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2021年1月の28件の記事

2021年1月31日 (日)

オンラインでの「伝え方」/矢野香

Photo_20210124082701  大半の方は、オンラインでの「伝え方」がしっかりとできていません。
 その原因は、ただ一つ。
 今までと同じ伝え方をしているから。これに尽きます。


コロナをきっかけに、人と人とのコミュニケーションが、直接会う「リアル」から「オンライン」に急激にシフトしている。

これまで、顔を突き合わせリアルで行っていたミーティングや会議、講演やセミナー等が、オンラインで行われるようになった。

一緒に仕事をするメンバーや取引先、お客さまはもちろん、初対面の方ともオンラインでコミュニケーションを取ることが当たり前になった。

これからは、リアルで良しとされていた伝え方は、オンラインでは通用しなくなる。

たとえば、

・相づちを打ちながら相手の話を聞く

・相手の反応をみながら、興味や理解に合わせて話を変える

・質問しながら会話を広げる

・ジェスチャーが多い

・阿吽の呼吸で仲良くなる

このように、お互いに相手と作り上げる伝え方は、オンラインにはふさわしくない。

オンラインのコツ、それは具体的には、

・短く簡潔に話す

・論理的にわかりやすく話す

・カメラ目線で話す

・画面サイズに合ったジェスチャーをする

・声の高低差で相手を引きつける

・相手を飽きさせない

・疲れさせない

・表情以外で相手の興味や理解を読み取る

・相手の話を邪魔せずに聞く

・タイミングよく発言する

ある心理学の研究では、オンラインにおいて「相手の顔が見えないほうが情報が正確に伝わる」ことが報告されている。

これからは、「情報」を共有したいならオンライン。

「感情」を共有したいならリアル。

というように共有したい内容によって使い分けるケースが増えそうだ。

オンラインで話すときに、まず押さえておきたいのが次の「3つの原則」。

①オンラインでは「声より、アクションが先」

②オンラインでは「自分を見ない」

③オンラインでは「台形バスト・ショット」

オンラインでの目線で大事なことは、

①自分を見ない

②強調するときはレンズを見る

③たまには外す

という3つ。

オンラインで自分が映るサイズは「台形バスト・ショット」が正解。

「台形バスト・ショット」は、次の手順で簡単に作れる。

①机の上に手を置き、肘を張る

②画面枠の上は、頭の上にスペースを少し入れる

③画面枠の下は、肘のあたりに合わせ身体を台形にする

日本人は、いわゆる「ハイコンテクスト」と呼ばれるコミュニケーション方法をとる。

共通の認識や価値観が多いため、言葉にして伝えなくてもお互いに察しあうことでなんとなく通じるという文化。

そのため直接的表現よりも、あいまいな表現を好む。

しかし、オンラインでの伝え方は、この逆の「ローコンテクスト」。

特にオンラインとリアルでは伝え方が全く違うという点はしっかりと認識すべきだろう。

2021年1月30日 (土)

高校生のための経済学入門/小塩隆士

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 日本語の「経済」という言葉は、「経世済民」から来ています。これは、「世の中を治め、人々を苦しみから救う」という意味です。経済学は、政策と直結した学問なのです。

本書では高校生にもわかるように、ポイントをきちんと抑えながら、経済学の基本的な考え方を解説している。

経済学は、世の中を少しでもよくするにはどうすればよいか、人々が生活に困らないようにする方法はないか、という問題意識をつねに持っている学問である。

経済学で市場メカニズムという言葉がある。

本書はそれを次のように説明する。

市場メカニズムの特徴を、経済学の祖といわれるアダム・スミスはその大著『国富論』の中で、「見えざる手」が働いていると表現した。

市場は万能ではない。

しかし、私たちが自分自身の利益を追求することで、社会全体の利益に貢献できるという結論は、極めて強いインパクトを持っている。

市場メカニズムの欠点はいくらでも指摘できるが、それでも市場メカニズムの偉大さを無視することはできない。

その点で、社会主義経済が軒並み崩壊したことは重要な意味を持っている。

社会主義経済は、市場メカニズムが生み出したさまざまな問題を解決しようとして、人為的に生み出された経済体制。

そこでは、市場メカニズムというはなはだ分権的な資源配分の仕組みを、官僚組織による極めて中央集権的な資源配分の仕組みに置き換えるという試みが行われた。

しかし、社会主義経済の歴史は、その試みがすべて失敗に終わったことを示している。

経済の仕組みはあまりに複雑。

人間がすべてを把握することはできない。

どれだけ頭のよいエリートたちが集まっても、市場メカニズム以上にうまく資源を配分することは不可能。

社会主義は、人間の能力や理性に対してあまりに楽観的だった。

市場メカニズムは、限られた資源を最も効率的に配分するきわめて優れた仕組み。

そして、市場メカニズムが十分機能していれば、人々は社会における生産活動に貢献した分だけを報酬として受け取ることができる。

これはなかなか公正なルール。

性別や国籍、出身地、親の職業などに関係なく、みんなが共通の土俵の上で平等に勝負できる社会は、「機会の平等」が維持されている社会といえる。

市場メカニズムが基盤になっている社会は、この「機会の平等」が成り立ちやすい社会といえる。

そして、社会に貢献した分だけ報酬が得られるという約束を功績原理という。

この原理があるからこそ人々は一所懸命働こうとするわけだ。

経済には市場メカニズムというものがあって、価格が需要と供給をバランスさせ、限られた資源を有効に配分することができる。

しかし、市場は万能ではなく、政府の役割が必要になる場面がある。

政府には、①市場メカニズムをうまく機能させること、②市場メカニズムではうまく処理できない問題を解決すること、という二つの役割を果たすことが期待される。

と、このようにまとめている。

経済学というと難しいという先入観がある。

しかし、日常と結びつけることによって経済学を身近なものとすることができるのではないだろうか。

2021年1月29日 (金)

複利で伸びる1つの習慣/ジェームズ・クリアー、牛原眞弓

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 大きなことはすべて小さなことから始まる。あらゆる習慣の種は、たったひとつの小さな決断だ。だがその決断が繰りかえされると、習慣は芽を出して力強く成長する。根をはり、枝を伸ばしていく。悪い習慣を断つことは、自分のなかにある頑丈なオークの木を引き抜くようなものだ。そして良い習慣を身につけることは、デリケートな花を一日一日着実に育てていくようなものである。

著者が提案する枠組みは、認知科学と行動科学の統合モデルである。

これは、外からの刺激と心のなかの感情が習慣に与える影響を正しく説明する、人間行動についての初めてのモデル。

もし毎日1パーセントよくなったら、1年後には37倍よくなる。

逆に、毎日一パーセント悪くなったら、1年後にはゼロ近くになってしまう。

小さな勝利もささやかな敗北も、積み重なればはるかに大きなものになる。

習慣とは、自己改善が複利の利子を生んでいくようなものである。

投資した金が複利で増えるように、習慣の効果も繰りかえすことで大きくなっていく。

一日ではほとんど違いがないように見えても、数カ月や数年をかけてもたらされる影響は計りしれない。

2年、5年、あるいは10年後に振りかえってはじめて、良い習慣による利益と悪い習慣による損失がはっきりと目に見えてくる。

結果とは、習慣の影響をあとから測る遅行指数のようなものだ。

結果は設定した目標とはほとんど関係なく、取り入れた仕組みに左右される。

仕組みと目標の違いはなんだろう?

目標は達成したい結果であり、仕組みはその結果へと導くプロセスだ。

より良い結果を得たいなら、目標の設定は忘れよう。

かわりに仕組みに集中しよう。

目標には方向を定める効果がある。

だが、仕組みは進歩するのに最適である。

目標について考えるのに時間を費やしすぎて、仕組みを考える時間がないと、いくつかの問題が生じる。

目標設定の目的はゲームに勝つことだ。

一方、仕組みを作る目的はゲームをしつづけることである。

本当に長続きする考え方は、目標を抜きにした考え方だ。

それは何かひとつの達成だけを目指すものではない。

終わりのない改善と継続的な向上のサイクルについて考えることだ。

突きつめれば、私たちの進歩を決めるのは、プロセスにしっかり取り組むかどうかである。

目標ばかり追っていてはいけない。

仕組みから取りかかろう。

多くの人は、何を達成したいかを意識して習慣を変えようとする。

これは結果ベースの習慣になりやすい。

別の方法は、アイデンティティーベースの習慣を身につけることだ。

この方法では、どのような人になりたいかに意識を向けて変化に着手する。

本質的なやる気が最高の形で表れるのは、習慣がアイデンティティーの一部になるときだ。

自分は「これが欲しいタイプの人だ」というのと、「このようなタイプの人だ」というのでは、意味がまったくちがう。

本当の行動変化は、アイデンティティーの変化である。

やる気があれば習慣を始められるかもしれないが、その習慣を続けられるのは、自分のアイデンティティーの一部になったときだけである。

行動を繰りかえせば繰りかえすほど、その行動に関係するアイデンティティーが強められていく。

じつは、「アイデンティティー」という言葉は、もともとラテン語で「存在」という意味の「エッセンティータス」と、「繰りかえし」という意味の「イーデンティーディム」を語源としている。

つまり、アイデンティティーとは、文字どおり「繰りかえす存在」のことである。

問題に直面するたびに、脳は解決のプロセスを自動化しはじめる。

習慣とは、つねに出くわす問題やストレスを解決するための、自動的な一連の解決法である。

行動科学者のジェイソン・リアはこう書いている。

「習慣とは、簡単にいえば、自分の周囲で繰りかえす問題への、信頼できる解決法である」

習慣が作られると、脳の活動レベルは下がっていく。

成功をもたらすきっかけを確定し、他のものはすべて無視するようになる。

同じ状況がこれから先に起こっても、何を探せばいいかよく知っている。

もう、状況をあらゆる角度から分析しなくていい。

脳は試行錯誤のプロセスを飛ばして、心のなかでルールを作る――こうすれば、こうなる、というように。このような経験的知識によるシナリオが、ふさわしい状況になるといつも自動的に用いられる。

習慣は、経験から学んだ心のショートカットである。

ある意味で、習慣とは問題解決のため過去に採用したステップの記憶にすぎない。

条件が合うたびに、この記憶を利用して、自動的に同じ解決法を当てはめる。

脳が過去を記憶する主な理由は、未来に何が役立つかをうまく予測するためだ。

習慣は自由を制限しない。

自由を作りだしている。それどころか、習慣をうまく活かせない人の多くは、自由がほとんどない。

人間の脳は予測マシンだ。

絶えず周囲の状況を観察し、見つけた情報を分析している。

何かを繰りかえし経験するたびに、たとえば救急救命士が心臓発作の患者の顔を見たり、軍事アナリストがレーダースクリーンでミサイルを見たりするたびに、脳は何が重要かに気づき、それぞれを分類し、関係するきっかけに注目し、今後のためにその情報をリストアップする。

十分に練習することで、意識して考えることなく、ある結果を予測させるきっかけを捉えられるようになる。

脳は経験を通して学んだ教訓を、自動的に符号化する。

何を学んでいるのか説明できなくても、学習はずっと行われている。

そして、特定の状況に関係するきっかけに気づく能力が、ひとつひとつの習慣の基礎となる。

自分の脳と身体がどれほど多くのことを考えずに行えるか、わたしたちは過小評価しがちだ。

髪に伸びろとは言わないし、心臓に動けとか、肺に息をしろとか、胃に消化しろとは言わない。

それでも、身体は自動的にこれらすべてを、いや、もっと多くのことを行っている。あなたは自覚している以上の存在だといえる。

習慣変化の究極の目標は、単に一パーセントの改善ではなく、何千もの改善である。

それは最小習慣を積み上げた山であり、それぞれが仕組み全体の基本単位となる。

はじめのうちは、小さな改善など無意味に見えるかもしれない。

仕組みの重さでかき消されてしまうからだ。

一枚の硬貨で裕福になれないように、一分の瞑想や毎日一ページの読書のようなわずかひとつの良い変化が、目立った違いをもたらすとは思えない。

ところが、小さな変化を積み上げていくと、しだいに人生の天秤が動きはじめる。

ひとつひとつの改善は、ひと粒の砂を天秤のプラスのほうへ加えていって、物事を自分の有利なほうへ傾けていくようなものだ。

もし続けていけば、ついには転換点を迎える。

すると突然、良い習慣を続けるのが楽になる。

仕組みの重みが不利にではなく、有利に働くからだ。

成功は到達すべき目標でも、ゴールラインでもない。改善の仕組みであり、果てしなく改良しつづけるプロセスである。

いつまでも成果を得つづける秘訣は、改善するのをやめないことだ。

やめないだけで、驚くほどのものを築くことができる。

良い習慣をつけることがいかに大事かを本書は教えてくれる。

そして成功者とはそのよい習慣をつけた人だともいえる。

2021年1月28日 (木)

なぜあの人の解決策はいつもうまくいくのか?/枝廣淳子、小田理一郎

Photo_20210121080601  私たちはよく『副作用』というものを社会の現実のように受けとめます。しかし、現実は、『副作用』があるのではなく、『作用』があるだけです。私たちが行動を起こすと、さまざまな作用が生じます。予測される作用や役に立つ作用を、主たる作用、意図する作用と呼びます。予測していなかった作用や、自分たちのねらいを弱めたり、システムそのものに悪影響を与える作用を、『副作用』と呼んでいるだけなのです。『副作用』とは、私たちのシステムに関する理解の限界や欠陥を表しているにすぎません」。

システム思考のアプローチは、「問題を単発の出来事として考えずに、パターンとしてとらえ、そのパターンを生み出している構造を理解することで、構造に働きかける」というもの。

そのためには「これまでの視野を広げること」が必要。

アインシュタインは「問題をつくり出したのと同じレベルの思考では、その問題を解決することはできない」といっている。

つまり、同じ問題状況を同じ見方で考えていては、現行の延長線上の改善しか出てこない。

複雑で多元的・多層的な現実や状況に対して、「ある見方」だけをしていては、その全体像をとらえ、本質的な対応や変化を創り出すことはできない。

「これまでとは違う見方」で見る力をつけることによってのみ、それまで気づかなかった物事のつながりや構造的な原因がわかり、ブレークスルーを起こすことができる。

システム思考はこのような「新しい視点」を提供してくれる。

私たちは、問題に直面すると、その問題自体をつついたり押したりしがちだが、システム思考を用いることで、一歩引いて全体像を見ることができ、さまざまな気づきが生まれる。

また、一見問題からは遠いと思えるかもしれないが、小さな力でシステムを大きく動かせる有効なポイントを見抜く力も付いてくる。

システム思考の第一人者であるMITのジョン・スターマン教授は、著書『ビジネス・ダイナミクス』で、次のように述べている。

「システム思考は、目の前にあるできごとを単体でとらえるのではなくて、その奥にある時系列パターンや構造、そしてその前提となっている意識や無意識の考え方や価値観を見て、もっとも効果的な働きかけをしようというアプローチです。」

あらゆるシステムに見られる「システムの特徴」を理解することで、そうでなければ「思いもよらなかった」変化を、必然のものとして予想し、先手を打って対応することができるようになる。

システム思考は、「ちょっと待てよ」といってくれるアプローチ。

目の前の問題や解決策に飛びつくのではなく、「ちょっと待てよ。いま見えていないものも含め、全体の構造はどうなっているのだろう?」「ちょっと待てよ。これをやると、こちらの想定している以外の影響が出てくる可能性はないだろうか?」

そんなことをシステマティックに考えさせてくれるアプローチ。

確かに良かれと思って実行した解決策がかえって問題を深刻化させてしまうということはよくある。

そのためのシステム思考なのだろう。

2021年1月27日 (水)

無理しないほうが愛される/加藤諦三

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 人間というのは、無理をしないで素直な気持ちでいると、その人が気がついていない「その人のよさ」が自然と表われる。無理をするから、その人のよさがかえってなくなってしまう。つらい思いをしながら、かえって自分のよさをなくしているのである。

無理しないほうが愛されるのに、愛されようと無理をする。

無理をしてつらい思いをして、かえって好かれない結果に終わる。

無理のない生き方とは、決して焦らない生き方である。

決して虚勢を張らない生き方である。

自分のいまを信じる生き方である。

悪いことをイメージしないことである。

一日を大事に送ることである。

デヴィッド・シーベリーというアメリカの心理学者の本の中にこんな言葉がある。

「私は私であらねばならない。私はこれ以上あなたのために自分を消耗させない。もしあなたがあるがままの私を愛せるなら、私はもっと幸せになるだろう」

自立して、一人で生きるということは、自分一人でエネルギーを出すこと。

一人で生きるということは、どうしたら毎日楽しく生きられるかを考えること。

自分一人で生きられるから、他人に迎合する必要がない。

自立性とは、一人でも楽しく生きられること。

自立とは、自分を信じること。

独立とは、一人で立ち上がること。

人は信念があるから生きていける。

無理をするとは、自分でない自分を、他人や自分に見せながら生きていることである。

無理している人は、自分自身である決意をしていない人である。

自分自身で生きることを決意していないなら、「あなたの期待に添うようにエネルギーを使うことでもう消耗したくない」と思っても、消耗する。

アメリカの心理学者フレデリック・ハーズバーグという人は、「人の幸福は、大きな楽しみの問題というよりむしろ、ささやかなものの問題かも知れない」と述べている。

ささやかなことの積み重ねの中で真の幸せは来る。

今日をきちんと生きているものに未来がある。

「自分が弱い」と認められることが本当に強いこと。

その意味は、弱いと認めるということが、「人と自分とは違う」ということを認めることにつながるからである。

自分が弱いと認められることは「私は私」と感じることである。

「あの人のようにならなくてもいい」と感じるのは、自分の優れたところを意識することを通してではない。

自分の弱いところを認めることを通して「あの人のようにならなくてもいい」と感じるのである。

人が自分をどう見ているかが気になるのは自分がないからである。

自分がないとは、日常の生活の中に楽しみを感じる能力がないということである。 

世界に対する興味と関心で動いている人は、それほど自分の弱点にこだわらない。

自分を取り巻く世界に対する興味と関心で動いている人、それはまさに無理をしていない人。

無理している人の特徴の一つ。

それは「必死で何かを隠そうとしていること」である。

病気なのに、人に健康そうに見せている。

お金がないのに、人にお金があるように見せている。

英語が話せないのに、話せるように見せている。

無理をしている人は、このぼろに気づかれなければ、と思うからつらい。

無理をしている人は、毎日がストレスである。

首と肩に力が入っている。

人によく思われるかどうかは結果である。

それを目的にして生きてはいけない。

ところが神経症者は、結果として得られるものを目的にして生きているという、重大な過ちをおかしている。

成長動機ではなく、欠乏動機で動いているのである。

相手を理解するということは、「相手の恐怖感を理解する」ことなのである。

あるいは逆に、「相手の安心感を理解する」ことなのである。

したがってまた、相手を理解するとは、「相手と自分の違いを理解する」ことなのである。

「幸福がやって来るときは、本人は何もしなくてもやって来る」とタタルキェヴィチの本に書いてある。

これを読めば多くの人は「とんでもない」と反対するであろう。

これほど無理に無理を重ねて努力してもなかなか手に入らない幸福が、「本人は何もしなくてもやって来る」はずなどないと思うに違いない。

しかしさらにタタルキェヴィチは次のように言う。

「幸福を手に入れられるとすれば、きわめて単純で簡単な方法でのみ手に入るのだ。このことは、ずっと昔からわかっていた。〝つねに幸福でいるためには、ほとんど犠牲を払わずに幸福でいなければならない〟と、十八世紀のフランスの哲学者・エルベシウスが書いている」

これはどう解釈したらよいであろうか。

これこそ「無理しないほうが愛される」ということなのである。

でも、ほとんどの人が無理して生きている。

それが実態なのではないだろうか。

2021年1月26日 (火)

「数字」が読めると年収がアップするって本当ですか?/古屋悟司、田中靖浩

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 キミがいつも気にしている「売上」。これは、衣がついたエビの天ぷらみたいなものだよ。衣の部分が仕入れや経費。そして中のエビが利益だ。「衣を外したら、エビがびっくりするくらい小さかった」なんてことは、よくある話だよね。
 もちろん、衣が薄くて、大きなエビの天ぷらもある。見た目はまったく同じなのに、割って中を見るまでわからないことって多いんだ。

売上が上がったとしても、いろいろ支払わなければならないものがある。

人件費や経費、その他もろもろの支払いをし残ったものが利益となる。

そこから国に税金を納める。

この仕組みがわからないと社員は社長は自分から搾取していると思ってしまう。

「売上-売上原価=売上総利益(粗利益)」という計算式で「粗利益」が計算される。

この「粗利益」から、「経費(役員報酬と販売費及び一般管理費)」を引くと、「営業利益」が出てくる。

ここがマイナスになる状態を「赤字」という。

さらに、知っておくべきことは、会社の儲けを生み出す「しくみをつくる人」と、その「しくみを使う人」がいること。

前者は経営を主に行い、後者は実務を主に行っている。

さらに、しくみを「使う人」の中でも「売上をつくる人」である営業マンや販売担当者と、「それをサポートする人」である間接部門の人がいる。

後者には、経理や総務、梱包発送する人も含まれる。

そして、それぞれの役割や仕事の性質が違うことを、みんなが理解して働く職場は、相互理解が進んで、いい雰囲気になる。

そのためには会社のお金の仕組みや流れを知ることだ。

サラリーマン時代にことことを知っていたらとつくづく思う。

2021年1月25日 (月)

ササるプレゼン/長谷川孝幸

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 ササるプレゼンとは、相手の心を動かすことで、「抵抗なく聞けて」「行動変容を促す」プレゼンのこと。「そうかな?」ではなく「そうだろうね!」と感じさせ、目に見える結果を得るのです。頭(理屈)でも、心(情)でもわかるのが、ササる話です。ササらない話は行動変容を生みません。渋々動いてくれても、不満感が残存してしまいます。

プレゼンが芸術的、文学的かつエモーショナルであったとしても、買ってくれる、使ってくれる、頼んでくれなければ、ビジネスとしては「お願い」も「お勧め」も成立したとはいえない。

「ササるように話す」のが、仕事の上ではなにより大事。

そもそもプレゼンとは「情報伝達と意思疎通を同時に実現するコミュニケーション手段」。

これが成立することにより、相手の行動変容を効果的に促す。

聴き手の行動変容を促すために――①納得、②受容、③関心、④感心、⑤メリット、⑥客観性、⑦情、⑧簡潔明瞭、という8つの条件を一定以上充たしているトークや文章が提供されていることをプレゼンの基本とする。

一般的に仕事上のプレゼンで聴き手が求めるのは、次のいずれか。

●旬のテーマ

●普遍的なテーマ

●目新しいテーマ

●直接業績アップや改善が発生するテーマ

●その話を聴くことで外聞がよくなりそうなテーマ

逆に言えば、これらに当てはまらないものを、仕事上で聴きたいとは思わない。

「ササるテーマ」として認識してもらうためには、タイトルが凡庸では関心を買えない。

また奇抜過ぎて興味がついていかない、エッジを効かせ過ぎて今ひとつピンとこない、といった場合にも選んでもらえない。

次に、プレゼンはテーマが魅力的でもコンテンツがよくなければ、相手には受容も納得もしてもらえない。

次のような構成であると大きな疎漏はなくなる。

●当該テーマの基本概念の共有

●当該テーマの理解のあり方

●当該テーマの今後の見通しと展開法

独自の型を作ることに慣れていない方は、まずはこの構成でコンテンツを組み立てていくと安心できるだろう。

最低限言わなければいけないことというのは、結論。

最終的に何を伝えなければいけないのかを常に頭に置き、そこからずれないように話す。

そして結論からものを言う。

結論から逆算して話すから、聴き手はストレスフリーで話を聴ける。

結論から逆算し、考えて話すことで、次のようなメリットがある。

●「あるべき姿」が明確になり、曖昧さがなくなる

●話の方向性が定まるので、ブレがなくなる

●早い段階で認識が一致するので、話し手と聴き手のブロックが小さくなる

●嘘、ごまかし、言いくるめ、言い訳が起こりにくくなり、信頼されやすくなる

●話している最中に緊張しても、迷いが出ても不安になりにくくなる

以上がプレゼンの基本である。

昨年からコロナの影響でリモートでプレゼンをする機会が増えている。

これまで以上にプレゼンの基本を押さえる必要が出てきているのではないだろうか。

2021年1月24日 (日)

ビジネスプロセスの教科書/山本政樹

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 ビジネスプロセスはお客様から始まりお客様に終わり、それがまた新たなビジネスプロセスの出発点となる終わりのないサイクルです。

本書ではビジネスプロセスを「お客様に始まりお客様に終わる価値提供のライフサイクル」と定義している。

ビジネスプロセスはいくつもの業務の集合体。

それぞれの業務はインプットとなるモノや情報に処理を加えて、より価値のあるモノや情報をアウトプットとして送り出す。

後工程の業務はそのアウトプットにさらに手を加えて、価値あるものに変化させていくことを繰り返し、最終的にはお客様に製品やサービスが届く。

この一連の流れを「ビジネスプロセス」と呼ぶ。

ビジネスプロセスマネジメントには三つの大きなポイントがある。

「自社のビジネスプロセスの構造理解」、「ビジネスプロセスの目標と実績の管理」、そして「適切な社内コミュニケーション」だ。

ビジネスプロセスマネジメントの一つ目のポイントは「ビジネスプロセスの構造理解」。

自社のビジネスプロセスが細部に至るまでどのような流れやルールで運営されているのか、情報システムや設備がどのように設計されているのかをしっかり管理する。

そのためには業務フローを作成するなどして、自社のビジネスプロセスを文書でしっかり可視化し、最新化された状態を保つ必要がある。

ビジネスプロセスの価値を高めていくためには、「ビジネスプロセスの目標と実績の管理」が必要。

具体的には、ビジネスプロセスに適切な目標を設定した上で、達成状況を管理するための指標を設定する。

これがいわゆる「KPI」。

指標からビジネスプロセスの実績を把握し、目標に対して実績が不足であればビジネスプロセスを改良する。

最後のポイントは「適切な社内コミュニケーション」。

どんな会社でも部署と部署、現場と管理職や役員、自社とベンダーの間というように、人や組織の境目にたくさんの認識のズレがあり、これがビジネスプロセスのムダを引き起こす。

このような認識のズレは、悪意やサボタージュのような理由で引き起こされることは稀で、多くはお互いのコミュニケーション不足から引き起こされている。

お客様の期待から始まり、社内の人、モノ、情報といったありとあらゆる要素が連携して、最終的にお客様の期待に沿った製品やサービスが提供されるという一連の仕組み、これをビジネスプロセスと呼ぶ。

人も部署も、機器類もITも、「情報を伝える」という業務そのものも、すべてビジネスプロセスの構成要素。

事業とはシンプルに考えると、ビジネスモデルを考え、ビジネスプロセスに落とし込むことで実現される。

ビジネスモデルなしではビジネスプロセスは構築できないし、ビジネスプロセスに落とし込まれないビジネスモデルはただのアイデアでお客様に価値を届けることはできない。

事業はどちらが欠けても成り立たない。

業務は必ず「インプット処理アウトプット」という構造でできている。

事業が行き詰まった時、ビジネスプロセスからアプローチすることによって新たな気づきが生まれるのではないだろうか。

2021年1月23日 (土)

片づけられない自分がいますぐ変わる本/大嶋信頼

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 「催眠状態で片づける自分」という暗示で、普段自分を縛っている暗示を解く。すると本来の自分の姿を見ることができるのです。ポイントは「目の前にないものを見ている時」です。

片づけられない人とは決して頭の悪い人ではない。

一般的には計算や記憶、物事を理解する力、というのが優れていると「頭がいい人」と思われる。

このような人は知能テストなどでいうところの「言語性知能」が発達している。

一方で、パズルを組み合わせるとか、優先順位をつけて仕事をこなす、ということが優れていると「優秀な人」と思われる。

このような人は「動作性知能」というものが優れている。

この二つの知能のバランスが悪い状態、つまり、どんなに「言語性知能」が高くても「動作性知能」が発達していないと優先順位がつけられなくて片づけられなくなってしまう。

買い物に行ったら必要なもの以外も買ってしまう。

これも優先順位がつけられないから起こってしまうこと。

「言語性知能」は理解力があり、算数、単語の暗記などが得意な人ほど発達しているという知能。

そして「動作性知能」は積み木を組み立てたり、探し物をしたり、仕事などの作業をする時に必要な知能。

このうち言語性知能だけが高いと「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」という感じで、やるべきことをたくさん考えられるが、その一方で「やるべきこと」が頭の中にたくさんたまってしまい、それに優先順位がつけられなくなってしまう。

つまり、動作性知能が言語性知能について行けないと「何から優先していいのかわからない」という感じで固まってしまって、動けなくなり、片づけができなくなる。

言語性知能が高くて、動作性知能がそれほどでもないと「細かすぎてよく見えず、ピースのどれとどれをくっつけたらいいのかわからない!」となってしまう。

ではそのような人が片づけられる人になるにはどうすればよいのか。

それは自己暗示をかけること。

片づけが苦手な人は「片づけを意識したらできなくなる」という自己暗示にかかっている。

タイミングは「片づけよう」と思って、「それができない」という自分を想像し催眠状態を作りだした時。

つまり、目の前に見えないものを見たその時が「暗示」が一番効くチャンスになる。

いつもだったら「思っているけどできないダメな私」という暗示を入れてしまうところを「催眠状態で片づけをする自分」と頭の中で唱えてみて暗示を入れてしまう。

すると、その暗示が催眠状態で見事に効果を発揮して、「あれ? 何も考えないでものを捨てているかも!」という感じになる。

この二つの知能である「言語性知能」と「動作性知能」のバランスが悪い状態になると、優先順位がつけられなくて片づけられなくなってしまうというメカニズムは初めて知った。

2021年1月22日 (金)

「行動デザイン」の教科書/國田圭作

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 「行動」で発想すると、市場とは「同じ目的、同じ時間帯や気分の中で選ばれる可能性のある選択肢の集合体」という規定になります。
 そして、行動で捉えた市場の総和、つまり「子育て市場」や「朝食市場」の総和が全体で一つの国内消費の総市場を形成している、というのが私たち研究所の見立てです。だから着目すべきはモノ単位の市場規模や成長率ではなく、「子育て行動」がつくり出す「子育て市場」や、「朝食行動」がつくり出す「朝食市場」の総量とその増減なのです。

本書は、今までマーケティングをモノで発想しがちだった「モノ頭」を、「行動頭」に切り替えるためのアプローチを解説している。

「マーケティングの新戦略」といってもよい。

人は、「持つ」「運ぶ」「しまう」「使う」「捨てる」……という行動を介してモノとつながっている。

例えば「映画」の価値を作品(モノ)の内容ではなく「映画館という特殊な(非日常的な)環境で時間を過ごす行動」だ、というように捉え直す。

実際、それによって新たに誕生したビジネスがある。

「シネコン」だ。

ゆったりした椅子に座って、飲食しながら映画を楽しむことができるシネコンは、デートスポットとして再び若い世代も集客できるようになった。

どの作品(モノ)を見るかを前もって決めて、それを上映している映画館を探す、というのが従来の「映画行動」の常識だった。

それを「とりあえずシネコンまで行って、その日の上映リストの中で2人の見たい作品を選ぶ」という行動に転換することで、それまでにない「デート行動」をデザインできたことが大きかった。

モノの括りは固定的だが、行動の括りはかなり弾力性がある。

シネコンを映画行動で捉えても、デート行動で捉えてもかまわない。

自分に都合のいいように括りを設定してみればいい。

そこに発想転換の鍵がある。

「駅ナカ」という言葉がある。

「駅前」という立地を表す言葉から派生した造語だが、「駅ナカ」には、「駅前」にくらべて立地だけでなく生活者の移動時間・移動空間を受けとめる、という「行動」の視点がより包含されている。

行動の括りは、市場の括り。

つまり、〈「駅ナカ」市場〉という新しい括り。

駅を通過する生活者の一日の行動、という視点で市場を新しく括り直したことで、そこにもともとあった需要が大きく顕在化し、ビッグビジネスになった。

「モノ頭」を、「行動頭」に切り替えることによって新しい発想とビジネスが生まれる。

「行動デザイン」

始めて聞いた言葉だが、可能性を感じるアプローチだ。

2021年1月21日 (木)

起こることは全部マル!/ひすいこたろう、はせくらみゆき

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 「起こることは全部マル!」という認識のパラダイムシフトが、実は人生を丸ごと大きく変える革命の扉になります。

すべての出来事は、私たちを高めるために起きている。

私たち次第で、すべての出来事は、私たちの愛を深めるきっかけにできる。

「起こることは全部マル」と現実を受け入れた瞬間に私たちの前に立ちふさがっていた「壁」を新しい時空の「扉」に変えられるのだ。

ホップ、ステップ、ジャンプの3ステップで時間軸にそって話を進めると、

①ホップ「過去」──過去(悩み)を受け入れる。

②ステップ「現在」──いま、ここを味わう。

③ジャンプ「未来」──未来にときめく。

22世紀的には、時間の観念がこう変わる。

「過去」+「未来」=「現在」

現在の中に過去も未来もある。

逆をいえば、いま、ここ、現在を変えることで未来は変わり、わだかまりなどの過去への認識も変えることができる。

どんな過去であれ、過去はこれでよかったんだと受け入れることで、過去を味方にできる。

未来に関しては、ときめく未来にフォーカスすることで、未来を味方にできる。

すると、過去から、未来から、いま、ここである「現在」に向けて「風」が流れてくる。

鳥は努力で空を飛んでるわけじゃない。

ヒナは努力してタマゴからかえるわけじゃない。

自然を見ればわかる。

自然界はがんばってるわけではない。

ただ、宇宙に流れるリズム(風)にのっているだけ。

がんばるのではなく、過去におこったことはすべて受け入れ、現在を味わうことによって、未来に向けての風にのることができるということであろう。

2021年1月20日 (水)

9割の会社が人事評価制度で失敗する理由/森中謙介

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 実際に運用するのも適用されるのも、温かい血の通った、感情のある人間です。評価制度の何よりも大事なピースは、結局のところ人間なのです。
 そこを忘れて、制度を導入すればすぐに機能して業績をみるみる向上させる、ITシステムと同じように考えると失敗します。

人事評価制度を導入に失敗している企業は多い。

どうして失敗してしまうのか?

そもそも、すべての会社に当てはまるような、万能の評価制度などないし、お仕着せのシステムをポンと導入してすぐ成果が出るほど、制度設計は容易ではない。

どれほど客観的な評価表を作り、論理的に点数をつけたとしても、評価をするのもされるのも、心を持った人。

される側が納得できる評価をするためには、評価をする側にもそれなりの心構えや見識が必要だし、制度の導入自体を社員にリーダーが心から納得させられなければ、やはり機能しない。

社長と社員との間にしっかりとした信頼関係とコミュニケーションが成立していなければ、そもそも組織として機能しない。

ましてそんな状態で社長が社員を評価しても、納得してもらえるはずはない。

人事評価制度は、リーダーの資格がある人が、部下との信頼関係の下で正しく運用してこそ、社員が正しく伸び、結果として会社の業績も伸びていく。

人事評価制度とは、学校の通信簿のように社員の能力に優劣の点数をつけて、支払う給料を決める道具ではない。

会社の「あるべき姿」や理念、理想像を明確にし、そのために社員が発揮すべき能力や思考を、役割ごとに定義する。

そして、そこへの「到達度」を評価という形で見せることで、現在の社内での自分の立ち位置を知り、会社全体をより高みへと向かわせるためには、何をするべきかを社員自身が考えるきっかけとする。

評価の結果は等級などの形で示すことで、社内における自身の立ち位置を見せたうえで、今後はどちらに、どのような努力をすべきなのかを示す。

人事評価制度の要諦は、自社が目指すゴールを示し、そこに向かうために社員に求める資質や行動がいかなるものであるかを明示したうえで、そこから現状がどれほどの距離にあるかを、本人に分かりやすく説明することなのだ。 

制度の導入で成功する企業の経営者は、必ず正しいリーダーシップを備え、優れた幹部や管理職に支えられている。

優れた人事評価制度とは、彼らの本来の資質や能力を引き出して、会社が目指すべき理念や理想を言語化した、従業員が生き生きと働くための道しるべとなる。

だから、導入から本格的に制度を適用するまでには時間をかけるべきだし、導入後も常に内容を見直してその会社にふさわしい制度へとアップグレードしていく姿勢が必要。

人事評価制度を構築することは、自社を客観的に評価し直し、時には目を背けたくなるような弱みも直視して、改善を誓うことでもある。

すなわち、人事評価制度の前に、会社の再評価が必要なのだ。 

会社が求める人材像、ひいては会社が目指す将来像をしっかりと示し、それに沿った働きぶりを制度の運用を通して実践することで、会社全体が少しずつ、制度が目指した方向性へと変わっていく。

結果としてそれが顧客満足や業績にも実を結ぶ。

人事評価制度導入の狙いと成果とは、そういう地道なものだという認識は持つべきだろう。

2021年1月19日 (火)

才能は開ける/ロジャー・ハミルトン

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 方向性を知るには、自分の現在地だけでなく、目的地もはっきりわかっていなければいけません。だからこそ明快な「フューチャービジョン」が必要です。

本書は、私たちがまだ知り得ていない才能に気づき、その才能に応じた方法で、経済的な自由を手にするために書かれた本。

才能にフォーカスを当てた「ウェルスダイナミクス」と、レベルを表す「ウェルススペクトル」という二つの指標を使って、富への三次元マップの進み方をご紹介している。

「ウェルスダイナミクス」は富を創造する4種類の才能を表す。

「ダイナモ」、「ブレイズ」、「テンポ」そして「スチール」のいずれか。

・創造することが好きな「ダイナモ」

・人とつながることが好きな「ブレイズ」

・人の役に立つことが好きな「テンポ」

・詳細が好きな「スチール」 あなた

「ダイナモ」の人

ダイナモの人は、アイデアマン。

得意なことは、創造。

ダイナモは新しいことを始めて、前進させることができる。

誰よりも未来志向で、「雲の中に頭を突っ込んで(非現実的)」、持ち前の飽きっぽさで成功する。

不得意なことは、物事を完結させること、細かい気配り、集中することなど。

「ブレイズ」の人

ブレイズの人は、社交的な人物。

得意なことは、会話とコミュニケーション。

人間関係、思いやり、そして対話がすべてであり、人との対話、ストーリーを話すこと、聞くことで学び、人脈を広げることで自分のブランドを築き、拡大することを得意とする。

逆に不得意なことは、詳細さ。分析や細かい計算を苦手とする。

「テンポ」の人

テンポの人は、五感に優れた人物で、地に足をつけた多種多様な活動にかかわる。

とても実践的な人で、周りから推薦や紹介を得ることが得意。

期待すべきは時間内に必要なことを完成させること。

逆に、創造的な計画を練ることを期待してはいけない。

革新、人前で話す、戦略的な計画を立てる、物事の全容を把握することは苦手。

「スチール」の人

スチールの人は詳細に強く、理系タイプと言える。

得意なことはずばり「計算」。

ハンドブックやマニュアルが大好きで、細かい部分まで徹底的に読み、全情報を理解することを好む。

腰を据えて物事を正確に処理でき、慌てず、自分のフロー(流れ)を築くシステムを構築できる。

一方、苦手なのはコミュニケーション。

「ウェルス灯台」は、9つのレベルから構成される。

各レベルとは、「被害者」、「生存者」、「労働者」、「プレーヤー」、「パフォーマー」、「指揮者」、「主催者」、「作曲家」そして「レジェンド」とつながっていく。

まずは、最初の3つのステージ「被害者(赤外線レベル)」、「生存者(赤のレベル)」「労働者(オレンジのレベル)」から抜け出し、ステップアップすること。

生きているあらゆるシステムにはフローがある。

私たちの中にもフローがある。

才能、商品、情報、富にいたるまでフローを持っており、このフローが交わると、富が成長していく。

要は現在地と目的地を明確化し、目的地に至る自分なりのプロセスを具体化し、着実に一つひとつ実行してゆけば、確実に目的地までたどり着けつということであろう。

2021年1月18日 (月)

経営者のノート/坂本光司

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 人の幸せは4つといわれる。
 1つ目は、人にほめられること。2つ目は、人に必要とされること。3つ目は、人の役に立つこと。そして4つ目は、人に愛されることである。
 この4つの幸せは、どうしたら得られるのか。結論を先に言えば、「働くこと」である。働かなければ、この4つの幸せを得ることはできない。

すべての活動の要は、目的、手段、そして結果の3つである。

中でも最も重要かつ大切なものは、目的である。

このことを経営者はひと時も忘れてはならない。

企業はもとより、すべての組織体の経営の目的・使命は、その組織に関わるすべての人々の、永遠の幸せの追求・実現である。

経営には、時代の変化に合わせ変えるべきものと、どのように時代が変化しても決して変えてはいけないものの2つがある。

環境や時代がどのように変化しても決して変えてはいけない「あり方」とは、正しい企業経営の実践、お天道様に顔向けのできる経営の実践、つまりその組織の存在目的・使命である経営理念に基づく経営の実践である。 

企業とは、人を幸せにするための・人が幸せになるための場所のことをいう。

企業とは、社員や顧客など、とりわけ関係の深い5人を幸せにするための、また幸せになるための場所のことである。

経営者を初めとする組織のリーダーは、特に重要な関係者5人の、永遠の幸福を追求・実現しなければならない。

5人とは、

第一に「社員とその家族」であり

第二に「社外社員とその家族」であり

第三に「現在顧客と未来顧客」であり

第四に「地域住民・地域社会、特に障がい者等社会的弱者」であり

第五に「株主・支援者」

この5人のなかでとりわけ重要なのが、「社員とその家族」と「社外社員とその家族」の幸福の追求・実現。

なぜならこの2人が、顧客や地域住民、さらには株主・関係者等に提供する感動的価値の創造的担い手だからだ。

「五方良し経営」のなかで、経営者・幹部社員が最も重視すべき人は、顧客や株主ではなく、社員とその家族である。その幸せづくりこそが経営者の仕事である。

社員第一主義経営は、決して顧客を軽視しているわけではない。

顧客が大切だからこそ、社員がより大切なのだ。

つまり、ES(社員満足度)なくしてCS(顧客満足度)はあり得ないのである。

経営の3要素は、ヒト・モノ・カネではなく、1に人財、2に人財、3に人財。他はすべて人財のための道具にすぎない。

経営の3要素は、「ヒト・モノ・カネ」、「人材・技術・情報」などではなく、「1に人財、2に人財、3に人財」であること、そして他は人財のための資源、道具にすぎないということを、経営者は決して忘れてはならい。

「人を大切にする経営」と言っている経営者は多い。

しかし、それが実質となっている企業は意外と少ないのではないだろうか。

2021年1月17日 (日)

結果を出し続ける人が夜やること/後藤勇人

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 人間の脳は、騙されやすいものです。
 これから起こる未来のことでも、「絶対にうまくいく」と先に決めてしまい、実際の成功を想像すれば、想像上の成功体験であっても、脳は本物の成功体験として認識します。
 つまり、明日は「よい1日になる」と最初に決めてしまえば、実際にいい1日になる可能性が大きく高まるのです。

著者がこれまで出会った、いわゆる成功者と呼ばれている方、結果を出し続けている人たちは、夜だからできること、あえて夜にすることなどをそれぞれ持ち、夜の時間を上手に活用されてたという。

本書では、成功者と呼ばれる一流の人たちの夜の過ごし方を紹介している。

例えば、夜寝る前に必ず鏡を見るという人がいる。

ハーバード大学の研究で、「イライラした時に鏡を見ると精神が安定する」ことが証明されている。

これは、脳科学的にも立証されている。

まず鏡に向かって、今日頑張った自分に「ご苦労様」と声をかける。

次に、その日、よくなかったアクションについて振り返り、「次回はこうしよう」などと、改善案を考える。

感情的にならず、客観的に行う。

続いて、今度はよかったことを思い出す。

「お弁当がおいしかった」「電車がすいていて快適だった」、どんな些細なことでもかまわない。

そして、「今日は頑張ったね」とほめ、感謝する。

これで、終わり。

自分の頑張りをいちばん知っているのは、自分自身。

わかってくれている自分に心から感謝されることで、明日また頑張れる自分になる。

結果を出している人は、どんなに残念な日を送っても、絶対に翌日に引きずらない。

その日のマイナスはその日のうちに、必ずリセットするから。

一流の人たちは、感情をコントロールするのが素晴らしく上手。

結果を出し続けている人は、翌日のスケジュールを確認し、頭の中でシミュレーションしている。

それぞれの予定についてではなく、一日の流れを予習しておく。

先に潜在意識レベルで成功を体験し、想定外が起きる状況をなくしてしまう。

睡眠評価研究機構の代表、白川修一郎博士は、次のように言っている。

「脳は睡眠不足の影響が最も表れやすい器官であり、睡眠不足によって、記憶力や論理的思考力など、脳のあらゆる機能が低下する。疲れた脳から、素晴らしいひらめきは生まれない」

白川氏によると、脳は睡眠中、日中に仕入れた情報を取り出しやすい状態にインデックス化し、起きてからは良質な睡眠でしっかり改善された脳が、しっかり働き、整理した情報(記憶)に対し意外な結びつけを行うことで、斬新なアイデアが生まれやすくなるのだそう。

脳と心を毎晩、しっかり休ませることで、昼間に仕入れた情報を脳に定着でき、アイデアが出せるようになるというわけだ。 

世の中を動かすような偉大な発明や発見は、昼間研究室で根を詰めている時に湧いてくるのではなく、自分の体をリラックスした状態に解き放った後に、突然アイデアとして羽化したものが多いと、ある有名な科学者が以前、話していた。

脳科学者の茂木健一郎氏は、あるインタビューで脳を活性化させやすくする食べ物や飲み物、場所などについて尋ねられた時、「特にこれといったものはありませんが、自分の好きなモノ、場所がいいと思います」と答えられていた。

自分が心地よい環境で好きなものを食べながら出待ちをすることで脳が気持ちよくなってアイデアが生まれるのだ。

そして、意識して、個としての「自分」になる時間をつくる。

1日1回は「自分」になる。

米国のマクスウェル・マルツ博士の著書『サイコ・サイバネティクス』によれば、脳は実際の経験と、頭の中で鮮明に描いた想像上の経験を、区別するのは苦手だと言われている。

想像上の経験でも、実際の経験でも脳は同じような領域を使って情報処理を行うそうだ。

「明日はいい1日になる」

先に決めることで、脳はうまくいく明日のための準備を始める。 

先に感謝することで、「いい出会い」にしてしまうのだ。

人は何歳からでも間違いを正すことができ、何歳からでも挑戦することができる。

夜、どのような過ごし方をするのか?

脳の性質をうまく使えば、明日をコントロールすることが出来るということであろう。。

2021年1月16日 (土)

人類の選択/佐藤優

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 この危機に臨んで、私たちは2つのとりわけ重要な選択を迫られている。第1の選択は、全体主義的監視か、それとも国民の権利拡大か、というもの。第2の選択は、ナショナリズムに基づく孤立か、それともグローバルな団結か、というものだ。

昨年はコロナに始まりコロナで終わったといった感じだ。

そしてコロナ禍は今年も続く。

この危機を、国際的な連帯で乗り越えるのか、それとも国ごとに孤立することで対処するのか。

求められるのは独裁的な指導者なのか、それとも民主主義の原則を貫くべきなのか?

世界史とは、見えざる脅威である感染症に翻弄されながら、それを乗り越えてきた歴史でもある。

連帯か孤立か、独裁か自由民主主義か──。

これはポスト・コロナの時代において、私たち人類が強いられる究極の選択と言っていいだろう。

国家的孤立主義や行政権の強化が進行するなかで、私たちはどのような選択をするべきか、歴史的知見や現状分析を応用して考察しなければならない。

世界史を紐解くと、時代が大きく転換する時期には、必ずといっていいほど疫病や感染症の大流行が起こっている。

ペストしかり、スペイン風邪しかり。

だとすれば、私たちが直面しているコロナ・パンデミックもまた、時代の転換を促す契機になるかもしれない。

疫病が契機となって、旧来の勢力図が大きく変容することだけはたしかだろう。

疫病は、古代ギリシアの覇権国だったアテネ没落の引き金となった。

それと同じように、古代ローマ帝国の衰退にも疫病が大きく関係している。

黒死病の流行によって中世を支配していたローマ・カトリック教会の権威が低下した。

ルネサンスも宗教改革も、その背景には、黒死病の前で無力だったカトリック教会の権威低下があった。

現在、自由民主主義国家であるアメリカや英国よりも、全体主義的な国家である中国のほうが、コロナの封じ込めという点では成果を上げている。

ここでさらに、中国経済の立ち直りが早い場合、人びとの間に中国的な統治への賛同が高まる可能性がある。

ナチズムやスターリニズムが国内のみならず、国外からも一定の支持を得たのは、どちらも経済の回復に成功したからだ。

マクロに見れば、人類史は長い年月をかけて、グローバリゼーションすなわち「世界の一体化」を推進してきた。

それはまた、感染症の拡大規模が広がっていく歴史でもあった。 

冷戦が終わり、グローバル化が加速していった2000年代に入ると、SARS、MERS、鳥インフルエンザ、豚インフルエンザ、エボラ出血熱という具合に、立て続けに感染症が人類を脅かしはじめた。

その延長に、今回の新型コロナウイルスがあると位置づけたとき、私たちはこれまでのように、グローバリゼーションを徹底する方向に進むべきなのか、それとも国家を閉じる方向に向かうべきなのだろうか。

新型コロナウイルスの感染が拡大する過程で、各国において国家機能が拡大し、民主主義的統制に服さなくなる危険性は高まっている。

外出できない状況が長引くと、必然的に人間の関心は内面に向かっていくようになる。

モサドの元幹部は、このように話していた。

「新型コロナ後の世界はほんとうの幸せとは何か人間の生死はどのように決まるのか人生の意味は何なのかというような、人間の内面に対する関心が深まるようになる。新自由主義が席巻するなかで軽視されていた哲学や宗教に対する関心が強まると思う」

「内面性重視の時代」というと、心の豊かさを求めていくベクトルが強まるように聞こえるかもしれない。

しかし同時に、内面性が暴走してしまうことの危険性も認識しなければならない。

孤立した状態で、自己の心をのぞきこみすぎると、魂がインフレーションを起こす。

そして、肥大した魂からはロマン主義的なナルシシズムや暴力が生まれてしまう。

この危機は「リスク以上、クライシス未満」という性格を帯びている。

リスクの閾値を超えているので、適切な処方箋を書くことができない。

他方、クライシスではないので、コロナ禍によって人類が滅亡することもない。

いずれにしても、今回のコロナを通して社会は大きく変わる。

どのように変わっていくのか、しっかりと見極めてゆきたい。

2021年1月15日 (金)

読む本で、人生が変わる。/中谷彰宏

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 成功する人と、なかなか成功できない人は、読んでいる本が違います。
 成功する人は、成功したから、その本を読んでいるのではありません。
 成功する前から、その本を読んでいたのです。
 その本を読んでいたから、成功する道に、進んだのです。

読書習慣をつけることで、読書運を上げることができる。

読書運が上がれば、いい本に当たる。

読書運のいい人は、いい本にめぐり合う。

「いい本にめぐり合う」→「人生がうまくまわる」→「また本を読みたくなる」という、いい流れに入っていく。

味わうこと、感じること、考えることが本の楽しみ。

味わって、感じて、考えたことは、覚えようとしなくても覚えられる。

本は「覚える」「暗記する」という読み方から、「味わう」「感じる」「考える」という読み方に変えた方がいい。

線を引くなら、自分と違う意見のところに引いた方がいい。

情報化社会は、自分と違う意見にきわめて弱くなっている。

デカルトは、人間の感情を「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「喜び」「悲しみ」の6つに分類した。

最初に「驚き」が来ているのが面白い。

あらゆる感情の原点が「驚き」だ。

読書ノートに書くのは、自分が驚いたこと。

本を読むのは、旅行をしたり、絶景を見に行くのと同じ。

大切なのは、その瞬間を味わうこと。

本を読む目標は、心に残る1行に出会うこと。

勝負は、本を読んで心に残る1行があるかないか。

本は、最終的には行動につながらないと意味がない。

本は、究極、電話帳。

かけたい電話番号が見つかったら、電話をかけて終わる。

それ以上先は読む必要はない。

どんな本にも、「これは自分の仕事と同じだな」「待てよ。自分の仕事に置きかえて考えたら、こういうことだな」「ということは、これができるかな」と思える部分がある。

それが一番おいしいところ。

本は、デジャヴ。

会いたい人の本を読んでおくと、その思考回路が自分に入っていく。

結局、人間はそれまで読んできた本の集合体。

残念なことに、お金は本を読んでいない人から読んでいる人へ流れている。

本を読むことで、だまされない側にまわれる。

本を読むことのメリットは、自分が何を知っているかではなく、知らないことだらけだと気づくこと。

印象に残ったのは「本を読む目標は、心に残る1行に出会うこと」ということば。

確かに私自身、本を読んで心に残るフレーズに出会ったとき、得したと思うので、その通りだと思う。

2021年1月14日 (木)

「考えた人すごいわ」を考えたすごい人/岸本拓也

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 事業を成功させるには、商品作りの技術という縦軸の深掘りだけではなく、「自分は何をやりたいのか」という横軸の「コンセプト作り」もしていかないといけません。

著者は店名の提案に加え、パンの開発から店舗のデザインまでトータルでプロデュースし、オーナーさんのために「売れるパン屋」を作ることをミッションとしている。

一つの店を作るのは、一つのショーを作ることと同じ。

いわゆるステレオタイプの店をそのまま作っても成功はない。

金儲けだけをゴールにしている人、おいしい話につられてしまうような人で成功している人はいない。

何か事業をはじめる前にやってみてほしいのが「人生の棚卸し」。

「人生の棚卸し」とは、自分の本質が何なのか自問自答し、自分らしさを見つける作業。

「人生の棚卸し=自分自身を知る」という作業がないと、いいものは作れない。

その店に来たくなるような、または来店したお客様がそのお店のことを人に話したくなるような「楽しい体験」を用意する必要がある。

そのためには、お店でお客様をお迎えする私たち自身が楽しい体験をしていなければ、絶対に提供することはできない。

型にはまって固まってしまった思考では、人を喜ばせられるような新しくて楽しい発想は出てこない。

店内に入って大きな感動もなく、どんなパン屋だったか思い出せないような店では、お客様は何度も通いたいと思うことはない。

「あの店に行くといつも楽しいことがある」という店に対する信頼感が、またお客様を店に呼び込むことにつながる。

そこでスタッフに徹底してもらっているのが「声出し」。

スタッフの元気のいい声が生み出す「ライブ感」をお客様に体験してもらうことで、「ここのパンはおいしそう」という気持ちを持ってもらう。 

「5秒間、必ず一人ひとりのお客様と向き合って話しなさい」とスタッフに言う。

お店のスタイルを作り上げるのは目に見えるものだけではない。

匂い、音、空気、五感で感じられるものすべてが体験を生み出す。

「お客様に喜んでもらうこと」をひたすら愚直に貫いていったら、必ずどのビジネスも成功する。

しかし、「喜んでもらう方法」は、自ら体験しないとわからない。

つまり「もっと遊べ!」ということではないだろうか。

2021年1月13日 (水)

「ひとり起業」の強化書/天田幸宏

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 ドラッカーは『イノベーションと企業家精神』において、「企業家として成功するものは、その目的が金であれ、力であれ、あるいは好奇心であれ名声であれ、価値を創造し社会に貢献しようとする。その目指すものは大きい。すでに存在するものの修正や改善では満足しない」と述べています。

「ひとり起業」は人に雇われずに、自らで「事業」を行うことを指す。

「ひとり起業」の理想的な姿は、世の中のニーズをもとに新しい市場を創り出すというイメージ。

本書では「ひとり起業家による成功」を次のように定義する。

望む価格で買ってくれる顧客がいる商品やサービスの熱心なファンがいる。

ドラッカーは、「いわゆる、企業家と言われる人たちが失敗するのは、経営の基本と原則を知らないからだ」という意味のことを述べている。

逆にいえば、「経営の基本と原則」を習得すれば、成功の確率は高まり、失敗のリスクは減少するということ。

成功している起業家には事業の大小に関係なく、いくつか共通点がある。

①「強み」に基づいた事業を選択していること

②明確な「コンセプト」を打ち出していること

③変化する「顧客ニーズ」にきちんと応えていること

④「独自の市場」を築いて価格競争に巻き込まれないこと

⑤「理想の顧客」をつかんでいること

⑥顧客を巻き込んだ「コミュニティ」があること

⑦魅力あふれる「ストーリー」を語ること

まず最も大切なことは「強み」に基づいた事業を選択すること。

「強み=利益を生み出す源泉になるもの」と定義できる。

ドラッカーは「明らかになった強みに集中せよ」と述べている。

この「明らかになった」という部分がポイント。

残念なことに、成果をあげられない起業家の多くが「自分の強みが明らかになっていない状態」で事業を行っている。

ドラッカーは「成果は、有能さではなく市場におけるリーダーシップによってもたらされる」と述べている。

ここでいうリーダーシップとは、商品やサービスのリーダーシップのこと。

「強み」を明らかにするシンプルかつ最強の方法は、「顧客に聞く」こと。

確かに「強味」が思いこみになっているケースは多い。

自分の強みは何なのか?

「ひとり起業」はここからスタートすべきだろう。

2021年1月12日 (火)

講座、イベントの作り方/牟田静香

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 参加者から受講動機を聞いたところ「タイトルに惹かれて申し込んだ」という人が一番多かったのです。
 中身ではなくタイトルだけで来たということですね。

講座に人を集めるポイントはたった二つ。

一つめはいろいろな人々が抱えている課題を分類しターゲットを徹底的に絞るということ、

二つめはそのターゲットの心に響くタイトルをつけるということだ。 

課題を明確にすることによってターゲットを絞り込み、その課題をタイトルに持ってくることでターゲットは「私が行くべき講座だ」ということを認識する。

人が来ないのはけしてテーマや講師のせいではない。

テーマ、ジャンルで面白い、つまらないがあるのではなく、個別に「面白さ」は作れるし、むしろその「面白さ」を伝える工夫が必要なのだ。

人の心に訴える面白さと、その効果的な表現の工夫が必要なのだ。

チラシには盛り込まなくてはならないものがいくつかある。

それらの情報を受講者の目にとまるように、レイアウトや書体、イラストなどのビジュアル的なことや文面を考えて、もっとも講座とターゲットにふさわしい、「思わず手に取る」「人を呼ぶ」チラシを作らなくてはならない。

ポップ体はプロっぽく見えてつい使ってしまいがちだが、意外にもプロが一番使わない書体。

タイトルなどに、「斜体」は絶対に使ってはダメ。

わかりにくいから。

そもそもが書体の多くはアルファベット用に作られているので日本語にはなじまない。

また、ひとつのチラシにフォントは三つまでが鉄則。

タイトルは上から三分の一の部分が勝負

これらがポイントになる。

受講者にとって最も重要な項目は、以下の四つ。

①タイトル(中身がわかるもの)

②講座の日程

③講座開催場所

④申し込み方法

この四つを目立たせることが大切。 

これらのこと、当たり前のようで見落としてしまいがちな部分だ。

次回のセミナー開催の時、活用してゆきたい。

2021年1月11日 (月)

「明治」という国家[新装版]/司馬遼太郎

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 リアリズムといえば、明治は、リアリズムの時代でした。それも、透きとおった、格調の高い精神でささえられたリアリズムでした。ここでいっておきますが、高貴さをもたないリアリズム──私どもの日常の基礎なんですけれど──それは八百屋さんのリアリズムです。そういう要素も国家には必要なのですが、国家を成立させている、つまり国家を一つの建物とすれば、その基礎にあるものは、目に見えざるものです。圧搾空気といってもよろしいが、そういうものの上にのった上でのリアリズムのことです。

明治は、リアリズムの時代だった。

そこへゆくと、昭和にはリアリズムがなかった。

左右のイデオロギーが充満して国家や社会をふりまわしていた時代だった。

どうみても明治とは、別国の観があり、べつの民族だったのではないかと思えるほどだ。

イデオロギーを、日本訳すれば、〝正義の体系〟といってよい。

イデオロギーにおける正義というのは、かならずその中心の核にあたるところに「絶対のうそ」がある。

ありもしない絶対を、論理と修辞でもって、糸巻きのようにグルグル巻きにしたものがイデオロギー、つまり〝正義の体系〟というもの。

イデオロギーは、それが過ぎ去ると、古新聞よりも無価値になる。

ウソである証拠だ。

勝海舟は偉大だ。

なにしろ、江戸末期に、「日本国」 という、だれも持ったことのない、幕藩よりも一つレベルの高い国家思想──当時としては夢のように抽象的な──概念を持っただけでも、勝は奇蹟的な存在だった。

しかもその思想と、右の感情と、不世出の戦略的才能をもって、明治維新の最初の段階において、幕府代表として、幕府みずからを自己否定させ、あたらしい〝日本国〟に、一発の銃声もとどろかせることなく、座をゆずってしまった人なのだ。

明治維新を語るとき、必ず出てくるのが薩長土肥という言葉。

長州藩は、ずいぶん気質がちがう。

日本人を分類するという場合、「長州人タイプ」 という言い方がある。

頭がよく、分析能力をもっている。

また行政能力にすぐれ、しばしば政略的でもある。

権力の操作が上手で、とくに人事の能力に長けている、といったふうな感じ。

明治後の人物でいえば、伊藤博文、これは代表的。

また山県有朋においてその典型を見るといったふうな感じとり方もある。

長州人は、どうもちがう、という言い方が、いまもある。

賞讃と憎しみをこめていう。

長州藩では、他藩にない、微妙な意識がある。

士農工商をふくめて、長州藩は一つだという一藩平等意識があった。

〝自分はいまは百姓ながら三百年前は毛利家のしかるべき武士だった〟という意識。

士分階級のほうも、百姓に対し、どこか他藩にない遠慮と親しみをもっていた。

それが、幕末、この藩が幕府の第二次長州征伐の前後、幕藩体制下における奇蹟の無階級軍隊をつくるという結果になった。

倒幕をめぐって言うと、薩摩藩は、政略的であったのに対し、長州藩は藩内において庶民軍が勝ち、いわば革命政権ができていた。

明治後、最後の将軍だった徳川慶喜が、「長州は憎くない。なぜなら最初から倒幕を呼号して旗幟鮮明だった。それに対し、薩摩はぎりぎりまで幕府びいきのような顔をしていた。」といったといわれているが、薩摩はそこまで政略的だった。 

長州藩は書生の集まりのようなもので、たえず百家争鳴している。

この書生の親玉である高杉晋作は天才的な人だが、一時期、野党にまわって四国の讃岐に亡命していたとき、「わが藩の者は、秘密が守れない。いつも洩れてしまう」 と、同志に対する手紙のなかでこぼしている。

長州人にとって〝動カザルコト山ノ如シ〟というのは、にが手なのだ。

そこへゆくと薩摩藩というのは、鉄の桶が水洩れしないように、秘密はまず洩れることがない。

藩風として、黙って死ぬというところがある。

指導者は西郷隆盛と大久保利通だったが、大久保は国もとにあって藩主をしっかりにぎり、しかも久光には倒幕のことを話さず、一方、西郷は京都にあって幕府や諸藩と接触を保ちつつ、藩士団のすみずみまで掌握していた。

一糸乱れずという形容は、この時期の薩摩藩の印象にじつにふさわしい。

土佐では、一藩が倒幕思想をもつということはないため、志をもつ郷士たちは多く脱藩した。

かれらは山野を放浪し、じつに多くの者が非業にたおれた。

土佐脱藩浪士坂本龍馬もその一人。

薩摩の藩風は、物事の本質をおさえておおづかみに事をおこなう政治家や総司令官タイプを多く出した。

長州は、権力の操作が上手なので官僚機構をつくり、動かした。

土佐は、官にながくはおらず、野にくだって自由民権運動をひろげた。

佐賀は、そのなかにあって、着実に物事をやっていく人材を新政府に提供した。

この多様さが、明治初期国家が、江戸日本からひきついだ最大の財産だったといえるのではないだろうか。

2021年1月10日 (日)

日本人が教えたい新しい世界史/宮脇淳子

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 いまの日本の歴史教科書は間違っています。単なる年表が並んでいるだけで、本当の意味の歴史になっていないからです。お互いにつながらない話が羅列されているだけで、因果関係もわからないし、ストーリーがないので理解できないのです。
 もともと歴史は物語です。前述したように、世界のあちらこちらで同時に起こっている出来事を、自分一人で経験することはできないし、生まれる前に起こったことももちろんまったくわかりません。そこで、ほかの人たちが言ったことや書いたことを集めてきて、どういう世界だったのか、と理解できるようにするのが歴史です。

歴史とは何か?

なぜあえてこう問う必要があるのかと言えば、人間がいて時間が経てばそれがそのまま歴史になるというほど歴史は簡単なものではないからだ。

いま世界で国連に加盟している国は197カ国あるが、それらの国のすべてが歴史を持っているわけではない。

ふつうは国があればそれぞれに歴史があると思いがちだが、実は必ずしもそうではない。

世界には歴史のない国が多いのだ。

それでは歴史が成立するためには、どういう条件が必要なのか。

直進する時間の観念と、時間を管理する技術と、文字で記録をつくる技術と、物事の因果関係の思想の四つの条件が必要だというのが、岡田英弘氏が言い出した説。

歴史とは過去の出来事がどういう因果関係で起こったかを明らかにするもの。

本来の歴史というのは、ある物事について、なぜそういうことが起こったのか、その前にどういうことがあったからそういう出来事が起こったのだ、という因果関係を明らかにしたいという動機によって書かれるもの。

「歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を越えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである」(岡田英弘著『世界史の誕生』)

歴史は過去そのものではなく、過去の解釈だということ。

昔あったことを説明するために流れをはっきりさせることが歴史叙述なのだ。

隣り合った国同士は、歴史については基本的に意見が対立する。

では、正しい本当の世界史はあるのかと聞かれたら、それはないと言わざるをえない。

というのも、100年後、もしだれかが世界を説明したときに、いまと同じ説明ができるとは限らないから。

歴史は未来を予測できない。

常に起きたこと、結果からさかのぼって見ることしかできないものだからだ。

つまり、歴史というのは、いま私たちが生きている世界がなぜこうなのか、昔何があったからいまこうなってきたのかを自分たち自身が理解する、そういう必要のためにあるということ。

過去の出来事から現在を意味づけて、みんなが理解するために書かれるものなだ。

世界中どこにでも歴史が生まれたわけではない一番大きな理由は、時間をきちんと計測して記録に残すということが、非常に高度な文明にしか誕生しなかったから。

歴史という概念は、過去を時間と空間の両方から見ることができなければ、生まれることはない。

世界には、文明はあっても歴史という文化のないところがけっこうある。

世界には二つだけ、自前の歴史文化を持った文明がある。

それが地中海文明とシナ文明。

地球上で最初の歴史書と言えるのは、ヘーロドトスが紀元前五世紀にギリシア語で書いた『ヒストリアイ』。

もう一つの歴史文化はシナの司馬遷が書いた『史記』。

ヘーロドトスはなぜ『ヒストリアイ』を書こうと思いたったのか。

それは、紀元前480年にギリシアの都市国家同盟がサラミスの海戦で大ペルシア帝国に勝ったから。

彼にとっては弱小なギリシアの都市国家がなぜ大国ペルシアに勝てたのか。

それが不思議で仕方がなかった。

ペルシア戦争はなぜ起きたのか、ギリシアはどのようにして勝ったのか。

ヘーロドトスはその理由を自分で確かめたいと思った。

ヘーロドトスは、エジプトなど行ける限りのところを旅行して、彼が見たことや経験したこと、他人から聞いた話に加えて、手に入れられるものはすべて読んで調べて書いた。

だから、「調査・研究」なのだ。

自分なりにペルシアとギリシアの戦争の原因を考え、なぜペルシアが負けてギリシアが勝ったのかということを整理した。

それが『ヒストリアイ』のテーマであり、ストーリー(筋書き)だ。

ヘーロドトスの『ヒストリアイ』の中には大事なメッセージが三つある。

その一つは、世界は変化するものであり、その変化を語るのが歴史であるということ。

ヘーロドトスは、「かつて強大であった国の多くが、いまや弱小となり、私の時代に強大であった国も、かつては弱小であった。されば人間の幸運が決して不動安定したものでない理りを知る私は、大国も小国もひとしく取り上げて述べてゆきたいと思う」と序文で書いている。

二つ目は、世界の変化は政治勢力の対立・抗争によって起こるということ。

三つ目は、21世紀のアジアに生きるわれわれにとってもきわめて重大な問題は、ヨーロッパとアジアは永遠に対立する二つの勢力だとヘーロドトスが書いたということ。

ヘーロドトスの枠組み、ヘーロドトスの世界観は、実はヨーロッパ人には非常に深くしみ込んでいて、それを学んだ日本人もそのことを前提条件として無意識に受け取っている、もう一度合う部分と合わない部分を考え直さなければいけない。

世界で自前の歴史文化をつくり出したのは地中海文明のヘーロドトス以外には、シナ文明の司馬遷だけ。

歴史というのは、あるがままがそのまま書かれているのではなく、まず歴史書が書かれるという時点で一つ、大きな理由がある。

歴史は2000年後の人のために史実を残したいと思って書かれるのではない。

その時代の要請があって、何かの目的をもって書かれるもの。

だからその主旨に沿った文献だけが残って、その意図からはずれる文献は残らないことが多い。

そもそも国史は国をまとめるために、目的があって書かれた過去の話。

したがって、戦争した相手は全部悪いと一方の国は書き、その相手の国は自分たちだけが正しかったと書く。

だから、そのような歴史をどんなに集めても世界史にはならない。

司馬遷の『史記』も嘘をついている。

ヘーロドトスの歴史も史実かどうかはわからない。

『ヒストリアイ』でヘーロドトスが言ったのは、世界は変化するということ。

国は人間と同じように誕生して大きくなるけれども、やがて老年になって滅びる。

政治勢力の対立抗争によって世界は変化していく。

さらに、ヨーロッパとアジアは対立する二つの勢力であるという解釈。

では、シナ史はどうなのか。

司馬遷の『史記』は、黄帝という最初の天子から、天が命を変えることで王朝が交代し、夏、殷、周、秦、漢と続いて来た。

つまり、天は昔もいまも永遠不変で、その天命によって天子が交代する。

これがシナの歴史。

この両者はそれぞれ過去をひとつのストーリー(物語)で説明することには成功した。

しかし、これでは物語の枠組みがまったく違っていてかみ合わない。

西洋史と東洋史では、基本となる歴史観がはっきり二つに分かれてしまっている。

この二つを合体させたところで、筋書きがまとまるはずがない。

日本の世界史教育の大きな問題点がここにあるということではないだろうか。

2021年1月 9日 (土)

本当は正しかった日本の戦争/黄文雄

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 よく「日本による支那経綸(国家の秩序をととのえ治めることや、そのための方策)」や「日本の大陸政策は中国侵略だった」といわれる。しかし日本が満州に進出したのは、南下するロシアの脅威に対抗するためだった。
 侵略目的で、兵力が10倍も違う相手と戦争をする国などない。満州に居座るロシア軍を撤退させ、かつ朝鮮半島でロシアに譲歩させて日本の優位を確立することが狙いだったのである。

近代の日本の戦争は、すべて自衛戦争であった。

また、日本には戦犯は存在せず、中韓の靖国批判に根拠がないというのが台湾人である著者の主張だ。

中国では、日清戦争は「甲午戦争」と呼ばれ、尖閣諸島もこのときの戦いで日本が盗みとったという、明らかなウソで領有権を主張している。

韓国も、この日清戦争で日本が勝利したせいでアジア侵略が加速し、日韓併合へと向かわせたと断じているが、これも事実とは異なっている。

実際には朝鮮はこの日清戦争で、1000年以上も続いた中華帝国の属国という地位からようやく解き放たれ、独立したのである。

大東亜戦争は、英米などの「持てる国」本位の世界秩序から脱出することに活路を求めた「持たざる国」日本のぎりぎりの選択だったといえる。

日本は常に戦わざるを得ない状況に追い込まれ、清、中国、ロシア、アメリカといった超大国との戦争を選択しなくてはならなかった。

これらはみな侵略戦争ではなく、超大国の横暴や脅威に対する「抗戦」だったと考えるべきだろう。

永野修身軍令部総長は、大東亜戦争開戦に際してこのような言葉を残している。

「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出しうるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。そして、いったん戦争と決定せられた場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみである」

日本はまさに、戦わなければ亡国、戦うもまた亡国というぎりぎりの状況に置かれていたのである。

そして日本は奇跡的な善戦を見せ、白人優位社会にアジアの底力をまざまざと見せつけた。

それが植民地諸国に勇気を与え、独立運動の刺激剤になったことは疑うべくもない事実である。

マッカーサーもまた、1951年5月3日に米国議会の上院軍事外交合同委員会において、「彼ら(日本)が戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだった」との発言をしている。

東京裁判での「平和に対する罪」というのは、あきらかに事後法だった。

そもそも「侵略戦争」というものの意味が不明確であり、東京大空襲や原爆投下で大量の一般市民を殺戮したアメリカは、明らかに国際法に反しており、また、「人道に対する罪」も負っているが、誰一人罰せられていない。

要するに、「平和に対する罪」という、国際法上にもない概念が持ち出されて裁かれたことは、この裁判が戦勝国による敗戦国への一方的な復讐劇であったことを物語っている。

1 歴史とはさまざまな事件の積み重ねであり、目先にとらわれず巨視的な視点を持つべきだ。

2 どの時代にもその時代なりの歴史社会条件や時代精神、価値観、限界があるのであって、現代の価値基準のみで評価するのは好ましくない。

3 日本史を語るには日本人としての立場や史説、史観を持つべきであって、欧米や中韓の立場から見るべきではない。

4 「侵略史観」はきわめて政治的な色彩が強い。美化する必要はないが、「近現代をつくった」という視座を持つべきである。

5 日本はアジアから搾取したのではなく、「布施」を施したというべきである。

6 戦後日本の「反省と謝罪」は、中国や韓国から押し付けられた「正しい歴史認識」への同調からくるものだが、それは歴史へのであ冒涜であり、犯罪行為にも等しい。

7 日本の近現代の戦争を単純に否定・肯定してもあまり意味がない。問題は、歴史にどう貢献したかという点である。

日本人は加害者意識が強く、被害者意識が少ない民族である。

思いやりの心が強いこと、仏教の「他力本願」からくる「おかげさま」の思想が根付いていることなどが理由だろう。

悪いのはすべて夷狄、と考える中華思想とは対照的すぎる。

台湾人である著者から見ると、日本の自虐史観は確かに異常に見えるのであろう。

2021年1月 8日 (金)

1on1の技術/小倉広

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 例えば、1on1という皿の上にコーチングという料理を載せれば「部下の目標達成を上司が支援する」場になるでしょう。また、そこに心理カウンセリングという料理を載せれば「上司が部下の話を傾聴し、部下の全人格的な成長を促す」場になるでしょう。しかし、もしも「上司が部下を否定し、追い詰める」という料理を載せれば、1on1は単なるパワーハラスメントの温床になってしまいます。これでは、部下にとっては地獄です。

1on1ミーティングとは、「上司と部下の間で、週1回~月1回、30分~1時間程度、用事がなくても定期的に行う1対1の対話」のこと。

先端的なIT企業が集中するシリコンバレーを中心に、米国では数多くの企業が1on1を実践している。

最初に1on1を経営の重要事項として位置づけたのはインテル社の元CEO、アンドリュー・グローブ氏だと言われている。

現在、1on1を導入している企業として、以下のような企業が挙げられる。

インテル、マイクロソフト、グーグル、ヤフーなどの外資系IT企業を筆頭に、グリー、クックパッド、日清食品、カルビー、村田製作所、モノタロウ……などなど。

業種を問わず多くの企業が1on1を導入している。

1on1により期待される効果として、最初に挙げられるのは会社と社員のエンゲージメント(絆・愛着)だ。

エンゲージメントが高まれば、以下のように様々な副次的効果が期待できる。

第1の副次的効果は組織の「アジリティ(俊敏さ)とスピード向上」。

第2の副次的効果は「意欲向上」。

第3の効果は「スキルアップ」。

第4の効果は「理念・戦略へのアラインメント(方向の調整)」。

第5の効果は、問題の早期発見、対処。

第6の効果は、リテンション(人材の維持・離職防止)。

1on1の目的は、短期的な業務の課題解決ではない。

中長期的な自立的人材の育成、およびエンゲージメントの構築にある。

その際、頭の中に置いておくと良いツールがある。

それが2つのサイクル。

一つ目はデビッド・コルブが示した「経験学習サイクル」

人は知識から学ぶのではない。

経験から知識が導き出された時に初めて深い学びが起きる。

経験を伴わない知識は机上の空論。

コルブが示したこのサイクルは始点を「経験」に置いているところがユニークであり、かつ実務的。

2つ目のサイクルは、ダニエル・キム教授が提唱した「組織の成功循環モデル」。

最初に「結果」を求めるのではなく「関係の質」を向上させる。

すると、「思考の質」が上がり、「行動の質」が上がって「結果の質」も上がる。

キム教授が提唱する「関係の質」を高めること、すなわち1on1の積み重ねで達成できるエンゲージメントの向上は、この一連の過剰さに「ゆとりと落ち着き」をもたらす。

つまり上司が部下に対して行う「傾聴」「勇気づけ」などにより、1on1で日頃から「所属」を実感できている部下は、過剰な劣等感を感じる必要もなければ、過剰に高い目標を掲げる必要もなく、現実的で常識的な目標を掲げる。

だから、落ち着いて課題に対処できる。

1on1を実施するにあたり「上司側の1on1スキル」を高めることは最も重要かつ必要最低限な施策となる。

1on1に必要となる5つのスキルは次の通り。

1傾聴

傾聴とは「相手の話を注意深く共感してていねいに聴く」こと。

この技術は、アドラー心理学にかかわらず、あらゆる流派の心理カウンセリングやコーチングの最も基本となるスキルであり、1on1において一番のベースとなるもの。

2勇気づけ

勇気づけとはアドラー心理学のカウンセリングの中核的技法。

アドラー心理学における勇気とは「自分には能力があり、周囲の人は仲間である」という感覚。

そして、この感覚が高まれば、人は自然と「優劣、正誤、上下、善悪」を越えた平等へ向かい、違いを活かす協力の方向へ向かうとアドラー心理学では考える。

逆に人は勇気を失うと「自分さえ良ければいい」と他者を邪魔しながら自己の利益を追求する行動を取りがちになる。

3質問

上司が部下に効果的な質問を投げかけることで、部下の頭の中に空白が生まれ、部下はそれを埋めようと思考を深める。

それこそがまさに経験学習サイクルの推進であり、1on1の教育的効果を高める。

また、質問によるコミュニケーションは部下の自己決定を促進し、自己効力感を高める。

4フィードバック

フィードバックとは「出力された情報を出力者へ還元することで行う制御の方法」。

ビジネス現場で使われる本スキルは「目標と部下の行動とのギャップを部下に伝えること」となる。

フィードバックは効果的に用いられれば、目標達成へ向けて極めて適切な制御となると共に、教育的効果も高くなる。

5結末を体験させる

アドラー心理学における独特の教育技法。

相手に答えを教えるのではなく「失敗も含めた体験」をしてもらい、そこから学んでもらうというスキル。

以上が1on1に必要となるスキルだ。

いずれにしても、1on1が定着するかどうかは上司がこのスキルを身に付けることが出来るかどうかにかなっているということではないだろうか。

2021年1月 7日 (木)

「強い会社」に変わる仕組み/松岡保昌

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 組織戦略がうまくいくには、少なくともその会社がめざす「企業理念」が明示され、その会社の強みとなる「コア・コンピタンス」が発揮され、それを強化するための「仕組み・制度・施策」が導入され、機能していなければならない。

どうしたら会社は変わるのか? 変われるのか?

その答えは、「仕組みや制度を変え、それにともなう施策を続けることで必ず変わることができる。ただし、どの会社にも万能な仕組み・制度・施策などない」だ。

自社の「ビジネスモデル」や、自社の強みである「コア・コンピタンス」を理解し、十分に検討したうえで、その成功事例である組織戦略の「仕組み」や「制度」それにともなう「施策」を取り入れないと、成功どころか、逆に失敗してしまうケースすらあるのだ。

「コア・コンピタンス」とは、経営学者のゲイリー・ハメル氏とC・K・プラハラード氏がその著書の中で紹介した、「顧客に対して、他社には提供できないような自社ならではの価値を提供する、企業内部に秘められた独自のスキルや技術、ノウハウの集合体であり、企業の中核的な力」のことである。

経営者や管理職は、自社の「ビジネスモデル」を認識したうえで、自社の「コア・コンピタンス」は何か、自社の「強み」と「弱み」をたえず分析し見直し、市場や世の中の変化に合わせて、現在の戦略のままでいいのか、違う戦略に変えなければならないか、常に考え続けるのだ。

上手に変化に適応した事例としては、フィルム事業の衰退をいち早く察知した富士フイルムが有名だ。

写真フィルム製造で培った中核となる高度な技術や知識資産を活用し、半導体プロセス材料などの産業機材や、化粧品、医療分野などへの多角化を果たした。

自社の「コア・コンピタンス」を理解し、「ビジネスモデル」や「企業文化」に合った「仕組み・制度・施策」でなければ、効果は出ない。

「コア・コンピタンス」は不変ではない。

だから、組織戦略の「仕組み」や「制度」、それにともなう「施策」も、常に見直し、進化させていかなければならない。

「コア・コンピタンス」は人によって認識が違ってはならない。

経営者の考えと、幹部や社員が別のとらえ方をしていては組織として機能しない。

経営会議や戦略会議でも常に確認し続け、共有する必要がある。その「強み」が活き続けているか、「弱み」を補う手立ては打たれているか、常に検証する必要がある。

「企業理念」とは、どのような価値を提供して企業が存続したいのか、社会からどのような支持を集めて発展したいのか、それを実現させるためにどのような考え方や行動がその会社では理想とされ評価されるのかを示したものである。

「企業理念」を実現するのはまさに、人。

「コア・コンピタンス」を考え、進化させるのも結局は、人。

だからこそ、この2つを強化するための組織戦略の「仕組み」「制度」、それにともなう「施策」が必要なのであり、その良し悪しが企業力の差になっていく。

「強い会社」には、いわば「対症療法」とは対極的な「原因療法」ともいえるような仕組みがある。

社員が自ら「企業理念」を実現し、「コア・コンピタンス」を強くするための能動的な行動を自然発生的に生み出すような「仕組み・制度・施策」がある。

そして、このような実行すべき「仕組み・制度・施策」は、会社によって異なる。

いわば、会社という生き物に、神経を通し、血液を通わせ、1つひとつの細胞が自ら動くようにしていくものこそが、「仕組み・制度・施策」である。

「仕組み・制度・施策」は自社がめざす「企業理念」や、「コア・コンピタンス」を考えたうえで、目に見えない魂のような「企業文化」をふくめて設計していくのが重要だ。

人が自ら動き出すような会社になるためにも、「企業理念」や「ミッション」「ビジョン」が、本当に浸透すれば、それだけで働く人を熱くさせる力がある。

だからこそ、明確にし、明示すべきなのだ。

「会社が世の中に提供している価値に共感できるかどうか」

「会社の社風や求められる働き方に共感できるかどうか」

「社外規範」と「社内規範」、この2つに共感できないと、人は本気では働けない。

ファーストリテイリングで多くの社員が本気になったのは、経営トップが掲げる「日本には、高くて良い服と安くて悪い服しかない。安くて良い服があってもいいではないか」「個性は服にあるのではなく、着ている人にあるはずだ」という社会に提供する価値観に共鳴したからだ。

いつでも、どこでも、だれでも着られる、ファッション性のある高品質なベーシックカジュアルを市場最低価格で継続的に提供する、その「社外規範」を実現する仕組みをつくるために社員は働くのだ。

企業の考えを明確化し、表明し、理解させるのは重要である。

とくに「社外規範」は企業の成長や進化と密接に関わる。

「自分たちは何をやるべきか」

これを「ミッション」「ビジョン」「理念」「社是」と呼んでも構わない。

大事なのは、それを明確に言葉にすることである。

会社全体で、共有すること。

そして、それを真剣に実現しようとすることだ。

「外に向けた)社外規範」に対して、「(中に向けた)社内で大事にしている行動や考え方」が「社内規範」だ。

「社内規範」は、理想とされる行動や考え方、つまり行動指針である。社風や求められる働き方は、同じ業界でも異なる。

組織には独自の価値観、判断基準、行動基準があるように、「社内規範」は会社によって異なる。

だからこそ、自分が所属する組織の行動指針を好きになれなければ、毎日職場に行くことがつらいはずだ。

企業の「経営理念」には、「社外規範」か「社内規範」のどちらかだけのケースも多い。

「やってみなはれ」(サントリー)、「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」(リクルート)などは、「社内規範」の例である。

「情報革命で人々を幸せに」(ソフトバンク)、「服を変え、常識を変え、世界を変えていく」(ファーストリテイリング)などは、「社外規範」の例だ。

「企業理念」という最上位の概念に「社外規範」「社内規範」のどちらかだけが表記されていても構わない。

だが、その下位概念である「社訓」や「バリュー」「クレド」など、さまざまな価値観を伝える言葉の中に「社内規範」と「社外規範」の両方がふくまれていること。

「社内規範」と「社外規範」は、きちんと共有できるように両方が明確にされていることが大事なのだ。

そして、会社には、その価値や、設定した理由や背景を社員に理解してもらうために努力し続けることが求められる。

P・F・ドラッカー氏の「経営者に贈る5つの質問」は、「社外規範」を進化させるために、とても役に立つ。

・質問1「われわれのミッションは何か?」

・質問2「われわれの顧客は誰か?」

・質問3「顧客にとっての価値は何か?」

・質問4「われわれにとっての成果は何か?」

・質問5「われわれの計画は何か?」

この5つの質問は、経営を考えるうえでの至極の問いである。

「人材開発」と「組織開発」は違う。

その視点の違いは、野球にたとえるとわかりやすいかもしれない。

1人の選手が打ったり、投げたり、守ったりする行動がより良くなっていくことで、良い成績をあげられるようになる。

その選手が活躍し貢献することでチームが強くなる。

そうやって人を育てていこうとするのが「人材開発」の視点である。

会社でいえば、マネジャーになったからには、マネジャーとしてふさわしい人に育てようとするのが「人材開発」だ。

選手1人ひとりの能力は高く、良い成績を残しているのに試合には勝てないチームがあったとする。

その原因を探ると「セカンドとショートの守備の息が合っていない」ということがわかった。

選手1人ひとりは良いのだけれど、全体を最大に活かし切れていないのだ。

そのために、選手間の連携を高めたり、最適な守備位置にコンバートしたりするのが「組織開発」の視点である。

実際のビジネスだと、会社全体をより強くするための「仕組み・制度・施策」を考えるのが「組織開発」だ。

「人材開発」という観点はもちろん大切だが、そこに「組織開発」の視点も取り入れて考えると、組織戦略面での課題解決がさらに効果的になる。

たとえば、「組織の壁を壊す」というのは、多くの会社で求められ、実際にそうしようと取り組んでいるところも多い。

これこそ、「組織開発」の発想だ。

個人への教育だけでは、なかなか解決しない問題だからである。

「組織開発」は、企業のあるべき姿に近づくための「仕組み・制度・施策」を、全社的、組織的視点で継続して行うという発想である。

社員のモチベーションを上げることにブレーキをかけているものや、業績を伸ばすための阻害要因となっているものを取り除き、個人の満足度ややりがいを高めて、業績が上がる「強い会社」にするためのものだ。

まず、最初に確認したいのは、企業の戦略に合わせて、商品やサービスは生み出され提供されている。

その商品やサービスは、組織によって生み出されている。

そして、その組織を支える構成員は、1人ひとりの人間だということだ。

「経営戦略・事業戦略」と「組織戦略・人事戦略」は相互に関係し合う。

「組織戦略・人事戦略」とは、人的資源を戦略的にマネジメントしてゆくことである。

「経営や事業の戦略」と「人と組織のこと」は、一体として考えなければならないのだ。

会社を強くする「仕組み・制度・施策」を考え、実行するうえでもっとも大切なのは、「人の気持ちを考え抜く」ことである。

組織変革には、成功するまでの道筋をイメージできる力が求められる。

会社の何を、どの手順で変えてゆくのか、綿密なシナリオを描く必要があるからだ。

だが、会社は簡単には変わらない。

だからこそ、腹をくくって、シナリオを描き、実行し、またシナリオを描き直して実行するということを繰り返して、はじめて会社に変化が現れ出す。

「企業文化」を変えるとは、それぐらい大がかりで根気のいることなのだ。

いわば、組織変革には「シナリオ力」をもとにした「仕組み・制度・施策」と「気概」のようなものの両方が必要となるということであろう。

2021年1月 6日 (水)

「自粛」と「緊縮」で日本は自滅する/藤井聡

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 問題はどのあたりが「適切」な自粛レベルであり、そして現状の自粛のレベルが「過剰」なのか「過小」なのかという判断だということになるのですが──今の日本には、「過剰」な自粛が横行してしまい、それによって日本の社会と経済が深く傷付いてしまったと考えざるを得ない状況にあります。

感染症において「自粛」は必要だ。

でもだからといって、とにかく常に自粛してりゃいい、というわけではない。

各国のデータを眺めてみても、自粛を激しく行った国の感染被害は少なく、自粛をしなかった国の感染被害が大きいのかというと、必ずしもそうではなく、自粛の効果は明確ではない。

つまり、理論的に考えれば「自粛」の感染抑止効果がないはずはないのだが、それでもなお、自粛「以外」の要因の効果の方が大きく、自粛すればそれで感染は抑えられる、というわけでは決してないようなのだ。

一方、「自粛」すればするほど、経済が冷え込むことは確実だ。

実際、経済の冷え込みデータと自粛の程度のデータとの間には明確な関係がある。

具体的に言うと、国民の移動量を一割削減すると、実質GDPは年率で約7%程度は下落してしまうという結果になっている。

つまり、「自粛」というものは、その感染症抑制効果はマクロデータでは明確ではないのだが、経済に対しては確実かつ強力に破壊する力を持っているのだ。

こうした「過剰自粛」が日本に横行するその根本的な原因は、「コロナは怖いもので、絶対に感染拡大させてはならないものだ」という認識、ならびに、「そう考えるべきだ」という「タテマエ」が社会的に共有されているからに他ならない。

その結果、「自粛は善で、自粛しないのは悪」という「空気」が世間を覆い、人々はコロナが怖かろうが怖くなかろうが、とにかく「自粛」せざるを得ない状況に陥っているわけだ。

「財政が厳しい、このままだと破綻する!」と言いながら、そういうオカネを増やさないでどんどん搾っていく、という態度が「緊縮」。

いわば、緊縮とは政府支出についての「自粛」なのだ。

さらには、「財源が足らない!」と言って、消費税をどんどん増税するのも、同じく「緊縮」的な態度だ。

なぜ、そんな緊縮が続けられてきたのかというと──「このままだと日本は借金が膨らんで破綻する~!」という恐怖心が拡大し、「緊縮が善、緊縮しないのが悪」と考えるべきだという「空気」が我が国を覆ってしまっているからだ。

つまり、「コロナについて自粛すべき!」という空気が蔓延しているのと、そっくりの状況がこの「緊縮」においても存在し続けているわけだ。

そしてこのたび、我が国日本を直撃した「消費増税」という人災と「コロナ」という天災のダブルショックによって、そうした国内外の政府に対する「誤解」「買い被り」が完全に打ち砕かれることとなった。

米国のウォールストリート・ジャーナルは、「日本が犯した三度目の過ち、消費増税が経済に打撃」と日本の消費増税を批判し、同じくイギリスの経済誌エコノミストは、消費増税を、「やらなくてもいいのに政府が自らしでかした政策の間違いである消費増税」と酷評した。

そして、イギリスの経済紙フィナンシャル・タイムズは、「消費増税後6.3%もGDPが縮小」という事実を報じた上で、「消費増税の悪影響は、事前に予測したよりも遥かに大きかった」というエコノミストの声を報じ、「日本は不況突入コースに入った」と指摘している。

その結果、その「コロナショック」は「リーマンショック」を遥かに上回る経済的ダメージを日本経済に与えることになった。

しかし、この「コロナショック」の直接の原因は、日本人の「自粛の嵐」だ。

そして忘れてならないのは、この「自粛の嵐」を直接導いたのは実は、新型コロナウイルスなのではなく、むしろ「日本国政府」だったのだ。

新型コロナウイルスの特性を踏まえれば、高齢者や基礎疾患をお持ちの方々さえコロナ感染を徹底的に回避する取り組み「さえ」行っておけば、基礎疾患のない健康な若年層については、過剰な自粛は必ずしも必要ではない、というのが、現実的な「リスクマネジメント」であると考えられる。

少なくともこれまでの医学データを見れば、最大で五千万人もの死者を出したと推計されているスペイン風邪よりも圧倒的に毒性の低いことが明らかな新型コロナウイルスに慌てふためく欧米人も欧米人だが、何も考えていない日本人は、それにさらに輪をかけて愚かだ。

今の状況を分析すると次のようになる。

第一に、このコロナの流行は、短期間では終わらない。大なる可能性で、年内いっぱい、完全に収束することはないだろうし、数カ年かかることも十分に考えられる。

第二に、その間、人々の行動が抑制されるわけだから、確実に経済は疲弊し、倒産と失業の嵐が吹く。その経済被害は、政府の支出によって一定程度抑え込めるだろうが、すべての失業、すべての倒産を抑止することはできないだろう。日本のように緊縮にこだわっている国ではなおさらだ。

第三に、こうして産業の生産性が大幅に抑制されるので、さまざまなモノが不足する事態となる。

第四に、パンデミックに恐れをなしてあらゆる活動を停止させていけば、経済のみならず、社会や文化、芸術も衰退していかざるを得ない。そして、感染を過剰に恐れた人々の生命至上主義によって社会が破壊され、人間の豊穣性が失われていくことになる。

第五に、こうしてパンデミックを契機としてもたらされる世界恐慌や世界的食糧危機によって、「日常」が徹底的に破壊され、人心が乱れていけば、民主国家においては、大きな政変が次々と起こっていくことは避けられない。

第六に、こうしたさまざまな世界史的な転換の中で、新自由主義に基づく「グローバリズム」に大きな反省が加えられ、経済産業構造が激変していくことになるだろう。そして、「保護主義」が急速に重視されるに至り、「経済的自律性」を各国が激しく求め出すことになるだろう。

第七に、こうしたさまざまなパンデミック、大恐慌、食糧危機、民主主義が導く全体主義、グローバリズム終焉といった激変の中で適切に対応できた国がその国勢を拡大し、失敗した国が凋落していくわけだが、極端な新自由主義に基づく「緊縮主義」と「非保護主義」を信奉する国ほど、これらの激変の被害を莫大に受けることになる。

したがって被害がとりわけ大きくなるのは日米欧だ。

日米欧中ロの主要五カ国・地域の、パンデミック後の「長期的」な視点からの躍進/没落の程度は、おおよそ次のような格好となると考えられる。

<←没落         躍進→>

日本<欧州<アメリカ<ロシア<中国

つまり、我が国日本にとって、このパンデミックは最悪の悪夢そのものなのだ。

加えて、このパンデミックが最悪なのは、最も没落するのが日本だという点だけでなく、最も躍進する、極めて攻撃的な大国・中国が我が国の隣国にあるという地政学的な条件まで揃っている点にある。

こうした最悪の悪夢を回避するためにどうすればよいのかと言えば、第一に、以上のような「最悪のシナリオ」が極めて現実的に実現するであろうという真実をしっかりと、一人でも多くの国民が認識することをおいてほかにない。

感染症対策には、二つのタイプがある。

一つが「撲滅」戦略で、もう一つが「被害最小化」戦略。

今の日本の感染症対策は、「撲滅(抑圧)」戦略を採用している。

撲滅戦略なので、つぎのように考えている。

(一)多分、コロナは駆逐できるのだろう(エライ先生がそう言っているし、政府もそれが正しいと言っている)。そしてそうなれば、去年までのように、普通の暮らしを続けることができるだろう。

(二)でもコロナが駆逐できなければ、普通の暮らしを続ければきっとまた、感染が増えてしまう……だから、コロナ駆逐ができない限り、普通の暮らしなんて始められない。

(三)コロナを駆逐するには、全員が一致団結して、感染しないように気をつけなきゃいかん。逆にいうと、一人でも「裏切り者」が出て感染「してしまいやがったら」、結局、コロナ駆逐ができなくなる。だから、そういう「裏切り者」が一人でもいる限り、自分たちは普通の暮らしを始められない。

(四)だから、「感染者=裏切り者」は途轍もなく悪い奴だ、ということになる。つまり、人々は感染者に対して、「オマエのせいで、俺たちは普通の暮らしができないじゃないか。みんないやいや自粛してるのに、オマエも自粛しろよ!」と憤り、石を投げる。

ここでもし、「ウイルスなんて駆逐できないんだよ」という認識が共有されていれば、ここまで全国民がヒステリーになって、感染者に石を投げるなんてことはしないだろう。

コロナに関してだけは「駆逐できる」ということが前提になっており、しかも、それを「国民一丸となってやろう」ということになっていて、それを総理や知事や有名人たちが皆こぞって言っているので、ほとんどの日本人の頭の中は完全にそうなってしまっている。

いわばもう、戦前の日本やドイツ国民のように、ある種の集団催眠状態、あるいは政治哲学的に言うと「全体主義」と呼ばれる状況の中に、人々の精神が埋没してしまっている。

しかし、このウイルスについては、クラスター対策による「封じ込め」ではなく、封じ込めることができないという前提の上で「かしこく付き合う」方法を探り、その被害を「最小化」することが必要だ。

これはちょうど、クルマに乗れば事故で死ぬかもしれないが、その必要性を鑑みて、事故で死ぬリスクを「受け入れた」上で、クルマを使う、という話と同じ。

特に電車があまりない地方の場合、クルマは必需品、になっている。

そんな場所でクルマが怖いからといって一切使わなければ、生活ができなくなってしまう。

それが、「リスクと付き合う」という姿勢なのであって、今、コロナについてもそうした冷静な姿勢が求められている。

全体主義は本当に恐ろしい代物だ。

全体主義の特徴は次のようなもの。

①思考を停止する

②特定の説一つにひたすら固執し、異論を認めない

③その特定の説の正当性を主張するために、やたらと科学/科学者の権威を振りかざす

④異論があれば、それを徹底的にバッシングする

今、まさに日本でこのことが起こっている。

しばしば、今のインターネット上では、「コロナ脳」などという言葉が使われている。

「コロナはとにかくコワイ、だから、それを抑え込むことはすべてに優先すべきだ!」という考えに支配された人が、その「コロナ脳」だと言われている。

恐ろしいのは、こうしたコロナ脳になっている人は何もTVを見ている国民だけなのじゃなくて、専門家会議もまた、こうした脳になってしまっているところだ。

日本は、98年からとてつもない「デフレ不況」に突入してしまい、デフレに突入した98年から、自殺者数が一気に年間一万人も増えてしまった。

その後、十年以上もその状況が続いた。

2010年代に入ってようやくその死者数も減り始めたのだが、この推移から「このデフレ不況に『よって』増えてしまった自殺者数」を推計すると、実に14万人以上という推計値となった。

つまり大不況というものは、14万人もの人命を奪い取るほどの、すさまじい「殺傷能力」を持っているのだ。

死者を出してはいけない、と言うなら、経済苦で自殺する方だって救わなければならない。

例えば、著者の試算では今回のコロナ不況による自殺者数の増加は、仮に一年間で完全終息するとしても、20年間で14万人に増えるという結果になった。

経済が悪化すると失業が増えて、自殺者が増え続けるという傾向がある。

終息までに2年かかると仮定すると、自殺者は28年間で27万人に達する。

コロナの特徴をまとめると、次のようになる。

特徴1:九五%以上が無症状、あるいは軽症である。

特徴2:死亡率は若年層で0.1%だが高齢者ではその何十倍、百倍以上になる。

特徴3:若年層は仮に重症化しても適切な医療があれば八割方助かるが、高齢者は重症化すると死亡する確率が非常に高い。

特徴4:高齢者と同様、基礎疾患者、妊婦も「コロナ弱者」である。

特徴5:感染の大半が接触感染と考えられる。飛沫感染とエアロゾル感染もある。

特徴6:クラスターは病院と高齢者施設で6割を占めている。

特徴7:東アジアでは、欧米ほど急速な感染爆発は起こらないという実績がある。

生きるということは、すべての行為と背中合わせに「死ぬかもしれない」というリスクが存在していて、だからこそ、その刹那、刹那が大事に思えるのに、リスクさえ排除すれば楽しみが減ってもいいというのは、もうほとんどゾンビとして生き永らえているだけだ。

いまの感染症対策を、「撲滅」戦略から「被害最小化」戦略に切り替える必要が出てきているのではないだろうか。

2021年1月 5日 (火)

本当はこわくない新型コロナウイルス/井上正康

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 交通事故やインフルエンザで毎年5000~1万人も亡くなっていますが、運転禁止令や緊急事態宣言が出されることはありません。シートベルトを締めて安全運転すれば健全な車社会を維持できるからです。日本ではウイルスの実害よりもメディアが煽った恐怖心と情報の暴走による〝インフォデミック〟が政府や国民を過剰反応させ、〝社会的同調圧〟が国民を萎縮させて人災を深刻化させつつあります。

著者は、世界中の最新医学情報を頼りに、約50年の研究生活で培った科学的思考法を駆使しながら、新型コロナウイルスの実像を解析し続ける。

そして、新型コロナウイルスによる被害が欧米と日本では大きく異なることから、新型ウイルスの実害よりもメディアが垂れ流す情報の暴走によるインフォデミック(うわさやデマも含む根拠のない情報が広範囲に拡散し、社会が混乱すること)のほうが、人災として被害をはるかに大きくしていることを懸念する。

2019年の秋に武漢で生まれた新型コロナウイルスは瞬く間に地球の隅々まで広く深く拡散していった。

スペイン風邪以来、100年ぶりに人類が経験したパンデミックは僅か半年間で世界の様相を激変させた。

気がつくといつの間にかあの平和だった日常はすっかり失われていた。

今はマスクなしで外出や入店もままならず、電車にでも乗ろうものなら白い目で睨まれる異様な〝空気〟が日本中に蔓延している。

新型コロナの犠牲者の大半は糖尿病、高血圧、腎臓病、癌など、基礎疾患のある高齢者であり、子供や健康な成人はほとんど見られない。

大変重要なことに、日本での死亡率は欧米の数百分の1であり、日本では海外と異なる対策が必要であることが明らかになった。

新型コロナは健康な日本人には〝少し感染力の強い風邪〟であり、基礎疾患のある高齢者を重点的にケアすることが有効であることも判明した。

現在の緊急課題は「新型コロナを2類の指定感染症から格下げまたは除外する」こと。

さもなければ、毎年リスクの少ない無症状者を隔離して医療崩壊を招き、自粛を強要して社会を混乱させる元凶になり続ける。

日本での感染が始まって時間も経ち、今では新型ウイルスの特色や感染患者の症状も明らかになってきた。

新興感染症では、時間経過とともに明らかになる客観的事実に基づき、過剰反応せずに少しずつ軌道修整しながら対応することが大切だ。

残念なことに、冷静で科学的な視点よりも、メディアが流す情報に翻弄されてきたのが日本の実態だ。

メディアは毎日〝コロナの恐怖心〟を煽り続ける。

「今日は感染者が何人出たか?」にこだわり、1日も欠かさずに〝不確かな感染者数〟を報じ続けた。

こんな異常なことを異常と思わない思考停止状態こそが、今回のコロナ騒動の最大のリスクではないのか。

今、私たちに求められることは、この教訓を生かしてコロナの「次の波」に正しく備えながら、正常な日常生活を取り戻すこと。

「歴史から教訓を学ばぬ者は過ちを繰り返して滅びる」

これは、イギリスの政治家ウィンストン・チャーチルの名言。

スペイン風邪は、ヨーロッパからはるか離れた極東の日本にもやってきた。

当時の日本の人口は5500万人だったが、約2500万人が感染して40万人も亡くなった。

抗生物質が効かないウイルス感染症に対しては、薬による治療が困難だ。

人類と感染症の戦いは今も継続中なのだ。

私たちが子どもの頃から何度もかかってきた〝風邪〟も、ウイルス感染症の一種だ。

〝風邪〟の原因ウイルスには、アデノウイルス、ライノウイルス、コロナウイルスなど、多くの種類があるが、このうち10~15%(流行期は35%)はコロナウイルスのしわざだ。

風邪に特効薬がないことは、古くから知られている。

〝風邪薬〟は、風邪の症状を緩和するものであり、風邪を引き起こすウイルスをやっつける薬は未だにない。

では、どうやって風邪を治しているのか。

そのカギを握るのが「免疫力」だ。

風邪が治るのは、まず自然免疫力でウイルスの感染を防御し、次いで液性免疫で抗体ができてウイルスを撃退し、細胞性免疫でもウイルスや感染した細胞を直接排除してくれるから。

ヒトが病原ウイルスに感染すると、先ず自然免疫と呼ばれる防御系が病原体と闘う。

次に、液性免疫と呼ばれる防御系によりBリンパ球が抗体を産生して病原体を排除したり、細胞性免疫と呼ばれるTリンパ球による病原体や感染した細胞を直接排除する。

これらのリンパ球は病原体の免疫的記憶を維持した状態で長く体内に留まる。

そして、次に類似のウイルスにさらされた際に、速やかに液性免疫や細胞性免疫が再活性化されてウイルスを撃退する。

類似のウイルスによる感染症にはかかりにくくなり、仮にかかったとしても軽症ですむ。

このような免疫反応を「交差免疫」とよぶ。

抗体を持つ人が一定の割合を超えると、その集団にウイルスが侵入しても、人から人へとうつりにくくなる。

その結果、感染は広がらず、流行は抑えらる。

これを「集団免疫」と言う。

ウイルスに対する防御反応は免疫が主体だが、初めてのウイルスに対しては誰も免疫力を持っていない。

しかし、ウイルスに感染するとそれに対する免疫力が形成され、これが免疫記憶として体内に残る。

このような免疫記憶を持った人々が増えてくるとウイルスが簡単に感染できなくなり、感染しても軽症で治って流行も抑えられる。

つまり、ウイルスに対する集団免疫が獲得されたということだ。

コロナウイルスは、「RNAウイルス」の仲間で、1本鎖のRNAという遺伝子を持っている。

RNA遺伝子を持つウイルスは〝変異を繰り返しながら多様性を拡大〟することによって、生存のチャンスを拡げている。

新型ウイルスが次々と出現するのはこのためだ。

日本には古くから4種類のヒト型土着コロナウイルスが住んでいた。

日本の風邪の10~15%ほど(流行期は35%)はこれが原因と言われている。

実際には、2019年の早い時期から武漢で新型コロナウイルスの感染が知られており、日本にもその年の暮れ頃からS型と呼ばれる弱毒の新型ウイルスが入ってきていた。

2019年だけで約1000万人もの中国人が来日しており、その中には武漢の方々も多く含まれていた。

しかし、感染しても大半の人々に症状がないために、当初は誰も気づかなかった。

その後、欧米型のG型やL型と呼ばれる強毒株が約9000人の帰国者とともに成田直行便で日本に入国した。

しかし、それまでに日本人はすでに集団免疫を獲得していたために、強毒株による重症化や死者数は欧米より遥かに少ないレベルに留まった。

これにはBリンパ球が産生した抗体とTリンパ球による細胞性免疫が重要な役割を果たしたと考えられている。

日本と同様に中国人が大量に入国していた韓国、台湾、香港、シンガポールなどでも同様に重症化や死亡者が少なくなったのも集団免疫が獲得されていたことが主な理由と考えられている。

現在発表されている〝感染者数〟は、必ずしも感染の実態を示しているものではない。

厳密に言えば、感染者数は世界中でだれも正確に把握できていない数字。

ウイルスが体内に入っただけでは感染とは言わない。

正確にはウイルスが細胞内に侵入したときに感染者になる。

また、感染しても必ず発症するとは限らない。

発症した患者さんを医師が診断してはじめて〝新型コロナ感染患者〟になる。

ところが、実際にはPCR検査で〝陽性〟になっただけで〝感染者〟とみなされている。

PCR検査は、ウイルスの遺伝子のわずか0・3%程度の断片を鋳型に増幅して検出する方法。

そのために、それが感染力を持つ強毒型や弱毒型のウイルスのものなのか、それとももはや感染力を失った残骸に過ぎないのかは区別できない。

〝感染者数〟を絶対視すべきではない。

私たちは、毎日発表される〝感染者数〟に右往左往せず、一応の目安程度に考えて対応することが大切だ。

一方、死者数は解釈などによって影響されにくい値であり、これに関しては実数値に近いと考えてよい。

京都大学の上久保靖彦教授や吉備国際大学の高橋淳教授らは、新型コロナウイルスの種類や感染する時期によって集団免疫の獲得や重症化が大きく影響された可能性を報告している。

日本では古くから土着の風邪コロナウイルスが住み付いており、これに加えて第1波として弱毒のS型やK型が上陸して液性免疫や細胞性免疫が活性化され、55%以上の国民が集団免疫力を獲得したと推定されている。

このために欧米からの帰国者とともに入ってきたG型やL型の強毒株に対する被害も強く抑制されたと考えられる。

京都大学の山中伸弥教授が述べた〝ファクターX〟とは〝土着のコロナによる毎年の免疫的軍事訓練と新型の弱毒コロナ株による集団免疫の強化による感染への抵抗力〟だったのだ。

これらの事実は、新型コロナによる重症化や死亡率には、厳しいロックダウンなどよりも民族や地域による差がはるかに大きいことを示唆している。

新型コロナウイルスは「ヒト→ヒト感染」よりも「ヒト→モノ→ヒト」の感染ルートが重要であり、同時期にヒトが密集しなくても、感染者によって汚染されたモノを後から触っても感染することが明らかになっている。

日本で「3密回避」「接触8割減」「営業自粛」などを厳しくしてもPCR陽性者が減らないのは、「感染が人同士の接触密度と相関しないこと」を示唆している。

日本と東アジアの死者数が顕著に低い理由はなんだろうか。

ウイルスとの攻防で、重要なカギを握っているのが「交差免疫」と「集団免疫」だ。

日本や東アジアには古くから土着のコロナウイルスが住み着いており、〝風邪〟の原因ウイルスとして、子どもの頃から何度も感染してきた。

つまり、東アジアの民族は長い間土着のコロナウイルスと共存しながら生活してきたので、コロナウイルスに対する抵抗力のある集団が多くなっているのだ。

土着の風邪コロナに感染しながら免疫力を獲得してきたために、同じコロナ仲間の新型ウイルスに対しても、ある程度の免疫力を発揮することがでる。

このような働きを「交差免疫」と言う。

ワクチンでは弱毒化した病原体や死菌を人体に接種する。

言ってみれば、最初に弱毒株を感染させるような方法だ。

ワクチンを接種すると体内で免疫力ができ、次に実際の強毒な病原体が入ってきても、その防御力で排除できる。

新型弱毒株がワクチンのような働きをして免疫力が強化され、次に入国した強毒株に対しても有効に働いたと考えられる。

日本人は古くからの土着コロナによる免疫の〝軍事訓練〟に加え、今回の新型弱毒株で免疫反応が強化され、これにより強毒株に対しても強い抵抗性を示したと考えられる。

潜伏期間が短く、飛沫感染が主な感染経路のインフルエンザなどでは、「3密回避」が有効な対策になる。

しかし、ドアノブや便座などのモノを介して感染する新型コロナでは、3密回避の効果は極めて限定的だ。

休校措置、3密回避、緊急事態宣言、東京アラート、営業自粛などは〝壮大な空振り〟であり、ウイルスに対する恐怖心を煽って未だに経済的混乱を深刻化させている。

春の新型ウイルス収束の本当の立役者は、日本人が獲得した集団免疫力だった。

免疫力が低下するとウイルスが肺の奥まで侵入し、血管の細胞に感染して血液を凝固させる。

これで生じた血栓によって、肺では呼吸困難を引き起こす。

今回の新型コロナ感染者の中に、重篤な肺炎の方が多いのはそのためだ。

また、血栓が血流に乗って運ばれて様々な組織で血管を詰まらせる。

血栓が詰まる部位によって、脳梗塞、下肢血栓症、川崎病などの症状が現れる。

体内にウイルスや細菌などが侵入すると免疫細胞が反応し、これを体外に排出しようとする働きがある。

このように生体が自らを防御するしくみを「免疫応答」と言う。

血中の抗体が低下してもワクチンの効果や感染した記憶は残るので、感染によるリスクは初回感染よりもはるかに小さくなる。

これはTリンパ球による細胞性免疫でも同様。

言ってみれば「免疫のメモリーバンク」があるのだ。

この免疫的記憶は、過去に遭遇したあらゆる異物(病原体の抗原)を記憶している。

このメモリーを持ったリンパ球の数はわずかでも、全身のリンパ節や脾臓などに存在している。

そして、ウイルスなどの異物が侵入してくると猛スピードで数を増やして臨戦態勢に入る。

たとえコロナウイルスに対する血中抗体が低下していても、コロナウイルスの仲間が侵入してきたらすぐに応答して免疫反応を発揮できるのだ。

私たちが毎年のように風邪をひいても、軽くて速やかに治るのはこの免疫記憶のおかげだ。

SARSにより中国や韓国で8000人もの死者が出た際に、近隣の日本では1人の死者も認められなかった。

この事実も日本人がコロナウイルス仲間に対して強い交差免疫力を持っている可能性を示唆する。

古くから日本に住み着いていた土着コロナの交差免疫反応が関与した可能性が考えられる。

日本人の多くはお酒を飲むと顔が赤くなるが、欧米人の大半では顔色は変わらない。

これは両民族のアルコール代謝酵素の遺伝子が異なるからだ。

同様に、ウイルスなどの病原体に対する免疫反応にも民族によって違いがある。

健康な日本人には新型コロナウイルスに対する集団免疫力があるので、感染しても無症状や軽症で経過する場合が圧倒的に多く、ワクチンは必要な職種や患者さんに限定して慎重に使用するのがよい。

新型コロナが内皮細胞に感染すると、内皮細胞が障害されて炎症を誘起するサイトカインが大量に分泌され、これにより免疫反応が暴走することがある。

これがサイトカインストームだ。

サイトカインストームが起こると全身の血管内で血液が凝固するDICと呼ばれる血栓症になる。

これにより全身の臓器が障害されて死亡するリスクが高くなる。

新型コロナの本当の病態は全身性の血栓症であり、これが肺の血流を阻害して呼吸困難を引き起こす原因となる。

サイトカインストームは全身性の病態であり、肺のみならず、腎臓、肝臓、心臓、脳などの大半の組織の機能が障害される。

障害される臓器により様々な症状が出る。

新型コロナウイルスに対してリスクの高いのは、がんの化学療法を受けておられる方、糖尿病や生活習慣病のある高齢の「免疫弱者」であり、これらの方々を集中的にケアする必要がある。

反対に、若年層や働き盛りの世代は極めてリスクが低いので、自粛などで社会活動を抑えず、適切な感染予防策を講じたうえで、しっかりと経済活動をすることがバランスのとれた対処法だ。

インフルエンザも毎年秋の終わりごろから流行しはじめ、2月ごろにピークを迎えて桜の開花前に収束していく。

インフルエンザには毎年数千万人が感染し、約1万人が死亡している。

ところが、2019~20年の冬は、インフルエンザの感染者が前年と比べて著しく減少した。

今回の新型コロナウイルスでは9月2日時点で約1327人が亡くなられましたが、例年に比べて1月から3月までの死者数(超過死亡数)は約1万人少なくなっている。

この結果はウイルス干渉によりインフルエンザでの死亡が大きく抑制されたことを反映していると考えられる。

大半の健康な人がやるべきことは非常にシンプル。

それは通常の感染予防法として、私たちがこれまでやってきた手洗いやうがいなど。

これに加えて、新型コロナでは「鼻洗浄」がおすすめ。

PCR検査でも、ウイルスの付着を調べるために鼻粘膜のサンプルが用いられる。

鼻粘膜のウイルスを鼻洗浄で除去することによりウイルスの侵入を軽減できる。

さらに付け加えたいことは、「トイレの洗浄や消毒」。

コロナウイルスの受容体であるACE2は、小腸に最も多くある。

大事な点は、ウイルスも便と共に体外に排出されるので、トイレで感染する可能性が高いこと。

高齢者が外出を控えても、家族の中で若者や成人が外からウイルスを持ち帰れば、トイレを介して家庭内感染を起こす可能性がある。

事実、今回の新型コロナでは自粛の直後に感染者が一時的に増加する現象が世界的に知られている。

国民もメディアや政府の言うことを鵜呑みにせず、不毛な過剰反応を繰り返すことなく、客観的な情報に基づいて自分の頭で考えて行動することが何よりも大切だ。

今回のコロナ騒動では、諸外国に比べて日本のPCR検査数が圧倒的に少ないことから、「オリンピックを開催するために実際の感染者数を少なく見せる目的で検査を抑制しているのではないか?」と国内外から指摘されていた。

メディアや専門外の方々は「韓国や台湾などと比べて検査能力が低いのは日本の恥だ」などと感情的になったり、「PCR検査を増やして全国民を検査すべきである」とヒステリックに主張する研究者まで出てきて、ますます混迷を深めている。

しかし、もし1億人以上の無症状の国民をPCR検査すれば、数千万人もの偽陽性や偽陰性が出ることになる。

これでは検査した意味がなくなり、時間と労力と莫大なコストが無駄になる。

感染力を失ったウイルスの断片でも〝陽性〟とされてしまい、それがどのようなタイプの遺伝子を反映しているかはわからない。

このような問題を抱えたPCR検査を無症状の健康人に行うと、〝陽性者〟という数字がひとり歩きして国民の不安を煽るだけの結果になる。

今、まさにこのような混乱が日本中を迷走させる主因になっている。

物事を俯瞰的に捉えて、より多くの人々に利益をもたらすバランス感覚を養うことが大切。

これは狂牛病の食肉検査などでも同じであり、日本人に特有の完璧主義は危険な要素をはらんでいる。

コロナウイルスに対する日本人の免疫特性や抗体の特色を網羅的に解析することにより、やがて再来する「次の波」に対して、過剰反応せずに必要かつ有効な科学的対策を準備しておくことが、日本政府や医学研究者の緊急の課題だ。

検査数を増やせば大都市以外でも陽性者数は増加する。

陽性者数と検査数の比を見れば陽性率が少し増加しているが、その大半は無症状の若者。

これもメディアに煽られた恐怖心が創り出した〝幻影〟だ。

すでに集団免疫が確立されている日本では大騒ぎする問題ではない。

飲食店などでは利用者の人数制限や営業時間の短縮などが強制されているが、これらには医学的な根拠はなく、無駄な過剰反応。

大騒ぎしない飲み会や静かな会食は何の問題もない。

「コロナの恐怖」を煽り続けたマスメディアは、欧米や南半球に比べて日本を含む東アジア諸国が、感染者数や死者数でも圧倒的に少なかったという事実をどのように受け止めているのだろうか。

これまでの半年間の政府の対応、多くの専門家の発言、およびメディアの報道などは、いずれも俯瞰的視点に欠け、科学的羅針盤を持たずに迷走し続けていると思わざるをえない。

今、その対応を反省して国政の舵を正しく修正することが、緊急の課題だ。

今回のコロナ騒動では医療崩壊の可能性も危惧されが、その主因は新型コロナを「2類の指定感染症」に指定したことだった。

2類の指定感染症では症状の有無や重症度とは無関係に元気なPCR陽性者などを「感染症指定医療機関」で隔離する義務が生じる。

しかし、現時点でのウイルス特性や臨床像を総合的に判断すると、早急に「2類指定感染症」から除外するか格下げする必要があることが明白だ。

日本では毎年数千万人が季節性インフルエンザに罹患して約5千~1万人が死亡している。

交通事故でも毎年約5000人の命が失われている。

しかし、インフルエンザで緊急事態宣言が出され、交通事故に対して運転を全廃することはありえない。

シートベルトを締めて安全運転すれば、健全な車社会を維持できる。

この「コロナ恐怖症」こそが、新型コロナウイルス騒動の最大の元凶であり「失敗の本質」だ。

「コロナ恐怖症」から1日も早く脱却し、「失敗の本質」を見つめ、「失われた日常」を取り戻すことが大切だ。

すでに集団免疫力を獲得している日本では、MERSのような猛毒新型変異株が誕生しない限り、大惨事にはならないと考えられる。

「3密回避」や「ステイホーム」が声高に叫ばれて文化活動や経済活動が大きく抑制され、日本はすっかり元気を失ってしまった。

マスコミの報道をうのみにせず、正しい知識に基づいて、自分の頭で考え、正しく恐れること。

今こそ、このことが求められているのではないだろうか。

2021年1月 4日 (月)

自己肯定感が9割/工藤紀子

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 人間関係には、「自分が自分をどう思うか」、「自分をどう捉えているか」の自己認識の部分が大きく影響します。
 自分のことを受容し、自分を肯定的、好意的に捉えられている自己肯定感が高い状態では、他者に対しても肯定的で好意的になります。
 一方、自分を受容できず、自分を否定的に捉えやすい自己肯定感が低い状態では、他者に否定的に見られていると感じやすくなるため、自分が否定的に捉えている自己を守るための保身的な行動を取りやすくなります。

職場という特殊な環境の中では、攻撃してくる人、苦手と感じる人など、離れたくても離れられない人、わかりあえない人ともコミュニケーションは取らなくてはいけない。

また、ちょっとしたことがパワハラ、セクハラ、モラハラとなり、コミュニケーションを取ることがリスクとなっている現実もある。

自己肯定感とは、「ありのままの自分を、かけがえのない存在として、好意的・肯定的に受け止める感覚」のこと。

自己肯定感が低い人は、自分が満たされていないので、当然、他者に優しくすることができない。

また、自己肯定感が低いと、他者からのちょっとした攻撃や、行き違いで、心が折れてしまう。

また、すぐにイライラしたり、クヨクヨした気持ちにもなりやすく、感情が乱れる。

自己肯定感には、「社会的自己肯定感」と「絶対的自己肯定感」の2種類がある。

社会的自己肯定感とは、他者からの評価や相対的評価から生まれる自己肯定感。

絶対的自己肯定感とは、「自分で自分の存在価値を認めてあげること」で生まれる自己肯定感。

絶対的自己肯定感は、誰もが、今すぐに高めることができる。

なぜなら、絶対的自己肯定感は、根拠が必要ないからだ。

「すべての悩みは対人関係の悩みである」 と、アルフレッド・アドラーは断言している。

さらに、アドラーは、「仕事における失敗の90%は、知識や経験が足りないからではなく、そこに人間関係が築けないことが原因である」とも述べている。

実は、対人関係の悩みをつくり出す最大の原因は自分との関係が良好でないから。

「自己肯定感」が低いままでは、どうしても自分や他者を否定的に見る傾向が強くなる。

アメリカのギャラップ社が2017年に発表した調査結果によると、世界各国の企業を対象に実施した従業員のエンゲージメント調査で、日本は「熱意あふれる社員」の割合が6%だった。

これはアメリカの32%と比べて大幅に低く、調査した139カ国中132位と最下位クラス。

さらに、企業内に諸問題を生む「周囲に不満をまき散らしている無気力な社員」の割合は24%、「やる気のない社員」は70%という結果が出た。

その中で、「勤務先でどの程度ストレスを感じているか」を聞いたところ、「非常にストレスを感じている」「ややストレスを感じている」という回答を合わせると、男性では71・6%、女性では75・2%と、7割以上の人が日々ストレスを感じていることがわかった。

そこで原因になっていることを聞くと、1位は「上司との人間関係」、2位は「同僚との関係」となった。

「セルフエスティーム(自己肯定感)は組織におけるすべての人間関係の中心である」

と、ウィル・シュッツは著書『自己と組織の創造学』で述べている。

「チームワークの問題は、メンバーの違いから起こるのではなく、個々のセルフエスティーム(自己肯定感)の低さに由来しており、それがチームの中で柔軟性のなさや防衛を引き起こす」

「他の人との人間関係は、主に私が自分自身に関してどう思っているかによる」

「私自身が自分を重要だと思えれば、他者も私に肯定的なフィードバックを与える」

ともシュッツは述べています。 

自己肯定感とは、「自分の存在そのものを認める感覚」であり、「ありのままの自分をかけがえのない存在として肯定的、好意的に受け止めることができる感覚」のこと。

私たちの人生を「車」にたとえると、車のエンジンにあたるものが「自己肯定感」。

運転席に座るのは私たち。

車の馬力はエンジンの大きさで決まる。

自己肯定感が低いと、エンジンが小さな車で進んでいるようなもので、平坦な道は問題なく走れるが、馬力は弱いので、重い荷物を乗せたり、上り坂になるとスピードが減速してしまう。

重い荷物や上り坂とは、人生で問題や困難に直面したとき。

逆に、自己肯定感が高いと、エンジンが大きく馬力がある車で進んでいるので、たとえ重い荷物を積んでも、上り坂という困難や問題に直面しても、それを乗り越えてスムーズに進んで行ける。

日々生きている中で、楽しそうに人生を歩んでいる人、自分の能力が発揮できて仕事で成果を上げている人、人間関係が良好で自分の望みや夢を次々と実現している人は、置かれた環境や能力以前に、「自己肯定感」という土台がしっかりしている。

では、「自分との関係が良好でない」とはどのような状態なのか。

それは、自分に好意的になれず、どちらかというと批判的、否定的で、自分を信頼できていない状態。

次に、「自分との関係が良好である」とは、どのような状態を言うの。

それは、自分に好意的で、肯定的であり、自分を信頼し、安心感を持っている状態。

ウィル・シュッツは『自己と組織の創造学 ヒューマン・エレメント・アプローチ』の中で、私たちには自己概念を支える3つの感情があると言っている。

それは、〝自分は好かれている〟という「自己好感」、

〝自分は重要(大切)である〟という「自己重要感」、

〝自分は能力がある〟という「自己有能感」。 

「人は脅威を感じたり、当惑したり、自己価値を脅かされそうになると、無意識に自分の中に深く根差した行動の〝マスタープログラム〟に戻ってしまう」

と、組織行動学のクリス・アージリス博士は述べている。

そのときの行動は、自分の地位や面目を保つために、頑なまでの自己防衛的態度で自分を正当化しようと、あらゆる脅威に対する反射的な行動を取るというもの。

私たちが誰かに対して、嫌な気持ちや感情的になるときは、なんらかの自己防衛のスイッチが入ったサイン。

それは、何かに反応して、自己価値が脅かされる危機を察知している。

反射的行動には次の6つのタイプがある。

・他者からの承認を過度に求めるタイプ

・自分にも他者にも完璧を求めるタイプ

・他者よりも常に優位になろうとするタイプ

・人を過剰に援助しようとするタイプ

・自己非難、自己否定をするタイプ

・自分は関係ないと問題から逃避するタイプ

以上6つのタイプだ。

「社会的自己肯定感」は、他者評価や結果などが拠り所になっているので、外的要因によって左右されやすく、それだけで自己を保とうとしても状況が変わると、自分を支える術を簡単に失ってしまう。

「絶対的自己肯定感」は、外的要因や他者評価がどうであっても、自分の存在そのものの価値は揺らがないという感覚が持てるので、何があってもその土台は崩れない。

自己肯定感を高める5つのステップがある。

ステップ1 ありのままの自分を認める

ステップ2 ありのままの自分を受け入れる

ステップ3 ありのままの自分を大切にする

ステップ4 自分の価値を感じる

ステップ5 自分を信頼する

まず、ステップ1はありのままの自分を認める。

「自分のありのままを認める」とは、自分の良いところだけでなく、嫌だと思うところや弱点、短所がある自分であっても、過去に失敗をしたり、まだまだ満足できない自分であっても、そんな自分のあり方すべてを含めた、まるごとの自分を認めること。

様々な気質や要素を持っている自分を、「いい、悪い」で判断せずにそのまま認めていく。

ステップ2はありのままの自分を受け入れる。

ステップ1で、あるがままの自分の現状をそのまま認められたら、その自分をまるごとOKしてあげる。

この場合、認めたくない現状を「受け入れる」ときに重要となるのが、その状況をつくり出している理由を自分が理解してあげること。

そこで、自分が見ようとしていなかった「そうじができない状況」をつくり出している理由に目を向けてみる。

すると、自分で納得することができる。

ステップ3はありのままの自分を大切に。

「ありのままの自分を大切にする」とは、心身ともに、自分を心地良くすることや自分の健康にも意識を向けることはもちろん、自分の感情や気持ちを理解して、どんなときも自分の一番の味方になり、自分に愛情を注いであげることも含まれる。

自己肯定感を高める上で、感情を切り離して考えることはできない。

「感情を理解する」ことは、「自分を理解する」こと。

それが、自分を大切にすることになる。

自分の中にわき上がるさまざまな感情がどんな理由でできているのかを理解してあげると、感情に飲み込まれ、振り回されることがなくなる。

ステップ4は自分の価値を感じる。

自分の行為や言動、努力や成果に対して、「自分は良くやった」と自分で認められると自己評価につながる。

「絶対的自己肯定感」が持てると、他者からの評価も肯定的に受け止め、健全に自己価値として積み上げている。

そこで、「社会的自己肯定感」を高めていける。

ステップ5は自分を信頼する。

「信用」には担保や信用するための根拠が必要となる。

「自分を信頼する」とは、自分を無条件に信じられること。

ステップ1から3で、「絶対的自己肯定感」の土台ができて、ステップ4の自分の価値を感じられるようになると、外的状況がどうであっても、そのままの自分を信頼できるようになる。

これが確固たる自信をつくる。

自己肯定感が高まり、自分への絶対的な信頼感が持てると、これからやろうとしていることに対して「自分がやることはうまくいくはずだ」、「自分ならできるはずだ」と未来の自分を信じることができる。

それを「自己効力感」と言う。

自己効力感は、カナダの心理学者であるアルバート・バンデューラ博士によって、定義した。

博士は著書(『激動社会の中の自己効力』の中で、「自己効力感を持てると、人は逆境にあっても、それがよい方向へ物事を変化させていけると信じられ、自分の能力に対して楽観的で肯定的な見方ができる」

さらに、「困難な仕事を、避けるべき脅威としてではなく、習得すべき挑戦と受け止めて進んでいくことができる」

と述べている。 

アメリカの精神科医エリック・バーンが「交流分析」の中で提唱した「I'mOK.You'reOK」という考え方がある。

これは、自分と他者の違いを受け入れ、お互いの存在価値を認めていくことで、自分らしく、個性を自由に表現して、他者と健康的に関わるための土台となる。

この姿勢が持てる人と一緒にいると、安心して助け合い、思いやりを自然に発揮できる環境がつくれる。

仕事面でも協働体制が取れる。

コミュニケーションの自己表現には、3種類あるといわれる。

自分も相手も尊重する「I'mOK.You'reOK」のアサーティブ(主張的)。

自分は尊重するが相手は尊重しない「I'mOK.You'renotOK」のアグレッシブ(攻撃的)。

自分は尊重せず、相手は尊重する「I'mnotOK.You'reOK」のノンアサーティブ(非主張的)。

あなたの考えも、相手の考えも、どちらが正しくて、どちらが間違っているということではなく、どちらも正解なのだ。

人は年齢に関係なく、自分の考えがベースとなる「正解」を持っている。

パワハラやセクハラ、モラハラなどが社会問題になっているが、その根底には、パワハラができる立場の人の存在がある。

パワハラに関しては、我慢せずに訴えればいいという意見もありますが、そう簡単ではないのも事実。

パワハラをする人は、ドラえもんに出てくる「ジャイアン」のような存在。

自分はすごいとアピールしたいし、自分の非を認めず、人のせいにする。

自分の意見が通らなかったり、自分の立場を危うくする存在には、立場を利用して攻撃したり、横暴になる。

自分のストレスの矛先を自分より明らかに弱いものに向ける傾向がある。

反対に、パワハラを受けやすいのは、「のび太」のように、気弱で優しく、どちらかというと自分に自信がなく、自分よりも力が強い相手に意見することができないタイプ。

嫌いな人が自分を苦しめるのではなく、その相手を自分がどう見ているか、どう考えているかが、自分を苦しめていたと気づけると、相手を変える必要がなくなる。

自己肯定感が低くなると、自分を否定的に見てしまうため、外側で起こっている出来事も、事実を歪ませて「ネガティブ色のメガネ」で見るようになる。

そこで、ものごとを肯定的に見て、「ネガティブな面」から「プラスの面」がよく見えるメガネに変えていくようにする。

相手がたとえ機嫌が悪くても、それは相手の問題であると理解することができると、「相手の感情は相手のもの」と、相手の感情を自分に同化して考えずにすむ。

自分の中の伝えきれなかった未消化な思いを全部吐き出せると、誰にも迷惑をかけずに心はすっきりする。

本書には、絶対的自己肯定感を高めるためのシンプルな5つのステップ、そして、事例とともに他人のタイプ別、仕事のシーン別で、自己肯定感を下げず、コミュニケーションを良好にする方法が記されている。

できることから実行してみるとよいのではないだろうか。

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