「明治」という国家[新装版]/司馬遼太郎
リアリズムといえば、明治は、リアリズムの時代でした。それも、透きとおった、格調の高い精神でささえられたリアリズムでした。ここでいっておきますが、高貴さをもたないリアリズム──私どもの日常の基礎なんですけれど──それは八百屋さんのリアリズムです。そういう要素も国家には必要なのですが、国家を成立させている、つまり国家を一つの建物とすれば、その基礎にあるものは、目に見えざるものです。圧搾空気といってもよろしいが、そういうものの上にのった上でのリアリズムのことです。
明治は、リアリズムの時代だった。
そこへゆくと、昭和にはリアリズムがなかった。
左右のイデオロギーが充満して国家や社会をふりまわしていた時代だった。
どうみても明治とは、別国の観があり、べつの民族だったのではないかと思えるほどだ。
イデオロギーを、日本訳すれば、〝正義の体系〟といってよい。
イデオロギーにおける正義というのは、かならずその中心の核にあたるところに「絶対のうそ」がある。
ありもしない絶対を、論理と修辞でもって、糸巻きのようにグルグル巻きにしたものがイデオロギー、つまり〝正義の体系〟というもの。
イデオロギーは、それが過ぎ去ると、古新聞よりも無価値になる。
ウソである証拠だ。
勝海舟は偉大だ。
なにしろ、江戸末期に、「日本国」 という、だれも持ったことのない、幕藩よりも一つレベルの高い国家思想──当時としては夢のように抽象的な──概念を持っただけでも、勝は奇蹟的な存在だった。
しかもその思想と、右の感情と、不世出の戦略的才能をもって、明治維新の最初の段階において、幕府代表として、幕府みずからを自己否定させ、あたらしい〝日本国〟に、一発の銃声もとどろかせることなく、座をゆずってしまった人なのだ。
明治維新を語るとき、必ず出てくるのが薩長土肥という言葉。
長州藩は、ずいぶん気質がちがう。
日本人を分類するという場合、「長州人タイプ」 という言い方がある。
頭がよく、分析能力をもっている。
また行政能力にすぐれ、しばしば政略的でもある。
権力の操作が上手で、とくに人事の能力に長けている、といったふうな感じ。
明治後の人物でいえば、伊藤博文、これは代表的。
また山県有朋においてその典型を見るといったふうな感じとり方もある。
長州人は、どうもちがう、という言い方が、いまもある。
賞讃と憎しみをこめていう。
長州藩では、他藩にない、微妙な意識がある。
士農工商をふくめて、長州藩は一つだという一藩平等意識があった。
〝自分はいまは百姓ながら三百年前は毛利家のしかるべき武士だった〟という意識。
士分階級のほうも、百姓に対し、どこか他藩にない遠慮と親しみをもっていた。
それが、幕末、この藩が幕府の第二次長州征伐の前後、幕藩体制下における奇蹟の無階級軍隊をつくるという結果になった。
倒幕をめぐって言うと、薩摩藩は、政略的であったのに対し、長州藩は藩内において庶民軍が勝ち、いわば革命政権ができていた。
明治後、最後の将軍だった徳川慶喜が、「長州は憎くない。なぜなら最初から倒幕を呼号して旗幟鮮明だった。それに対し、薩摩はぎりぎりまで幕府びいきのような顔をしていた。」といったといわれているが、薩摩はそこまで政略的だった。
長州藩は書生の集まりのようなもので、たえず百家争鳴している。
この書生の親玉である高杉晋作は天才的な人だが、一時期、野党にまわって四国の讃岐に亡命していたとき、「わが藩の者は、秘密が守れない。いつも洩れてしまう」 と、同志に対する手紙のなかでこぼしている。
長州人にとって〝動カザルコト山ノ如シ〟というのは、にが手なのだ。
そこへゆくと薩摩藩というのは、鉄の桶が水洩れしないように、秘密はまず洩れることがない。
藩風として、黙って死ぬというところがある。
指導者は西郷隆盛と大久保利通だったが、大久保は国もとにあって藩主をしっかりにぎり、しかも久光には倒幕のことを話さず、一方、西郷は京都にあって幕府や諸藩と接触を保ちつつ、藩士団のすみずみまで掌握していた。
一糸乱れずという形容は、この時期の薩摩藩の印象にじつにふさわしい。
土佐では、一藩が倒幕思想をもつということはないため、志をもつ郷士たちは多く脱藩した。
かれらは山野を放浪し、じつに多くの者が非業にたおれた。
土佐脱藩浪士坂本龍馬もその一人。
薩摩の藩風は、物事の本質をおさえておおづかみに事をおこなう政治家や総司令官タイプを多く出した。
長州は、権力の操作が上手なので官僚機構をつくり、動かした。
土佐は、官にながくはおらず、野にくだって自由民権運動をひろげた。
佐賀は、そのなかにあって、着実に物事をやっていく人材を新政府に提供した。
この多様さが、明治初期国家が、江戸日本からひきついだ最大の財産だったといえるのではないだろうか。
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