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2020年12月の31件の記事

2020年12月31日 (木)

一流の男/日髙利美

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 一流の方々は、読書家です。読まれるジャンルも雑誌や小説から専門書まで、幅広く読まれています。その中でも必ず読まれているのが、中国の古典。
 私自身が薦められて読んだのは『論語』『孫氏の兵法』『老子』『菜根譚』。中国古典の他にも、デール・カーネギーの『人を動かす』『道は開ける』、ピーター・F・ドラッカー『マネジメント』松下幸之助の『道をひらく』などです。

様々なメディアで百戦錬磨と称される銀座のママ。

そんな銀座のママがどんな男性に心惹かれるのか。

夜の銀座は大人の社交場。

一流と言われる男性や成功していると言われる男性が集う場所。

「一流」を辞書で調べたら、「その世界で第一等の地位を占めているもの。他とは違う独特の流儀」。

「成功」を調べてみたら、「物事を目的どおり成し遂げること。物事を上手く成し遂げて社会的地位や名声などを得ること」とある。

銀座のママである著者が夜の銀座で出会った一流の人には、「人に気軽に話しかける」という共通点があった。

前から知っている人のように、初めて会った人と笑顔で気軽に話しかける。

少年のような好奇心と人懐っこさ。

誰に対しても変わらぬ態度からは、大人の余裕も感じる。

周りの空気が和らぎ明るくなるだけではなく、時には話の流れから「役に立つ良い情報」を得る。

どんな一瞬でも、一人ひとりとの出会いを楽しむその姿が相手に伝わり、「この人を大切にしたい」と思わせる。

一流の人は、「人に好かれようとしない」

人からの評価を気にしないことで、周りの目を気にすることなく、信念を持って生きることが出来る。

「人から好かれようが嫌われようがどちらでも構わない」。

そういう覚悟を持つと心が自由になる。

一流の人は、「信念がある」

成功している一流の人は、こんな風に自分が生きるという道徳的な信念や、自分自身やご自身の会社が人のためにどうあるべきかという前向きな信念をもっている。

常に自分の心の声を聞いていて、誰よりも自分自身と対話をし、行動している。

自分に正直でいることで、自分自身に対する信頼を重ね自信がついていくからこそ、毎日ワクワク過ごせ、ご自身が望む結果を得ることができる。

一流の人は、「自分とは違う視点を持つ人を傍に置いている」

成功している人は、「そういう考え方もあるのか」と自分の考え方や意見とは違う人のことを受け止めることが出来る。

そして、自分の視点とは違う考えや意見を聞いて考え、今までの自分の考えより良い考え方や結果が出そうだと判断した時には、考え方を改める柔軟性をもっている。

一流の人は、「末端の人にこそ気を配る」

成功している一流の人が「影ながら自分を支えてくれている人」に共通してやっていることが五つある。

①笑顔で挨拶

「おはようございます」「お疲れ様です」という日々の挨拶を相手の目を見て笑顔で。

②感謝の気持ちを言葉にする

相手が年下なら「いつもありがとう」、相手が年上なら「いつもありがとうございます」。

③相手を労う言葉をかける

「寒い中、大変ですね」「いつも遅くまでお疲れ様です」という相手を労う言葉をかけている。

④相手を気遣う言葉をかける

例えば、警備員さんのことを気遣う言葉をかける場合、「寒くなってきたから体調を崩さないように気をつけて下さい」など。

⑤名前を覚えて呼びかける

思いがけない人から名前を覚えてもらったり、自分という存在を認識されていると知ることは嬉しいもの。

一流の人は、「好き嫌いで仕事している」

成功している一流の人は、今までの自身の経験から勘も大切にしている。

だからこそ「なんか好き」「なんか嫌い」という感覚も大事にしている。

もちろん、社内でも社外でも仕事が円滑にいっている場合は、嫌いな人とでも割り切ってお仕事をする。

人生を楽しく過ごすためには、他人や世間の価値観ではなく、自分の価値観を持ち、信じることが大切。

楽しくない、つまらない、そう感じている時は、人生を自分主導で考えていない場合が多い。

大切な自分の人生を他人任せにしてはいけない。

成功している一流の人が「自分が楽しいことしかしない」とは「何をしていても楽しくする」という意味。

一流の人は、「人のせいにしない」

起こっている今の環境はすべて自分が創り出している。

すべての結果には必ず原因がある。

そう考えることで、自分に悪いところはなかったか?自分に出来ることはなかったか?と、自問自答することができるようになる。

待っているだけでは何も変わらない。

まずは、自分自身の考え方や行動、言葉を変える必要がある。

人のせいにすると成長しない。

人のせいにすると信用を無くす。

人のせいにすると人生が望む方向に向かわない。

起こっていることすべてを自分のせいにする必要はないが、人のせいにしないことで主体性を持って生きることができるようになる。

一流の人は、「なんにでも本気で全力投球」

何かをやると決めたら仕事も遊びも全力投球。

今この瞬間に集中し、ただ見ているだけではなく参加することを楽しんでいる。

「楽しむ」ことと「本気でいる」ことは、どんな時でも人生を豊かなものにするためにとても大切な要素。

「本気」は、「真剣」とも言い換えられる。

成功している人が、人生を楽しむことが上手なのは、きっと好奇心が旺盛で想像力が豊かだから。

そして、どんな時も諦めないで追求する心が、他の人ができない大きな成功をもたらしている。

これらが銀座のママが見た一流の人の共通点だ。

逆に考えれば、一流の人になるためには、これらのことが必要ということでもあろう。

2020年12月30日 (水)

GIG WORK/長倉顕太

Gig-work

 お金、能力、時間、人脈の4つのうち、時間以外の3つは人それぞれ違う。だから、一概にこうしろとは言いづらい。ただ、時間については1日24時間はすべての人間に平等だ。だから、まず大切なのは、貴重な自己資源である時間をどこに投資するかだ。

ギグワークとは世界最先端の都市であるサンフランシスコに住んでいた著者が見てきた未来の働き方。

簡単に言えば、資本家でも労働者でもない存在が生まれた。

それを「ギグワーカー」と呼んだり「ギガー」と呼んだりする。

そもそもなんで「ギグエコノミー」と呼ぶのか。

「ギグ」とはもともとジャズミュージシャンの間で使われていた言葉で、ライブハウスなどでの単発の演奏のことを言う。

つまり、「ギグエコノミー」とは、プロジェクトごとに参加したり、空き時間を使って参加したり、さまざまな形で会社員という形でなく労働することを指す。

たとえば、デザイナーとしてあるプロジェクトに参加したり、空き時間を使ってウーバーのドライバーをすることも同じだ。

著者が提案するのは「人生をギグれ!」ということ。

バブル経済が崩壊してから30年が経ち、多くの数字が日本の衰退を示している。

ある調査によるとこの期間における名目GDPの成長率を見たときに、アメリカ4倍、イギリス5倍、韓国18倍、中国75倍なのに対して、日本は1.5倍。

1997年~2007年の民間部門の総収入を見たときに日本は主要国で唯一のマイナスで9パーセントの下落。

ちなみに、アメリカは76パーセント、イギリスは87パーセント、フランスは66パーセント、ドイツは55パーセント、韓国は2.5倍に増えている。

このような状況になっている最大の要因は、日本の社会システムが時代に合っていないのが原因だ。

日本人には新しい働き方が求められている。

もし、「やりたいことがない」というなら、なおさらギグワーカーを目指すべきだ。

ギグワーカーになって選択肢を増やすだけ増やす。

あくまでも何を選ぶかは重要じゃない。

当たり前だが、選択肢が多ければ多いほど、人は精神的にも経済的にも豊かになれる。

人生戦略を考える上で重要なのは「自分を知る」「世界を知る」「戦略を知る」こと。

重要なポイントはインターネットの普及により、世界がコンテンツ化したことが大きい。

最近の事例で面白いのはKonMariこと近藤麻理恵さんのアメリカでの活躍。

彼女は2010年に日本で出版した『人生がときめく片づけの魔法』がミリオンセラーになり、その後、アメリカ版もベストセラーに。

さらに、ネットフリックスで番組を持ち、大成功をしている。

掃除を製品化したのが掃除機なら、コンテンツ化したのがKonMariなわけだ。

彼女は40億円以上でネットフリックスと契約したわけだから、まさにコンテンツ化がお金を生むことを証明している。

人はコンテンツがなければ生きていけない生き物だ。

なぜなら、膨大な処理ができる脳を手に入れた人間は、常に何かを思考している。

それは意識的か無意識的かは別として。

そこで重要なのは、思考する根拠となるものだ。

コンピューターで言えば、OSみたいなものを常に必要としていく。

なぜなら、私たちは日々、選択に迫られる。

ある説によると、1日約9000回の選択を迫られるという。

そうなると、ほとんどの場合は無意識で判断していることになるが、顕在意識では常に「これは正しいのか?」という不安を抱くことになる。

そこで、人は何か信じるものが欲しくなる。

判断基準が欲しくなる。

その結果、あらゆるコンテンツを欲していくのだと思う。

アマゾンはコンテンツによって私たちの頭だけではなく、リアル店舗を持つことで、生きていく上で必要な食料品を扱うことで身体まで支配してきていると言ってもいい。

今の時代はこうやってコンテンツが頭から入り思考を支配され、リアルな人生における行動が決まってくる。

コンテンツは趣味や知的好奇心レベルの話ではなく、リアルな人生における行動すらも支配していく。

そもそも、この世界を支配している宗教もコンテンツだ。

資本主義すら宗教と言っていい。

グーテンベルグが考えた印刷技術によって、聖書が世界的なベストセラーになったわけだ。

今は印刷からインターネットにメディアが変わり、そこにあらゆるコンテンツが乗っている。

私たちはインターネットに接続している限り情報発信していることになる。

意識的か無意識的かは別にしてだ。

だったら、影響力を持つような発信をしたほうがよくないか。

だったら、意識的に情報発信していったほうがよくないか。

それができるようになれば、自分の人生がコントロールできるようになるからだ。

コンテンツの支配側(発信側)にまわることで得られるもう一つのメリットは、仕事のリモート化が可能になることだ。

結局、私たちは不安で仕方ない。

だから、自分の価値を感じたいし、自分の役割を見つけたい。

こういう前提がいまの消費社会になっていることを理解することが重要だ。

結局は「何を言うかより、誰が言うか」だ。

今の時代は簡単にコピーが可能だ。

コピー&ペーストが簡単だからこそ「何を言うか」というのは重要でなくなってきてしまっている。

「誰が言うか」というのは、すなわちコンテクストをつくる重要な構成要素。

コンテンツの価値を決めるのはコンテクストで、その中の重要な構成要素の一つが「誰」だということ。

要するに「何を言うかより、誰が言うか」ということは、誰というキャラクターがそのままコンテクストと言っていい。

コンテクストをつくるためには戦略が必要。

戦略がない人たちは「現在地」を知らない人がほとんどだ。むしろ、「現在地」を知らないから戦略という発想がないのだろう。

当たり前だが、たとえ「目的地」が明確だとしても「現在地」を知らなければ、どちらの方角に向かったらいいかわからない。

だからこそ、まずは「現在地」を知らなければ戦略もクソもない。

現在地を知るためには「読書する」「新しい体験をする」「文章を書く」という3つが有効だ。

例えば、読書をすればするほど、自分がどんどん知らないことがあるのに気づくようになる。

そして、知らないものに出会えば出会うほど、自分の現在地がわかるようになる。

そうやって、どんどん新しい知識にぶつかっていくことで、そこからの距離がわかり自分の現在地がわかるようになる。

この考え方はサイバネティクスと一緒だ。

サイバネティクスというのは、アメリカの数学者であったノーバート・ウィナー博士が開発したもので、敵の戦闘機を撃ち落とすために開発されたと言われている。

これは照準を戦闘機に合わせるためのもので、弾を何発も放つことでその弾と戦闘機の距離をどんどん測っていき、最終的に命中させるというもの。

自分の現在地もこれに近い形で、どんどん新しい知識を投げることでわかってくる。

そしてひたすらテイクし続けること。

世の中は、ギブ-テイク=チャンス。

そしたら、チャンスなんて勝手にやってくる。

今できることを還元していくと、いろんなチャンスがもらえるようになる。

それは新たなチャレンジだったりする。

そして自己投資をすること。

確保した時間という自己資源をどこに投資すればいいのか?

すべての自己資源をインプットに投資するべき。

なぜなら、インプットはさらなる価値を生み出してくれるからだ。

まずは、新しい「知識」と「経験」に自己資源を集中させること。

そして行動することでインプットが変わる。

それは何らかのコンテンツを観ることもだろうし、行ったことのない環境に身を置くこともだろうし、新しい人間関係をつくることもだ。

自分の人生を生きたいなら、インプットとアウトプットを自らの意思で高速回転させていくしかない。

そしたら、いつの間にか違う景色が見える場所にいるだろう。

そうすると、「好きな場所で、好きなときに、好きな人と仕事をする」という未来が手に入るだろう。

それを手に入れるために「ギグワーク」という生き方がヒントになるはずだ。

2020年12月29日 (火)

メンタルの強化書/佐藤優

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 ですからメンタルを強くしたい、心を折れないようにしたいと考えたら、やるべきことは2つあります。
 1つは自分自身の内面を強くしていくこと。先ほどお話ししたように心を硬くするのではなく、しなやかに柔らかくするということ。
 もう1つは自分を取り巻く環境を変えていくということ。できる限りストレスの少ない、快適な環境に変えていくことが大事です。

現代の競争社会の中で勝ち残っている人は、特異な能力があるか、あるいは親の遺産を引き継ぎ、最初からスタートラインが違っているか、さもなければよほど図太く、図々しい人物であるかのいずれかだ。

図々しいということは、言い換えれば「下品」だということ。

すると成功するためには「下品力」こそ必要だということになる。

その意味で言うならば、メンタルの一番の強化法は「下品になること」だということになる。

夏目漱石は名作『吾輩は猫である』で「三かく人間」のことを書いている。

「三かく」とは、「義理を欠く」「情を欠く」「恥をかく」の「三つのかく」のこと。

「三かく人間」は無敵だ。

自分を縛るものや良心の呵責がないのだから、その意味では自由だ。

こういう人間は平気で他人を裏切り、蹴落とす。

もちろん心を病むことなどない。

その分他人を病気にしてしまうが。

著者が本書で述べている「強さ」はそういうものとは少し違う。

それは「折れない」という意味での「強さ」。

いまの時代、心が折れそうになる状況がたくさんある。

そんな中でも心折れることなく、たくましく生き抜く強さ、しぶとさがこの本で言うところの「強さ」である。

いまのような変化が激しくプレッシャーやストレスの多い時代は、硬い心よりも、しなやかで柔らかな心の方がはるかに強い。

どんな環境でもどんな力が働いても、柔らかく曲がり、しなやかにまたもとに戻る。

そんな心こそ目指すべき強さだ。

まず、心折れずに生き抜くことが第一。

これまでも困難な時代はあった、ずっと暗く混乱した時代が続いたわけではない。

辛抱の時代を「しなやかに」「強く」生き抜きさえすれば、新しい時代が再び始まる。

ちなみにしぶとく生き抜くためのキーワードは何か?

それは「自助・公助・共助」という言葉。

「自助」とは自分で自分を助けるということ。

自分で何とかする力をつけること。

「公助」とは公の助けを求めるということ。

国や地方自治体のサービスを活用するということ。

そして「共助」とは仲間同士で助け合うということ。

地域の仲間でもいいし、昔の学生時代の仲間でもいい。

とにかく仲間同士で助け合い、支え合うということ。

飽和した成熟社会を生きている私たちの生活水準、生活の便利度は、かつての王侯貴族と変わらないか、それ以上だと評する人もいる。

たしかにいまの時代、ちょっとお金を出せば一流ホテルや旅館に泊まり、豪勢な食事をすることができる。

豪華な馬車はないが、代わりにはるかに機動力の高い自動車や列車、飛行機でどこへでも行くことができる。

ネットで買い物をすれば次の日にはしっかり商品が届けられる。

宅配便で送れば次の日にはしっかりと届けることができる。

遠くの家族や友人とネットやSNSで文字や音声だけでなく動画までやり取りができる。 

チェコスロバキア共和国の初代大統領でトマーシュ・マサリクという人物がいる。

この人は有名な社会学者、哲学者でもあった。

マサリクは自殺を社会学的に研究した草分けだった。

それまで自殺の原因は貧困とされていた中で、マサリクはプロテスタント地域とカトリック地域の自殺率を調べた。

するとプロテスタント地域の方が豊かなはずなのに自殺率が高いことを発見する。

マサリクは、自殺は貧困や病気という客観的な要因によって起こるのではなく、時代の変わり目で価値観が変動する時期に心の中に沸き起こる「不安」など、心理的な要因によって自殺するのではないか、という仮説を立てて検証した。

これまでは絶対的な神の存在──宗教が孤独や不安を和らげる力になっていた。

しかし中世のような宗教的な権威はすでに弱まり、人々の中で神の存在が薄くなっていた。

その神の存在に変わって登場したのが「お金」だった。

お金があれば衣食住、生きるために必要なものやサービスを手に入れることができる。

不安を解消し、幸せに生きるためにお金が必要不可欠なもの、絶対的な存在になった。

お金を稼ごうと頑張るのは、豊かになりたい、幸福になりたいという欲望や願望があると同時に、コインの裏表の様に「孤独に対する恐れ」や「不安」がある。

このような慢性的な不安感の中で、しだいに精神がすり減り、うつ病や自律神経失調症など、心の病に陥っていく。

資本主義社会が成熟するほど心を病む人が増えるというのは、そんな構図もあると考える。

立ち止まることができる力こそ教養である。

前のめりに突き進むのではなく、周囲の人たちが、社会が前のめりになって同じ方向に突き進んでいる時、「ちょっと待てよ」とか「あれ? おかしいぞ」と立ち止まることができるか?

これが教養。

世の中で言われていることが本当に正しいかどうかはわからない。

むしろいろんな思惑の中で、ある一部の人間たちにとって都合のいい論理が先行していることも多い。

少し不真面目に、斜に構えてものを見るくらいでちょうどよいかもしれない。

ただし、本当に斜に構えてしまうと、斜めから物事を見続けているうちに、見方が歪んでしまうということもある。

そこで「人よりも半歩遅れて進む」という考え方が大事。

現代社会の価値観にどっぷりつかっていると、えてしてその価値だけが唯一のように錯覚してしまう。

しかし、視野を広げ、時間と空間を広げてみれば、考え方や価値観、生き方の解は決して1つではないことに気がつく。

「働き方改革」が叫ばれている昨今、大事になってくるのが仕事との距離感。

その距離感を間違えると、ストレスになったり過重労働になったりして、心身の健康を害してしまう。

理想としては「マイペースタイプ」が精神衛生上は望ましい。

ただし、それこそ右肩上がりの時代ではないので、気楽に仕事をしていて生き残っていくことは難しい。

最低限の成果をクリアすることをまず目指す。

先延ばしにできることはできるだけ先延ばしにする。

その意味では図太く、ズルくなることも大事。

このことは、そのまま精神衛生にもつながる。

宗教的な視点と、マルクスのような客観的で合理的な視点の2つのバランスが、心折れずに、しなやかに強く生きる上で大きなポイントになる。 

「私」とは内面世界を持った自己であると同時に、周りの環境との関わりから成り立っている存在でもある。

強く生きるためには「私」を変えると同時に、「私を取り巻く環境」も変えていかなければいけない。

「私」すなわち自己の内面世界をしなやかに強く変えるために、時には宗教的な視点や理解が大いに助けになる。

いっぽう自分を取り巻く環境を変えていくには、理性によって客観的・合理的に世界を把握し、分析する必要がある。

そして同じく客観的・合理的な方法で環境に働きかけ、改善していかねばならない。

マルクス的な客観的現実認識と、宗教的な人間理解の2つの要素とそのバランスが、これからの時代を生き抜くポイントになる。

産業革命から資本主義の世の中になって、まず失われたのがコミュニティだった。

工場労働者がたくさん必要になると、それまで住んでいた家族や村から離れ、コミュニティの紐帯を外れて町中に移り住む人たちが増えた。

それまで共同体のつながりと助け合いの中で生きてきたそれらの人たちはバラバラになり、アトム化した存在になる。

このバラバラになった個が都市化により、たくさん集合することによって生まれたのが「大衆社会」。

大衆社会はコマーシャリズムやマスメディアの発達で大量の情報を共有し、大量消費社会を作り上げ、資本の更なる増幅を可能にした。

大衆社会は人数こそ多いものの、その中の個はバラバラ。

むしろ「孤独な群衆」(デイヴィッド・リースマン)という言葉が生まれたように、群衆の中で孤独感と不安感がより強くなる。

現代社会でたくましく強く生きるためには、1つはできるだけ信頼でき、社会的価値が高いと評価されているアソシエーションに属すること。

そしてもう1つが、現代社会の中で解体され失われつつあるコミュニティを復活させ、そこに属すること。

これからの10年、20年は決して明るい世の中が待っているとは言えない。

辛く厳しい時代を前に、いかに心折れずに生き抜くか。しなやかに、かつしたたかに生き抜くか。

もう一度日本人の美意識の核に立ち戻ること。

そして私たち自身のストーリーを作り、結びつくことが大事になる。

困難で苦しい時代は、同時に新しい価値観と生き方、新時代の可能性が生まれる母体でもある。

その胎動がすでに始まっている。

今年のコロナ騒動は、その起点になるのではないだろうか。

2020年12月28日 (月)

狂気とバブル/チャールズ・マッケイ

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 ハーレムに住むある貿易商は、たった一個の球根を買うのに全財産の半分を注ぎ込んだことで知られている。

民衆はさまざまな要因が重なって愚行に走ってしまうようだ。

この点について考えるうえで、著者は歴史家のフランソワ・ギゾの興味深い言葉を引用している。

「西欧は度重なるアジア侵略で疲れてしまったのだ、と繰り返しいわれているが、……人間は実際にやっていないことで疲れる、つまり祖先の仕事で自分たちが疲れるわけがないからだ。疲れというのは個人的なもので、受け継がれる感覚ではない。……」。

また、人間は過去のことをすぐに忘れてしまうともいわれている。

ギゾの論理からすると、過ちや愚行が繰り返されるのは、祖先が経験したことを後世の人間が実際に経験しているわけではないからであり、戦争がなくならないのは、残虐さや痛みを実際には知らない人間が引き起こすからだということになる。

だとしたら、残念ながら戦争や差別は永久になくならないし、いずれまた、どこかで投機熱も沸騰する。

本書の狙いは、さまざまな理由から集団心理が興奮状態に陥った驚愕の事例を取り上げて、集団がなぜこうも簡単に道を踏み外してしまうのか、何かに陶酔しているときも悪事におぼれているときも、人間がなぜこうも他人に追従し、群れることを好むのかを明らかにすることである。

人間は集団で思考する、とよく言われるが、集団で狂気に走る場合もあり、良識を取り戻すには、ゆっくりと、一歩ずつ進んでいくしかないのである。 

信用が不信と同じように無制限に拡大し、期待が恐怖と同じように途方もなく膨らんでしまうことがある。

そうこうしているうちに、無数の株式会社があちこちに出没するようになった。

これらは間もなく「泡沫会社(バブル)」と呼ばれるようになるが、これぞまさに、人間の創意が生み出した最高のあだ名であろう。

人々はおおむね自分たちがつけたあだ名に満足していた。

「泡(バブル)」ほどぴったりの名前はない。

男女を問わず、有名人も皆、こうした泡沫会社(バブル)の株に手を出していた。

個人もそうだが、国家も捨て身の賭けなどしようものなら必ず罰せられるのだ。

遅かれ早かれ、必ず罰が下るのである。

チューリップバブルはあまりにも有名だ。

コンスタンチノープルでは昔からチューリップの花が大いにもてはやされていた。

とくにオランダやドイツの資産家の間でチューリップ人気が沸騰。

アムステルダムの金持ちはコンスタンチノープルから直接球根を取り寄せては法外な値段で購入した。

その人気は年々高まり、1634年にはとうとうチューリップを収集していない資産家は趣味の悪さを証明しているようなもの、とまでいわれるようになった。

1636には珍種のチューリップの需要が急増し、アムステルダム証券取引所、ロッテルダム、ハーレム、ライデン、アルクマール、ホールンなどの町には定期市が設けられるまでになった。

ここで初めて賭博が広まりそうな兆しも見えてきた。

新しいものにはすぐに反応する株式仲買人たちもチューリップを大々的に取り扱い、価格を上下させようと知恵を絞りながら使える手は何でも使った。

チューリップの仲買人たちはチューリップの値動きに投機して、値が下がったところで買い、上がったら売るというやり方で大金を手に入れた。

貴族、市民、農民、商人、漁師、従者、使用人、煙突掃除人や洗濯婦までもがチューリップに手を出した。

あらゆる階層の人々が、財産を現金に換えて花に投資した。

チューリップ市場で契約金の支払いに充てるため、家や土地を譲渡する者や格安で売りに出す者も現れた。

外国人も同じ熱にうなされ始め、世界中の資金がオランダに流れ込んでくるようになった。

生活必需品の値段も次第に上がり、それに伴って土地や住宅、馬や馬車、あらゆる贅沢品の値段も上昇した。

数カ月もすると、オランダはまさに富の神プルトスの部屋に通じる控えの間と化してきた。

取引量も増え、複雑化してきたため、卸売業者の指針となる法規制を整備する必要も出てきた。

チューリップの取引を専門に扱う公証人や書記も任命され、ただの「公証人」という名称が消え、「チューリップ公証人」と名を改めるところも出てきた。

しかし、分別のある人々はようやく、こんな愚行が永遠に続くわけがないと考えるようになってきた。

金持ちももう庭に植えるのではなく、再び売ってわずかな利益を確保するために買うようになった。

最後には大損する人が出てくるだろうという懸念が広がった。

こうした確信が強まってくると、価格は下がり、二度と上がることはなくなった。

信頼も崩れ、卸売業者はパニックに陥った。

オランダではどの町でも、契約不履行者が連日公示されるようになった。

つい数カ月前にはオランダには貧困など存在しないと豪語していた連中も、購入時の四分の一の値段でもだれも買ってくれないような球根をいくつも持っていることに突然気がついた。

至るところで苦悶の声が上がり、互いが隣人を責めるようになった。

何とか金持ちになりたいと思っていた者は、他人に気づかれないように財産を隠すと、イングランドなど他国の国債に投資した。

つましい生活からやっと抜け出した成り金も、また元の生活に舞い戻っていった。

相当数の商人が破産寸前まで身を滅ぼし、高貴な家柄の典型のような人々も、一族の財産を取り返しがつかないほど失ってしまった。

これがチューリップバブルの顛末だ。

今から考えると狂気としか思いないのだが、当事者たちはまったくそれに気づかない。

人類はこの愚かな行為を繰り返している。

おそらくそれほど遠くない未来に、この狂気は繰り返されるのだろう。

2020年12月27日 (日)

結婚滅亡/荒川和久

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 2040年、人口の5割が独身(=ソロ社会)という時代がやってきます。
 この5割の独身とは、未婚だけで作られるのではありません。未婚と離別死別による独身者の合計です。つまり、「結婚が作られず」「結婚が壊される」ことによって生まれる独身5割の国、それが20年後の日本なのです。


本書では、「結婚が作られず」「結婚が壊される」という構造上の問題とは何か、大きな視点や違った角度からとらえ直している。

厚生労働省が2019年6月に発表した人口動態統計によれば、2018年の婚姻数は、年間58万6438組(前年比2万428組減)で、戦後はじめて60万組を切る最少記録となり、人口千対婚姻率は4・7と、こちらも1899年の統計開始以降過去最低記録を更新した。

日本は世界に冠たる超高齢国家だが、それ以上に今後は多死国家になる。

間もなく2025年から約50年連続で、年間150万人死んでいく計算になる。

これは、太平洋戦争時の年間死亡数に匹敵する。

近代日本の婚姻制度を成立させたのは、1898年に施行された明治民法だ。

明治民法が制定されるまでの日本人庶民の結婚とは、限りなくお互いが精神的にも経済的にも自立したうえでの、パートナー的な経済共同体という形に近かった。

別の見方をすれば自由でもあり、夫婦の関係は対等だった。

だからこそ、江戸時代は離婚も再婚も多かった。

日本は元々離婚大国だった。

江戸時代から明治の初期にかけては、特殊離婚率は4割近く、普通離婚率も1883年時点で3・4もあった。

江戸時代には4.8を記録した村もあり、現代の感覚で見れば日本は離婚大国だったといえる。

1960年代の半ばに、お見合い結婚より恋愛結婚比率が上回った。

以降、お見合い結婚は衰退し、現代ではほぼ9割が恋愛結婚となっている。

が、この恋愛結婚比率上昇のカーブと離婚率はほぼ正の相関でリンクしている。

お見合い結婚から恋愛結婚へと比率が逆転したことで、副作用的に増えたのが離婚の増大だ。

お見合い結婚で皆婚していた時代より、恋愛結婚時代の方が離婚率が増えているということはまぎれもない事実。

逆にいえば、お見合いというお膳立て婚の仕組みは、婚姻を促進するだけではなく、離婚を抑制していたという見方もできる。

「結婚保護」という視点で見ると、明治民法のシステムは実によくできていた。

「吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果、不自由を感じて困っている」とは夏目漱石の言葉。

現代、恋愛や結婚に対して、社会的な制約は何もない自由であるにもかかわらず未婚化が進むのは、むしろ自由であるがゆえの不自由さの表出ともいえるかもしれない。

現在50代半ばから60代前半の初老世代こそが、今の日本のソロ社会化の第一歩を歩きはじめたといっても過言ではない。

未婚化は、経済構造上、社会構造上の問題の表面化であるとともに、人間の関係性の構造上の問題でもある。

そうした構造上の問題を無視して、一括りに個人の価値観や意識の問題と論点をすり替えてしまうことは、本質を見誤ることになる。

恋愛できる男女というものは、いつの時代も大体3割くらいしかいないということが統計的に明らかになっている。

離別女性がこれだけ増えるのは単に離婚が多いからだけではなく、離別したバツ有男性の再婚率が高く、しかも初婚女性と再婚するパターンが多いから。

ただでさえ少ない未婚女性を離婚男性がどんどん刈り取ってしまう。

恋愛力の高い3割の恋愛強者男性が結婚と離婚を繰り返す「時間差一夫多妻制」の裏で、未婚男性は生涯結婚できなくなる。

2018年内閣府の実施した「少子化社会対策に関する意識調査」によれば、女性が希望する相手の理想の年収は、500~700万円が32・8%ともっとも多く、全体の72%が400万円以上を希望している。

実際の未婚20~34歳の未婚男性の年収分布は、逆に400万未満で81%を占める。

つまり400万以上の年収のある未婚男性はたったの19%しか存在しないということ。

差し引き、53%の婚活女性は余ることになる。

もはや日本は「結婚できない」し、「結婚しても継続できない」という、マッチング不全を起こしている。

まさに、結婚の断末魔の状態から、「オワ婚」時代へ突入しつつあるといえる。

ようするに、マッチング不全を起こしているのだ。

全員が結婚した時代が日本のスタンダードだったわけではない。

むしろ、長い日本の婚姻の歴史からみれば、皆婚していた事実自体が異常だった。

江戸町民の未婚率も50%くらいあった。

日本人は「なんでもかんでもみんなと一緒がいい」のではなく、「みんなと一緒ならリスクがない」かどうかを判断し、そうであれば一緒にするし、「みんなと違う方がメリットがある」と考えれば違うものにするという、あくまで個人もしくは自分の群れ単位の損得判断が根底にある。

個人の損得で選択することが、実は集団利益を生むというのが日本人的個人主義であり、それが「お互い様」の精神にもつながっていく。

個人の得を考えると自然と相手の得を考えざるをえなくなり、相手だけではなくそれこそ世間の評判も気にしないといけなくなる。

「フォーカシング・イリュージョン」という言葉がある。

これは、ノーベル経済学賞の受賞者であり、行動経済学の祖と言われる米国の心理学・行動経済学者ダニエル・カーネマンが提唱した言葉。

「いい学校に入ればしあわせになれるはず」「いい会社に入ればしあわせになれるはず」「結婚すればしあわせになれるはず」というように、ある特定の状態に自分が幸福になれるかどうかの、分岐点があると信じ込んでしまう人間の偏向性を指す。

簡単にいえば、「思い込みから生じる幻想」ということ。

しかし、1人でいるという状態は、孤独であっても寂しいものではない。

寂しさは状態で感じるものではなく、心の中が空虚だから感じるもの。

出生動向基本調査によれば、「1人でも寂しくない」という未婚者の率は年々増加して、18~34歳の男性ではもう5割に達しようとしている。

女性もほぼ4割だ。

1人であることを楽しむためには、誰かと一緒の時間がないとできない。

1人の部屋に帰ってほっとできるというのは、それまで会社や外で誰かと一緒に仕事したりしていたからそう思える。

ずっと一日中1人で過ごしていたら、1人の価値を感じられない。

誰かとのつながりなしに人は生きられない。

でも、誰かといつも一緒である必要はない。

女性が結婚しないのは、結婚をすると「不自由になり」「友人や家族や職場との関係がなくなる」というおそれがあるからと解釈できる。

そのうえで、結婚に対しては「家族という新しい社会を手に入れることができ」「経済的余裕が生まれる」ことを期待する。

逆に、男性が結婚しないのは、「自分のためにお金を使いたい」から。

結婚に感じられるメリットは、もはやほとんどないといっても過言ではない。

未婚のままでも、いまや社会的信用を失うわけでもなく、結婚したからといって、生活上の利便性も大して変わらない。

家事も買い物も自分でできる。

「自分のために金を使える自由」を捨ててまで、結婚をする必要を感じられないのだ。

男は、月3万円台の小遣い制なんて真っ平御免なわけだ。

すなわち、結婚をするうえで女性は相手の収入や経済的安定は絶対に譲れないし、男性もまた結婚による自分への経済的圧迫を極度に嫌う。

簡単にいえば、女性が「結婚するのは金のため」であり、男性が「結婚しないのも金のため」ということ。

結婚に対する意識では、男も女もしょせん「お金」なのだが、その意識は相反する。

血のつながりがなければ家族になれないわけじゃない。

共住しなければ家族になれないわけじゃない。

結婚して子どもを産んだ者だけが子育てをするわけじゃない。

それが著者の提唱する「接続するコミュニティ」の概念だ。

社会学者ジグムント・バウマンは、かつての安定した社会をソリッド社会と呼び、現代社会をリキッド社会と表現した。

地域や職場や家族という強く固いコミュニティの中に、1つの分子や部品として組み込まれ、互いに結びついて、結晶体のような強さによって安心を得ていたのがソリッド社会。

しかし、それまで安心を担保してくれた外壁が失われると、個人は不安定な液体の中に投げ出されてしまう。

大型船が沈没してしまったときと同じ。

ソリッド社会では、確かに不自由な面はある。

行動も一定の枠内という制限がある。

そのかわり、進むべき安全な道が提示されていて、社会が守ってくれる。

リキッド社会では正反対だ。

人々は自分の裁量で動き回れる自由を得た反面、常にその選択に対して自己責任を負うことになる。

それは、個人による競争社会を招き、それに伴う格差社会を生みやすくする。

これがもうすでに到来している「個人化する社会」の姿だ。

平成年間に起きた非婚化や離婚の増加は、まさにそういう「選択の自由を個人に付与した」結果だといえる。

これからの時代、「所属するコミュニティ」だけに依存するのではなく、「接続するコミュニティ」に目を向けることが肝要だ。

これからは、これまでのどの時代よりも、人が「弱い紐帯」をたくさん持つ必要がでてくる。

その中で、常に複数のコミュニティに接続しながら、新しい刺激を得て、自分をアップデートする動き方が主流になるだろう。

自分をアップデートするとは、自分を変えるということではなく、付け加えることだ。

これこそが自分の中の多様性を生みだすということ。

「ソロで生きる力」とは、無人島でたった1人で生き抜くサバイバル能力のことではない。

逆説的だが、「ソロで生きる力」とは「人とつながる力」なのだ。

無理に友人や趣味を作ろうとしたり、どこかの集団に所属しようとするのではなく、日々の生活の中で多くの「人とのつながり」を作り、その人とのつながりによって「自分の中の新しい自分」をたくさん生み出すこと。

それこそが、自分の内面を充実化させるということになる。

善意だろうが、悪意だろうが、人と人の関わりとは傷を付けあう可能性があるということ。

では、人とのつながりなんてない方がいいのか?

むしろ逆。

傷付くからこそ、気付くことができる。

本を読んだり、誰かの話を聞いて響いた言葉に出会ったときも、心がチクリとしたはず。

傷が付かなきゃ印象に残らないからだ。

そして、傷が付けば、人間はそれを治癒しようとする力が無意識に作用する。

再生しようとする。

傷が付く前より、強くなろうとする。

傷ついたからこそ、強くなる。

人のつながりの重要なところはまさにそこなのだ。

生きるとは誰かとの関わりの中で、「傷を付けられては再生する」の繰り返し。

傷は互いに関わった証だし、互いに傷の痛みを知るからこそ、相手の事も思いやれるようになるし、心が通うようになる。

「個人化する社会」を予見した社会学者バウマンはこういう。

「(私たちは)個人レベルでも相対する人間に応じて、カメレオンのように変わり続けなければならない」。

これは、決して、仮面やキャラを演じるということではない。

私たちは、すべて人との関係性の中で生きている。

周囲の対人関係に応じて、無意識に、そして、臨機応変に「出す自分」を変えているはずなのだ。

誰かとの関係性に応じて表面に出てくる自分は違って当然だし、それを「偽りの自分」であると断じる必要はない。

そして、もっと大事なことは、人は誰かとつながることで、無意識に「その人によって生まれた新しい自分」を生み出しているってこと。

たくさんの人とつながれば、それだけ多くの新しい自分が自分の中に芽生える。

それを著者は「自分の中の多様性」といっている。

もちろん、いろんな人たちとの関係性の中から生まれる、複数の自分もすべて「本当の自分」。

いわば、「一人十色」

夫婦だけじゃない、恋人だけじゃない、友人だけじゃない。

結婚していなくても、子がなくても、ソロ活していても、私は1人じゃない。

誰もが誰かに何かを与えている。

誰もが誰かにとって、かけがえのない大事な「接続するコミュニティ」の1つとなる。

「接続するコミュニティ」は、自分の中に新しい自分を生み出してくれる。

自分の中の多様性は、自己の社会的役割の多重化と充実化につながる。

自分が充実すれば、それは、周りにも波及していく。

それこそが、「為し合わせ」る「しあわせ」の構造

結局、結婚は滅亡するのだろうか?

確かに、現代においては、今までの結婚制度をそのまま継続することは困難だろう。

しかし、だからといって、現在の結婚がすべてなくなってしまうことはない。

今まで続いてきた結婚は、明治から戦前までは個人にとって不自由や制限も多かった。

途中何度も戦争があり、大きな災害があり、病気によって多くの親が子を失った。

戦後、お見合いから恋愛結婚の移行の際にも、離婚の増加という問題も生んだ。

それでも、結婚をし、夫婦となり、子を産み育て、家族としての人々の暮らしは続いている。

家族はどんどん人数が減り、今では「夫婦と子」という最小単位になってしったが、この親密で強い結びつきの家族コミュニティは決して消えてなくなることはない。

結婚しようとしていまいと、子があろうとなかろうと、誰かと一緒に住んでいようといまいと、一人ひとりが誰かにとっての接続する点となり、誰もが「社会の中での新しいつながり」を生み出すハブとなれる。

そんな「接続するコミュニティ」が、社会にとって人と人をつなげる新しい機能となっていく。

人口は減っても働き手は増える社会。

支えられる高齢者以上に支える高齢者が増える社会。

結婚してもしなくても、子があってもなくても、自分が働けば、自分だけじゃなく、誰かもう1人を支えられると皆が信じられる社会。

自分のために働いたり消費したりすれば、結果として誰かのために役立つ循環性のある社会。

未来への悲観論ばかりが幅を利かせる日本において、こんな理想を描くことも大切なことではないだろうか。

2020年12月26日 (土)

OODA/小林宏之

Ooda

 私は、日本人の危機管理の甘さは、日本国憲法に象徴されていると思う。
 日本国憲法には、「権利」と「自由」という言葉はたくさん書かれている。それは大変結構なことだが、元来「自由」や「権利」は「責任」と対であるべきだ。それなのに、「責任」という文言は、「自由」「権利」に比べるとわずかしか出てこない。

確かに、日本では何か〝事〟が起こると、多くの人が自分のことを棚に上げて、「他の責任」を追及することに終始する。

それは日本国憲法が象徴しているというのはその通りだと思う。

変化が激しい現代社会のリスクマネジメントでは、的確な意思決定をし、迅速に行動するためには、PDCAを適応させることは難しくなってきている。 

そのPDCAを代替するのが、本書で解説する「OODA」だ。

このフレームワークはPDCAと同じように、次の4つのフェーズを回していくことになる。

・観察(Observe)

・状況判断(Orient)

・意思決定(Decide)

・行動(Act)

PDCAは「サイクル」といい、OODAは「サイクル」ではなく「ループ」という。

PDCAは業務や品質を改善するために繰り返し実施するのに対して、OODAは通常、短時間あるいは短期間のうちに意思決定、行動するためである。

OODAも失敗したあとには観察をし直し、状況判断を見直して意思決定、行動することができる。

この意思決定フレームワークを考えたのは、朝鮮戦争を経験したアメリカ空軍パイロットのジョン・ボイド大佐。

OODAは戦場のような変化がきわめて激しいときに適した考え方である。

じつは、民間旅客機のパイロットはOODAという言葉を知らなくても、OODAによる意思決定が身についている。

たとえば、飛行中は目視、機上レーダー、風や温度の変化などを観測、モニターするなど情報収集をし(観察:Observe)、

乱気流に遭遇するかどうかを判断し(状況判断:Orient)、

高度や針路の変更、乗客の座席ベルト着用サインの点灯などを決め(意思決定:Decide)、

その意思決定に従って高度変更、針路変更する(行動:Act)ことで、乱気流などによる乗客・乗員のケガを防止する。 

PDCAとOODAはどこに決定的な違いがあるのか。それは次の2点だ。

①出発点がPDCAは「計画」、OODAの「観察・情報収集」である

②ループを完結するのに要する時間の単位がOODAのほうがきわめて短い

PDCAは月単位、場合によっては年単位のスパンで考えるときには有効だが、OODAは場合によっては、「時間単位」「分単位」、ときには「秒単位」で意思決定することもある。

「計画」を立てることすらできない刻一刻と変化する状況下に適しているOODAは、まさにリスクマネジメント・危機管理における究極の意思決定ループなのである。 

日本でOODAを浸透させるためには、現場のリーダーに権限を与え、よほどの間違いがなければ現場のリーダーの判断・決断を尊重するシステムづくりが急務だ。

それをせず、旧態依然とした上層部まで議題を上げ、会議で決めていくシステムのままであれば、変化のスピードが速くなっている現代において適切なリスクマネジメント・危機管理など望むべくもないだろう。

つまり、現場を最も理解している現場のリーダーに責任と権限を持たせて、決断させることがますます求められるようになってくるということだ。

一般に言われている危機管理は、ふたつの要素で構成される。

①危機の未然防止

②危機発生時の最悪の事態を防ぐ被害局限対応

そして、最悪の事態を防いだあとに求められるのは、「元の状態、正常な状態への回復」と「再発防止策の検討と対策の実施」。

基本的に「自律性」がないとリスクマネジメントも危機管理もできない。

できたとしても非常に甘いものになってしまう。

自律性とは端的に言えば、「自己責任」「自助努力」のことである。

アメリカでは「OwnRisk(自己責任)」を問う看板や表示をよく目にするように、アメリカ人の「自己責任」に対する意識は高く、リスクマネジメント・危機管理をする習慣が身についているように思える。

物事に対して「自己責任」という意識がなければ、リスクマネジメントも危機管理もできない。

危機管理の基本は、「何を大切にするか」「何を大切にしたいのか」という重要度の選択にある。

しかし、「赤信号みんなで渡れば怖くない」に潜む心理には、自分の確固たる考えというものがない。

言い換えれば、自分の価値観や重要に思うことよりも、大多数の意見に従うということである。

日本人はものごとの重要度の決め方がおかしくなっている人が多いのである。

危機管理はもともと動物としての人間に備わっている本能である。

しかし、いかに本能であっても、その本能を使わなければ劣化してしまう。

リーダーたるもの危機においては、「何を大切にするか」という「重要度の選択」、「使命感」、「勇気」そして「覚悟」が必要なのである。

長年、イタリアに住み、古代イタリアを中心とした歴史小説を多数執筆している歴史小説家塩野七生氏は著書の中で、理想的なリーダーの資質として、古代ローマの英雄ユリウス・カエサルを引き合いに出しながら次の5つの要素を挙げている。

・知力

・説得力

・肉体的耐久力

・持続する意志

・自己制御

リスクマネジメントや危機管理の能力として求められるのは、いわゆるIQ(Intelligence Quotient:知能指数)ではない。

むしろ、EQ(Emotional Intelligence Quotient:心の知能指数)と密接な関係があるといわれている。

EQは自己や他者の感情を知覚し、また自分の感情をコントロールする知能のことで、「心の豊かさ」「器の大きさ」と言い換えてもいいだろう。

EQを構成する要素には、以下のようなものがある。

①自己認識(自分の役割・使命・置かれた状況・心理状態など)

②自己統制(自己コントロール:Self-Management)

③モチベーション(目的意識・使命感・重要度の把握など)

④共感性(部下や周囲の心理を推し量る・相手の立場を考えるなど)

⑤社会的スキル(コミュニメーションスキルなど)

⑥状況認識・状況判断スキル

⑦意思決定スキル

⑧自律性(自助努力・自己責任)

OODAのループを詳しく述べると次のようになる。

①観察(Observe)──5つの眼で状況を把握する

OODAの最初のOは、オブザーブ(Observe)で、「観察、モニターする、情報収集」という意味である。

「観察」は、このあとに続く、状況判断(Orient)、決定(Decide)、行動(Act)の出発点となるため、OODAの成否を左右するといっていいほど重要なフェーズになる。

②状況判断(Orient)──意思決定をする前に方向性を見出す

オリエント(Orient)は、日本人にとっては聞き覚えがありながら、意味が少しわかりづらい言葉かもしれない。

名詞なら「東洋」という意味になるし、動詞なら「(新しい環境に)適応させる、方向付ける」という意味になる。

入学したばかりの学生を相手に各大学が開催するオリエンテーション(Orientation)も、オリエントに由来するといえば、わかりやすいかもしれない。

つまり、「Orient」は、この先はどうなるか、どのような方向に向かっていくのかの「方向付け」をすることで、具体的には、状況を的確に判断する「状況判断」のことである。

「観察」によって現状を把握したうえで、この先はどうなるかを予測して「状況判断」する方向性を見出すのである。

③決定(Decide)──きっぱりと決める

文字どおり意思決定するフェーズだ。

意思決定は次に挙げることを「きっぱりと決めること」である。

・これから何をするか

・何をしないか

・何をやめるのか

言葉で「きっぱりと決める」と書いてしまうと、いかにも簡単そうに見えるが、日本人は覚悟をもって、何かを決められない人が多い。

④行動(Act)──大胆に実行する

OODAもPDCAも最後は「Act」であるが、PDCAの「Act」は「改善」「見直し」であるのに対して、OODAは意思決定したことを果敢に「行動」することである。

この点において違いがある。

「行動」があって、はじめて結果が生まれる。

OODAにおける「意思決定」は目的実現のために「行動する」のためのものである以上、「意思決定」と「行動」は不可分である。

OODAの第1フェーズは「観察(Observe)」だ。

そのためには観察力を向上させる必要がある。それには自身のアンテナの感度を上げなければならない。

①虫の眼虫のように細かいことまで正確に読み取る〝眼〟。一点集中して、誰も気づかないような小さな事情や微かな変化を読み取る

②鳥の眼鳥のように大空から地上を鳥瞰する〝眼〟。全体を俯瞰し、大局を把握する展望力

③魚の眼魚のように川の流れや潮の流れを読み取る〝眼〟。内部の業務の流れ、政治・経済の流れ、顧客・市場の流れ、技術革新の流れ、メディアの関心の流れや変化を読み取る展開力

④コウモリの眼コウモリのように逆さまに止まって周囲を見る〝眼〟。立場を逆にしたり、モノを逆さにして考える洞察力

⑤心の眼(心眼)目には見えない真実、本質を見抜く

物事を見るときに、100%が「虫の眼」だと木を見て森を見ずになってしまい、「鳥の眼」だけだと細かいところを見逃してしまう。

「魚の目」がなければ、誤った判断をすることになるし、「コウモリの眼」がなければ、ひとりよがりになってしまう。

リスクマネジメント・危機管理において重要なのは眼の使い方だ。

そもそも人間の眼は「見る能力」自体はたいしたことはない。

しかし、人間の眼の素晴らしいところは眼を使い分けられることだ。

物理的な機能だけでなく、「モノの見方」という側面、つまりさまざまな考え方に直結するということである。

得た情報が全体か一部分か、一次情報か二次・三次情報か、誰が出した情報か、いつの情報か、目的実現のために役に立つ情報かどうかをスクリーニング、すなわち、ふるいにかけることである。

そのため、自分の足で情報を集めることが大事になってくる。

だからこそ、「現場」に出向いて、「現物」に直接触れ、「現実」を捉える、いわゆる「三現」の重要性が増している。

情報はいつの時代でもヒューミントといって、人間を媒介とした情報が重要だ。

ひとくちに情報力といっても、それは3種類ある。

①情報収集力

②情報処理力

③情報編集力

「情報収集力」はアンテナの差

情報収集力は、文字どおり情報を集める力のことだが、人によって力量に差が出る最大の要因は「アンテナの感度」である。

この感度の違いによって、収集できる情報の量はもちろんこと、その質も大きく変わってくる。

アンテナの感度は、その人の目的意識、問題意識、危機意識、好奇心、感性などに比例して高感度になったり、まったく何もキャッチできなくなったりする。

つまり、日常的に欲しい情報について意識していなければ、アンテナの感度は上がらず、情報収集力が上がらないということだ。 

特に、情報収集がしやすくなった現代だからこそ、三現主義(現物・現場・現実)による一次情報(生の情報)の相対的な重要性が高まっていることは見逃してはならない。

自分の目で見たり、体験した「一次情報」と、自分がある人から聞いた「二次情報」、誰が発信源かはっきりしないような「三次情報」は区別して考えることだ。

二次情報・三次情報には、情報を発信した人・組織の意図が含まれ、バイアスがかかっていることがあるからだ。

人はどうしてもプラスの情報ばかりを知りたがり、マイナスの情報には目を背けたくなるものだ。

しかし、とくにリスクマネジメント・危機管理においてはマイナス情報を大切にすることが大事だ。

組織としては、マイナス情報は速やかに指揮系統の上方に報告するような風土を構築することだ。

そのためには、トップ、リーダーはマイナス情報を知らせてくれた部下に感謝するようでなければならない。

旧日本陸軍の大本営参謀を務め、戦後は第二次臨時行政調査会の委員などを務めた瀬島龍三氏は危機管理の極意をこう表現した。

「悲観的に準備し、楽観的に対処せよ」

リーダーとして危機管理能力を発揮するために求められるのは、危機の未然防止では「細心さ・臆病さ」、危機発生時の被害局限対応では「思い切りの良さ」「大胆さ」だ。

この切り替えが求められる。

一般的な傾向として、日本のリーダーはこの切り替えが不得意で、そのために危機管理に失敗するケースが少なくない。

リーダーの予見力には主に3つの要素がある。

①順調なときにこそ大切な高い問題意識、危機意識

②社会がどの方向(悪化か進化か)に動くかの予兆、傾向を見定める力

③歴史、他社・団体、過去の事例からその予兆を当事者意識で学ぶ力

人は順調な状態が続くと、頭では「油断してはいけない」「危機意識を高めておかないといけない」と理解していても、どうしても慢心しやすくなる。

危機の予兆を予見できたら、どうするべきか。まず、その問題を先送りにしないことだ。

問題の解決には多かれ少なかれ時間がかかる。

とくに問題を解決するまでのタイムリミットが明確にある場合は、早めに手を打たなければ、だんだんと打つ手が少なくなってくる。

人間が関与して発生する危機の原因は、努力・工夫によって排除できるものがほとんどである。

その典型的なものは次の3つだ。

・ヒューマンエラー

・コミュニケーションの不具合

・コンプライアンス

「ヒューマンエラー」「コミュニケーションの不具合」「コンプライアンス」対策の要点は、組織内に徹底する風土を構築することだ。 

「徹底」を辞書で調べると次のように書いてある。

・行動・態度・思想が中途半端でないこと。

・すみずみまで行きわたること。

著者は「基本・確認行員の5原則」として次の5項目を挙げている。

①基本・確認行為が抜けた場合の怖さを知る・教える

②基本(規定類・手順)について「なぜ?」「何の目的で?」を考えさせて気づかせ、納得させる

③上司・先輩自身が基本・確認を徹底する

④基本・確認行為を徹底している部下や後輩を褒めて評価する

⑤指示は「早くやりなさい」ではなく「確実にやりなさい」

「コミュニケーションの不具合」を防止するには確認会話を徹底することと、悪い情報ほど速やかに上層部に報告することを奨励する風土を構築することだ。

コンピュータ化、自動化が進む時代にあっても、あくまで主役は人間であり、コンピュータ化、自動装置に不具合が生じた場合は慌てずに「基本に立ち返れ(BacktoBasic)」がリスクマネジメントの基本である。

リーダーは決断しなければならない。

特に危機時には、迅速な決断が求められる。

そのときに大切なことは次の3つだ。

①「何を最も大切にするか」という重要度の選択

②「覚悟」できる思い切りのよさ、大胆さ

③「Too Little Too Late」にならないために、日ごろからOODAループの意思決定手法を身につけておくこと

判断は頭の中だけでも完結するが、決断には必ず「行動」が伴う。

危機が迫っているときに、行動が伴わない「判断」をしたところで、危機を回避できるわけがない。

この違いを理解していない人が多いのではないか。

「判断基準」という言葉がある。

この基準には、さまざまなものがあるが、法律や規則、データ、常識などを基準にして判断することになるだろう。

しかし、「決断基準」という言葉はない。

なぜなら決断には基準はないからだ。

そこにあるのは「きっぱり決めること」だけである。

判断基準になるものは、データや法律といった過去につくられたものだが、決断は「これからどうするか」という未知のものになるため、トップやリーダーは、「自分はこうする」「大切にするのはこれだ」と自らの意思で決断しなくてはならない。

判断には「正しい判断」と「間違った判断」があるが、決断には「正しい決断」や「間違った決断」はない。

「行動」と「結果」のみがあるだけだ。

言い換えれば、「決断」は「これからどうするか」を、自分自身の「こうするんだ」「大切にするのはこれだ」という信念やポリシーに従って、肚をくくることだ。

決断には「覚悟」がなければならない。

組織においては職位が上がるほど、「判断」より「決断」を求められる割合が多くなる。

トップの最も重要な役割は「決断」と言ってもいい。

「判断」は優秀な部下に任せてもいい。

しかし、「決断」はリーダーがしなければいけない。

そして自分の決断によって起こることを、すべて受け入れる潔さが必要である。

リーダーにとっての決断力は、価値観、使命感、哲学、人生観、経験知、先を見通す洞察力、本質を見極める「見識」、そして覚悟を持った「胆識」によって磨かれていく。

大切なことは、リーダーは人の評価などは気にせず決断することだ。

評価してくれなくても天が見ている──そう考えて、決断する。

戦前にもOODAループの意思決定と行動をして、多くのユダヤ系難民を救った人がいる。

元外交官の杉原千畝氏だ。

確かに、日本のリーダーに必要なのは胆力に基づく決断力なのかもしれない。

2020年12月25日 (金)

MaaS戦記/森田創

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 「日本のIT化は遅れている」という声の一方で、日本のアナログサービスの質の高さには定評がある。それ自体は誇るべきことで、国際競争力にもなりうる。だが、すべてをスマホに置き換えることに無理があるのと同様に、少子高齢化が進む中で、アナログ一本槍というのも現実的でない。

MaaS(Mobility as a service)とは直訳すれば「サービスとしてのモビリティ」となる。

本書は東急のMaaSプロジェクトチームの取り組みの記録である。

対象としたのは伊豆半島。

伊豆半島は、年に4センチ、本州方向に向かって動き続けている。

だが、フィリピン海プレートの地殻活動よりもはるかに速く、伊豆の高齢化と人口減少は進み、観光地・伊豆は滅びようとしている。

バス会社やタクシー会社は、運転手不足と過疎化により、減便を余儀なくされる。

観光客の足が遠のくだけでなく、地元住民の移動も不自由になり、地元のコミュニティーが衰退する。

人口流出が続き、交通や観光など伊豆を支える主要産業が足元から崩れる。

さらに人の移動が減るので、バス会社やタクシー会社は減便し、同じことが繰り返される。

タクシー会社はつぶれ、店舗のシャッターは閉じられ、集落は消えていく。

かつて人々を魅了した旅館、料理、サービス、景色が音もなく消えて、二度と戻らない。

このプロジェクトチームの仕事は、「21世紀の産業の交差点」と呼ばれるMaaSの取り組みを通じて、伊豆を負の循環から救い、消滅へのカウントダウンを刻む時計の針を逆回転させることだ。

スマホ一つで、行きたい場所に快適に移動でき、移動目的となる観光体験も含めて、手軽に予約決済できるMaaSは、観光客を伊豆に呼び込むきっかけになる。

それだけでなく、取得できる観光客のデータ分析により、人手不足に悩む交通・観光事業の収益向上や省力化も期待できる。

伊豆再生の救世主となる可能性を秘めている。

MaaSは、世界でも生まれたばかりの新しい産業だ。

MaaSとは何か。

スマートフォン等で、それぞれの需要や目的地に応じて、最適な交通手段が提示される。

その際の乗り換え経路や料金が表示されるほか、予約やチケット購入もできるサービス。

またそのことを可能にする、交通体系や社会制度のこと。

自家用車の時代からシェアする時代に変わり、欧州では2025年までの自動車EV化(電気自動車化)が叫ばれる社会的文脈の中で、公共交通の利用率を高めることで環境負荷を軽減させる目的が背景にある。

2015年、フィンランドのヘルシンキを皮切りに、欧州の数都市でサービス開始。

世界の中でも非常に新しい産業だが、日本では取り組み実例はない。

集まった利用データを分析し、少ない運転手や車両を利用状況にあわせて稼働させることで、有効活用する狙いがある。

だからフィンランドなど人口の少ない国で取り組みが早い。

スマホ一つで、あらゆる交通手段を予約・決済し、目的地にいつでも行けるようになる。

それがMaaS。

伊豆半島は、東京都心から西南方向に100~180キロメートルの距離に位置する、縦60キロメートル、横幅40キロメートルの巨大な半島だ。

今のままでは伊豆半島は衰退の一途。

「年間100人の子供が生まれ、500人が亡くなり、900人が引っ越し、700人が転入してくる。合計するとどうなるか?」

正解は、「年間600人減る」

これは、下田市の現状を表したものだ。

人口2万1000人の下田市で年間600人ずつ減ると、どうなるか。

伊豆MaaSの中心地区である下田市は、「消滅可能性都市」の一つであり、このまま推移すれば、市制が維持できなくなる日も、遠い未来のことではない。

だからこそ、MaaSの中心地区に選んだ。

交通事業者の人手不足が進む中で、高齢化や働き方改革で多様化する住民ニーズに応えるために、異なる目的地同士をうまく組み合わせることで、1台の車両で吸収できる仕組みを作る。

人手を増やさなくても、ITによる需給マッチングで、さまざまなニーズの多様化に対応できれば、高齢化にともなう、田園都市線沿線の衰退を食い止めることができるかもしれない。

交通や観光をITでつなぎ、お客さんが行きたいところに行ける仕掛けを作る。

全ての会社のサービスをITでつなぎ、お客さんから一つのサービスのように見えるようにする。

それが、いわゆるMaaS。

日本はデジタル化が遅れているという。

しかし、何でもかんでもデジタル化すればよいというものではない。

私たちは、アナログとデジタルの強みを、最高の形で組み合わせることで、利用者にとっても快適で、事業者の省力化も図れるサービス実現を目指すべきではないだろうか。

アナログとデジタル。どちらかを否定するのではなく、最強のマッチングを目指しながら、データ活用によって運営を改善し続けられる仕組みが作れれば、地域のサービス水準を向上させ続けることができる。

この好循環こそが、地域創生の源泉となる。

そしてこれはアフターコロナの展開にもつながってゆく。

コロナにより世の中のリモート化が急速に進んだことで、全体的なITリテラシーも向上している。

混雑回避しながら安全かつ快適に観光するためにも、混雑する観光案内所で行列を作るかわりに、交通や観光チケットを事前決済できるMaaSが一層推奨されるはずだ。

テレワークの浸透により、働き方も柔軟になる。

首都圏から近く、美しい自然環境に抱かれ、ゆったりと仕事ができる伊豆でのワーケーション需要は、さらに高まるはずだ。 

アフターコロナでは、対人接触を避け、安全に観光を楽しむために、交通や観光チケットを事前決済し、決済画面を見せるだけで電車やバス、観光施設が利用できるMaaSの需要は一層高まる。

伊豆半島から始まったMaaSの取り組み。

これからの展開に注視してゆきたい。

2020年12月24日 (木)

人生攻略ロードマップ/迫佑樹

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 人生における「嫌なことをしなくて済む状態」をつくり上げるのは、ある分野で突出した結果を出すよりもはるかに簡単です。
 正しい知識と正しい努力があれば、大きなリスクを抱えることなく、自由度の高い人生を手に入れることができるのです。

本書では次のような価値観を提唱している。

・必ずしも「汗水垂らして」稼ぐ必要はない。ただし、何をするにもお金は必要になる。まずは「経済的不安」をなくすべし

・「組織に属すること」で安定を得るのではなく、「自らのスキル」で安定を確保すべし

・「やりたいこと」が見つからないのは、「やれること」の幅が少ないから。お金や時間の制限を取り払って自由度を高めれば、自然と「やりたいこと」が見つかる

著者が思い描いている、あらゆる自由度が最大化された「人生攻略」の状態は、次の4つを満たした状態。

・お金の心配を一切しなくていい(金銭的な自由)

・時間的な余裕がある(時間的な自由)

・嫌だと思うことを一切しなくていい(精神的な自由)

・心身ともに健康である(身体的な自由)

そして本書では、著者が最速で「自由度の高い人生」を手に入れた手順を「人生攻略ロードマップ」と名付け、次の10ステップに分けて解説している。

ステップ1 自分の「必要収入」を洗い出す

ステップ2 「ゼロイチ」で稼ぐ経験を積む

ステップ3 「ベーススキル」を高める

ステップ4 獲得したベーススキルを「収益化」する

ステップ5 SNSで「ライトな発信」をする

ステップ6 ブログやYouTubeで「ヘビーな発信」をする

ステップ7 一部作業を「外注化」して仕事量を減らす

ステップ8 自分の仕事をゼロにして事業を「自動化」する

ステップ9 事業を「分散」する

ステップ10 余剰資金を「資産運用」する

「自己投資や事業投資を行った上で、その投資を収益化して回収する」というプロセスをひとたび経験すれば、自分が成長するのも、お金を増やすのも簡単だとわかる。

投資する→その投資を回収する→増えたお金を再投資する→再投資を再回収する→再々投資する→再々回収する

このサイクルを回し続ける。

なかでも「投資→回収のサイクルが速い人」と「少額の投資で多くの回収をする人」がどんどん結果を出していく。

逆に「投資したのに回収しない人」や「投資額に見合った回収ができない人」が、「頑張っているのに結果が出ない。なんだよ」と挫折していくことになる。

投資→回収を繰り返すのが、お金持ちになる唯一の道。

どうしたらうまくお金を使えるか、常に思考を巡らせることが大切。

さまざまな投資を「コストパフォーマンスのよい順」に並べると、体験や知識を得るための自己投資や知識投資>外注費や広告費、新規事業立ち上げなどの事業投資>不動産投資や株式投資となる。

一番コストパフォーマンスが高いのが自己投資。

たとえば1000円の本を読み、その本に書いてあったメソッドを活用して毎月1万円ずつ稼げるようになったとする。

すると月利は1000%。

自己投資として知識や体験にお金をつぎ込むことは、ほかのどんな投資よりもコストパフォーマンスがよいのだ。

「早く、かつ大きな回収が見込める場所にお金を投じ続けていく」ことを大前提に動いていくと、必然的に自己投資や事業投資に回す額が増えていく。

自己投資は「時間をお金で買う行為」でもある。

冷静に考えてみると「時間の節約」という面でも、「1000時間かけて独学する」より、「9万円を払って半分の500時間で勉強し、余った時間で稼ぐ」ほうが圧倒的に効率がよい。

無知は恐ろしいもの。

知識がないと「損をする」どころか、「損をしていること」にすら気づかないということも普通に起こり得る。

「もっといい方法がある」という知識がないせいで、お金や時間を浪費してしまい、しかもその事実に気づかないために、いつまでも損をし続ける。

そのようなことが、現実にはいくらでもある。

そして、起こりうるトラブルを想定し、そのトラブルの対処法を複数用意することも大事。

これによって不安のほとんどはコントロールできるようになる。

例えば、オンライン教育事業を展開する→うまくいかなかったら……?→ブログからの収益で食べていけばいい→うまくいかなかったら……?→エンジニアとして受託開発の案件を受ければいい→うまくいかなかったら……?→就職するのもエンジニアなら難しくない

と、人生に「保険」をかける。

需要のあるスキルを身につけることで、人生の保険をつくることができる。

保険があると、新しいことにチャレンジするリスクを下げることができる。

新しいことに挑戦し続けると、結果的に収入源が増えていく。

そのため、「安定しながらも自由度が高い」という「人生を攻略した状態」をつくることができる。

文化庁が2019年に発表した「国語に関する世論調査」(2018年度分)によると、「1カ月に1冊も本を読まない」と答えた人は47・3%にものぼる。

これは、なかなか衝撃的な数字だ。

言い換えれば、「毎月、たった1冊本を読むだけで、自分の勉強量は日本人の上位52・7%に入る」ということ。

ほとんどの人が勉強しないからこそ、ちょっと勉強するだけで、人生は「イージーモード」になる。

「お金を稼ぐ」と「価値を提供する」は、基本的には同義だ。

より詳しく言えば、「希少性・優位性があるから、価値が上がり、お金が稼げる」。

これがビジネスの本質。

ビジネスで大きく稼ぐカギは「希少性・優位性」にある。

収入の額は価値提供の成績表だ。

そして、自分が豊かになる最短の道は、自分自身が誠実なビジネスをすること。

ビジネスの原則は、「周りと同じような価格で、周りよりも質の高いものを提供する」

あるいは、「周りと同じような質のものを、周りより安く提供する」のどちらか。

大事なことは情報発信を続けること。

情報発信をすることのメリットには、大きく3つある。

1 仕事の報酬が「相場」より高くなる

2 「収益化」の機会が増える

3 「ファン」や「同志」が増える

だから有益な情報は出し惜しみせず、ガンガン無料で発信するべき。

無料で価値を提供し続ければ、お金はあとからついてくる。

ケチケチせずに、情報をガンガン提供する。

その情報で、人生がよい方向に進む人がひとりでもいれば、それは大成功。

そして、その流れは巡り巡って、いずれ必ず自分に戻ってくる。

「お金持ちループ」は、次の9つの流れで成り立っている。

①勉強してスキルを身につける

②スキルを活かして結果を出す

③発信をして、その業界で目立つ

④他業界の人から声をかけられる

⑤情報交換をする

⑥新たな情報により視野が広がる

⑦相乗効果で大きな結果が出る

⑧さらに目立つ

⑨さらにいろいろな人から声をかけられる

⑤~⑨を繰り返しながら情報と人脈を増やしていく

こうして「人脈」「知識」「経験」「情報」を無限大に増やし続けているからこそ、お金持ちはお金持ちであり続ける。

人生においていかに良いサイクルを回し続けることが出来るか。

これが重要ということだろう。

2020年12月23日 (水)

なぜか印象がよくなるすごい断り方/津田卓也

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 嫌なことを「嫌だ」ときちんと言えるのは、自分の気持ちに正直に生きている証拠。だれかの顔色をうかがって自分を犠牲にしていないのです。

本書は、「今まで断れなかった人が、ちゃんと断れる人」になる方法を書いたもの。

しかも、断っても印象がいい人になる方法を述べている。

「断っても印象がいい」というのは、「断っても相手が『またお願いしたい、また誘いたい』と思い、断る前より断った後のほうが印象がよくなっている」という意味。

クレーム対応が上手な人は、ちゃんと断れる人だ。

不思議に思われるかもしれないが、クレーム対応が上手な人は、クレームの対応をしてお客さんとよりいい関係になることが多々ある。

「できないこと」を「できない」とちゃんと伝えながら、お客さんの要望に真摯に対応することで、お客さんからの信頼を得ることになるのだ。 

「ちゃんと断るほうが、信頼される」のは、普段のコミュニケーションでも同じだ。

いい空気を作ることを意識しすぎて、空気を壊さないことを意識しすぎて断ることができず、疲弊してる人がどれだけ多いことか。

ほんとうにコミュニケーション能力がある人は、ちゃんと断ることができる人だ。

断らないことは、自分ではなく、他人の軸で人生が進むこと。

自分の人生を歩むためには断ることが必要。

人生は、有限だ。

有限な人生で、やるべきことはたくさんある。

断ることは、そんな有限な人生に余白を作る。

ネットとスマホの台頭により、いつでもどこでも誰とでもコミュニケーションがすぐとれるようになった。

その分、付き合う人間の量も、仕事量も格段と増えている。

時間は減って、仕事は増えた。

このことにより、損するのは「断れない人」。

断れない人は、総じて、優しい人が多い気がする。

そんな優しい人が、疲弊していくのを何人も見てきた。

他人の気持ちを考えなさい、他の人に優しくしなさい、他の人に迷惑をかけてはいけないなど、私たちは成長の過程で数々の「他人ファースト」の教えを受けている。

この教えがからだに染み付いてしまっている。

それゆえ、自動的に「他人優先モード」が発動してしまう。

じつは、断れない人の多くは、性格のせいではなく、具体的な方法を知らないだけ。

断れない、「ノー」を言えないのは、生まれもった性格ではなく、癖なのだ。

つい「はい」と言ってしまう、脳の癖といえる。

癖を直すには、まずは無意識に「はい」と言ってしまう癖が自分にはあると自覚することが大切。

それが癖を直すための第一歩となる。

上司と部下というような上下の関係だとしても、断れる関係であるべき。

コミュニケーション能力の高い人ほど、ちゃんと断れる関係を築いている。

訳のわからないことを言ったり、わがままを言うお客様の要望をいちいち聞いていたら、ほんとうに大切なお客様に対応できなくなる。

気の乗らないお客様を断ったことで、ほんとうに大切にしたいお客様のために時間を使うことができる。

その時間に全エネルギーを注ぐのだ。

相手のことを思うからこそなかなか断れない。

自分のことより、つい他人のことを考えてしまう、

要はとても心優しい人が多いのだ。

しかし、「断るのが苦手」「ノーと言えない」と自覚している人の方が、上手な断り方ができるようになる可能性は高い。

人は簡単にはわかり合えないからこそ相手を知ろうとする努力が必要だし、相手も自分のことがわからないだろうからこそ、自分の思いを丁寧に伝える必要がある。

「自分も相手のことはよくわかっていないし、相手も自分のことをよくわかっていない」という前提に立ち、相手を知る努力、自分の意思を伝える努力をすれば、それほど間違った断り方にはならない。

断り方の基本中の基本、それは「感謝→結論(断る)→感謝」の形式を取ること。

どのような場面、どのような相手でも、この基本形が大事。

ただし唐突にお断りの言葉を述べるのは、相手にはキツく響き、また失礼になる場合もある。

そこで断りの印象を和らげる「クッション言葉」を入れる。

「恐れ入りますが」

「申し訳ございませんが」

「失礼ですが」

「あいにくですが」

「差し支えなければ」

「お手数をおかけしますが」

「できましたら」

「申し上げにくいのですが」

「もし、よろしければ」

といった、クッション言葉を入れる。

ドイツの心理学者のエビングハウスが提唱した「忘却曲線」では、「人間の記憶は20分後には42%を忘れ、1時間後には56%を忘れ、1日後には74%を忘れる」とされている。

つまり、10個単語を覚えても、1日後には2個か3個しか覚えていないことになる。

「感謝→結論→感謝」の3Kスタイルには、「感謝」が2回入っている。

断った後、相手の頭の中に、〝断られた事実〟よりも、〝感謝された印象〟が残ったほうが印象はよくなる。

さらに、もう1回「感謝」を印象付けると効果的。

ポイントは「時間をおいて伝える」。

その後、改めてメールなどをするとき、あるいは後日会ったときなどに「先日はお声掛けいただき、どうもありがとうございました」などと感謝の気持ちを述べる。

「断ること」は相手の期待を裏切ることでもある。

そんな相手には、感謝をしっかり伝え相手の脳に記憶させることで印象がよくなる。

断るときは「できるだけ理由を具体的に」がポイント。

断る理由はできるだけ具体的なほうが、印象はよくなる。

「忙しいので……」ではなく「仕事で忙しくて……」のほうが、「年末進行の依頼が殺到していましてスケジュールがいっぱいなんです」のほうが、相手はこちらの忙しさをイメージできるので、印象がよくなる。

ポイントは断る理由を自分のせいにすること。

断る理由は相手にあるのではなく、「自分の好みに合わない」「自分の趣味ではない」「自分は苦手」など、自分側にあることを正直に伝える。

そうすると、相手を責めずに断ることができる。

断るルールは次の7つ。

① まずは「3Kスタイル」で

② 最初に名前を呼ぶ

③ 合計3回、感謝を伝える

④ 「忙しいから」も正論を言うのもNG!

⑤ 早く、短く。

⑥ 「気持ち」と「事実」を交互に言う

⑦ 第一声をとくに気をつける

最初から全部をやる必要はない。

まずはルール①のみを意識して実践してみる。

断りたい旨とその理由を「ありがとうございます」という感謝で挟み「感謝→結論→感謝」にすること。

このことだけに集中する。

断ることも、一つのスキルだと言えよう。

2020年12月22日 (火)

AIに負けない子どもを育てる/新井紀子

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・幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた。
・1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた。
以上の2文は同じ意味でしょうか。
 もちろん、答えは「異なる」です。けれども、中学生の正答率は57%に留まりました。

企業の中間管理職の方たち。

「上からは生産性を上げろと言われるが、現場はメールや仕様書の誤読による予期しないトラブル続きで働き方改革どころじゃない。すると能力の高い人材から転職してしまう。一度そのサイクルに陥ると、なかなか立ち直れない」

と言う。

現状、あるいは近未来のAIは、AIに都合のよいデータが膨大に集まったときにのみ、その能力を発揮し、それ以外の「細かいこと」ではあまり役に立たないということを示唆している。

AIは文章を「読む」という行為が苦手。

ところが、今の人たちも「読む」行為が苦手になっているという。

テストを通して明らかになったのは、文章を正しく読めるかどうかは、語彙の種類や量は環境要因で大きく左右される、という事実。

行間をくみ取る前に、「行中」を読めるようになるためには必ずできなければならないことがある。

それが、文の作り(構文)を正しく把握したり、「と」「に」「のとき」「ならば」「だけ」など、機能語と呼ばれている語を正しく使えるようになること。

心配なのは、家庭環境や地域によって語彙量に相当の差があること

加えて、小学3、4年生あたりで、本や教科書の読み方や、板書の読み方に決定的な差が生まれ始める。

それは、機能語の部分を正確に読む子とそうでない子の差。

機能語を正確に読みこなせないと、教科書を読んでもぼんやりとしか意味がわからない。

ある教授のことば。

「君たちはノートを写す、ということなど極めて退屈で無意味な作業だと思うのだろう。だが、皮肉なことに、君たちが侮る作業を機械に頼ることによって、実は君たち自身の質を低下させていることに気づいていない」

昔は先生が黒板に書いた文章をノートに写していた。

ところが、今は先生はノートに写さなくてもよいようにプリントしたものを生徒に配付しているという。

そしてそのようにする先生のほうが評判がよいのだという。

子どもは、言葉と論理の「タネ」を宿して生まれてくる。

数量感覚も相当早くから持っていることが認知心理学の実験からわかっている。

1歳前後になると歩き始める。

うれしそうにニコニコ笑いながらよちよち歩き、転んで泣く。

が、それで二度と歩かないという子はいない。

何度転んで泣いても、また歩き、次はしゃがむ。

歩いて、しゃがんで立って、それを繰り返しながら外の世界が「どのような理で成り立っているか」を探検し始める。

外の世界には、犬や、ゴマ粒のように小さい黒いアリがいる。

たいていの親は「ワンワンだねぇ」とか「アリさんがいるね」とは言っても、「犬(アリ)が歩いているね」とは教えない。

けれどもなぜか、小さい子はそれらが「歩く」と理解する。

一方、車や電車は動くが歩きません。どうやって彼らがそれらを区別しているのか、なぞだという。

幼児が自分の五感で感じ取った外部世界のリアリティを「毛のふさふさした茶色の犬が飼い主と歩いている」という記号列でしかない文を徐々につなげていく。

それが「意味を理解しながら文を読み書く」ということの第一歩となる。

それを成功させる上で、幼児期の外部との濃密な接触と身近な大人たちが使う母語となる言葉のシャワーの果たす役割は極めて重要なことは明らかだ。

けれども、そのような幼児の権利は現代では無視されがちだ。

この10年で、幼児が2歳を超えてもバギーに乗せられて移動するのを多く目にするようになった。

親の都合が優先され、一番歩きたい・走りたい盛りの1歳から4歳までの「歩く権利」が奪われている。

人間は怠惰な生き物だから、一度バギーに乗る「楽さ」を覚えると、今度は歩かせようとしても歩かなくなる。

車に乗ることが日常のアメリカや日本の地方の人々が、1キロの距離を歩けなくなるのと同じ。

人間の最も優れているところは、意味を理解できることと、怠ける天才であること。

近年、AIが仕事を奪うことが懸念されている。

そうならないためには、人間はAIの苦手な分野の能力を伸ばすことだ。

大人になってからでも遅くはない。

読解力を伸ばす訓練をすべきだ。

読解力が上がると、生産性が向上する。

がむしゃらにこなしている仕事のやり方も変わり、自己肯定感も高まる。

AIに仕事を奪われることを恐れる必要もなくなる。

今の仕事を奪われても、高い読解力を持つ人材は引く手あまたなので転職すればよいだけだ。

それほどメリットが大きいのだから、読解力向上に投資する価値は十分あるのではないだろうか。

2020年12月21日 (月)

流れをつかむ技術/桜井章一

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 頭でっかちになりすぎて生き方のバランスを崩している現代人にとって、感覚を大切にすることは「よりよい人生」を紡いでいくためにも欠かせない。

人は生きていくなかで、折りに触れて「流れ」というものを意識する。

「いい流れがきた」「今は流れが悪い」と。

はっきりと目で見ることはできないが、自分がひとたび悪い流れの中にいると感じたとき、人は「この流れを変えてやろう」と行動を起こすものである。

勝負の世界も同じ。

言わば「流れ」をつかむことこそが、勝負の運命を決める核心となる。

大きな視点で眺めれば、私たちの生きている世界は自分自身も含めて、すべてが大河のように流れている。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」

これは『方丈記』の中の有名な文章。

まさに万物は大河のごとく、常に流れ、変化し続けている。

「あの人は運がいい」とか「彼は運が悪かった」と言ったときの、この「運」という不確かな存在も、結局は「流れ」をいかに感じたり、読んだりするか、いかに「流れ」を引き寄せたり、変えたりするかにかかっている。

いい勝負ができたか、できなかったか。それを分けたのは、「流れ」に対する捉え方。

流れをつかみ、それにうまく乗ることができれば、後は積極的に何かしなくとも自然と勝ててしまうもの。

土壇場で「悪い流れ」をひっくり返すことで「いい流れ」を引き寄せ、逆転勝利を収めることもある。

何事も力んで求めようとする人は、仕事においても生き方においても流れをつかみ損ね、失敗を重ねていくだろう。

求めながらも、次の瞬間にはそれを忘れたかのように力を抜く。

それこそが、「いい流れ」をつかむ秘訣。

そして、勝つという結果よりも、負けたときの過程にこそ意味を見いだすことができる人が真の強者というもの。

「考えるな、感じろ」と言うときの「考える行為」は、正確には本能や身体的感覚から切り離された思考を指している。

頭ばかり使うのではなく、本能や身体的感覚を大事にしながら、人間本来の生き方をよりよいものへと導いていく思考を、もっと増やしていくべきではないだろうか。

そもそも人間にとって最も重要なのは、「成功すること」ではなく「人間として常に成長していくこと」ではないだろうか。

人間的な成長というと、いかにも足し算のようなイメージがある。

しかし、人は歳を重ねていけば、必ず人間的に成長するというわけではない。

むしろ反対に、人間的に退化していく人のほうが多いかもしれない。

幼少期には純粋だった人も、損得の計算をしたり、駆け引きして相手の目を欺いたりと、大人の論理を身にまとうにつれ、どんどん心が汚れていく。

果ては、心がすべて真っ黒になってしまったような人も大勢いる。

その意味では、世間体やしがらみといった荷物を降ろしていく「引き算」のほうが、人間力を磨く上では大切な作業になってくる。

合理的な理性で判断するのではなく、違和感を覚えるほうを外す。

理性で判断したものよりも、無意識の感覚で判断したもののほうが正しいかもしれない。

実は脳科学の世界では、それを証明するための実験がすでに行われている。

迷ったときは理性をしっかり働かせるのではなく、逆に捨てたほうがよい。

感じたままに動いたほうが選択ミスは少なくなる。

本能に従って生きている人は、人間本来のリズムといったものを自然と身につけているものである。

経過を大切にする――それは「目の前の瞬間瞬間を大切にする」ということだ。

将来のためでも過去のためでもなく、現在のために今、何をすべきか。

過去・未来のどちらにも囚われることなく、目の前の流れをしっかり見極めることに専念する。

つまり常に途中の状態をよくすることに専心し、苦境に耐えることこそが、経過論的な生き方をもたらす。

経過とはすなわち、結果に至るまでの流れと言える。

組織や仲間など全体にとってプラスになることを考え、正しい手順をきちんと踏んでいけば、最終的にはいい結果へとつながるだろう。

人間にとって大事なものは自由だ。

自由がなければ創造性を発揮することなどできない。

多くのものがぎっしりと詰まった状態では、自由に動くことなど不可能だ。

必要以上のもので周りを埋め尽くして自由を失えば、状況に応じて変化する柔軟さもなくしてしまう。

柔軟さが失われれば当然、成長の機会も途絶えるだろう。

常に「空っぽな人でありたい」

空いているからこそ、自由に動ける。

自由に動けるからこそ、自己の能力や発想を飛躍させることもできる。

無意識や感性というものは、言葉ではなかなかうまく説明することができない。

人が自分で意識できる領域を超えているので、理性で捉えることが難しいからである。

そのような「よくわからない」ものと対峙したときに人が取る反応は、おおよそ三つに分けることができる。

一つ目は、「わからないものなんか考えても仕方がない」という態度である。

こうした人たちには、「わかる世界だけがすべてだ」といった現実主義的なところがある。

二つ目は、「理性や知性の力を絶対的なものと信じ、それをちゃんと使えばわからないものなどない」とする立場だ。

このような人たちは、仮に今はわからなくても、科学が進歩すれば、将来的に謎は必ず解明されると信じている。

三つ目は、「この世界には、理性では捉えることができないものが、少なからず存在する」という考え方である。

彼らは「人間が生きていくためには、理性を超えたものこそが大切だ」という考えを持っている。

答えを拙速に出してはいけない。

「わからない」ことは「わからない」ままにしておくことが大事なのだ。

「わからない」ことを「わからない」ままにしておくと、気分が落ち着かないかもしれない。

だが、「わからない」ことは未知の可能性を含んでいるという点で、非常に魅力的なのである。

アスリートがよく口にする言葉で、「ゾーン」というものがある。

ゾーンとは、流れの本筋と言うべきものを捉えたとき、自分がその中心にスッと入り込んで、試合全体を支配するような感覚である。

流れの中心に自らを置くと、感情も感覚もなくなり、集中が極まった無心の境地に至る。

そして、激しく動き変化しているはずの流れが、あたかも静止しているかのように感じられるのである。

身体感覚を大切にし、流れをつかみ、流れに乗る。

理性を絶対化している現代人が失いつつあるものではないだろうか。

2020年12月20日 (日)

目標達成の全技術/三谷淳

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 人間には無限の可能性があります。ですから目標は、「楽観的に構想」して高く設定することが大切です。低すぎる目標は本気になれないので、かえって達成の確率を下げてしまうのです。

目標を達成する人たちは、達成までの道のりを、

・第1ステップ「目標を設定する」

・第2ステップ「実行計画を作る」

・第3ステップ「計画を実行する」

という3つのステップに分け、それぞれのステップで特徴的な考え方や行動をしている。 

3つのステップでは順番に、対照的な思考方法をとる。

・第1ステップ「目標を設定する」では「ポジティブ思考」(何でもできると考える)

・第2ステップ「実行計画を作る」では「ネガティブ思考」(不測の事態まで想定して慎重に考える)

・第3ステップ「計画を実行する」では「ポジティブ思考」(絶対できると信じて実行する)

つまり、楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行することが大事。

「目標達成は設定が8割」と覚えておくこと。

ポイントは、何といっても「ポジティブ思考」

一見すると、高い目標よりも手頃な目標を設定したほうが達成確率が高まるように思えるが、実は逆。

立てる目標は、自分がワクワクする、できるだけ高いものに設定しなければならない。

「できる数字」ではなく「やりたい数字」

これが達成できる目標設定のコツ。

そして、心のブレーキを外すためには1つのコツがある。

それは、目標を設定するときに「どうやるか?」を考えないということ。

稲盛氏は、京セラフィロソフィの中で「新しいことを成し遂げられる人は、自分の可能性を信じることのできる人だ」と伝えている。

ワクワクする目標を設定するために大切なことがもう1つある。

それは、誰かと相談しながら目標を考えるということ。

人の脳というのは、誰か他の人と話をしたり、一緒に行動をすると楽しく感じる性質を持っている。

未来の目標も、自分一人で考えるより、誰かと一緒に考えたほうがワクワクして単純に楽しくなり、楽観的に考えることができるようになる。

2つ目の理由は、一人では気づかないことを相談相手が気づかせてくれるから。

3つ目の理由は、相談相手が目標達成を応援してくれたり、協力をしてくれること。 

また、目標設定の相談相手は、「次々と高い目標を達成している人」「自分と同じような目標を楽々と達成している人」にするべき。

「いつまでに、何を達成する」という目標を決めたら、次はその目標の達成確率を上げるためにブラッシュアップをしていく。

その方法は、「目標を達成したときに喜んでくれる人を書き出す」こと。

自分だけが喜ぶ目標より、たくさんの人が喜んでくれる目標のほうが、達成できる確率はぐんと上がる。

これには2つの理由がある。

1つ目の理由は、自分のためより他人のためのほうが人は頑張れるものだから。

もう1つの理由は、たくさんの人を喜ばせる目標には、たくさんの人が協力してくれるから。

まとめると、

・ワクワクする高い目標を設定する

・似たような目標を達成している人に相談する

・期限と検証可能性のある目標にする

・具体的で長すぎない期限を設定する

・達成したときたくさんの人が喜ぶ目標にする

・高すぎない目標にする

これらの条件をクリアするように目標設定すれば、かなり達成の確率が高くなっているはず。

目標設定したら次は実行計画作り。

実行計画作りのポイントは、悲観的とも言えるくらいの緻密さと慎重さ。

実行計画作りは、徹底的にゴールから逆算して考えることから始める。

アクションプランを決める際には、1つだけルールがある。

アクションプランは「やれば必ずできること」にするということ。

アクションプラン作りの基本は、2つの徹底的な逆算思考。

1つは「時間的」な逆算。

もう1つは「分野的」な逆算。

このアクションプランを立てるときに最も大切なのは、「悲観的に計画する」こと。

そして実行の段になると、ポイントは再び楽天的になること。

「自分なら必ずできる」という自信を持ち、毎日明るく前向きな気持ちで計画を実行していくのがポイント。

まず最初に知っておくことは、「結果は選べない、行動は選べる」ということ。

高い目標を次々とクリアしていく人たちは、決定的な共通点がある。

それは、いつも「ストレッチゾーン」の中にいて、その状態を楽しんでいるというこ。

人はコンフォートゾーンにいるよりも、ストレッチゾーンにいたほうが作業効率が上がり、高いパフォーマンスを発揮できる。

目標達成が上手な人と苦手な人の違いは、前者はいつもストレッチゾーンにいるのに対して、後者はいつもコンフォートゾーンにいるという、この1点につきる。

高い目標を達成している人ほど、数多くの失敗をしている。

目標に向けて精一杯取り組めば、達成できてもできなくても、いいことしかない。

成功の反対は失敗ではなく、「行動しないこと」だから。

高い目標を次々と達成していく人たちは、いつでも自分に何かの目標を課しているし、常に次の目標を考えている。

それは、目標は立てるときが一番楽しいから。

計画を実行するステップは、明るく楽観的に「絶対に達成できる」と信じてポジティブに進めていくことが大切。

「目標達成脳」を持つ人には、以下のような特徴がある。

・ストレッチゾーンのプレッシャーが楽しい

・いままでにないことを経験できてワクワクする

・まず行動してみる

・うまくいったから自信がつく

・目標達成に情熱を注ぐから達成の意味がわかる

・自分で決めたことは何としてもやる

目標は、楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行することが大事ということであろう。

2020年12月19日 (土)

会計の神さまが教えてくれたお金のルール/天野敦之

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 「会計リテラシーがなかったら、一生お金に振り回されて生きることになるぞ」

本書では会計リテラシーを、「会計の知識を仕事や人生に活かす力」として定義している。

仕事も人生もうまくいってない理由は、会計リテラシーがないから。

仕事する人は誰でも、会計のリテラシーは絶対身につけといたほうがよい。

まず大切なのは、お金にはコストがかかってることを意識すること。

会計リテラシーとは、

①お金にはコストがかかっていることを意識していること

②資本コスト以上にお金を増やす責任を自覚していること

③レバレッジを活用すること

④お金の流れをイメージできていること

⑤お金を増やすための損益構造を理解していること

この5つ。

企業がお金を調達する方法には、大きく分けて2つある。

1つめは、株主から出資を受ける方法、

2つめは、銀行などから借りる方法。

株主からの出資が純資産の部、

銀行などからの借入れが負債の部に載る。

貸借対照表の右側はお金の調達元を示していると言える。

株主から出資されたお金が資本金と資本剰余金になる。

それ以外にこれまで累積してきた利益が利益剰余金。

資本金と資本剰余金と利益剰余金が自己資本。

ここで大事なのは、調達したお金に資本コストというコストがかかっていることへの自覚。

そしてその資本コスト以上にお金を増やす責任への自覚。

その責任を果たさなければ、借金も返せないし、株主の期待に応えられず株価が下落し、最悪の場合は会社の存続が危ぶまれる。

仕事の中で使う資産とそれにかかる資本コスト以上にお金を増やさなければ、会社として成り立たないということを理解することが大事。

そして社員は自分の給料にもコストがかかっていることを理解することが大事。

会社が負担している社会保険料、教育研修費、仕事で使うパソコン、机、オフィスの賃料、光熱費、営業を支える事務や総務や人事などのバックオフィス、それらを払うためのお金にもすべてコストがかかっている。

これらのことが会計リテラシー。

これらがわかってくれば、営業マンが「自分の給料の3倍稼げ」といわれる意味もわかるだろう。

その意味で普通のサラリーマンであっても会計リテラシーを身に付けることが重要だと言えよう。

2020年12月18日 (金)

日本の面影/ラフカディオ・ハーン

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 日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい。

ハーンはたしかに日本という恋人と恋愛状態に陥っていて、日本のすべてを愛し、日本のすべてを追い求め、日本のすべてを彼の胸に抱きとめようとしているかに見える。

またある場合には、まるで日本という母親を求めている無邪気な子供のように振る舞っているように思われるときもある。

ハーンの紀行文の醍醐味は、まず、その土地土地の自然や人間の魂と向き合いながらも、きちんと事実関係の具体的なディテールもおさえながら書かれている点であろう。

そして、それが一個の絶妙な芸術作品にまで昇華されているところであろうか。

本書はハーンの印象派風の言語芸術家としての美意識と、足で稼ぐルポライター的な活力と、さらには民俗学者的な特異な嗅覚とが、渾然一体となった仕事と評価することができるのではなかろうか。

本書の中には、おもはゆくなるようなナイーヴな日本賛美があるかと思えば、いささか極端とも思える西洋批判も出てくる。

ハーン一流のロマン主義的誇張だとか、生来のキリスト教への反撥だとかが垣間見える。

現代の日本人にとっては、ハーンの作品はむしろ日本の良さや伝統を見なおす上で大切な相対的な視点を示しているのではないだろうか。

ハーンが描いたのは明治初期の日本だ。

でも、あれほどまでに日本を愛したハーンが今の日本を見たらどう思うだろう?

「私が愛した日本は何処に行ってしまったのか」と失望してしまうのではないだろうか。

2020年12月17日 (木)

相談しがいのある人になる/下園壮太

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 「味方と認められるまでは、耳を貸してもらえない。自信が回復しないと、アドバイスは受け入れてもらえない」
 このゴールデンルールを頭に叩き込みましょう。

悩み事にも、段階がある。

一番目は「普通の悩み」の層。

悩んではいるものの、比較的冷静な判断ができる状態。

ヒントさえあれば、新たな視点で問題をとらえなおしたり、解決のための方法を見出したりすることができる。

二番目は「悩みモード」の層。

悩みモードとは、その人本来の考え方や感じ方ではなく、少し偏って、しかも柔軟性がなくなった状態。

三番目は「うつ状態」の層。

悩みモードの特徴がさらに強くなり、思考や感情だけではなく、疲労感や不眠、食欲不振など身体的な苦しみも加わってくる。

普通の悩みであれば、5分間相談で対応可能だ。

通常この層の相談は、仕事の話なら日常のやり取りの中で、私事のテーマならランチタイムや幼稚園バスの待ち時間などでの日常会話の中に、紛れ込んでいるのが普通だ。

つまり、あえて「相談」という形をとらずに進められていることが多い。

「多くを語らず、要点を述べよ」「結論から説明せよ」は、今もビジネスシーンにおける報告の原則になっている。

つまり、これが「5分間相談」のベースになっている。

5分間相談とは、具体的な行動に結びつく情報交換であり、短時間に問題解決指向の会話のやり取りをする相談。

5分間相談は「アイデア」「情報」「はげまし」の3つを組み合わせて行う。

5分間相談は、日常の多くの相談をカバーする。

しかし、5分間相談では対応できない場面がある。

実際、物質が豊かになり、ほとんどのことを一人でやれる現代、誰かにあえて相談しようと思うときには、すでに相当の自助努力をした後。

つまり、誰かに真剣に相談しようとするときは、すでにかなり悩んでいる、悩みの深い相談者であることが多い。

長い間悩んだ結果の「ちょっと相談にのってもらえますか」という依頼であることが多い。

なので、誰かから改まって「相談」を持ちかけられたら、悩みはかなり深いと思って対応したほうが良い。

人にはピンチになったら自分の苦しさを表現したいという欲求が組み込まれている。

これを著者は「表現欲求」と呼んでいる。

「自分がピンチだとわかってくれている人がいる」そう感じるだけで、再び闘う力がわいてくる。

悩みの深い相談者は、5分間相談の直接的なアドバイスによって逆に傷ついてしまう。

そのことを理解するには、彼らが、相談をするときに持つ不安について知らなければならない。

それは、

「この人にわかってもらえるだろうか」

「こんなくだらない問題で悩んでいると嘲笑されないだろうか」

「つまらない問題で相談して、わずらわしいと思われないだろうか」

「それぐらい自分で考えろと、叱られないだろうか」

というような不安。

人を勇気づけようとするとき、私たちはどんな言葉をかけるだろうか。

・「たいしたことないよ、君ならできる」(はげまし)

・「みんなも耐えてる、踏ん張りどころだよ」(はげまし)

・「こういう考え方もあるよ」(新しい視点)

・「こうすれば、うまくいくよ」(提案)

・「君のここが問題だよ、こうすればいいよ」(解決法)

・「そうなってしまうのも無理もないよ」(反応への評価)

・「すごいね、うまくやっているよ」(能力の評価)

・「今のままでいいよ」(努力と能力への評価)

・「たいへんだったね、つらかったね」(共感)

・「とてもがんばっているね」(努力への評価)

・「きっと何とかなるよ、誰か助けてくれるよ」(慰め)

・「完全にできなくても当たり前だよ」(許し)

・「君のせいじゃないよ、君は悪くないよ」(責任を否定)

などのメッセージだ。 

1時間相談法では、「がんばれ」系メッセージを与える前に、まず「守ってやるよ」系メッセージを与える。

これが、1時間相談法の最大のポイント。

1時間相談法では、「がんばれ」系メッセージを出さない、というわけではない。

「がんばれ」系メッセージの前に「守ってやるよ」系メッセージを出すというだけのこと。

しかし、実際にはこれがなかなか難しい。

1時間素言う段法では最初の30分間、しっかりと話しを聞く。

味方になるには、まずは安心を与える。

「攻撃しない時間」が必要。

少なくとも30分は、この作業に時間をかける。

相談の第一段階では、「私は敵ではない、あなたを攻撃しない」ということから伝えなければならない。

まずは「30分、徹底的に聞く」という態度で、それを示す。

ここでいう「聞く」というのは、まったくしゃべってはいけないということではない。

二つの意味がある。

一つ目は、自分の意見を言わないということ。

二つ目の意味は、相手が話す時間を長くするということ。

そのためには自分が話す時間をできるだけ少なくする。

相手を、馬鹿にしない、宇宙人のようだと異端視しないこと。

同じ人間として必ず「そういうことだったのかぁ」と納得できるポイントがあるはず。

それを探しながら聞く。

そうすれば30分はあっと言う間に過ぎていく。

5分間相談では、ズバリと解決策を与えてあげる。

しかし、1時間相談法では、直接、解決策を考えるのではなく、「相談者が考える」支援をする。

考える支援をするということは、うまく頭が働くように、刺激を与えたり環境を整えたりするということ。

相談者が「冷静かつ頭が冴えた状態で、考えを整理する」ことをサポートすればいい。

そのためには大きく二つのことを行う。

それは、

①相談者の頭が働きやすい環境を作ることと、

②より良い発想への刺激を与えること。

30分間、徹底的に相手の話を聞いてから、テーブルを広げる。

テーブルを広げるとは30分間のまとめをするということ。

このテーブル広げによって、次の三つの効果が表る。

①話すことが中心だった相談者のリズムをいったん崩すことができる

②これまで相談者が話した要素を一気に相談者に見せてあげられる

③言葉のブレによる「自然な刺激」の提供ができる

そして相談の最後にアドバイスをする。

アドバイスによって相手の思考に刺激を与える。

相談者の思考から、ほどよく離れた思考、これが新しいヒントとなる可能性のある刺激。

二つの電極が接していても、あるいは離れすぎていても、雷は生じない。

ほんの少し離れた刺激が、新たな発想の火花を散らす。

①意識的に新しい考えを提示したものではなく、

②適切な距離を持っている、

そのような刺激が、相談者にとっては新しい発想のヒントとなる。

これを著者は、「スパークしやすい刺激」と呼んでいる。

アドバイスは10秒以内。

アドバイスの最初に「私だったら」と枕詞をつけ、最後に「どう?」という。

相談の一番のポイントは「私はあなたの味方です」というメッセージをいかに相手に伝えるかということであろう。

2020年12月16日 (水)

戦場の軍法会議/NHK取材班、北博昭

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 死刑ありきという〝空気〟の中で、上官から死刑を〝正当化〟するために法的な根拠を示すよう迫られた馬塲が搾り出した罪状は「奔敵未遂」。「英語が堪能な」中田上等機関兵は、戦わずして敵の捕虜になろうとしたが、未遂に終わった、という罪によって、死刑を宣告されたのである。

軍法会議は、二つの異なる役割を持つ特殊な裁判だ。

軍隊の中において、兵士の人権を守る最後の砦としての役割を持つ一方で、戦況の悪化によっては彼らに罰を科して軍紀引き締めを行うという役割も持っている。

しかし、この二つの役割があるため、いったい何が「善」で、何が「悪」なのか、答えを出すことが極めて難しかった。

満足な食糧も与えられず無謀な戦いを強いられた兵士の人権を守る立場にたてば、逃亡は「悪」ではない。

敵に勝つことが至上命題となる軍の立場にたてば、「逃亡」は「悪」で、それを厳しく罰する行為は「善」となる。

つまり法務官にとっては、どちらの立場にたつかによって、兵士の人権を守ることも、彼らに罰を科すことも、〝正義〟となるのだ。

これこそがまさに戦争なのだろう。

軍法会議は、この二つの〝正義〟がぶつかり合う、戦争の最も醜い部分を映し出す〝合わせ鏡〟のようなものだと言えよう。

そして、間違っていると分かっていても、組織が決めた大きな流れには個人がなかなか逆らえず、都合の悪い証拠は隠蔽しようとする風潮。

これらの問題点は、現代の日本社会にも気味が悪いほど当てはまるのではないだろうか。

2020年12月15日 (火)

人は科学が苦手/三井誠

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 「見たいものだけ見える」「見たくないものは見えない」私たち
 カハン教授は、知識が増えれば増えるほどわかり合えなくなる状況を「汚染された科学コミュニケーション環境」と呼ぶ。
 透き通った清らかな環境であれば、事実が人々の心に広く染み込むように伝わっていくのかもしれない。しかし、いったん汚染されてしまえば、そこで事実はゆがんでしまう。素直に物事を受け取る無垢な心が汚れ、偏見が育ってしまうような環境だ。

私たちが科学的な知識に基づいて判断することはほとんどない。

人は、自分で思っているほど理性的に物事を考えているわけではない。

何かを決める時に科学的な知識に頼ることは少なく、仲間の意見や自分の価値観が重要な決め手になっている。

科学者が「科学は証拠に基づく」「科学は事実であり、意見ではない」と科学を特別なものとして訴えても、普通の人にとってはそうではない。

科学のことであっても、ほかのことを考える時と同じように理性や論理だけでなく、感情や本能的な好き嫌いがごちゃ混ぜになった、人間らしい心で判断している。

「科学はデータに基づき、それぞれの人の考え方の違いや立場の違いを超えた事実を提供できる」

そんな期待は、人間社会の生々しい利害の前にかすんでしまう。

では知識が増えれば科学的に考え判断できるようになるのか?

実はそうではない。

「人は自分の主義や考え方に一致する知識を吸収する傾向があるので、知識が増えると考え方が極端になる。」

地球温暖化やワクチンの安全性など科学に関するコミュニケーションの研究で知られるエール大学のダン・カハン教授(心理学)はそう分析する。

「汚染された環境」では政治や宗教などの個人の思いによって、情報が「大事な情報」と「嫌な情報」に分けられてしまう。

そして、人は、自分の思いを強めてくれる「大事な情報」をありがたがる。

情報をえり好みして、自分に都合の良いものを選ぶ「確証バイアス」は、自分の脳内にある〝ふるい〟といえる。

一方で、インターネットなど外部の情報環境による〝ふるい〟は、「フィルター・バブル」と呼ばれる。

これも、コミュニケーション環境を汚染する一つの要因だ。

温暖化を疑う姿勢は、その人の「知識のあるなし」に由来するのではなく、その人の「思い」から生まれているのだ。

「知識のあるなし」ではなく、その人の考え方を支配する「心情的なバイアス」に注目する必要がある。

論理的にかつ冷静に「知識がないからでしょ」という見方では、対話は前に進まない。

「知識のあるなし」に注目する「欠如モデル」が前提とするのは、「知識があれば、それに基づいて行動する」という考え方だ。

逆にいえば、「行動がいつも知識によって導かれている」ということになる。

本当にそうだろうか。

人が何かを決める時に科学的な知識に頼ることは実際には少なく、仲間の意見や自分の価値観が重要な決め手になっている。

たしかに、地球温暖化が深刻な問題だと感じている人がみんな、二酸化炭素が温室効果を生む仕組みを理解しているわけではないだろう。

そうした知識よりも、科学者や国際的な組織への信頼が重要な役割を果たしている。

私たちはみんな自分のことを、知識に基づいて物事を決める理性的な存在だと思いたがっている。

だから、『みんなが言っているから』ではなく、何か科学的なものに基づいて自分で決めたと思いたいのだ。

「直感に合う」「信頼ある人から教えられる」という二つの要素がそろえば、子どものころに抱いた科学と食い違う考えは、大人になってもそのまま保たれる。

科学への反発や反感という大げさなレベルではなく、自然の成り行きとして科学的でない考え方が身についていくのだ。

本書を読むと、知識が増えると人は科学的に考えられるようになるというのは幻想だということがよくわかる。

要は、人は自分の見たいものを見、信じたいものを信じているということであろう。

2020年12月14日 (月)

キリスト教と日本人/石川明人

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 日本におけるキリスト教は、救貧・福祉事業、教育、医療など、日本人を助けてくれる温かな一面を持っていたのは確かであるが、その一方で、時にはかなり面倒でやっかいな存在であったのも事実だと言わざるをえない。

本書は、宗教とは何か、信仰とは何か、ということについての、長々とした「問い」そのものだと言ってもよい。

この中で特に興味深いのは豊臣秀吉のキリシタン迫害について述べている部分である。

日本では豊臣秀吉が一方的にキリシタンを迫害したと教えられているが、実態は違う。

日本でキリシタンが邪教視された大きな理由の一つは、彼らが日本にあった既存の宗教文化を冒涜し、攻撃し、破壊しようとしたことである。

しかも、しばしば宣教師の指導のもとでそれらがおこなわれたことを考えると、当時のバテレン門徒が「邪法の徒」だとみなされたのはむしろ当然だったとも言えよう。

秀吉は晩年に大規模なキリシタン迫害をし、多くを処刑している。

当初、秀吉は南蛮貿易を活発にするために宣教師の活動を認めていたが、やがて彼らを日本から追い出すことを決意する。

それが「伴天連追放令」である。

当時、イエズス会士のあいだでは、キリシタン大名に軍事援助をすることで教勢を維持・拡大しようとするのは普通の発想であった。

宣教師のなかには、1580年から教会領になっていた長崎と茂木を要塞化して、ポルトガル・スペインの軍隊を呼び寄せ、そこを足がかりにして日本を制圧することを真面目に検討する者もいた。

日本を軍事的に征服してしまうことは現実的ではなかったようだが、イエズス会としては、日本を征服してしまえば一気にキリスト教化することができ、そこを前線基地として中国布教も容易になると考えていたのである。

当時、武力によって教会や宣教活動を守ろうと主張した宣教師は、一人や二人ではなかった。

1599年、イエズス会司祭ペドロ・デ・ラ・クルスは、イエズス会総長宛ての長い書簡で、日本での布教を成功させるには積極的に軍事力を行使すべきであると論じている。 

イエズス会宣教師たちが武器の調達に協力的だったのは、キリスト教を保護する大名が勢力を維持・拡大することはすなわちキリスト教の維持・拡大を意味したからである。

彼らの頭のなかでは、宣教と戦争協力はゆるやかにつながっており、矛盾する全く別のものとは考えられなかったのである。

現に、当時日本にいた宣教師の多くは武力行使を認めていたし、特定の大名を支えるために武器弾薬調達の仲介などもおこない、戦争協力をしていた。

実際に可能かどうかはともかく、ヨーロッパの軍隊投入を望む者さえいた。

こうしたことは、決して軽く見ることはできない。

少なくとも、日本の側が宣教師やキリシタンに警戒感を抱いたこと自体が誤解だったとか過剰反応だったのかといえば、決してそういうわけではないと思われる。

伴天連追放令の背景として、軍事的問題の他にもう一つ決して無視することができないものがある。

それは、キリシタンや宣教師に、日本の既存の伝統や宗教を否定・排除する傾向があったことである。

しばしば、日本のキリスト教徒たちは、昔のキリシタンが受けた迫害や苦難の歴史ばかりを強調する。

確かにそれも事実ではあるのだが、では、キリシタンの側は最初からずっと日本の他宗教に寛容で、それらとの平和的共存を試みてきたのかというと、決してそんなことはないのである。

伴天連追放令の背景としてさらにもう一つ言及すべきなのは、当時ポルトガル人が女性や子供を含む日本人を奴隷として売買していたという問題である。

秀吉にはそれも許せなかったのである。

男性はポルトガルが占拠する東インド、マラッカ、マカオなどで忠実な兵士としても酷使され、女性の奴隷もかなり悲惨な目にあっていた。

なかには、はるばるポルトガルまで連れて行かれた日本人奴隷もいた。

当時の日本国内で売り買いされた人々は、戦争捕虜が最も多かったようだが、他にも誘拐、あるいは飢饉による口減らしなど、その背景はさまざまであった。

国内でさらわれ、あるいは売られた人々は、さらにポルトガル人に買い取られ、家畜のように船につめこまれて海外に運ばれていった。 

このように秀吉のキリシタン迫害には複雑な背景がある。

歴史は起こった事実だけを見るのでなく、その背景まで深く検証する必要があるということであろう。

2020年12月13日 (日)

いじめを克服する方法/岩田健太郎

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 アドホックな(その場限りの)根拠で自分の嗜好に合わない人物や行動は排除する。価値観や振る舞いを共有できない輩は排除する、合う人物とだけ仕事をする。こういう同調圧力や異論の否定は、特に危機管理のときに危険である。間違いがあっても誰も否定できず、そのままみんな揃って「滅びの道」、ということはよくあることだからだ。

日本は怒張圧力の非常につよい社会だ。

誰かがみんなとは違う意見を述べたとする。

その意見あるいは人を排除してしまうのが日本の社会の特徴だ。

仮に誰かが間違っていたとしても、「間違っていたから排除する」という理屈はおかしい。

そんなものは組織ではない。

それでは危機対応はできない。

このような異論を認めない、異端を認めない空気が、本書で述べる「大人のいじめの構造」だ。

大人の社会がいじめ社会だから、子供社会でいじめがなくなるわけがない。

みんなで一緒に地盤沈下していくのが同調圧力だ。

誰かが得するくらいなら、みんな揃って損をしたほうがまし、という非常にねじれた思考プロセスである。

クルーズ船内の感染を防御したら、みんなが得をしただろうに、気に入らない人物を排除することで、全員が感染リスクを高いままにしてしまう。

まさに「みんな一緒に地盤沈下」の論理だ。

このような同調圧力に抗うことだけが、新型コロナの抜本的な対応策だ。

これができるかどうか、「人と違う」ことに耐えられるかどうかが、日本がコロナを克服できるか、の最大の決定要素の一つになっている。

山本七平氏の著書「空気の研究」の同様のことを言っている。

日本を支配しているのは「空気」だと。

空気は読まねばならない。

しかし、忖度や「長いものには巻かれろ」の態度は良くない。

組織のなかで、組織を良くするための真のチームプレーは、「空気を読みつつ」「空気を読みすぎない」ことだ。

空気を読まないふりをする。

単に横暴な態度をとるのではなく、紳士的な振る舞いをしながらも、付和雷同しない。

こんな姿勢が大事なのではないだろうか。

「同調圧力」「空気」、日本社会を解くキーワードではないだろうか。

2020年12月12日 (土)

心くばりの魔法/櫻井恵里子

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 ホスピタリティの本質というのは、「相手のために、相手の期待を超えた行動をする」というところにあると私は考えています。

世の中には、「なぜかみんなに好かれ、仕事がうまくいく人」がいる。

そんな人たちが決まって得意なのは、「心くばりの魔法」。

その魔法を周囲と、自分にかけることによって、人の気持ちを癒やし、つかんでいる。

〝私たちは王様や女王様をもてなすことが好きだ。しかしここではすべての人がVIPなんだ〟

これはウォルト・ディズニーの言葉。

すべてのゲストをVIPとしておもてなしするというのが、ディズニーのブランドとしての考え方。

実社会でも、あらゆる場で人に愛されるのは、自ら運命をつくろうとする自立型の人。

社会に出たら、現実としっかり向き合ったうえで、自分から人生の幸せややりがいを見つけにいかなければ、仕事もプライベートもうまくいかない。

目の前の仕事に真摯に向き合う。

その繰り返しが、魅力的な人へと成長させてくれるはず。

ディズニーでは「目に触れるものはすべてがショー」という教えがある。

ディズニーのキャストのように「身だしなみもショーの一部で、ゲストのためにするもの」と考えてみる。

自己満足のための主張や個性を取り払えば、職場で誰にでも愛される人材に近づける。

ウォルト・ディズニーがこんな言葉を残している。

「与えることは最高の喜びなのだ。他人に喜びを運ぶ人は、それによって、自分自身の喜びと満足を得る。」

確かに幸福というのは「与えてもらった分、返す」というより、「与えるから、与えられる」ものなのかもしれない。

ホスピタリティを発揮できると、あらゆる仕事において大きくプラスに作用する。

相手を感動させ、自らの評価を上げることができるから。

まずは相手の気持ちに寄り添い、その思いを理解してみる。

世の中のすべての仕事というのは、他人のために存在します。誰かの役に立たなければ、それは職業として存在しない。 

「心くばりの魔法」が変えてくれることがある。

それは、自分自身の「心」。

人の気持ちを想像し、物ごとを見つめ、誰かのために尽くすこと。

それを繰り返していくと、さまざまなコンプレックスの元凶となる「自我」や「自己中心性」がどんどん薄れ、心が丸く磨かれていく。

そしてその心の輝きは、次第に内面からにじみ出るようになり、まわりの人々にも伝わっていく。

「心くばりの魔法」は、他人だけではなく、自分もまた輝かせてくれる。

まず自分自身の心を豊かにすること。

これが重要ということではないだろうか。

2020年12月11日 (金)

さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる/エックハルト・トール

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 「大いなる存在」こそが、「人間の本質」です。わたしたちは、それをじかに感じられるのです。「わたしは、いま、ここに、こうして、存在する!」という感覚がそれです。「わたしは○○(名前、職業など)です」という呼び名を超えた、「ほんとうの自分」に気づくことなのです。「大いなる存在」という言葉の、ほんとうの意味を理解すれば、「大いなる存在」を経験する日は、もう目の前です。

「大いなる存在とひとつであること」そして「この状態を保つこと」こそが「さとり」なのだと著者はいう。

一見すると矛盾しているようだが、「大いなる存在」は、本質的に「私自身」であると同時に、「私よりもはるかに偉大な存在」。

それは私という人間の名前や外見を超えた、「ほんとうの自分」を見つけだすことである、とも言える。

「さとり」は、心の葛藤や、人との摩擦がなくなることだけを、意味するのではない。

さとりをひらくと、もう自分の思考に、ふりまわされなくなる。

「思考を客観的にながめる」以外にも、無心状態をつくる方法が、いくつかある。

意識を100パーセント「いま」に集中させて、思考活動を遮断するのも、そのひとつ。

意識のすべてを「いま、この瞬間」に向けてみる。

そうすれば思考活動をストップでき、意識が鋭敏であると同時に、考えごとをしていない「無心状態」になれる。

このエクササイズは、満足のいく結果をもたらすはず。

たんなる手段としておこなっている動作に、全意識を集中させる。

すると「手段」が「目的」そのものに変わる。

たとえば、家や会社で、階段をのぼりおりする時に、呼吸はもちろん、その一歩一歩に、全意識を集中させる。

これが、「完全に『いま』に在ること」。

結論を言えば、さとりをひらくための、一番肝心なステップは、「思考を『ほんとうの自分』とみなすのをやめること」。

たえまなく流れている思考に「すきま」をつくるたびに、「意識の光」が輝き出す。

そのうち、子供のたわいないいたずらに、思わず笑みがこぼれるのと同じように、「頭の声」を笑ってやりすごせる日がくるだろう。

歴史に名を残す偉大な科学者たちも、快挙となるアイディアがひらめいたのは、思考が止まった状態の時だった、と報告している。

アメリカ全土で、アインシュタインをはじめとする、著名な数学者たちの成功の秘訣を探ろう、という調査が実施された。

それによると、ほんの一瞬というひらめきの活動の中で、考えるという行為は、補助的な役割しか果たしていないという、驚くべき結果が発表された。

とすると、大多数の科学者たちが、アインシュタインのようにクリエイティブでない理由は、「頭の使い方を知らないから」というよりは、「頭の活動の止め方を知らないから」、ということが言えないだろうか? 

感情におどらされないよう、注意する。

感情をあるがままにほうっておく。

そうすれば、わたしたちは感情そのものになってしまうことはない。

逆に、「感情を観察する人」になれる。

感情を観察できるようになると、自分の内面の無意識なものがすべて意識の光に照らされ、明るみに出るようになる。

いま、この瞬間、わたしの心で、なにが起こっているだろう?」こう自問する習慣をつける。

この質問が、私たちを適切な方向へと導いてくれるはず。

なぜ思考は「いま、この瞬間」に抵抗するのか?

その理由は、思考は過去、未来という時間の概念なしには、機能できない。

そのため、思考は時間のない「いま、この瞬間」を脅威に感じている。

時間と思考は、互いに離れられない間柄。

思考はすべてをコントロールしようと、「いま、この瞬間」という時を、いつも過去と未来というカーテンでおおいかくそうとする。

すると「いま」と結びついた「大いなる存在」の生命力や創造力も、時間というわなにはまり、「ほんとうの自分」も、ピンぼけ写真のようなものになってしまう。

いつでも「いま、この瞬間」を「Yes!」と言って、抱きしめる。

「すでにそうであるもの」に抵抗することほど、無益なことはない。

いつでも「いま、この瞬間」である「人生」に逆らうこと以上に、非建設的なことはない。

「あるがまま」に身をゆだねる。

人生を「Yes!」と言って、無条件に受けいれる。

そうすれば、向かい風だった人生が、突然追い風に変わっていくのを体験するだろう。

「いま、この瞬間」を味方にしないと、感情的な痛みは増えつづけ、痛みを背負って人生を歩むことになる。

新たにこしらえる感情的な痛みは、心とからだにすみついている、過去の経験による痛みにくっつき、雪だるま式にどんどん大きくなっていく。

生きることの秘訣は「(肉体が)死ぬ前に死ぬこと」であり、しかも「『ほんとうの自分』は死なない」と、さとることだと言える。

さとりをひらいた人の意識は常に「いま」に注がれている。

しかし、このような人たちも、意識のかたすみに、ちゃんと時間をおいている。

言いかえるなら、「時計時間」を活用しているものの、「心理的時間」にまどわされていない。

どんな種類のネガティブ性も、「心理的時間」にとらわれることと、「いま」を否定することに端を発している。

「不快感」「不安」「緊張」「ストレス」は、すべて恐れの一種だが、あまりにもたくさんの「未来」と「いま」の欠如が原因。

「罪悪感」「後悔」「怒り」「不満」「悲しみ」「恨み」などの許せない心は、たくさんの「過去」と「いま」の欠如が原因。

「どんなことが起きようと、わたしはもう二度と『状況』を『問題』に変えて、自分に痛みを与えない!」

こう決断すること。

とても簡単に聞こえるが、天地がひっくり返るくらいドラスティックな改革。

「いま、この瞬間」を尊重したとたん、不幸と苦悩はすべて消え去り、人生は喜びと安らぎとともに、スムーズに流れはじめる。

「いまに在る」意識で行動している限り、私たちのすることはすべて、どんなささいな行動でも、高潔、思いやり、愛が原動力になる。

すべての瞬間に過去を捨て去る。

わたしたちには、過去など必要ない。

現在に解決しなければならないことがあって、どうしても過去を参考にしなければならない時だけ、そうする。

「いまのパワー」と「大いなる存在」の豊かさを、全身で吸いこむ。

そうして、「わたしは、いま、ここに存在する」ということを、実感する。

「すでにそうであるもの」を受けいれ、完全に「いま」に在れば、過去はパワーを失ってしまう。

過去など必要なくなる。

「いまに在ること」、これがなによりも肝心ということであろう。

2020年12月10日 (木)

「鬼滅の刃」の折れない心をつくる言葉/藤寺郁光

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 「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!惨めったらしくうずくまるのはやめろ!!」

映画「鬼滅の刃」が大ヒットしている。

舞台は大正時代の人喰い鬼の棲む世界。

炭売りの竈門炭治郎は家族を鬼の鬼舞辻無惨に惨殺され、唯一生きのこった妹・竈門禰豆子も鬼と化させられてしまう。

そこに、鬼殺隊の剣士・冨岡義勇が現れ、禰豆子を殺そうとするが、炭治郎は「妹を殺さないでください」と懇願することしかできない。

そんな炭治郎に戦う決意をさせたのは、義勇の「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!惨めったらしくうずくまるのはやめろ!!」という言葉だった。

炭治郎は妹を人間に戻す方法を見つけるため、鬼殺隊として鬼と戦いながら、禰豆子とともに最大の敵である鬼舞辻無惨を倒す道を進む。

こんなストーリーが展開する。

「鬼滅の刃」がヒットした最大の理由は、キャラクターたちが持つ自分の弱さと向き合い、葛藤し、それでも立ち上がろうとする“折れない心”にあるのではないだろうか。

炭治郎と仲間たちは、強敵を倒していくなかで、過去の哀しい記憶、受け継がれてきた感傷的な記憶、時に残酷な記憶を乗り越えていく。

どのエピソードにも人間の強さと弱さ、はかなさが描かれており、登場人物たちの言葉1つひとつに、私たち読み手に向かって発せられているかのような「力」がある。

「鬼滅の刃」がヒットしたのは、今の時代に生きる私たちに共感できる「何か」があるからだろう。

「鬼滅の刃」を観てみたくなった。

2020年12月 9日 (水)

謙虚なリーダーシップ/エドガー・H・シャイン、ピーター・A・シャイン

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 リーダーシップとは、関係性にほかならない。そして、真に成功しているリーダーシップは、きわめて率直に話をし、心から信頼し合うグループの文化のなかで成果をあげている。

リーダーシップとは、なんらかの「決まった手順」を踏んで発揮すべきものではない。

新たな、よりよいことを成し遂げようとするグループ内で共有されるエネルギーである。

リーダーシップとは、関係性に他ならない。

関係性には4つのレベルがある。

レベルマイナス1 全く人間味のない、支配と強制の関係

レベル1 単なる業務上の役割や規則に基づいて監督・管理したり、サービスを提供したりする関係、大半の「ほどほどの距離感を保った」支援関係

レベル2 友人同士や有能なチームに見られるような、個人的で、互いに助け合い、信頼し合う関係

レベル3 感情的に親密で、互いに相手に尽くす関係

20世紀の伝統的な経営文化は、決められた役割と役割の間にできる、単なる業務上の一連の関係と言える。

そのような関係では、率直に話すことも信頼し合うこともあまりできない状態が意図せず生み出され、それゆえ、本当に効果的なリーダーシップを実践するのが困難になってしまう。

このような単なる業務上の関係を、著者は「レベル1」と呼んでいる。

一方、グループ内およびグループ間のより個人的な関係の上に築かれる、もっと個人的で、信頼し合い、率直に話をする文化と深く関連するモデルを、著者は「謙虚なリーダーシップ」として提案している。

このような関係が、「レベル2」である。

リーダーが文化をつくるのか、それとも、文化がリーダーを生み出すのか?

リーダーは常に文化を生み出しているが、文化は、リーダーシップの意味と、一人ひとりのチェンジ・エージェントが許される行動を、絶えず制限する。

社会生活を営む私たちは、文化の外へ出ることはできないが、自分たちの文化を知ることと、他者と関係する活動としてのリーダーシップが、どのように文化によって形づくられ、文化を形づくっているかを理解することは可能になってきている。

眼前に迫った環境、社会、政治、経済、技術の変化に適うには、経営文化がどの方向に進化する必要があるかも、わかってきている。

謙虚なリーダーシップという概念は、まさにその必要性から生まれており、相互作用する性質にスポットを当てている。

リーダーシップとは、新たな、よりよいことをしたいと思い、それをほかの人たちに一緒にしてもらうことである。

世界中の組織が、ますます加速する変化のスピード、地球規模での相互のつながり、多文化主義、技術の進歩のペースに、懸命に対応しようとしている。

気候変動が速度を増している。

製品特化も加速している。

文化的多様性もまた然りである。

このような世界で後れをとらずにいるためには、いっそう打ち解けた関係になって、より高いレベルの信頼と率直さを生み出し、それを土台にしたあらゆる種類のチームワークと協働が不可欠であることが明らかになってきている。

成功し、生き残る確率を高められるのは、自己イメージを一新できる組織、適応力ある有機的組織体にみずからをデザイン・再デザインできる組織だ。

この再デザインのために、現代の組織のトップ層にも、内部にも、周囲にも欠かせないのが、もっと個人的な関係を重視するリーダーシップである。

謙虚なリーダーシップは、この加速度的なシステムの変化に対応しうる関係をつくったり示したりする。

そして、加速する変化を活用するという重要な適応力を、作業グループが養い、維持できるようにする。

このような環境に身を置くリーダーは、絶対的に謙虚にならざるをえない。

なぜなら、あらゆる答えを見つけられるだけの知識を一人の人間が積み上げることは、事実上、不可能だからである。

相互依存と絶え間ない変化が当たり前の、この複雑な状況にあっては、謙虚であることが、生き残るための不可欠なスキルになっている。

謙虚なリーダーシップの基盤は、レベル2の個人的な関係である。

この関係は、率直に話し、信頼し合うことが土台になり、その状態を促進する。

作業グループの関係がまだレベル2になっていないなら、自然に生まれる謙虚なリーダーはまず、作業グループのなかで、信頼を確立し、率直な発言を促す必要がある。

作業グループにレベル2の関係ができている場合は、有用な情報や専門知識を持っている人が、自由に発言し、グループの目標を推進できるようにすることによって、謙虚なリーダーシップが現れる。

レベル2の関係をつくって維持するプロセスには、学習するマインドセットと、進んで協力する姿勢と、対人およびグループ・ダイナミクスのスキルが不可欠である。

変化の激しい環境で複雑な課題に取り組むグループが成果をあげるには、そうしたマインドセットと姿勢とスキルを育てることが、メンバー全員にとって必要になる。

そのため、謙虚なリーダーシップは、個人的な行動であると同時に、グループ現象でもある。

未来に必要なのは新たな考え方、すなわち「謙虚なリーダーシップ」である。

これは、率直に話し、信頼し合う、レベル2の関係が基盤になっている。

関係とは、過去のやりとりに基づき、未来の互いの行動を、互いに予想できることである。関係が築かれているときには、相手の行動が互いにある程度、読めるのだ。

「よい関係」ができている場合には、相手に関してあるレベルの安心感、つまり、相手の反応について想像がつくために安心感を覚えることができる。

さらには、合意したり自明の前提であったりする目標に向かって、ともに取り組んでいるという確信も共有している。

そういう安心感は、しばしば「信頼」という言葉で表される。

互いに相手に期待できるものを「承知している」状態だ。

信頼のレベルは、私たちの行動と相手の行動が一貫している程度を示すのである。

まとめると、仕事上の関係のレベルは結局、するべき仕事の質とリンクしている。

その仕事に、協力と、率直な話し合いと、互いの献身への信頼が不可欠であればあるほど、レベル2の「一個人として相手を見る」関係が必要になる。

レベル1の、単なる業務上の関係で十分な仕事は、今後もなくなることはないだろう。

だが、はっきり知らなければならないことは、そうした関係には、率直さと信頼の点で限界があること。

もっと率直に話し、信頼し合う必要があると主張しても、それだけでは実現しないこと。

経営文化をレベル1からレベル2へ進化させること、それが、謙虚なリーダーシップの最重要の責務なのである。

謙虚なリーダーシップにとっての挑戦は、レベル2の信頼と率直さを築くことだ。

それも、より個人的なことを尋ねたり話したりしながら、同時に、レベル1のほどほどの距離感を保って堅苦しくなることも、レベル3の親密さと捉えられかねないほどプライベートに踏み込むのも、避けることによってである。

謙虚なリーダーシップというスキルは、堅苦しすぎるという一方の極と、親密すぎるというもう一方の極の間で、巧みにバランスをとる力のことなのだ。

つまるところ、謙虚なリーダーシップとは、レベル1の業務に終始する文化を、パーソナイズされたレベル2の文化へ進化させることがすべてである。

謙虚なリーダーシップとは、弱さを受け容れ、レベル2のつながりを通じて、しなやかに適応する力を育むことである。

「謙虚なリーダーシップ」、これからのリーダーシップを論じる上でのキーワードになってくるのだろう。

2020年12月 8日 (火)

天才はディープ・プラクティスと1万時間の法則でつくられる/ダニエル・コイル

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 あらゆるスキルの獲得は、ひいては才能が輩出されるプロセスは、異なるように見えても、すべて同じ原理で成り立っている。カリフォルニア大学ロサンゼルス校の神経学者でミエリンの研究者でもあるジョージ・バーゾキス博士はこう言っている。
「スキル、言語、音楽、動作、これらはすべて活発な神経回路で構成されています。そして回路はすべて一定のルールに基づいて発達します」

〝才能〟という言葉は曖昧で、とくに若者を対象にした場合、潜在能力について理解しにくいニュアンスが含まれている。

調査によれば、神童であってもかならずしも将来成功するわけではない。

本書では、混乱を避けるために〝才能〟を最も厳格な意味で用い、「体格に依存しない反復可能なスキルを有すること」と定義する。

ディープ・プラクティスは逆説に基づいている。

すなわち、あらかじめ想定した範囲内で苦労することによって――自分の能力よりもやや上のレベルで練習し、ミスを重ねることで――上達するのだ。

言い方を変えれば、スピードを落とし、ミスを犯し、それを修正せざるをえない経験をすれば、自分でも気づかないうちに、すばやく優雅に動けるようになるというもの。

その理由は脳の仕組みにある。

私たちは記憶をテープレコーダーのように考えがちだが、それは間違っている。

記憶は生体構造で、言ってみれば無限大に近い足場なのだ。

困難に直面して乗り越えることでインパルスを発生させる回数が増えるほど、足場が組み立てられていく。

そして足場が増えるほど、学習速度が速まる。

ディープ・プラクティスには世間一般のルールは当てはまらない。

より効率的に時間を使える。

小さな努力が大きく持続的な成果を生み出す。

それは、失敗をスキルに変えることのできるてこの力点を見つけるからだ。

その秘訣は、現在の能力よりも少し上の目標を設定すること、すなわち苦しいと感じる練習を重ねることである。

やみくもにのたうちまわっても意味はない。

目標に向かって努力することが大切なのだ。

ディープ・プラクティスには、従来の考えと異なる点が二つある。

まず、才能に対する一般的な理解に逆らっていること。

私たちは、練習と才能の関係は砥石とナイフの関係と同じだと考えている。

必要不可欠ではあるが、生まれつきの才能という頑丈な刃がなければ役に立たないと。

だが、ディープ・プラクティスでは興味深い可能性が生まれる――練習が刃そのものを鋳造する手段となりうるのだ。

もうひとつ、ディープ・プラクティスの独自の概念は、通常は避けようとする出来事――つまりミス――を必要とし、それをスキルに変えるという点だ。

したがって、ディープ・プラクティスの仕組みを理解するには、まず学習プロセスにおけるミスの重要性について考えることが必要となる。

根拠となる事実は三つある。

①人間の動き、思考、感覚はすべてニューロンを通じて伝達されるタイムリーな電気信号である。

②ミエリンはそうした神経線維を覆い、信号の力、スピード、正確さを高める絶縁体である。

③特定の回路で信号が多く発せられるほど、ミエリンはその回路を最適化し、私たちの動作や思考はより強く、速く、滑らかになる。

脳科学の基本的な考え方について説明すると、すべての行動は神経線維を伝わる電気信号(インパルス)の結果だ。

基本的に、人間の脳はシナプスで接続された神経という千億もの電線の束である。

人が行動を起こすと、脳が神経線維を通して筋肉に信号を送る。

歌を歌ったり、ゴルフクラブをスイングしたり、文章を読んだりするたびに、頭のなかでそれぞれ異なる回路が、言ってみればクリスマスの電飾のように点灯する。

テニスのバックハンドのような、ごく簡単なスキルでも、無数の神経線維とシナプスから成る回路が関わっている。

脳科学のもうひとつの基本的な考え方は、スキルの回路が強化されるほど、私たちは回路を使っていることに気づかないという点だ。

スキルは自動化され、潜在意識にしまいこまれるようにできている。

この自動性と呼ばれるプロセスは、進化と関わりがある。

また、きわめて説得力のある錯覚を生み出す。

いったんスキルを身につければ、以前から習得していたかのように自然なものに感じるはずだ。

スキルは脳の回路であり、自動的なものであるという二つの考えは矛盾をきたす。

私たちは永遠に巨大で複雑な回路を作りつづけると同時に、作っていることを覚えられないからだ。

そこでミエリンが登場する。

最適化の正確な仕組みは、いまなお謎に包まれているものの、全体像はおそらくダーウィンも喜ぶほどみごとなものだ。

神経の発火がミエリンを形成し、ミエリンがインパルスの速度をコントロールし、インパルスの速度がスキルとなる。

かといってシナプスが何もしないわけではない。

それどころか、神経学者はシナプスの変化がスキル習得の鍵となると強調する。

「信号は適切な速度で伝わり、適切なタイミングで届く必要があり、ミエリン化は脳がその速度をコントロールする手段なのです」と。

要するに、〝練習が技術を向上させる〟ということわざは訂正するべきときが来たということだ。

正確には、練習がミエリンを増やし、ミエリンが技術を向上させる。

そしてミエリンの働きには基本的な法則がある。

第1に、回路の発火が最優先という法則。

ミエリンは、非現実的な望み、曖昧な考え、ぬるま湯のごとくあふれかえる情報ではなく、アクション、つまり神経線維を伝わるインパルスに反応して形成される。

しかも、そのインパルスは何度も繰り返し発生する。

第2に、ミエリンは普遍的という法則。

一種類ですべてのスキルに対応できる。

ミエリン自体はショートの守備に利用されるのか、シューベルトの演奏に利用されるのかは知らない。

その用途にかかわらず、ミエリンは一定のルールに基づいて増える。

つまり実力主義だ。

第3に、ミエリンは覆うのみで、剥がさないという法則。

高速道路を舗装する機械のように、ミエリン化は一方通行だ。

いったんスキルの回路が絶縁されると、元通りにすることはできない。

習慣を断ち切るのが難しいのはそれが理由だ。

第4に、年齢が重要という法則。

子どもの場合、遺伝子情報および活動によってミエリンは次々と形成される。

これは30代になるまで続き、その間、脳はとりわけ新たなスキルを受け入れやすい状態にある。

その後もミエリンは維持されるが、50歳前後で減少に転ずる。

ミエリンの研究は始まったばかりだ。

ある神経学者が言ったように、ほんの数年前までは世界中のミエリン研究者を一軒のレストランに集めることができた。

「ミエリンに関する私たちの知識は、おそらくシナプスの2パーセント程度に過ぎません」と神経学者フィールズは語る。

これからの研究によってどんなことが解明されるのか、楽しみだ。

2020年12月 7日 (月)

縄文文化が日本人の未来を拓く/小林達雄

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 縄文は文明ではない、文化である。縄文は日本列島の風土(和辻哲郎)、場所性=トポフィリア(イーフー・トゥアン)を舞台として繰り広げられた文化なのである。文明は人類が地球上でものした技術的・物質的な所産であり、文化は芸術的・宗教的所産であり、相互に対極にあるのだ。

日本文化は、今も世界的に注目されている。

それは注目する個性を持っているから。

ほかのどの文化にもない特殊で独自のものがある。

それはなぜか。

欧米や大陸の国々の歴史の中にはない歴史を持っているから。

それは縄文時代という、1万年以上にわたる自然と共存共生した歴史。

新石器革命で農耕とともに定住するようになった大陸側の人々は、自然と共生しないで自然を征服しようとしてきた。

人工的なムラの外側には人工的な機能を持つ耕作地(ノラ)があり、ムラの周りの自然は、開墾すべき対象だった。

一方の縄文は、「狩猟、漁労、採集」によって定住を果たしていたため、ムラの周りに自然(ハラ)を温存してきた。

自然の秩序を保ちながら、自然の恵みをそのまま利用するという作戦を実践しつづけてきた。

それが1000年、2000年ではなくて1万年以上続。

日本文化は、縄文で1万年以上経験したものを持っている。

それが今につながっている。

縄文の文化的遺伝子というものを受け継いでいる。

私たちが子どものときに学校で習った「人類は自然を克服しながら、文化を築いてきた」というのは、農耕文化で自然を征服しようとする関係になってからの話。

日本文化の原点には本来そういう考えはない。

その方針に乗りだすのは弥生時代以降。

日本列島で農耕が始まるまでの1万年以上の縄文時代は、そのほかの文明先進国がどこも体験することができなかった自然との共生を体験してきている。

日本的観念、日本的姿勢というのは、もともと他の国とは基盤が違う。

ヨーロッパ的な姿勢とか考え方とか、そういうものとはもともと違う。

本書は、1万年を超える自然との共存共栄を続け日本人の精神のバックボーンとなっている縄文文化に光を当てている。

なぜ日本人は、ほかの外国人と違うかを考えるときに、この縄文人の考え方がしみ込んでいるのではないかと著者はいう。

外国と違うことを否定的に見ている日本人に自信と誇りを与えるものではないだろうか。

2020年12月 6日 (日)

悪いヤツほど出世する/ジェフリー・フェファー

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 したがって、言葉が行動の代用になりがちだという事実をわきまえ、「リーダーシップの専門家」たちの話を鵜呑みにしてはいけない。彼らが実際に経営している企業の実態に注目することだ。離職率が30%にも達するような企業の経営者が人事関連の助言をしたら、疑ってかかる必要がある。実際、リーダーシップ研修を提供している一部のコンサルティング会社は離職率がきわめて高い。

リーダーは謙虚であれ、誠実であれ、そして部下への思いやりを持て。

一般的に優れたリーダーはこのような資質を備えるべきだと思われている。

しかし、現実のデータを分析すると、実は多くの成功しているリーダーはこうした資質を備えていない。

例えばジョブズは成功したリーダーの一人と数えられるだろう。

1980年代前半に当時のアップル・コンピュータは、存続が危うくなるような事態に直面していた。

AppleIIの成功を目の当たりにしたIBMがパーソナル・コンピュータへの参入を決意したのである。

大方の見るところ、アップルの敗退は時間の問題だった。

こうした状況で、アップルは1984年に初代Macintoshを発表する運びとなった。

初代Macintoshの発表は、1984年1月11日、アメリカン・フットボールの頂点を競うスーパーボウルのテレビ中継中に、伝説的な「1984」のCMによって全米に予告された。

その2日後に、株主総会の満員の聴衆の前で華々しくその姿を現す。

専門家も消費者もその魅力の虜になり、Macintoshは大成功を収めた。

ジョブズはあのたぐいまれな能力によって、アップルこそが世界でいちばんクールな会社であり、アップル製品は最もシンプルで美しいのだと、数十年にわたり世界中の人々に信じさせてきたのである。

困難な経済状況の中で会社が存続できるかどうかも、リーダーの能力に拠るところが大きい。

自分の会社はつぶれそうだと考えたら、社員は出ていくだろう。

それも、転職先を容易に見つけられるような優秀な社員がまず出ていってしまう。

そして優秀な人材が枯渇したら、会社の存続可能性はほんとうに危うくなる。

そこで、ウチの会社は大丈夫だと社員に信じさせることが、リーダーの重要な仕事になるわけだ。

成功を信じれば、みながんばって努力するので、ほんとうに成功する。

成功ややりがいを約束して優秀な人材を引き抜くのも、リーダーの手腕の見せ所である。

スティーブ・ジョブズはこの点でも超一流だった。

「君の時間はアップルで使うのが最も建設的だ」と信じさせたのである。

ペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリーを口説くにあたり「色付き水を売り続けるのと世界を変えるのとどちらを選ぶのか」と迫ったというエピソードはあまりに有名だ。

しかもこれはほんの一例に過ぎない。

リーダーは、消費者には自社製品を買う気にさせ、投資家には自社に出資する気にさせ、有能な人材にはこの会社で働きたいと思わせ、サプライヤーにはこの会社と取引したいと思わせなければならない。

創業間もない企業であれば、二番目と三番目はとりわけ重要だ。

そのためには自社のリソースを魅力的に見せ、潜在性を多少誇大に見せなければならない。

そのためジョブズは大ぼらを吹いた。

リーダーシップをめぐる問題点は、根本的には次のような不一致の問題だと言うことができる。

・リーダーの発言と行動の不一致

・リーダーの行動と結果の不一致

・理想の普遍的リーダー像と現実のリーダーとの不一致

・リーダーシップの多元的な性格と人々が求める単純化されたリーダー像との不一致

・リーダーシップの自己評価と現実のデータとの不一致

・多くの人が求めるものと必要なものとの不一致

・組織や職場の改善に必要な行動とその実行との不一致

加えて、リーダーシップ教育産業が掲げる約束と、その教育や影響を受けたリーダーの言動やキャリアも一致していない。

スタンフォード大学ビジネススクールの教授である著者が、巷にはびこる「リーダー論」をウソだと断じているのも頷ける。

2020年12月 5日 (土)

派遣添乗員ヘトヘト日記/梅村達

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 派遣添乗員の報酬は、だいたい日当1万円ほど。現在では、大半の旅行会社は時給計算をしていて、時給自体は高くないが、仕事柄、超時間拘束されるので、そのくらいの金額になる(なお、時間給は派遣会社にもよるが、おおむね長く在籍していればいるほど、上がっていくシステムとなっている)。
 ここに準備、精算、前泊手当て、後泊手当て、車内販売手当てなどのこまごまとした業務給が加算される。

添乗員の仕事は過酷だ。

しかも派遣ともなるとそれに輪がかかる。

一番多い添乗員というのは、どういう人たちなのであろうか?

それは添乗業務を請け負う派遣会社に所属している人たちである。

添乗員の業界というのは、そういう派遣の人たちなしには成り立たない。

派遣としての不安定な立場、添乗中のトラブル、ツアー参加者からのクレーム、旅行会社とのあつれき……そんな日常の中に、時折、喜びや希望も顔をのぞかす。

その悲喜こもごもを現役派遣添乗員の著者が語っている。

団体旅行を遂行するにあたって、旅行会社の担当者は添乗員向けに、スケジュールの進行を記した指示書を作成する。

添乗員は、この指示書にしたがって、ツアーを進めていく。

とはいっても実際の旅行においては、観光バスが渋滞に巻きこまれるなど、アクシデントやトラブルはよくある。

添乗員はそれに対処しながら、臨機応変に仕事をこなしていかなければならない。

添乗員としての仕事を通じて、多くの人に接してきたその経験から、たしかに顔には心の履歴書という一面があるという。

失敗によって、人は学習する。

まず座席割り。

横並びにならない席を割りふる際には、まず顔つきに注意を払う。

表情はその人の内面も映し出す。

クレームをつける人、つけない人は、表情、雰囲気、目つきでほぼ100%見分けられるようになったという。

長年の添乗員生活における危機管理術といえるだろう。

結果、添乗員として仕事を続けている人は、打たれ強い人ばかりであったという。

何しろ春と秋の繁忙期には、毎日のようにツアーがあり、寝ている時間もないほど。

ひとつのクレームにいつまでもクヨクヨしている暇もない。

またある程度の経験を積めば、クレームにも慣れてくる。

この打たれ強さに加え、体力さえあれば、添乗員の基礎はできたと言っても過言ではない。

サービス精神が旺盛でウケのいい人でも、語学堪能で海外ならまかせてくれという人でも、体力がない人にはこの仕事はつとまらない。

旅が好きという理由で、添乗員の世界に飛びこんでくる人はあとをたたない。

しかし、すぐに辞めてしまう人も少なくない。

生き残っている添乗員は、精神的にも肉体的にもたいへんタフな人たちなのである。

旅行を意味する英語のトラベルは、トラブルが語源だという。

しかし、こんな激務をして日当1万円とは。

私にはとてもできないと思った。

2020年12月 4日 (金)

上手な心の守り方/枡野俊明

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 どんな困難に見舞われても、心配事が山ほどあろうとも、「なんとかなるさ」と笑ってしまえばいいのです。そこから現状を打開する道が開けます。

心を守るための方法はただ一つ。

それは、心を「強く」するのではなく、「柔軟に」すること。

「物事にはすべて完全・完璧はない」、いいかえれば「どこまで行っても、その先に努力の世界が開けている」というのが禅の考え方。

努力に終わりがないのだから、常に努力が不足しているのは当たり前。

何かうまくいかないことがあるから「努力不足」なのではなく、うまくいこうがいくまいが、さらに努力する余地がある、ということ。

その観点に立てば、うまくいかないからと自分の努力不足のせいにして、落ち込むことに意味はないと思えるはず。

「不完全の完全」を目指すことこそが尊い。

自己評価は「加点法」でいく。

すでにプラスの能力があるのなら、その伸びでマイナス分はカバーできる。

いや、マイナス部分で努力するよりも、結果的にプラスが大きくなる。

それが自分を好きになることにつながる。

落ち込むことがあったときも同じ。

「落ち込むのはみっともない」などと思わず、とことん落ち込んでいい。

であればこそ、早く立ち直ることができる。

大事なのは、落ち込まないことではなく、落ち込んでもなるべく早く立ち直ること。

過去の成功や名声にとらわれることを戒める「放下着」という禅語がある。

過ぎ去った物事はすべて、すっぱりうち捨てなさい、という教え。

人間の価値は本来、「時価」ではかられるもの。

常に「いまの仕事ぶり、生き方」で輝くことだ。

地位が上がるにつれて行動力が鈍り、現場から遠ざかる人が増えるが、それでは成長がストップするだけ。

プライドを捨ててこそ、自分の器が大きくなる。

仕事というのはすべからく「世のため人のため」にあるもの。

ここさえ見失わなければ、やがて数字はついてくる。

「いま、できることをやろう」と。

悩みというのは、悩み続けるのがよくない。

なんでもいいですから行動してみれば、たいていは解決へと向かう道筋が見つかるもの。

それに実際問題、「心配事の九割は起こらない」もの。

心配するだけ損なのだ。

心配している間中、心のなかはザワザワして、行動力も奪われる。

先のことを考える目的は、心配することではなく、いまの行動を決めること。

「こうなったら大変だから、いまこれをやっておく」「こう物事が動いていくのが望ましいから、いまこれをやっておく」というふうに、とにかく行動すること。

それによって、心から心配や不安を追い出してしまうのが正しい心配の仕方。

大事なことは「~でなければならない」をやめること。

心を柔軟にすること。

これに尽きるのではないだろうか。

2020年12月 3日 (木)

人生逃げ切り戦略/やまもとりゅうけん

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 「人生逃げ切り」は選ばれた人間だけが許される境地ではありません。すでに民主化しています。
 情報発信を通して、誰もが大きなコストをかけずに起業し、売上を無限に伸ばせる。そのためのインフラは、もう整っているのです。
 あとは、やるか、やらないかです。

「人生を逃げ切る」とは、具体的にはどのような状態を指すのか。

著者は「経済的な不安が限りなくゼロに近づいた状態」かつ「面倒な人間関係や誰かに決められた場所・時間に縛られない状態」だという。

今の時代、人に雇われず、かつ人を雇わず、個人の力だけで人生を豊かにしていける時代でもある。

今や、「人生逃げ切り」は民主化した。

一流の芸能人や経営者のような才覚がなくても、いやむしろ、才覚がないからこそ、「凡人」の共感を獲得し、インフルエンサーとして個人の時代を勝ち上がれる。

「凡人」こそが「人生逃げ切り」に最も近い存在と言っても過言ではない。

個人が小資本で取り組める副業も多様化した。

年間何十億円といった売上を立てるのは難しいかもしれないが、それでも「月に数百万円」程度の収入を得ながら、自分と自分の周りの大切な人たちと「逃げ切る」生き方ならば十分に可能だ。

個人で稼ぐ手段は多様化している。

財を得るためには必ずしも「一大事業を立ち上げて軌道に乗せる」必要がなくなり、「人生逃げ切り」のハードルは大きく下がった。

影響力があれば、個人であっても企業以上に効率的に多くの人に価値を届け、大きな利益を上げられる可能性もある。

大事なのは大量にお金が流れ込んできている市場で勝負すること。

そうすれば、スキルも年齢も関係なく、比較的楽にお金を稼げる。

お金が流れ込んできている市場で勝負することこそが、「マーケティング」。

稼げるかどうかは「努力の量」ではなく、「市場の選定」でほぼ決まる。

お金が流れ込んでいる場所で勝負をすれば少ないコスト、少ない努力量でも勝てる。

「ラクして稼ぐこと」こそマーケティングの本質。

どの市場を選び勝負するか、「人生逃げ切り」のポイントはここに尽きるということであろう。

2020年12月 2日 (水)

本気で使える経営計画の立て方・見直し方/岡本吏郎

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 問題が発生しないようひたすら期待していても、どんどん空気は抜けていきます。経営でも同じです。問題が発生しないようひたすら期待し、同じことを続けていても空気は抜けていきます。ですから、「投企」が必要です。行動を企て、それを投げつけてやるのです。

経営は、連鎖反応の累積だ。

人生同様に一つの行動は繰り返され強化されていく。

繰り返され強化されるのだから、慎重さが必要なのは言うまでもない。

できるならば、すべての活動を意図的にすべきなのだ。

だから、経営計画が必要。

経営計画の目的は、「正の連鎖反応を作り出すこと」。

計画が〈絵に描いた餅〉になりやすいのは、売上増加ばかりにフォーカスすることでマイナスの面が漠然としか見られないこと。

そして、計画実行のために〈必要条件〉の確認ができていないことにある。

そのために条件を揃えないまま遮二無二に突っ走ってしまうことになる。

経営とは、金繰りと人繰り。

仕事のための金を用意し帳尻を合わせる。

そして、人を動かす。

すべてのシーンで、この二つが機能していないと静かに少しずつ組織はボロボロになっていく。

そして、この経営における根幹の二つは、意外にも簡単に機能しなくなる。

経営計画を作るにあたって最も重要で時間をかけなくてはならないのは《現状把握》。

この最初の作業がいい加減になってしまえば、経営計画自体が意味のないものになってしまう。

しかし、中小企業が経営計画を策定するにあたって、《現状把握》が十分にされているということは、ほとんどない。

また、中小企業だけではなく大企業、官公庁などでも同様のケースが多い。

作業は次の三つの手順で進める。

(1)〈気になること〉を抽出する

(2)今年調子の良かった事業が半分になると仮定してみる

(3)(1)(2)をそのままにしておいたら何が起こるか予想する


《現状把握》で最初にやることは、〈気になること〉の抽出。

〈気になること〉は時間をかけて丁寧に出していく。

何となくレベルのこと、私生活レベルも含めて、〈気になること〉を徹底的に出していく。

この作業は、「見たくない現実」を見る手はじめとして行う作業。

はっきり言って、これだけでもいい。

それくらいパワーのある作業だ。

ドラッカーも次のように言っている。

「問題を見つけて明らかにする段階では、いくら時間をかけすぎてもかけすぎることはない」

「問題が何であるかを迅速に決定させることほど愚かで、結局はムダになる助言はない」

確かに経営計画立案にあたって《現状把握》がおろそかにされているのは事実だと思う。

2020年12月 1日 (火)

「ゴール仮説」から始める問題解決アプローチ/佐渡誠

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 私の経験からすると、問題解決の早期段階で「ゴール仮説」を作れるかどうかが、何にも増して問題解決の効果・効率を左右すると断言できる。

難しい局面に直面した時、「人をたくさん集める」「考える時間をたくさん使う」という解決策は、安易にリソースを過剰投資してしまう流れを作り、生産性向上には直結しない。

では何をすべきか。

与えられた時間を「制約要素」として捉え、その時間で生み出せる付加価値を高めるように、チームをリードすること。

つまり、時間当たり成果物を最大化するのである。

本書のタイトル「ゴール仮説」から始める問題解決アプローチとは、いかなる問題に対してもまずはゴールの初期的な仮説の立案からスタートし、そこから検証すべきテーマを辿りながら最適解を導いていくというアプローチを指す。

問いに直面した際、

「私はこの問いに対する結論はこうだと思うな」とか、

解決手段を求められているなら

「私ならこういう手段が解決策だと思うな」

「きっとその問題に対してはこういう方策が効くはずだな」

というように、ゴールイメージを早々に持つ。

この際、とにかく情報を広く集めて分析していけば解決策が見えてくるはずだという発想は捨てるべき。

「ゴール仮説」を的外れにしないためには、作業の前段において「真に答えるべき問題=問い」がずれていないかを徹底的にチェックする基本動作も怠ってはならない。

新規性があり、実現可能性も十分に備えているという筋のよいゴール仮説になっているかどうかを常に意識して自身に問い続ける姿勢が大切になる。

仮説とはその後検証して確からしさを明らかにしていくべきものを指す。

検証の仕方も描けない仮説は、単なるアイデアか勝手な思い込みとして片づけられる。

問題解決の早期段階で、筋のよい「ゴール仮説」を作れるかどうかが、何にも増して問題解決の効果・効率を左右する。

チーム個々バラバラに手探りでゴールを探すのではなく、

•最終的にどういう姿に持っていきたいのか

•どの程度のスピードとインパクトのある変革を狙うのか

•具体的にどういう姿になるか

といったゴールの姿をうっすらなりにも思い描く。

それによって、メンバー全員のベクトルを合わせ、当初から全員の進むべき方向性、一人一人の作業の目的や意図をクリアにしながら仕事を進めることにより「考える時間」のロスを極小化できる。

スピードが何よりも重視される昨今、「ゴール仮説」は一つの手法として身に付けるべきだろう。 

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