぬ」といわれるように、肉体的な死がおとずれても、人々の記憶から失われない限り、故人は生き続けられると考えることもできる。

少なくとも故人との強い絆を感じている者にとって、姿形はなくとも、故人とともに生きている。

米国の家族療法家であるポーリン・ボスは、「あいまいな喪失」という概念を提唱している。

あいまいな喪失には二つのタイプがある。

一つは、身体的には不在であるが、心理的に存在していると認識されることにより経験される喪失である。

このタイプは、水難事故や山岳遭難事故、自然災害などでの行方不明者の家族が経験するものであり、生存は絶望的だが遺体が長期間発見されないという場合が典型である。

東日本大震災では、8年が経過した今でも2500人以上が行方不明のままである。

また、誘拐が疑われる子どもの家族が経験している喪失もこのタイプに含まれる。

もう一つは、身体的には存在しているが、心理的に不在であると認識されることにより経験される喪失である。

このタイプには、認知症の患者や慢性の精神障害者を抱える家族が経験する喪失などが含まれる。

重度の認知症患者の場合、肉体は存在しているが、あたかも人格が変わってしまったかのような言動がみられることがある。

家族の顔すら覚えていないこともある。

この種のあいまいな喪失は、家族にとって先のみえない大きなストレスとなりかねない。

喪失の「失」という漢字は、巫女が身をくねらせて舞い祈る形で、エクスタシーの状態にある人の形、すなわち自失の状態を表しているという。

特に突然の予期せぬ喪失の場合には、あまりのショックに、我を忘れて頭のなかが真っ白になってしまう、いわゆる茫然自失に陥るかもしれない。

聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生は、2017年7月に105年と9カ月の生涯を閉じられた。

クリスチャンであった日野原先生は、「神は越えられない苦しみは与えられない。そしてそのなかで逃れる道を与えてくださる」という聖書の言葉を紹介したうえで、次のように述べている。

「あなたは今悲しみの真っ只中にいて、一生自分は笑うことがないと思っているかもしれません。でも僕達人間には、時間がかかっても必ず悲しみを乗り越える力が備わっています。綺麗な花を見たり、素晴らしい音楽を聞いたり、友達と心が通じ合えたり、そんな癒やしの恵みを味わうことで、生きていてよかったなと思える瞬間が必ずやってきます。その時を信じて待つのです」

後悔とは、過去の行為を解釈することである。

みずからの意図的あるいは非意図的な行為に対して激しく後悔している場合、起こってしまったことをあたかも事前に予測することができ、自分が他の選択をできたかのように感じがちである。

このように事後的に、それが予測可能であったと考えてしまう心理は、「後知恵バイアス」とよばれる。

「あきらめる」の語源は、「あきらむ(明らむ)」であり、道理を明らかにするというのが本来の意味であり、断念や放棄という否定的な意味合いだけを含むわけではない。

「あきらめる」とは、人生そのものを捨てるのではなく、自分にできることとできないことを区別して、できないことをやめること、あるいは人間の力ではどうしようもないことがあるという事実を認めて、過去や将来について思い煩わず、目の前に全力を傾けることだという。

あきらめることは、人生に対して卑屈になるのではなく、思い通りにならない現実を認めつつ、そのうえで主体的に生きることである。

重大な喪失を経験し、心機一転、新たな生活や人生の一歩を踏み出すのは悪いことではない。

ただ、喪失後まもなくは、物事に集中することや論理的な思考が難しく、冷静な判断ができない恐れがある。

転居や転職、財産の処分など大きな意思決定は、しばらくのあいだは控えたほうが無難である。

急いでことを起こすことによって、新たな苦悩を生じさせる可能性もある。

もちろん喪失の状況によっては、素早い決断や行動が求められることもあるだろう。

その場合でも、自分ひとりで性急にことを進めるのではなく、人に相談しながら可能な限り時間をかけるようにしたほうがいいだろう。

しばしば人生を前向きに生きることは大切であるといわれる。

何事にも積極的であることは長い目でみたときには望ましいのかもしれないが、いつも急いで前へと動かなくてもいいのではないだろうか。

「つらい」という言葉は、「つらなし(連無)」が語源であり、同伴の者がおらず、苦しい心境が元の意味であるという。

喪失体験の苦難や苦悩を分かち合える仲間とつながることで、体験者一人ひとりの言い知れぬつらさが軽減されるかもしれない。

「立ち直る」ということは、あたかも風邪が治り、本来の健康状態を取り戻すかのような印象があるが、何事もなかったかのごとく喪失体験を消し去ることはできない。

私たちができるのは、喪失から回復し、以前の状態に戻ることではなく、大切な何かを失った状況のなかで生きることである。

すなわち、喪失から「立ち直る」、あるいは喪失からの「回復」ではなく、喪失への「適応」が求められているのである。

喪失への適応を旅にたとえるならば、目的地は喪失前と同じ場所ではない。

一人ひとりが異なる風景を見ながら、決して平坦ではない道のりにおいて、自分のペースで旅を続け、やがて以前とは違う新しい場所にたどり着くのである。

喪失に適応するためには、失った事実を受けとめ、自分の気持ちや直面している困難と折り合いをつけていくことが必要である。

拭いきれぬ思いをいかに消し去るのかが大事なのではなく、その思いを抱えつつも、自分なりにどのように生きるのかが重要である。

人生において喪失を重ねるなかで、人はその経験から多くのことを学んでいく。

しかし一方で、喪失そのものを意識して学ぶことも大切である。

「死」を考えることは「生」を考えることといわれ、人生で何を失い、どう向き合うのかを考えることは、みずからの人生をどのように生きるのかを問うことでもある。

欧米では死に関する教育は、デス・エデュケーション(死の準備教育)とよばれ、1960年代頃から、その必要性が広く認識されている。

日本では、アルフォンス・デーケン氏が、1975年に上智大学で「死の哲学」を開講し、その後、1982年に「生と死を考える会」を設立するなど、デス・エデュケーションの実践・普及に貢献した。

デーケン氏は、死の準備教育の目的は、「死を身近な問題として考え、生と死の意義を探求し、自覚を持って自己と他者の死に備えての心構えを習得すること」であると述べている。

生と死の教育や学習は、学校教育の場だけでなく、生涯にわたって続くものである。

現代社会は、人間が自然を支配し、コントロールすることを目指して発展を遂げ、私たちに多くの恩恵を与えてきた。

新たに得たものや可能になったことは数え切れず、私たちの暮らしは便利で豊かになってきた。

一方で、人生の歩みにおいて、喪失の現実は変わらずにあり、重大な喪失に直面している人たちも多い。

「何かを得ること」「失わないこと」が重視されがちな社会のなかで、ともすれば「失うこと」は置き去りにされてきたように思われる。

私たちは、大切なものを失うという現実を頭ではわかっていても、その事実を意識的あるいは無意識的に避けがちである。

喪失の現実を直視することは、みずからの将来に対する不安や恐れを少なからず喚起する。

喪失を意識させるものを回避することは、そうした不安や恐れへの対処行動の一つであると考えられる。

重大な喪失の可能性を一人ひとりがどう受けとめ、どう引き受けるかに応じて、社会のありようも変わってくるのではないだろうか。

まずは、病気や障害、大切な人との死別、みずからの死など重大な喪失を特別視せず、当事者もそうでない人も気負うことなく、自由に語れる社会を目指すところから始めることだろう。

 

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