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2020年12月27日 (日)

結婚滅亡/荒川和久

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 2040年、人口の5割が独身(=ソロ社会)という時代がやってきます。
 この5割の独身とは、未婚だけで作られるのではありません。未婚と離別死別による独身者の合計です。つまり、「結婚が作られず」「結婚が壊される」ことによって生まれる独身5割の国、それが20年後の日本なのです。


本書では、「結婚が作られず」「結婚が壊される」という構造上の問題とは何か、大きな視点や違った角度からとらえ直している。

厚生労働省が2019年6月に発表した人口動態統計によれば、2018年の婚姻数は、年間58万6438組(前年比2万428組減)で、戦後はじめて60万組を切る最少記録となり、人口千対婚姻率は4・7と、こちらも1899年の統計開始以降過去最低記録を更新した。

日本は世界に冠たる超高齢国家だが、それ以上に今後は多死国家になる。

間もなく2025年から約50年連続で、年間150万人死んでいく計算になる。

これは、太平洋戦争時の年間死亡数に匹敵する。

近代日本の婚姻制度を成立させたのは、1898年に施行された明治民法だ。

明治民法が制定されるまでの日本人庶民の結婚とは、限りなくお互いが精神的にも経済的にも自立したうえでの、パートナー的な経済共同体という形に近かった。

別の見方をすれば自由でもあり、夫婦の関係は対等だった。

だからこそ、江戸時代は離婚も再婚も多かった。

日本は元々離婚大国だった。

江戸時代から明治の初期にかけては、特殊離婚率は4割近く、普通離婚率も1883年時点で3・4もあった。

江戸時代には4.8を記録した村もあり、現代の感覚で見れば日本は離婚大国だったといえる。

1960年代の半ばに、お見合い結婚より恋愛結婚比率が上回った。

以降、お見合い結婚は衰退し、現代ではほぼ9割が恋愛結婚となっている。

が、この恋愛結婚比率上昇のカーブと離婚率はほぼ正の相関でリンクしている。

お見合い結婚から恋愛結婚へと比率が逆転したことで、副作用的に増えたのが離婚の増大だ。

お見合い結婚で皆婚していた時代より、恋愛結婚時代の方が離婚率が増えているということはまぎれもない事実。

逆にいえば、お見合いというお膳立て婚の仕組みは、婚姻を促進するだけではなく、離婚を抑制していたという見方もできる。

「結婚保護」という視点で見ると、明治民法のシステムは実によくできていた。

「吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果、不自由を感じて困っている」とは夏目漱石の言葉。

現代、恋愛や結婚に対して、社会的な制約は何もない自由であるにもかかわらず未婚化が進むのは、むしろ自由であるがゆえの不自由さの表出ともいえるかもしれない。

現在50代半ばから60代前半の初老世代こそが、今の日本のソロ社会化の第一歩を歩きはじめたといっても過言ではない。

未婚化は、経済構造上、社会構造上の問題の表面化であるとともに、人間の関係性の構造上の問題でもある。

そうした構造上の問題を無視して、一括りに個人の価値観や意識の問題と論点をすり替えてしまうことは、本質を見誤ることになる。

恋愛できる男女というものは、いつの時代も大体3割くらいしかいないということが統計的に明らかになっている。

離別女性がこれだけ増えるのは単に離婚が多いからだけではなく、離別したバツ有男性の再婚率が高く、しかも初婚女性と再婚するパターンが多いから。

ただでさえ少ない未婚女性を離婚男性がどんどん刈り取ってしまう。

恋愛力の高い3割の恋愛強者男性が結婚と離婚を繰り返す「時間差一夫多妻制」の裏で、未婚男性は生涯結婚できなくなる。

2018年内閣府の実施した「少子化社会対策に関する意識調査」によれば、女性が希望する相手の理想の年収は、500~700万円が32・8%ともっとも多く、全体の72%が400万円以上を希望している。

実際の未婚20~34歳の未婚男性の年収分布は、逆に400万未満で81%を占める。

つまり400万以上の年収のある未婚男性はたったの19%しか存在しないということ。

差し引き、53%の婚活女性は余ることになる。

もはや日本は「結婚できない」し、「結婚しても継続できない」という、マッチング不全を起こしている。

まさに、結婚の断末魔の状態から、「オワ婚」時代へ突入しつつあるといえる。

ようするに、マッチング不全を起こしているのだ。

全員が結婚した時代が日本のスタンダードだったわけではない。

むしろ、長い日本の婚姻の歴史からみれば、皆婚していた事実自体が異常だった。

江戸町民の未婚率も50%くらいあった。

日本人は「なんでもかんでもみんなと一緒がいい」のではなく、「みんなと一緒ならリスクがない」かどうかを判断し、そうであれば一緒にするし、「みんなと違う方がメリットがある」と考えれば違うものにするという、あくまで個人もしくは自分の群れ単位の損得判断が根底にある。

個人の損得で選択することが、実は集団利益を生むというのが日本人的個人主義であり、それが「お互い様」の精神にもつながっていく。

個人の得を考えると自然と相手の得を考えざるをえなくなり、相手だけではなくそれこそ世間の評判も気にしないといけなくなる。

「フォーカシング・イリュージョン」という言葉がある。

これは、ノーベル経済学賞の受賞者であり、行動経済学の祖と言われる米国の心理学・行動経済学者ダニエル・カーネマンが提唱した言葉。

「いい学校に入ればしあわせになれるはず」「いい会社に入ればしあわせになれるはず」「結婚すればしあわせになれるはず」というように、ある特定の状態に自分が幸福になれるかどうかの、分岐点があると信じ込んでしまう人間の偏向性を指す。

簡単にいえば、「思い込みから生じる幻想」ということ。

しかし、1人でいるという状態は、孤独であっても寂しいものではない。

寂しさは状態で感じるものではなく、心の中が空虚だから感じるもの。

出生動向基本調査によれば、「1人でも寂しくない」という未婚者の率は年々増加して、18~34歳の男性ではもう5割に達しようとしている。

女性もほぼ4割だ。

1人であることを楽しむためには、誰かと一緒の時間がないとできない。

1人の部屋に帰ってほっとできるというのは、それまで会社や外で誰かと一緒に仕事したりしていたからそう思える。

ずっと一日中1人で過ごしていたら、1人の価値を感じられない。

誰かとのつながりなしに人は生きられない。

でも、誰かといつも一緒である必要はない。

女性が結婚しないのは、結婚をすると「不自由になり」「友人や家族や職場との関係がなくなる」というおそれがあるからと解釈できる。

そのうえで、結婚に対しては「家族という新しい社会を手に入れることができ」「経済的余裕が生まれる」ことを期待する。

逆に、男性が結婚しないのは、「自分のためにお金を使いたい」から。

結婚に感じられるメリットは、もはやほとんどないといっても過言ではない。

未婚のままでも、いまや社会的信用を失うわけでもなく、結婚したからといって、生活上の利便性も大して変わらない。

家事も買い物も自分でできる。

「自分のために金を使える自由」を捨ててまで、結婚をする必要を感じられないのだ。

男は、月3万円台の小遣い制なんて真っ平御免なわけだ。

すなわち、結婚をするうえで女性は相手の収入や経済的安定は絶対に譲れないし、男性もまた結婚による自分への経済的圧迫を極度に嫌う。

簡単にいえば、女性が「結婚するのは金のため」であり、男性が「結婚しないのも金のため」ということ。

結婚に対する意識では、男も女もしょせん「お金」なのだが、その意識は相反する。

血のつながりがなければ家族になれないわけじゃない。

共住しなければ家族になれないわけじゃない。

結婚して子どもを産んだ者だけが子育てをするわけじゃない。

それが著者の提唱する「接続するコミュニティ」の概念だ。

社会学者ジグムント・バウマンは、かつての安定した社会をソリッド社会と呼び、現代社会をリキッド社会と表現した。

地域や職場や家族という強く固いコミュニティの中に、1つの分子や部品として組み込まれ、互いに結びついて、結晶体のような強さによって安心を得ていたのがソリッド社会。

しかし、それまで安心を担保してくれた外壁が失われると、個人は不安定な液体の中に投げ出されてしまう。

大型船が沈没してしまったときと同じ。

ソリッド社会では、確かに不自由な面はある。

行動も一定の枠内という制限がある。

そのかわり、進むべき安全な道が提示されていて、社会が守ってくれる。

リキッド社会では正反対だ。

人々は自分の裁量で動き回れる自由を得た反面、常にその選択に対して自己責任を負うことになる。

それは、個人による競争社会を招き、それに伴う格差社会を生みやすくする。

これがもうすでに到来している「個人化する社会」の姿だ。

平成年間に起きた非婚化や離婚の増加は、まさにそういう「選択の自由を個人に付与した」結果だといえる。

これからの時代、「所属するコミュニティ」だけに依存するのではなく、「接続するコミュニティ」に目を向けることが肝要だ。

これからは、これまでのどの時代よりも、人が「弱い紐帯」をたくさん持つ必要がでてくる。

その中で、常に複数のコミュニティに接続しながら、新しい刺激を得て、自分をアップデートする動き方が主流になるだろう。

自分をアップデートするとは、自分を変えるということではなく、付け加えることだ。

これこそが自分の中の多様性を生みだすということ。

「ソロで生きる力」とは、無人島でたった1人で生き抜くサバイバル能力のことではない。

逆説的だが、「ソロで生きる力」とは「人とつながる力」なのだ。

無理に友人や趣味を作ろうとしたり、どこかの集団に所属しようとするのではなく、日々の生活の中で多くの「人とのつながり」を作り、その人とのつながりによって「自分の中の新しい自分」をたくさん生み出すこと。

それこそが、自分の内面を充実化させるということになる。

善意だろうが、悪意だろうが、人と人の関わりとは傷を付けあう可能性があるということ。

では、人とのつながりなんてない方がいいのか?

むしろ逆。

傷付くからこそ、気付くことができる。

本を読んだり、誰かの話を聞いて響いた言葉に出会ったときも、心がチクリとしたはず。

傷が付かなきゃ印象に残らないからだ。

そして、傷が付けば、人間はそれを治癒しようとする力が無意識に作用する。

再生しようとする。

傷が付く前より、強くなろうとする。

傷ついたからこそ、強くなる。

人のつながりの重要なところはまさにそこなのだ。

生きるとは誰かとの関わりの中で、「傷を付けられては再生する」の繰り返し。

傷は互いに関わった証だし、互いに傷の痛みを知るからこそ、相手の事も思いやれるようになるし、心が通うようになる。

「個人化する社会」を予見した社会学者バウマンはこういう。

「(私たちは)個人レベルでも相対する人間に応じて、カメレオンのように変わり続けなければならない」。

これは、決して、仮面やキャラを演じるということではない。

私たちは、すべて人との関係性の中で生きている。

周囲の対人関係に応じて、無意識に、そして、臨機応変に「出す自分」を変えているはずなのだ。

誰かとの関係性に応じて表面に出てくる自分は違って当然だし、それを「偽りの自分」であると断じる必要はない。

そして、もっと大事なことは、人は誰かとつながることで、無意識に「その人によって生まれた新しい自分」を生み出しているってこと。

たくさんの人とつながれば、それだけ多くの新しい自分が自分の中に芽生える。

それを著者は「自分の中の多様性」といっている。

もちろん、いろんな人たちとの関係性の中から生まれる、複数の自分もすべて「本当の自分」。

いわば、「一人十色」

夫婦だけじゃない、恋人だけじゃない、友人だけじゃない。

結婚していなくても、子がなくても、ソロ活していても、私は1人じゃない。

誰もが誰かに何かを与えている。

誰もが誰かにとって、かけがえのない大事な「接続するコミュニティ」の1つとなる。

「接続するコミュニティ」は、自分の中に新しい自分を生み出してくれる。

自分の中の多様性は、自己の社会的役割の多重化と充実化につながる。

自分が充実すれば、それは、周りにも波及していく。

それこそが、「為し合わせ」る「しあわせ」の構造

結局、結婚は滅亡するのだろうか?

確かに、現代においては、今までの結婚制度をそのまま継続することは困難だろう。

しかし、だからといって、現在の結婚がすべてなくなってしまうことはない。

今まで続いてきた結婚は、明治から戦前までは個人にとって不自由や制限も多かった。

途中何度も戦争があり、大きな災害があり、病気によって多くの親が子を失った。

戦後、お見合いから恋愛結婚の移行の際にも、離婚の増加という問題も生んだ。

それでも、結婚をし、夫婦となり、子を産み育て、家族としての人々の暮らしは続いている。

家族はどんどん人数が減り、今では「夫婦と子」という最小単位になってしったが、この親密で強い結びつきの家族コミュニティは決して消えてなくなることはない。

結婚しようとしていまいと、子があろうとなかろうと、誰かと一緒に住んでいようといまいと、一人ひとりが誰かにとっての接続する点となり、誰もが「社会の中での新しいつながり」を生み出すハブとなれる。

そんな「接続するコミュニティ」が、社会にとって人と人をつなげる新しい機能となっていく。

人口は減っても働き手は増える社会。

支えられる高齢者以上に支える高齢者が増える社会。

結婚してもしなくても、子があってもなくても、自分が働けば、自分だけじゃなく、誰かもう1人を支えられると皆が信じられる社会。

自分のために働いたり消費したりすれば、結果として誰かのために役立つ循環性のある社会。

未来への悲観論ばかりが幅を利かせる日本において、こんな理想を描くことも大切なことではないだろうか。

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